イギリスの化学者。グラスゴーの生まれ。グラスゴー大学で文学を学び1869年卒業。ついでタトロックRobert Tatlock(1837―1934)の研究室で分析化学に従事し、化学を志す。1870年ハイデルベルク大学でブンゼンに師事し、1872年チュービンゲン大学でフィティッヒの指導で博士号を取得。1874年グラスゴー大学助手となり、ピリジン誘導体の生成など有機化学分野の研究を行い、のちに物理化学の研究に転じた。1880年ブリストル大学化学教授に迎えられ、1881年には学長に任命される。ブリストル大学では助手にヤングSydney Young(1857―1937)を得て液相気相系の研究を行い、圧力と液体の融点に関するラムゼー‐ヤングの法則を発見(1886)、のちにシールズJohn Shields(1818―1879)と協力して液体温度と表面張力との関係を扱ったラムゼー‐シールズ式を発表(1893)するなど化学量論の諸定理を発見した。
1887年ロンドン大学化学教授に迎えられ、気体密度の精密測定を精力的に行い、1894年レイリーと共同で希ガス元素アルゴンの存在を発見、これが一原子分子であることを明らかにした。翌1895年にはクレーベ石を加熱し放出される気体の吸収スペクトルを測定し、ヘリウムを同定した。これらの発見から周期表に原子価ゼロの希ガス元素グループが存在することを予測し、トラバーズの協力のもとで液体空気を注意深く分留することにより、1898年にはクリプトン、ネオンに次いでキセノンを発見。1903年にはソディと協力してラドンを単離して周期表中0(ゼロ)族を完成させた。
その後もソディらと協力し、ラジウムからヘリウムが放出されることを確認、放射性元素崩壊理論の研究を行った。1912年退職後も自宅に実験室を設備し研究に没頭した。1881年学士院会員に選出された。1904年には希ガス元素の研究によりノーベル化学賞を授与された。主著に『System of inorganic chemistry』(1891)、『The Gases of the Atmosphere』(1896)、『Elements and Electrons』(1912)などがある。
[後藤忠俊]
アメリカの物理学者。ワシントン市に生まれる。コロンビア大学で数学と物理学を学び、1935年に卒業、ケンブリッジ大学に留学ののち、コロンビア大学でラービの指導を受ける。第二次世界大戦中はマサチューセッツ工科大学(MIT)でレーダー開発に従事、のちマンハッタン計画(原子爆弾開発計画)にも参加した。終戦後、教授としてコロンビア大学に戻ったが、1947年ハーバード大学に移り分子線研究室を創設、1986年まで務めた。
分子線を利用して核磁気共鳴、四極子モーメントなどの研究を行い、それらを精密に測定する方法(分離振動場法またはラムゼー共鳴法とよばれる)を発明した。この方法により、分子線の高分解能分光を得ることが可能となり、原子周波数が高精度で測定できるようになった。さらに水素原子線メーザーの開発に成功した。この気体メーザーはきわめて精度の高い発振器で、周波数を10-12のレベルで測定可能となり、原子時計に応用されるようになった。これらの業績により、1989年にノーベル物理学賞を受賞、イオン捕捉(ほそく)技術を開発したデーメルト、パウルとの同時受賞であった。
[編集部]
イギリスの化学者。希ガス類の発見者として著名。グラスゴーで生まれ,当地の大学や研究所で学んだのち,1870年チュービンゲン大学に留学し,フィティヒR.Fittig(1835-1910)の有機化学研究室でニトロトルイル酸の研究を行い,19歳で学位を得た。帰国後,グラスゴーのアンダーソン・カレッジ助手となり(1874),ピリジン誘導体の研究など,有機化学分野の研究を行った。80年にブリストル大学教授になり,化学量論や熱力学の研究,助手ヤングS.Youngとともに液体の蒸気圧や臨界状態の研究など物理化学的研究を行い,実験技術の改良も進めて,彼ののちの研究の基礎をこの時代に築いた。87年から1912年までロンドン大学教授。この間,はじめはジケトン類やエチレンの錯化合物の研究などを行ったが,その後,希ガス類の研究に入った。その契機となったのは,空気から得られた窒素がアンモニアからの窒素より大きい密度を示すことを報告したレーリーの論文であった。1894年に助手ウィリアムズP.Williamsの協力を得て,空気からの窒素を高温マグネシウムで処理して得られた残存気体から未知の元素アルゴンを発見した。さらに,あるウラン鉱石を加熱して得られる不活性ガスをスペクトル分析して,それが太陽に存在することが知られていたヘリウムであることを確認し,96年にアルゴンとヘリウムの関連を考察して周期律表中に既知の七つの族以外の新元素群があることを示唆した。その後,トラバーズM.Traversとともに液体空気の分留によって未発見の希ガス元素,クリプトン,ネオン,キセノンを98年に発見し,諸性質を研究した。最後の希ガス元素ラドンは放射性物質で,臭素化ラジウムから得られた試料からグレーW.Grayとともに1912年に確認し,ラジウムがラドンとヘリウムに変化することを発見して放射性物質壊変説を出した。1904年にノーベル化学賞を受けた。
執筆者:和田 武
イギリスの数学者,論理学者,哲学者。ケンブリッジ大学を卒業後,21歳でケンブリッジ大学のキングズ・カレッジのフェローとなり,論理学,哲学,経済学の分野で大きな足跡を残したが,夭折した。ラムゼーの主要な関心は,哲学,および数学,論理学の領域であり,数学基礎論において,B.A.W.ラッセル,A.N.ホワイトヘッド,L.ウィトゲンシュタインの残したいくつかの問題を解決した。この分野での業績は《数学基礎論》(1931)にまとめられている。またこの書物中の確率に関する業績は,後のJ.vonノイマンやO.モルゲンシュテルンの効用や主観確率についての貢献に影響を与えた。ラムゼーはまた,若いころから経済学者と親交をもち,数理経済学の分野でも大きな業績を残した。論文《貯蓄の数学理論》(1928)は,さまざまの条件下での動学的最適貯蓄計画を分析したもので,現代における動学的最適計画問題および最適成長論を先取りしたものである。J.M.ケインズはこの論文について,〈その内容の重要性とその問題の困難さという二つの観点から,数理経済学の分野でなされた最も驚嘆にたえない業績の一つ〉といっている。一方,《租税理論への一貢献》は最適な物品税体系を初めて数学的に明らかにした業績で,現代の最適課税,最適料金理論の先駆的業績である。
執筆者:奥野 正寛
イギリスの画家。同名の詩人を父にエジンバラに生まれる。ロンドン,ローマ,ナポリで画業を修めた後,ロンドンに定住し肖像画家として活動。同時代フランスのロココ風肖像画の影響を感じさせる優雅で洗練された作風をもち,ことに女性の肖像画を得意とした。1760年ライバルのJ.レーノルズをさしおいてジョージ3世の御用画家となるが,68年のローヤル・アカデミー設立時には実質的に画業から引退しており,彼が端緒を開いたイタリア的〈グランド・マナーGrand Manner(大様式)〉の肖像画の完成はレーノルズによって行われた。
執筆者:鈴木 杜幾子
英国国教会の聖職者,カンタベリー大主教。ケンブリッジ出身。リンカン神学校副校長(1930-36),ダラム大学神学教授を経て,1950年ケンブリッジの欽定神学講座担当教授。2年後ダラム主教に選ばれ,ヨーク大主教を経て,61年第100代カンタベリー大主教に就任,聖公会とローマ・カトリック教会の話合いを促進した。79年,立教大学のウィリアムズ主教記念講座の第1回講師として来日。著書は《キリストの甦り》(1944)ほか多数。
執筆者:八代 崇
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの化学者.グラスゴー大学で古典語を専攻.在学中自然科学に引かれ,1869年から1年半地元の分析家R. Tatlockのもとで修業した後,1871年チュービンゲン大学のR. Fittig(フィッティヒ)のもとで有機化学を学び,1872年学位を取得.帰国後,アンダーソンズ・カレッジで助手を務め,1874年からグラスゴー大学助手,1880年ブリストルのユニバーシティ・カレッジ化学教授となる.1887年にA.W. Williamson(ウィリアムソン)の後継者としてロンドン大学のユニバーシティ・カレッジ化学教授になり,1912年の引退まで務めた.グラスゴー大学時代には有機化学,ブリストル,ロンドン大学時代には液体・気体の臨界状態,ロンドン大学時代前期には希ガス,ロンドン大学時代後期には放射能をそれぞれおもに研究した.とくに1894年J.W.S. Rayleigh(レイリー)が発見した大気起源の窒素と化学的に製造した窒素との比重の違いの原因を共同研究し,アルゴンを発見した.翌年にはすでに1868年に太陽のスペクトルの分析からその存在が知られていたヘリウムを地上で発見.以後,周期律に従って周期表の新しい族(希ガス元素)の存在を予想して,M.W. Traversとともに1898年までにネオン,クリプトン,キセノンを単離した.1903年にはF. Soddy(ソディ)と共同で,ラジウムからの放出物中にヘリウムを発見した.1904年には希ガス元素の研究によりノーベル化学賞を受賞.小川正孝はかれの研究室で新元素ニッポニウムを発見した.
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… さて,こうした貸本業のはしりは18世紀の大衆文芸の発達をもってはじまる。1726年詩人で,書籍商でもあったラムゼーAllan Ramsay(1686‐1758)が,エジンバラの町にはじめたのを最初とするが,すでに17世紀のロンドン市中では,書籍商が自家の蔵書を貸し出していたともいわれる。日本での貸本業が城崎のような湯治場と無縁でなかったように,イギリスにおいてもローマ支配時代からの温泉場バース(文字どおり温泉の意)をはじめとする保養地には欠かせないものとして栄える。…
… さて,こうした貸本業のはしりは18世紀の大衆文芸の発達をもってはじまる。1726年詩人で,書籍商でもあったラムゼーAllan Ramsay(1686‐1758)が,エジンバラの町にはじめたのを最初とするが,すでに17世紀のロンドン市中では,書籍商が自家の蔵書を貸し出していたともいわれる。日本での貸本業が城崎のような湯治場と無縁でなかったように,イギリスにおいてもローマ支配時代からの温泉場バース(文字どおり温泉の意)をはじめとする保養地には欠かせないものとして栄える。…
…周期表元素記号=Xe 原子番号=54原子量=131.29±3安定核種存在比 124Xe=0.096%,126Xe=0.090%,128Xe=1.919%,129Xe=26.44%,130Xe=4.08%,131Xe=21.18%,132Xe=26.89%,134Xe=10.4%,136Xe=8.87%融点=-111.9℃ 沸点=-107.1℃気体の密度=5.85g/l(0℃,1気圧)液体の比重=3.52(-109℃)固体の比重=2.7(-140℃)臨界温度=16.538℃ 臨界圧=57.64気圧水に対する溶解度=21.80ml/100ml(0℃),11.09ml/100ml(20℃),8.78ml/100ml(50℃)電子配置=[Kr]4d105s25p6 おもな酸化数=0周期表第0族に属する希ガス元素の一つ。1898年7月,イギリスのW.ラムゼーとトラバースMorris William Traversは液体空気を分留し,クリプトンKr,ネオンNeを除いた最後の部分に沸点の低い,重い気体の新元素を発見した。ギリシア語のxenos(異国の)にちなんでキセノンと命名した。…
…周期表元素記号=Kr 原子番号=36原子量=83.80安定核種存在比 78Kr=0.354%,80Kr=2.27%,82Kr=11.56%,83Kr=11.55%,84Kr=56.90%,86Kr=17.37%融点=-156.6℃ 沸点=-152.3℃気体の密度=3.74g/l(0℃,1気圧)液体の比重=2.155(-153℃)臨界温度=-63.8℃ 臨界圧=54.3気圧水に対する溶解度=11.05ml/100ml(0℃),6.26ml/100ml(20℃),3.75ml/100ml(60℃)電子配置=[Ar]3d104s24p6 おもな酸化数=0周期表第0族に属する希ガス元素の一つ。1898年5月,イギリスのW.ラムゼーとトラバースMorris William Traversは,液体空気を分留してアルゴンArをとり出した後に残る液体から,重い気体の新元素を発見し,ギリシア語のkryptos(隠れたもの)にちなんでクリプトンと命名した。空気中の含有量は1.1×10-4体積%。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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