レオナルド・ダ・ビンチ(英語表記)Leonardo da Vinci

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

レオナルド・ダ・ビンチ
Leonardo da Vinci

[生]1452.4.15. イタリア,ビンチ
[没]1519.5.2. フランス,クルー
イタリアの画家,彫刻家,建築家,科学者。フィレンツェのアンドレア・デル・ベロッキオに師事し,1472年に画家組合に登録。1482年からミラノの宮廷で画家,彫刻家建築家,兵器の技術者として活躍。1499年フランス軍のミラノ占領により居を移し,マントバベネチアフィレンツェに滞在したが,1506年に再びミラノに戻り,科学的研究や運河の構築計画などを試みた。1513年に教皇レオ10世に招かれてローマに滞在。1516年フランス王フランソア1世の招きでアンボアーズ近郊のクルー城に赴き,同地で没した。芸術と科学の合致を目指したルネサンスの「万能の人」であり,ルネサンス美術の完成者,また晩年は解剖学,機械設計の研究者として知られた。おもな作品は『最後の晩餐』(1495~98,サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の修道院食堂),『モナ・リザ』(1503~06,ルーブル美術館)など。

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レオナルド・ダ・ビンチ

イタリア盛期ルネサンスの巨匠。トスカナ地方のビンチ村生れ。絵画,彫刻,建築のほか,自然学,工学,音楽など多方面に才能を発揮し,ルネサンス的な〈普遍人〉の理想の体現者といわれる。1466年フィレンツェに出て,ベロッキオの工房で絵画,彫刻を修業,師の《コレオーニ将軍騎馬像》制作に助手として参画し,《受胎告知》(1473年ころ,ウフィツィ美術館蔵),《ブノアの聖母》(1478年ころ,エルミタージュ美術館蔵)などを描いた。1482年ミラノに赴きルドビコ・スフォルツァに仕え,1499年まで滞在。この間,《フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像》の制作に着手し,ミラノのサン・フランチェスコ聖堂のための祭壇画《岩窟の聖母》(1483年―1486年ころ,ルーブル美術館蔵)や,サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂に壁画《最後の晩餐(ばんさん)》(1495年―1498年)を描いた。1500年―1507年再びフィレンツェで活動し,チェーザレ・ボルジアに仕えて軍事や土木事業に携わり,《聖アンナと聖母子》(1512年ころ,ルーブル美術館蔵),《モナ・リザ》(1503年―1510年ころ,ルーブル美術館蔵)の制作に着手。その後,ミラノ,ローマで活動,1517年フランソア1世の招きでフランスのアンボアーズに行き,建築,運河工事に従事したが,2年後に同地で没した。自然学的研究は,数学,物理,天文,植物,解剖,地理,土木,機械(飛行機や戦車の考案)など多岐にわたり,これらに関する手稿(《ウィンザー手稿》《マドリード手稿》《アトランティコ手稿》など)の類が諸方に残る。その芸術・科学・自然観を全体として評価することが求められている。
→関連項目圧延機エルミタージュ美術館カノン児島喜久雄コレッジョ菜食主義サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院ソドマピエロ・ディ・コジモ美術解剖学フィレンツェ派プリュードンペルジーノミケランジェロミラノ派メディチラファエロルーブル美術館

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

レオナルド・ダ・ビンチ
れおなるどだびんち
Leonardo da Vinci
(1452―1519)

イタリア・ルネサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。したがってルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と目されている。[裾分一弘]

生涯

フィレンツェの近郊ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる(4月15日)。幼少時についてはバザーリほかにより才能の多彩が記されている以外、あまり知られておらず、14、15歳のころフィレンツェに出て、画家、彫刻家であるアンドレア・デル・ベロッキオの工房に徒弟として入り、美術家としての道を歩み始める。1482年、30歳のとき、ミラノの支配者ルドビコ・スフォルツァ(通称イル・モロ)Ludovico Sforza, Il Moro(1452―1508)のもとに自薦状を提出してミラノに移る。自薦状には、あらゆる種類の土木工事、築城、兵器の設計ならびに製造に関し、自らの多方面の才能を数えたてたあとに、平和な時勢にあっては、絵画ならびに石造彫刻、鋳造彫刻の技にたけていることを付け加えている。47、48歳のころ、フランスのルイ12世軍ミラノ侵攻(1499年10月)を機に20年近く滞在したミラノを去り、マントバで公妃イサベラ・デステIsabella d'Este(1474―1539)の肖像を素描し(1500年2月)、ベネチアに立ち寄り(同年3月)、フィレンツェに戻る。1502年の夏から約8か月間、チェーザレ・ボルジャの軍事土木技師としてロマーニャ地方に従軍。ボルジャの失脚でフィレンツェに戻るが、1506年54歳のとき、ミラノ駐在のフランス総督シャルル・ダンボワーズCharles d'Amboise(1473―1511)の招きで再度ミラノに赴き、ルイ12世の宮廷画家兼技術家として6年余仕えた。さらに1513年、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチGiuliano di Lorenzo de' Medici(1479―1516)の招きでローマに移るが、1516年にはフランソア1世の招きでフランスへ行き、1517年にはアンボアーズ王城の近郊クルー城館に移り、比較的平穏な余生を送り、さまざまな研究を続けていたが、1519年5月2日、同地で忠実な弟子フランチェスコ・メルツィFrancesco Melzi(1491―1570)にみとられて67歳の生涯を閉じた。[裾分一弘]

美術作品

レオナルドの絵画作品で今日に残るものは数少ない。ベロッキオの工房にあった第一次フィレンツェ時代には、師および同門との協同作『キリストの洗礼』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)、『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)、2点の『受胎告知』(ウフィツィとルーブル美術館)、ともに未完の『三博士の礼拝』(ウフィツィ)と『聖ヒエロニムス』(バチカン美術館)がある。第一次のミラノ時代にはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂食堂の『最後の晩餐(ばんさん)』のほか、サン・フランチェスコ教会無原罪懐胎礼拝堂のための祭壇画『岩窟(がんくつ)の聖母』(現、ルーブル)、素描のみが現存する彫刻『スフォルツァ騎馬像』を制作している。第二次フィレンツェ滞在中には、ミケランジェロと競作になるはずであったパラッツォ・ベッキオ内の大壁画『アンギアリの戦い』(素描や模写のみ現存)を手がけ、その後はミラノ、フィレンツェ、ローマなどを遍歴の時期に『モナ・リザ』(ルーブル)を描き、弟子プレディスGiovanni A. de Predis(1455―1508)の『岩窟の聖母』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を指導、晩年近くには『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』(ともにルーブル)を手がけている。
 このほか、素描の段階に終わった彫刻『トリブルツィオ将軍騎馬像』その他を加えても、レオナルドの芸術上の遺作は非常に少ないが、美術史上に記した足跡はきわめて大きい。すなわち、絵画史のうえでは遠近法ならびに解剖学というクワットロチェント(15世紀)の精密な自然描写をさらに推し進めて、画面の統一構成ならびにスフマート(輪郭消失描法)による立体表現、明暗法を案出して、グラツィエ(優美)の表現を意図し、ルネサンス古典様式の典型とされる。彫刻では、残された多くの素描から判断すると、像は静止像でなく、人馬の躍動する姿を追求し、そのための構成上の手段が種々考えられたように見受けられるが、巨大なブロンズ作としては力学的に制作が困難で、前記2点とも完成していない。
 また建築上の仕事としては、これまた彼の設計になる建造物は実現されていないが、集中式の教会建築に特殊な興味を抱き、細部の力学的な構造を示す習作を数多く残している。さらに一種の都市工学に関する構想をもち、それによると、都市を二重構造にし、下の道路は生活物資の運搬に、上の道路は人の自由な歩行のために、また道路の幅に応じて建造物の高さを規制し、海か川に面した都市の設計を理想としていたことがわかる。
 以上でほぼ推測されるように、今日に残されたレオナルドの芸術上の作品は意外に少なく、他方それらの完成品のもととなった素描・エスキスの類は膨大な量に上り、彼が寡作の人であったことを証明している。大別すると、素描・エスキス約500枚、手稿5000ページが、今日、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどに分散して収蔵されている。素描は前記美術的な遺作のもととなった準備的な習作の類であり、エスキスは200枚に及ぶ解剖図のほか、機械工学、水力学、築城、飛翔(ひしょう)などに関する考案・くふうに満ちている。彼はつねづね手製の小冊子を持ち歩き、おりに触れての断想や観察を記入し、図と文節を交えて書きとどめている。左利きであったレオナルドは、それらの手稿に記入する際、文字を全部裏返しにして右から左に向けて綴(つづ)った。鏡に写すことによって初めて正常な書体になるので鏡字とよばれたが、これは研究の秘密が露見することを恐れたくふうではなく、もともと彼が左利きであったことによる。
 この手稿類のなかから、絵画の理論と実技に関する部分を取り出して、弟子がレオナルドの『絵画論』1巻を編集したことは有名で、その原本は今日バチカンの教皇図書館に収蔵されている。
 なお、レオナルドの同時代人による伝記に、パオロ・ジョビオPaolo Giovio(1483―1552)、アノーニモ・マリアベッキアーノAnonimo Magliabechianoらによる断片的なもの、およびジョルジョ・バザーリによる2種の伝記(初版および2版)がある。[裾分一弘]

科学・技術史からみたレオナルド

レオナルドは、その生涯に膨大な数の手稿を残した。それらの手稿には、絵画、彫刻、建築ばかりでなく、天文、気象、物理、数学、地理、地質、水力、解剖、生理、植物、動物、土木工事、河川の運河化、物をあげたり移動したりする装置、灌漑(かんがい)用排水装置、兵器、自動人形、飛行のための装置など多彩な分野のものが含まれている。
 彼のそもそものスタートは絵画・彫刻であるが、その絵画・彫刻への関心を深めれば深めるほど、デッサンなどに精密さが要求され、おのずと観察力は鋭くなり、それが何事も徹底的に探究しなければ、事物に対する認識を深めることはできないとまで考えるに至ったのであろう。たとえば、人物を描くには人体に関する知識の必要性を感じ、その知識を修得するために解剖を必要とした。レオナルドは手稿のなかで次のように述べている。「正確かつ完全な知識を得んがため、私は10あまりの人体を解剖し、さまざまな肢体すべてを解き、そして毛細血管から出る目に見えない血のほかは、いささかの出血をもおこすことなくそれらの血管の周りにある肉を、ごく微細な切れ端に至るまですっかり取り除いてしまったのである。おまけに1個の死体だけではそんな長い時間に十分できなかったので、次から次へと数多くの死体によって継続する必要があった。こうしてやっと完全な認識に達したのであった」。
 このような姿勢で自然を観察し、自然を認識していったのである。絵の手法を修練する過程でも、遠近法の原理を取り入れようとすれば、それに伴って数学の知識も必要になる。徹底して探究していくことによって、いろいろな分野に論及せざるをえなくなっていくのである。
 鳥の飛び方についての研究では、重さと密度の関係、風圧が翼に及ぼす力の影響について実験し、力学運動について論じている。そして鳥とまったく同じ原理の器械をつくり、動力源に人間を使えば、人間が空を飛ぶことができるのではないかと考えるのである。空を飛ぶという夢を実現しようと、パラシュートやヘリコプターのようなものまで考案している。
 レオナルドは、鋭い観察によって自然界に対する認識を深めたが、同時に機械技術にも大きな関心をもっており、自然界は力学的・機械的運動をしているのではないかと考えたのである。そして、そのようななかから生まれた彼の哲学は「知恵は経験の娘である」ということばに代表されるものである。「二度三度それを試験して、その試験が同一の結果を生ずるか否かを観察せよ」「ただ想像だけによって自然と人間との間の通訳者たらんと欲した芸術家達を信じるな」といい、「実験から開始して、それによって理論を検証すること」が、一般法則をたてるためには重要であると主張する。すなわち、自然界の法則性を明らかにしていくとは、自然を観察し、認識を深め、それを客観的な理論に発展させていくことであるとし、その理論を絶えず実践と統一的にとらえることの重要性を強調しているのである。
 レオナルドは、手稿に書かれていることのすべてにわたって実験をしたり、実際にものをつくりあげたわけではないが、コペルニクスやガリレイが登場する以前に前述のような点を主張した。まさに近代科学を準備した「万能の人」というのも当然の評価であろう。[雀部 晶]
『●作品解説 ▽J・ワッサーマン解説、三神弘彦訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1968・美術出版社) ▽下村寅太郎・田中英道解説『世界美術全集5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1977・集英社) ▽L・H・ハイデンライヒ著、生田圓訳『アート・イン・コンテクスト3 レオナルド/最後の晩餐』(1979・みすず書房) ▽K・キール、C・ペドレッティ編、清水純一・萬年甫訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図』(1982・岩波書店) ▽L・C・アラーノ解説、三神弘彦訳『レオナルド素描集成』(1984・みすず書房) ▽C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの素描 自然の研究』(1985・岩波書店) ▽C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集1、2』(1985、1990・岩波書店) ▽C・ペドレッティ解説、斎藤泰弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――ウフィツィ美術館素描版画室蔵』(1986・岩波書店) ▽C・ペドレッティ監修、P・トラティ・クーヒル解説、西山重徳訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――在米コレクション』(1997・岩波書店)』
『●伝記・手記・研究書 ▽下村寅太郎著『思想学説全書8 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974・勁草書房) ▽G・ヴァザーリ著、裾分一弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝』(1974・岩崎美術社) ▽K・クラーク著、加茂儀一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974/第2版、大河内賢治・丸山修吉訳・1981・法政大学出版局) ▽ヴァレリー著、菅野昭正・佐藤正彰他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(1975/増補版・1978・筑摩書房) ▽西村暢夫他訳『レオナルド・ダ・ビンチの童話』(1975・小学館) ▽裾分一弘・在里寛司著『レオナルドと絵画』(1977・岩崎美術社) ▽岩井寛・森本岩太郎著『レオナルドと解剖』(1977・岩崎美術社) ▽上平貢著『レオナルドと彫刻』(1977・岩崎美術社) ▽M・ブリヨン他著、佐々木英也他訳『世界伝記双書5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1983・小学館) ▽裾分一弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチ――手稿による自伝』(1983・中央公論美術出版) ▽加茂儀一著『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝――自然探究と創造の生涯』(1984・小学館) ▽加藤朝鳥訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論』改訂版(1996・北宋社) ▽久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1999・平凡社) ▽シャーウィン・B・ヌーランド著、菱川英一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(2003・岩波書店) ▽C・ペドレッティ著、日高健一郎訳『建築家レオナルド』新装版・全2巻(2006・学芸図書) ▽杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』全2冊(岩波文庫) ▽田中英道著『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』(講談社学術文庫)』

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