デジタル大辞泉 「ロー」の意味・読み・例文・類語
ロー(RAW)
ロー(low)
2 他の外来語の上に付いて複合語をつくる。
㋐高さ・位置などが低い意を表す。「
㋑数量・程度などが少ない、低い意を表す。「
イギリスの建築史家。ヨークシャー生まれ。1945年リバプール大学建築学部を卒業後、ロンドン大学で歴史学を専攻し1948年卒業。その年からリバプール大学建築学部で講議を担当し、1953年、アメリカ、テキサス大学建築学部の助教授に就任。1957年にはコーネル大学建築・芸術・計画学部客員研究員となる。1958年にケンブリッジ大学大学院修了後、同学部において講議を受けもつ。1962年コーネル大学建築・芸術・計画学部教授に就任し、プリンストン大学客員教授を兼任。ハーバード大学大学院客員教授(1977)、メリーランド大学建築学部客員教授(1978)など多数の大学で教鞭(きょうべん)をとる。1985年コーネル大学建築・芸術・計画学部、アンドリュー・ディクソン・ホワイト講座教授。
ローは、教え子にジェームズ・スターリングやピーター・アイゼンマンといった著名な実務建築家がいるが、それ以外にも各地の建築学部長や建築学科教授を多数輩出しており、教師を育てる教師として知られた。
ローの分析の方法とそのスタイルは主として形態の詳細な分析に始まり、やがて近代建築に関する、より一般的で主流とされる理解の仕方を解体してしまうほどの影響力を及ぼした。建築論集の『マニエリスムと近代建築』The Mathematics of the Ideal Villa and Other Essays(1976)に収められた代表的な論文「理想的ビラの数学」The Mathematics of the Ideal Villaにおいて、イタリアの古典主義の建築家アンドレア・パッラディオによるビラ・マルコンテンタ(1559~1560)とル・コルビュジエによるシュタイン邸(1927)との間には形態の成り立ちと幾何学的ルールに関する非常に強い関連性があることを指摘。この論文が発表される以前には、建築史の世界では、このように年代的にかけ離れた作品同士を直接比較するような方法がとられたことはなく、分析対象としての建築物を、それぞれの時代的背景から切り離してとらえたローによる超歴史的分析方法は、その後の研究者たちの方法にも大きな影響を及ぼす。また、様式や見かけのスタイルに左右されて判断しがちな実務建築家にとっても、ローの示した方法は、時間的、時代的制約から解き放ち、建築物本体を取り出して検証する、という可能性について強く示唆した。また、論文「透明性」Transparencyでは、近代の諸芸術に顕著にみられる透明性という概念に「実の透明性」と「虚の透明性」という二重の傾向があることを指摘。キュビスムと近代建築の関係をピカソ、セザンヌ、ブラック、レジェの絵画の比較やル・コルビュジエとグロピウスの建築の比較を通して論じた。
きわめて広範囲にわたる影響力を与えたその業績に対し、理論家としてはまれなRIBA(英国王立建築家協会)金賞を1995年に授与されている。1999年11月12日、21世紀を目前にして他界する。
『ニューヨーク・タイムズ』紙の建築評論部門を担当していたアダ・ルイーズ・ハクステイブルAda Louise Huxtable(1921―2013)は、「現代建築家たちの態度に大きな影響を与えたもっとも重要な二人の歴史家のうちの一人」と評している(もう一人はエール大学教授ビンセント・スカリーVincent Joseph Scully(1920―2017))。
[堀井義博 2018年12月13日]
『伊東豊雄・松永安光訳『マニエリスムと近代建築――コーリン・ロウ建築論選集』(1981・彰国社)』▽『松永安光・大西伸一郎・漆原弘訳『コーリン・ロウは語る――回顧録と著作選』(2001・鹿島出版会)』▽『コーリン・ロウ、フレッド・コッター著、渡辺真理訳『コラージュ・シティ』(1992・鹿島出版会)』▽『Colin RoweArchitecture of Good Intentions; Towards a Possible Retrospect (1994, Academy Editions, London)』▽『Colin Rowe, Leon George SatkowskiItalian Architecture of the 16th Century (2002, Princeton Architectural Press, New York)』
イギリスの政治家。カナダのニュー・ブランズウィックに生まれる。スコットランドのグラスゴーで鉄鋼業、金融業に従事、1900年に保守党下院議員となった。J・チェンバレンの関税改革運動を強く支持、1911年には下院保守党指導者に就任した。第一次世界大戦中は、首相アスキスのもとの連立内閣で植民地相を務めたのち、ロイド・ジョージ連立内閣の財務相となって、戦債の募集など戦争財政の確立に努めた。戦後、国璽尚書(こくじしょうしょ)に就任、1922年10月連立内閣が崩壊すると、保守党内閣の首相の座について、賠償問題をめぐる連合国会議を主宰したりしたが、健康状態の悪化により、1923年5月に辞任した。
[木畑洋一]
イギリス生まれのフランスの財政家。スコットランドに生まれ、ロンドンで教育を受けたのち、決闘事件を起こして大陸に逃亡した。その後一時スコットランドに帰国して財政改革を建策したが果たされず、1716年フランスに渡り、フランス政府から発券業務を行う銀行の設立を許され、さらにルイジアナ会社を開設、フランス領北アメリカ地域の開発を目ざす「ミシシッピ計画」の立案者となった。1720年にはフランス財務総監となり、「ロー体制」を築いて財界の大立て者となったが、投機過熱による「ミシシッピ計画」の失敗、さらに金融恐慌を招き、その責任追及を逃れて同年国外に出、イタリアで没した。
[大久保桂子]
イギリスの劇作家、桂冠(けいかん)詩人。法律家への道を歩んだが、のち劇作家となる。七編の悲劇中、初期の二編はまだ生硬な文体で書かれているが、シェークスピア風の無韻詩で書かれた『ジェーン・ショア』(1714)やエリザベス朝悲劇に基づいた『美しい悔悟者』(1703)には自由で詩的な表現が多くみられる。彼はまたシェークスピアの作品の幕・場の分割を整え、ト書を加え、登場人物表をつけて編纂(へんさん)、初めての分冊版全集として、1709年に六巻本(のちに詩を加えて九巻に編集)で刊行した。1715年に桂冠詩人に任命された。
[中野里皓史]
フランスで銀行設立などの活動をしたスコットランドの財政家。フランスでは彼の姓はラスと発音される場合が多い。スコットランドのエジンバラで貴金属商兼金融業者の家に生まれ,ロンドンとアムステルダムで金融および財政の実務と理論を学び,一時フランスに滞在したあとスコットランドに戻った。そこで彼は,1705年に《貨幣および商業に関する考察Money and Trade Considered》を発表し,貨幣の不足がスコットランドの経済的苦境を招いていると考え,豊富な貨幣供給こそが経済発展の土台をなすという理論に基づいて,金属貨幣の不足を補うために,土地を担保にした一種の手形ないし紙幣(土地貨幣)を発行することを提案した。だが,この提案はスコットランドでは受け入れられなかったので,彼は,新たな活動の場を求めて06年にフランスに移住した。
当時のフランスは,前世紀以来,長期の不況下にあって貨幣の不足と物価の低落と国家債務の増大とに悩まされていたから,ローの構想を実施する地盤が存在していた。そこで彼は,いくつかの論文や覚書を作って,銀行の設立と銀行券(紙幣)の発行の有効性を財政当局者に説き,ルイ14世死後の摂政時代に,16年に個人銀行を設立し,18年にそれを国家銀行に改組することを認められ,銀行券を発行して信用の増大と経済の活発化に一応の成功を収めた。さらに累積した国家債務(財政赤字)を解消するために,銀行と貿易会社と国家財政とを統合するシステムを案出した(これをローのシステムという)。つまり,銀行の発行した15億リーブルの銀行券をインド会社という独占的貿易会社が引き受けてこれを国家に貸し付け,政府はそれを債務の償還に当て,他方でインド会社は15億リーブルの増資新株を募集して,償還金として流出した銀行券を吸収する,という案である。19年に開始されたこのシステムは,たちまち銀行券の過剰発行によるインフレーションとインド会社株の株式投機とを招き,20年に失敗に終わったため,同年末にフランスを出奔,のちベネチアで死去した。このローのシステムの失敗は,のちの19世紀まで,フランスにおける株式会社制度への不信感をもたらしたといわれる。
執筆者:遅塚 忠躬
18世紀イギリスの神秘思想家。〈理性の世紀〉にあって〈熱狂者〉とさげすまれることも恐れず,一貫して真の信仰とは何かを説きつづけた。理神論者などを相手に数々の論争を行い,また初期の有名な著作《真摯なる呼びかけ》(1729)はキリスト教信者の生活の実態を鋭く批判して,心のあり方自体を変革し真の信仰を求めるよう促している。1734年ころベーメの思想を知るようになり,それは彼の考えを大きく発展させ,また深い基盤を与えることになった。ローの思想の中心に置かれるのは意志である。あらゆるものはそれに先だつ意志なくしては存在しえない。したがって,エゴイズムへ向かおうとするみずからの意志を“みずからの意志によって”断ち,神の意志のみが行われるようにすることが真の信仰の基本となる。意志を持たない人間はおらず,ゆえに救いへの道は万人に対して開かれているわけである。後期の著作は《神的な知識へ至る道》(1752)など。
執筆者:青木 由紀子
イギリスの保守党政治家。ボナ・ローとも呼ばれる。カナダのニューブランズウィック生れ。12歳のときスコットランドのグラスゴーに移り教育を受け,16歳でここの実業界に入り鉄鋼業で成功した。1900年保守党(自由統一党)から下院に入り,02年商務院政務次官となる。J.チェンバレンの関税改革論を支持し,09年のロイド・ジョージの予算案に反対,11年バルフォアに代わって保守党下院院内総務に就任した。第1次世界大戦中には自由党と提携し,15年アスキス連立内閣に植民相,16年ロイド・ジョージの第2次連立内閣に蔵相として入閣。戦後も連立政府を維持し,19年国璽尚書としてロイド・ジョージを補佐,パリ講和会議にも全権の一人として出席したが,21年病気を理由に辞任。翌年政府のトルコ政策を批判し,保守党内の反連立派の指導者として政界に復帰,保守党内閣を組織した。しかし23年病気悪化のため辞任,まもなく死亡した。
執筆者:池田 清
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1858~1923
イギリスの政治家。カナダに生まれ,スコットランドのグラスゴーで鉄鋼業に成功。1900年より保守党所属下院議員,チェンバレン(ジョゼフ)の関税改革運動を支持,11年保守党党首となる。15年植民相,翌年ロイド・ジョージ連立内閣で蔵相,19年玉璽尚書(ぎょくじしょうしょ),パリ講和会議全権,22年首相となったが,翌年病のため辞職。
1671~1729
スコットランド生まれの財政家。1716年フランス総銀行設立の特許状を得,ついでルイジアナ会社を設立。フランス財政総監になったが,投機と紙幣乱発により恐慌を引き起こし失敗。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…政治外交面では枢機卿にもなった宰相デュボアが実権を握り,イギリス,オランダと同盟してスペインに対抗する政策をとった。経済面ではスコットランドの実業家ジョン・ローが財務長官になり植民地経営,銀行設立を推進したが,結局失敗して財政破綻をきたした。美術の面でも独特な装飾様式を生み出し,新思想も芽生えたので,フランス革命の淵源・萌芽の時代と見られることもある。…
※「ロー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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