[ 一 ][ 一 ]の語源については広瀬川の水で区切られていた青葉城の北側の付郭が川内(かわうち)と呼ばれていたところから、それが「せんだい」となまったとする説、古く千体観音がこの地にまつられていたところから、千体を「せんだい」と読み、千代と書くようになったとする説、アイヌ語のセンナイ(関門なり、入口なりの川の意)あるいはタイ(林地の意)に由来するとの説などがある。
宮城県中部にある県庁所在都市。1889年(明治22)市制施行。1928年(昭和3)名取(なとり)郡長(なが)町、宮城郡原ノ町、1932年名取郡西多賀(にしたが)村、1941年名取郡中田(なかだ)、六郷(ろくごう)の2村、宮城郡岩切(いわきり)、七郷(しちごう)、高砂(たかさご)の3村、1956年(昭和31)名取郡生出(おいで)村、1987年宮城郡宮城町、1988年泉市、名取郡秋保(あきう)町を編入。1989年(平成1)政令指定都市となる。2020年時点で、青葉、泉、太白(たいはく)、宮城野、若林の5区が設置されている。面積786.35平方キロメートル。人口109万6704(2020)。
[長谷川典夫]
奥羽山脈の東側、仙台平野のほぼ中央にある。東は七北田(ななきた)川、広瀬川、名取川のつくる沖積平野で、水田地帯および工業地区を形成し、仙台湾岸には数条の浜堤(ひんてい)列があり、後背湿地を利用して貞山堀(ていざんぼり)や仙台港がつくられている。北東、南西方向の宮城野撓曲崖(とうきょくがい)から西は広瀬川の数段の河岸段丘で、市街地主要部が段丘上に位置する。北部と西部は七北田丘陵、青葉山丘陵となり、文教施設や住宅地に利用されている。
1981年から2010年における仙台の年平均気温は12.4℃、8月の平均気温は24.2℃で比較的涼しく、1月の平均気温は1.6℃で晴天が多く積雪も少なくしのぎやすい。年平均降水量は1254.1ミリメートルで、5月から10月に多く降るが、台風や梅雨の影響は比較的少ない。
[長谷川典夫]
仙台市一帯では弥生(やよい)時代から稲作が行われ、遠見塚古墳(とおみづかこふん)からはイネ、ウメ、マクワウリなどの種子が発見されている。また条里遺構も残っている。724年(神亀1)蝦夷(えみし)反乱の征討に赴いた大野東人(おおののあずまひと)は多賀城(多賀城市)に陸奥(むつ)国府と鎮守府を置き、仙台市南東部の木ノ下(きのした)に陸奥国分寺を、またその付近に国分尼寺を建立した。中世は留守氏(るすうじ)、国分氏(こくぶんうじ)らの支配下にあった。1601年(慶長6)伊達政宗(だてまさむね)は、国分氏の居城であった千代(せんだい)城のあとに新たに城を築いて仙台城(青葉城)とし、岩出山(いわでやま)城から移り、広瀬川を隔てた段丘上に城下町を建設した。城の近くに重臣の屋敷を設け、大手筋と奥州街道が交差する芭蕉の辻(ばしょうのつじ)を商人町とし、その周辺に侍屋敷、さらに外縁に寺町、足軽町を配した。武家屋敷には丁(ちょう)を、足軽・職人町、町屋には町を付して両者を区別した。開府にあたり岩出山の住民が仙台への移動を命ぜられ、神社仏閣も岩出山や米沢(よねざわ)(山形県)から移された。家臣8000戸、町家2100戸、寺方200戸など戸数は1万0850戸に及び、人口は5万2000人を数えたといわれる。仙台は領内の中央に位置して統治に有利なうえ、奥州街道に臨み、仙台平野を控えて、政治、交通、経済の枢要拠点をなし、加えて新田開発による藩財政の強化や、内陸水運の改善による仙台への物資の搬出入や江戸文化の導入によって、伊達62万石の城下は大いに繁栄し、質実剛健の気風に加えて「伊達者(だてもの)」の名を冠せられるほどの独自の文化を生んだ。桃山文化を伝える大崎八幡宮(はちまんぐう)や東照宮、国分寺薬師堂などは、当時の建築様式の粋を凝らしたものである。
明治維新に際しては、仙台藩医で『赤蝦夷(あかえぞ)風説考』を著した工藤平助、『三国通覧図説』や『海国兵談』の著者で経世家の林子平(しへい)などの先覚者の予言と警告があったにもかかわらず、時流にのれず、士族の凋落(ちょうらく)とともに沈滞期に入った。1871年(明治4)の廃藩置県後、仙台県(1872年宮城県と改称)の県庁所在地となり、1878年には仙台区として一つの行政区画となった。1889年市制施行。1871年に東北鎮台(のち第二師団)が置かれ、続いて宮城師範学校、仙台控訴院、第二高等学校が相次いで設置され、1887年の日本鉄道(現、JR東北本線)の開通、1907年(明治40)の東北帝国大学(現、東北大学)の設立など、しだいに東北地方の中心としての地位が高まり、産業面でも大正末から昭和の初期にかけてビール、洋刃物、ゴム、金属、鉄鋼などの近代工場が設立されるようになった。
1941年(昭和16)に人口約27万人を数えた仙台は、1945年7月10日のアメリカ軍の空襲などにより中心部を焼失し、死者約1300人、罹災(りさい)人口は約5万7000人に達した。1946年(昭和21)から戦災区域の復興区画整理が、また1949年からは近代都市建設が始まり、仙台は旧城下町や杜(もり)の都のイメージを残しつつ近代的な都市へと脱皮していった。1957年には仙塩地域が総合開発特定地域に、1964年には仙台湾地区が新産業都市に指定され、仙台市は地域開発の要(かなめ)として、また東北地方の行政、産業、交通などの中核都市としてその機能の強化が図られている。一方、1978年6月の宮城県沖地震では、死者13人、重軽傷者9300余人、総額1940億円を超える被害を出し、現代都市のもつもろさを浮き彫りにした。1991年(平成3)には、市制100周年の記念事業の一環として、国際交流の拠点をめざす仙台国際センターを開設。2011年(平成23)の東日本大震災では最大7メートルを超える津波に見舞われ、死者923人・行方不明27人、住家全壊3万0034棟・半壊10万9609棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。避難者は最大時で10万人を超え、浸水世帯は8110世帯、海水が浸水した農地は1800ヘクタールに及び、被害総額は推定で1兆円を超えた(「東日本大震災 仙台市 震災記録誌―発災から1年間の活動記録―」)。2018年3月時点で、道路の嵩(かさ)上げ、避難道路・海浜公園の整備、被災市街地の土地区画整理などの事業を継続している。なお、仙台市はアメリカのリバサイドとダラス、フランスのレンヌ、ベラルーシのミンクス、メキシコのアカプルコ、中国の長春、韓国の光州の各市と国際姉妹都市・友好都市となっている。
[長谷川典夫]
仙台市の産業構成を就業人口比(2000、国勢調査)でみると、第一次産業1.2%、第二次産業18.5%に対し、第三次産業は78.4%を占め、典型的な消費都市といえる。また事業所総数4万7537(2001)のうち、卸売・小売業・飲食店の45.9%、サービス業の30.4%など第三次産業が高い比率を示している。2002年(平成14)の年間卸売販売額は7兆1885億円で、東北地方の都市では抜群に高い実績を有する。これに対し、製造業出荷額(2002)は7516億円にとどまる。製造業のおもなものは、石油・石炭製品(35.0%)、印刷・同関連業(11.3%)、電子部品・デバイス製造業(7.9%)などである。仙台駅東口界隈(かいわい)は、IT関連企業が集中し、「仙台ITアベニュー」を形成している。第三次産業人口が多い要因の一つに学校、官公庁、事業所の集中があげられる。東北大学、宮城教育大学、東北学院大学など21の大学・短大(2013)、博物館、美術館、図書館などが集まって学術文化都市の様相を呈し、また国や公共企業体の出先機関や、東京に本社を置く企業が進出し、その多くが東北6県を管轄営業区域としている。
[長谷川典夫]
JR在来線としては東北本線、仙山線、仙石線(せんせきせん)が通じ、1982年(昭和57)には東北新幹線が開業した。1987年には、東北地方で初めての地下鉄である市営地下鉄南北線が開業、2015年(平成27)には市営地下鉄東西線も開業した。道路交通では国道4号、45号、48号、286号、457号のほか、東北自動車道が通じ、仙台南、仙台宮城、泉の各インターチェンジがある。東北自動車道以外に三陸沿岸道路、仙台南部道路、仙台東部道路の有料道路がある。1971年に市北東部に開港した仙台港からは苫小牧(とまこまい)、名古屋への長距離フェリーが運航される。また岩沼、名取両市にまたがる仙台空港からは大阪、札幌など国内各都市のほか、ソウルや台北などへの航空路線が開設されている。2007年(平成19)には、JR仙台駅から仙台空港まで直通する鉄道が開通した(仙台―名取間はJR東北本線、名取―仙台空港間が仙台空港アクセス鉄道)。
[長谷川典夫]
国指定史跡に遠見塚古墳、陸奥国分寺跡、陸奥国分尼寺跡、林子平墓、留守氏の居館だった岩切城跡がある。応神(おうじん)天皇らを祀(まつ)る大崎八幡宮は、大崎氏(陸奥の戦国大名)、伊達氏の尊崇が厚かった。権現(ごんげん)造の本殿などは国宝に指定されている。瑞鳳寺(ずいほうじ)には伊達政宗・忠宗(ただむね)・綱村(つなむら)の廟所(びょうしょ)がある。このほか青葉神社、大年(だいねん)寺、竜宝寺など伊達氏ゆかりの社寺がある。東照宮、陸奥国分寺薬師堂は国指定重要文化財。国指定天然記念物には、苦竹のイチョウ(にがたけのいちょう)、朝鮮ウメなどがある。年中行事としては、東北三大祭りの一つ8月上旬の仙台七夕まつり(せんだいたなばたまつり)と、正月14日夜に大崎八幡宮境内で行われるどんと祭(松焚祭(まつたきまつり))が著名である。大崎八幡宮の能神楽(かぐら)は選択無形民俗文化財。秋保町の3地区で伝えられる田植踊(秋保の田植踊、国指定重要無形民俗文化財)は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録された。伝統を受け継ぐ特産工芸品には、埋れ木細工、玉虫塗、堤焼(つつみやき)人形、堆朱(ついしゅ)、仙台たんす、仙台平(ひら)などがある。食品では九重(ここのえ)、仙台駄菓子、笹(ささ)かまぼこ、仙台みそが独特な味で親しまれ、最近では牛舌(ぎゅうたん)が知られている。また、文化施設としては、2001年(平成13)国宝に指定された慶長遣欧使節関連資料や、伊達家の文化財などを収蔵する仙台市博物館、宮城県ゆかりの作家を中心とした宮城県美術館や仙台文学館、理学系の仙台市科学館、東北大学総合学術博物館、地底の森ミュージアムなどがある。
[長谷川典夫]
『『仙台市史』全13巻(1950~1954・仙台市)』▽『『仙台の歴史』(1952・仙台市)』▽『『目で見る仙台の歴史』(1959・仙台市)』▽『三原良吉著『仙台郷土史夜話』(1971・宝文堂)』▽『『埋れた仙台の歴史』(1978・仙台市教育委員会)』▽『『仙台市史』全32巻(1994~2015・仙台市)』
宮城県中部にある県庁所在都市。1889年市制。89年4月政令指定都市となり,青葉,宮城野,若林,太白(たいはく),泉の5区を置いた。人口104万5986(2010)。奥羽山脈の東側に続く第三紀丘陵の東端,仙台平野(仙南平野)の西縁に位置し,市街地主要部は広瀬川の形成した数段の河岸段丘上に展開する。奈良時代,北方の多賀城(現,多賀城市)に陸奥国府と鎮守府が設けられ,仙台には陸奥国分寺および国分尼寺が建立された。近世初め,伊達政宗が青葉城を築いて以来,伊達氏の城下町として繁栄した。1871年の廃藩置県後,仙台は仙台県,次いで宮城県の県庁所在地となり,軍事,教育,司法などの諸施設が設置された。87年の日本鉄道(現,JR東北本線)の開通などにより,人口はしだいに増加し,また大正から昭和にかけて近代工場の設立も進んだ。第2次大戦の戦災により市の中心部を消失したが,1957年の仙塩地域の総合開発特定地域への指定,64年の仙台湾地区の新産業都市への指定を契機に,仙台市は地域開発の拠点および東北地方の中核都市へと発展した。一方,78年6月の宮城県沖地震は,現代都市のもつもろさを浮彫りにした。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明884人,全壊住宅1万2200戸にのぼった。
仙台市の産業別就業人口比(1990)は,第1次産業1.9%,第2次産業20.5%,第3次産業77%で典型的な消費都市といえる。また事業所数では第3次産業は全体の約9割を占め,そのうち卸売業の年間販売額も東北地方の都市では群を抜いている。製造業の年間出荷額(1995)は約9300億円で県の25%を占め,食料品,出版印刷などを主とする軽工業が約3割,石油・石炭製品,鉄鋼,金属製品,電気機器などの重化学工業は約7割となっている。仙台市の第3次産業人口が多い要因の一つに学校,官公庁,事業所の集中があげられる。東北大学,東北学院大学など12の大学(2008現在,10大学),短期大学や研究所,各種文化施設が集積し,国や公共企業体の出先機関,東京に本社をもつ企業も多数進出し,その多くが東北6県を管轄する。東北新幹線(1982開業),東北本線,仙山線,仙石線などの鉄道や,東北自動車道,国道4号,45号,48号線などが通じ,仙台港には遠距離フェリーが,市の南方,岩沼市の仙台空港からは1997年現在18航空路線が開設され(2008年6月現在,16路線),仙台市は東北地方の交通拠点をなす。
市内には陸奥国分寺跡(史),陸奥国分尼寺跡(史)のほか,大崎八幡神社本殿(国宝)や,東照宮本殿および国分寺薬師堂,政宗の墓所のある瑞鳳寺,青葉城跡など伊達氏ゆかりの史跡が多い。松島の名勝や秋保(あきう)・作並両温泉に近く,蔵王連峰探勝の基地でもある。年中行事としては8月上旬の七夕祭,正月14日の大崎八幡神社の松焚(どんと)祭が名高い。伝統工芸品としては仙台平(ひら),仙台たんす,埋れ木細工などがあげられる。
執筆者:長谷川 典夫
陸奥国伊達氏62万石の城下町。1600年(慶長5)伊達政宗によって開かれた。多賀城に近く陸奥国分寺跡があるが,当時は宮城郡荒巻,小田原,南目,小泉,名取郡根岸の5ヵ村入会の原野宮城野であった。旧領主国分盛重の居城千代城を仙台と改め,近世城郭築造に着手した政宗は,1591年(天正19)以来の岩出山からここに居を移した。城は青葉山にあり崖下を広瀬川が流れる。
1627年(寛永4)政宗の別邸若林城が築かれたのをはじめとして,城郭は17世紀を通じて拡大されている。街郭は大手通りに直交して奥州街道(仙台・松前道)が走り,河岸段丘に制約されながらも一辺60間を原則とする正方形,または間口がこれを超える長方形状に区画され,丁を称する侍屋敷と,町を称する足軽・職人・町人屋敷に区分された。これらと直交する路線は通りと称された。侍屋敷は知行高に応じ間口40~12間に奥行30間,足軽・職人は10~6間に25間で,城まわりに大身侍屋敷,城下中心部の街道筋と大手筋に町屋敷,これを包んで中身侍屋敷,城下はずれに小身の組士足軽屋敷,寺社が配置された。侍屋敷は屋敷並五人組をつくり屋敷奉行により統轄され,侍辻番所121ヵ所,下屋敷定番所4ヵ所があった。町奉行支配下の24ヵ町は伊達氏米沢在城以来の〈御供〉の6譜代町(大町,南町,肴町,立町,柳町,荒町)を頂点に厳重な序列があり,世襲の検断と肝煎が任命され町政にあたった。町々の境に丁切の柵がたち,65ヵ所の辻番所があった。町は6間間口を1軒分とする諸町役を負担した屋敷主を中心にし五人組をつくったが,屋敷内には借屋人を含むより多くの家がある。1668年(寛文8)の屋敷数は侍2521,卒・職人3359,92年(元禄5)の寺社200,1772年(安永1)の町方人口は2万3098人とされるから,仙台城下の人口は数万人あったと推定される。
城下の商業は年3回の御日市開催を許された9町(6譜代町と国分町,北目町,二日町)が他町に優先し,また町により特定商品専売が認可される形態だったが,1651年(慶安4)御日市は棚銭徴収に改められ,75年(延宝3)惣町に諸品の自由販売が許された。しかし大町を中心とする有力問屋商人は木綿,古手,呉服,小間物,繰綿,薬種を独占する六仲間を結成し,藩も他領からの直仕入を一部の例外を除き町在ともに禁止して保護を加えた。豪商として定住したものには近江商人が多い。中期以降六仲間の特権はしだいに弱体化したが,この制度は幕末まで堅持され,領内産物の発達とともに藩国産方の専売政策と結合し,また為替組,融通組に編成されるなど,商業統制のてことなり藩財政の資金源としての役割を果たすものが多かった。
執筆者:難波 信雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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