北畠親房(読み)きたばたけちかふさ

精選版 日本国語大辞典 「北畠親房」の意味・読み・例文・類語

きたばたけ‐ちかふさ【北畠親房】

南北朝時代の武将、学者。大納言。法号宗玄、のち覚空。建武新政府に仕え、長子顕家とともに義良親王を奉じて陸奥国へ下る。南北朝分立後、常陸国小田城によって南朝の勢力回復に努めたが、のち吉野に帰る。神・儒・仏の三学、故実に通じ、歌をよくした。著に、南朝の正統を説いた「神皇正統記」のほか、「職原鈔」「元元集」「東家秘伝」など。北畠准后(じゅごう)。永仁元~正平九年(一二九三‐一三五四

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デジタル大辞泉 「北畠親房」の意味・読み・例文・類語

きたばたけ‐ちかふさ【北畠親房】

[1293~1354]南北朝時代の公卿・武将。後醍醐天皇の皇子世良ときなが親王の養育にあたったが、その死によって出家。宗玄、のち、覚空と号した。建武の中興により、再び出仕。顕家とともに義良のりなが親王を奉じて東国下向を企て、常陸ひたちに上陸。結城親朝らを誘致しようとしたが成功せず、のち吉野に帰った。以後、南朝方の政治・軍事の中心人物として活躍。学識深く、著書に「神皇正統記じんのうしょうとうき」「職原鈔しょくげんしょう」など。北畠准后。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北畠親房」の意味・わかりやすい解説

北畠親房
きたばたけちかふさ
(1293―1354)

鎌倉末・南北朝時代の公卿(くぎょう)、思想家。父は師重(もろしげ)(1270―1322)、母は左少将隆重(たかしげ)の女(むすめ)。後醍醐(ごだいご)天皇の信任厚く、南朝の中枢として活躍した。

 親房の生涯はおおよそ3期に分けられる。第1期は鎌倉後期。北畠氏は、両統迭立(てつりつ)のなかで大覚寺統(だいかくじとう)に仕えてきたが、親房は後醍醐天皇抜擢(ばってき)され、官職も32歳で父祖の最高職を抜いて大納言(だいなごん)に昇進、天皇の政治に深く参画し、吉田定房(よしださだふさ)・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)(藤原宣房)とともに「後の三房(さんぼう)」と称された。また後醍醐天皇皇子世良(ときよし)親王(?―1330)の養育にあたったが、1330年(元徳2)親王は若死にし、親房も悲しんで出家し政界を引退した。法名宗玄(そうげん)(のち覚空(かくくう))。出家の翌1331年(元弘1)には元弘(げんこう)の変が始まり、ついで建武(けんむ)新政となるが、親房はこの政治過程では政界の表面では活躍しない。新政成立後は、長子顕家(あきいえ)の陸奥守(むつのかみ)就任により、ともに陸奥国に下り、顕家を後見して奥羽経営に尽力した。

 第2期は、新政の挫折(ざせつ)とともに始まる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱軍を追って西上した顕家とともに1336年(延元1・建武3)上洛(じょうらく)し、そのまま京都にとどまってふたたび国政に携わることとなった。尊氏再挙ののち、親房の画策によって後醍醐天皇を吉野山に迎えて南朝を開き、京都の北朝・幕府と対抗した。しかし顕家の戦死などで南朝は軍事的にしだいに劣勢となり、1338年(延元3・暦応1)東国を回復すべく義良(のりよし)親王、次子顕信(あきのぶ)らと伊勢(いせ)国大湊(おおみなと)を出帆したが、途中で暴風雨にあい、親房は常陸(ひたち)国小田(おだ)城(茨城県つくば市小田)に入った。翌1339年後醍醐天皇が死去し義良親王(後村上(ごむらかみ)天皇)が践祚(せんそ)したが、親房は小田城を動くことができず、1341年(興国2・暦応4)高師冬(こうのもろふゆ)によって攻め落とされ、ついで関城(茨城県筑西(ちくせい)市)に移ったが、1343年落城。常陸での6年間の苦闘はかくて失敗したが、小田城で『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』『職原抄』を執筆した。

 第3期はこれ以後の晩年である。常陸から吉野に帰った親房は、文字どおり南朝の中心となった。軍事的には楠木正行(くすのきまさつら)の戦死により吉野を失い賀名生(あのう)に移るなどさらに劣勢となったが、幕府内部も分裂して観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)となり、1351年(正平6・観応2)北朝を廃して正平(しょうへい)一統を実現し、親房は功によって准后(じゅごう)の宣を受けた。しかし親房の率いる南朝は、この政治情勢を永続させることができず、一統はたちまち破れ、親房は失意のうちに賀名生で没した。ただし没年、場所については異説がある。著書はほかに『元元集』(1337〜1338ころ)『熱田本紀』など多数がある。親房の南朝に捧(ささ)げた生涯と、『神皇正統記』の独自の神国思想、正統観は、後世の思想界にも大きな影響を与えた。

[熱田 公 2017年10月19日]

『中村直勝著『北畠親房』(1932・星野書店/『中村直勝著作集 7』所収・1978・淡交社)』『平泉澄監修『増補北畠親房公の研究』(1975・皇学館大学出版部)』『我妻建治著『神皇正統記論考』(1981・吉川弘文館)』『永峯清成著『北畠親房』(1983・新人物往来社)』『岡野友彦著『皇学館大学講演叢書82 北畠親房』(1995・皇学館大学出版部)』『白山芳太郎著『北畠親房の研究』増補版(1998・ぺりかん社)』『下川玲子著『北畠親房の儒学』(2001・ぺりかん社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「北畠親房」の意味・わかりやすい解説

北畠親房 (きたばたけちかふさ)
生没年:1293-1354(永仁1-正平9・文和3)

鎌倉末~南北朝の公家。父は権大納言師重,母は藤原隆重女。1308年(延慶1)従三位,以後参議,検非違使別当,権中納言などを歴任,後醍醐天皇の信任厚く,24年(正中1)には32歳で曾祖父以来の極官権大納言を超えて大納言に任ぜられ,源氏氏長者を象徴する淳和・奨学両院別当をも兼ねた。この間天皇の第2皇子世良親王の養育を託されていたが,30年(元徳2)親王は早世し親房は出家する。これが彼の生涯で遭遇した第1の悲しむべき死であった。法名ははじめ宗玄,後に覚空。この直後元弘の乱おこり,天皇は隠岐に流されるが,親房は建武新政成立後半年たった33年(元弘3)10月,長子顕家が義良親王を奉じて陸奥に下るのに同行するまで,全く活動の跡をのこしていない。独自の政治思想から天皇専制体制を目ざす天皇と,旧来の上級貴族の合議制を是とする親房の間の路線上の相違にその原因を求める説が有力である。

 その後足利尊氏の謀反によって上洛,天皇とともに吉野に入り,以後南朝の中心人物として活躍するが,38年(延元3・暦応1)5月石津の戦に顕家が戦死し,第2の死に悲しむ。〈時ヤイタラザリケン,忠孝ノ道コヽニキハマリハベリニキ,苔ノ下ニウヅモレヌモノトテハ,タダイタヅラニ名ヲノミゾトドメテシ,心ウキ世ニモハベルカナ〉。わが子の死を述べるこの一節は親房の著《神皇正統記》のもっとも感動的な場面である。なお戦死の数日前に天皇にあてられた顕家の上奏文は,天皇の政治を徹底的に批判したものだが,その論調は明らかに父親房の影響が大きい。同年7月,次子顕信とともに義良親王を奉じて東国に向かうが海上で難破し,常陸についたのは親房一人であった。この後,小田,関,大宝等の諸城に拠って東国へ南朝軍の結集につとめ,一時はかなりの成功をおさめた。この間白河の結城親朝に参加を促しつづけるために書かれた70通以上の書状が伝来しているが,これは中世史上個人から個人へあてられた書状としては最大の量であり,もし他の武士にも同様の勧誘がなされたとしたら,同時期におこなわれた《神皇正統記》《職原鈔》の執筆と相まって,親房の旺盛な執筆能力は驚くべきものがある。なお関東在陣中の39年(延元4・暦応2)後醍醐天皇は吉野に没し,親房はこの第3の死を小田城中に聞いた。政策的には隔りをもちながら,天皇個人にはつねに献身的な愛情をもちつづけていた親房の打撃は大きかった。43年(興国4・康永2)ころ関東を脱出,吉野へ還った。当時建武新政ころ活躍した南朝方の武士はほとんど亡く,親房は南朝内部の主戦派の頭目的存在となり,とくに観応の擾乱前後の幕府の分裂に乗じ52年(正平7・文和1)には京都を奪回,久しぶりに入京し北朝3上皇を捕らえて河内に送り,一方高野山に所領を寄進し顕家の冥福を祈った。准三后の宣下をうけたのもこのころと推定される。それも束の間,義詮の反撃に敗走し賀名生にもどり,翌々年62歳で死んだ。
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朝日日本歴史人物事典 「北畠親房」の解説

北畠親房

没年:文和3/正平9.4.17(1354.5.10)
生年:永仁1.1.29(1293.3.8)
鎌倉末・南北朝時代の公卿,思想家,歴史家。師重の長子。母は藤原隆重の娘。官は正安2(1300)年の兵部権大輔を振り出しに左少弁,参議,権中納言,権大納言兼按察使などを歴任し,元徳2(1330)年に出家したのちも南朝から准大臣,准三宮の宣下を受ける。村上源氏中院流の出で,晩年は中院准后と呼ばれた。後醍醐天皇の信任厚く,吉田定房,万里小路宣房と共に「後三房」と称された。養育を任されていた世良親王の死去により出家している。ここまでの事蹟は宮中故実,学識に限られ,後醍醐の建武新政後,諸国流寓中が親房の真の活躍期である。 正慶2/元弘3(1333)年6月に天皇が還京して新政府が成立すると,翌々月子の顕家は陸奥守に任ぜられ,義良親王(後村上天皇)を頂く陸奥国府(小幕府)が成立。同10月親房は顕家と共に多賀城に下向し,奥羽経営の実権を握った。建武2(1335)年冬,足利尊氏が鎌倉で背くと直ちに上京し,翌年1月の天皇の山門行幸に供奉,父を追って上洛した顕家は尊氏の西下後陸奥へ帰るが,親房は京に残り,湊川合戦ののち室町幕府が成立すると次男顕信と共に伊勢へ下って抵抗の拠点づくりに着手した。同年末に吉野へ脱出した後醍醐と呼応して幕府打倒の方策を巡らし,暦応1/延元3(1338)年9月,義良・宗良両親王を奉じて結城宗広らと伊勢大湊を出帆,常陸の諸城を転々としながら南朝の勢力回復を図るが,頼みの結城親朝が幕府側に寝返ったため,康永2/興国4(1343)年吉野に戻る。この間に後醍醐が没して南朝の中枢となり,観応の擾乱で顕著となった幕府側の分裂で文和1/正平7(1352)年閏2月,16年ぶりに入京するが,南朝の頽勢は覆せず賀名生に没した。謀略家であったが幕府との交渉は柔軟性を欠き,南軍の不利を決定的にしたことは否定できない。常陸滞在中に著した『神皇正統記』は,形勢を観望する武士たちの説得に天皇家の絶対性を主張したもの。のち,後村上天皇に献ぜられて帝王学の書とされ,後世には歴史書として広く読まれた。<参考文献>中村直勝『北畠親房』,佐藤進一『南北朝の動乱』

(今谷明)

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百科事典マイペディア 「北畠親房」の意味・わかりやすい解説

北畠親房【きたばたけちかふさ】

南北朝時代,南朝の公家,武将,学者。後醍醐天皇の信任を受け皇子世良(よよし)親王の傅(ふ)となったが,親王の死にあい出家。建武政権に再び出仕,子顕家とともに陸奥(むつ)の経営に当たった。のち後醍醐天皇を助け,以後南朝の柱石となる。顕家の戦死後は常陸(ひたち)小田城を根拠に活躍し,城中で《神皇正統記》を著した。他に官制の沿革を述べた《職原鈔》などがある。→北畠顕家
→関連項目阿部野神社小田城北畠氏関城田丸霊山神社度会家行

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北畠親房」の意味・わかりやすい解説

北畠親房
きたばたけちかふさ

[生]永仁1(1293)
[没]正平9=文和3(1354).4.17. 大和,賀名生
南北朝時代の公卿,武将。正二位大納言。師重の子。後醍醐天皇に仕え,世良親王の養育にあたったが,元徳2 (1330) 年親王の薨去により出家して宗玄 (のち覚空) と号した。建武中興が成ると再び出仕し,元弘3=正慶2 (33) 年長子顕家とともに義良親王 (後村上天皇) を奉じて陸奥へ下向,翌年上洛した。延元1=建武3 (36) 年8月足利尊氏の奏請により豊仁親王 (光明天皇) が践祚したため,親房は後醍醐天皇を大和吉野に奉じて南朝をたてた。延元3=暦応1 (38) 年義良親王の東下に従い,常陸小田城に拠って北軍と戦い,城中で『神皇正統記』を著わした (39) 。同地方の経営に努めたが,北軍に敗れ,興国4=康永2 (43) 年再び吉野に戻り,南朝の中心人物として活躍した。伊勢神道にも造詣が深かった。『職原抄』『元元集』などの著書がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北畠親房」の解説

北畠親房
きたばたけちかふさ

1293.1.-~1354.4.17

鎌倉後期~南北朝期の公卿で,南朝の重臣。万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)・吉田定房とともに後の三房と称された。父は師重,母は左少将隆重の女。後醍醐天皇の信任あつく,1324年(正中元)父祖の例をこえ大納言任官。30年(元徳2)出家。法名宗玄,のち覚空。33年(元弘3)従一位准大臣。同年義良(のりよし)親王を奉じ長男顕家(あきいえ)とともに陸奥国に下る。35年(建武2)足利尊氏が建武政権にそむくと上洛。同年の尊氏東上で伊勢にのがれる。38年(暦応元・延元3)再度の陸奥下向を企てたが遭難し,常陸に漂着。近隣豪族に軍勢催促を行ったが失敗し,吉野に戻る。51年(観応2・正平6)の正平一統に功あって准后となるが,京都占領に失敗し吉野の賀名生(あのう)に退却。その地で没した。著書「神皇正統記」「職原抄」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北畠親房」の解説

北畠親房 きたばたけ-ちかふさ

1293-1354 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
正応(しょうおう)6年1月生まれ。北畠師重(もろしげ)の長男。北畠顕家(あきいえ)の父。後醍醐(ごだいご)天皇に信任され世良(ときよし)親王を養育するが,親王の死去で出家。建武の新政で再出仕し,従一位。天皇死後は南朝の中枢として勢力回復につくす。南朝の正統性を主張した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」は後世ひろくよまれた。文和(ぶんな)3=正平(しょうへい)9年4月17日死去。62歳。法名は宗玄,覚空。
【格言など】魚を得るは網の一目によれば,衆目の力なければ,これを得ること難し(「神皇正統記」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北畠親房」の解説

北畠親房
きたばたけちかふさ

1293〜1354
南北朝時代の南朝の公卿・武将
後醍醐 (ごだいご) 天皇の信任厚く,奥州・東国で転戦し南朝の勢力増大をはかったが失敗。この間,常陸 (ひたち) の小田城で『神皇正統記』を著し南朝正統論を説くとともに,有職故実 (ゆうそくこじつ) の『職原抄』や神道書『元元集』を著した。1343年吉野に帰り,後村上天皇に近侍し,そこで没した。

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367日誕生日大事典 「北畠親房」の解説

北畠親房 (きたばたけちかふさ)

生年月日:1293年1月29日
鎌倉時代後期;南北朝時代の公卿;武将
1354年没

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世界大百科事典(旧版)内の北畠親房の言及

【元元集】より

…南北朝時代の神道書。北畠親房の編になり,8巻。1337年(延元2∥建武4),親房は伊勢国に赴いて後醍醐天皇方の勢力拡大のために奔走したが,同国滞在中に外宮の祠官度会(わたらい)家行に接して,伊勢神道の教説を学んだ。…

【三房】より

…為房も白河,鳥羽天皇のもとで活躍した。後三房は南北朝期の吉田定房万里小路(までのこうじ)宣房北畠親房。3人は後醍醐天皇の信任厚く,定房,宣房は正中の変,元弘の乱にも関与し,親房は《神皇正統記》を著し南朝の指導者として重要な位置を占めた。…

【下野国】より

…ところが35年(建武2)11月尊氏は新政府に不満を持つ武士を組織して反旗をひるがえしたので,天皇は吉野の山深く潜幸し,下野の武士も南北両陣営に分かれて互いに争った。南朝側は北畠親房を中心に東国経営に乗り出し,親房は奥州白川の豪族結城親朝を味方につけることにより,去就の定まらない東北・関東の諸豪族を南朝側に帰服させようとした。しかし下野最大の豪族的領主小山氏は観望の態度をとり続け,親房は〈進退これきわまるものなり〉と嘆いている。…

【職原鈔】より

北畠親房が日本歴代の官制の沿革,変遷,職務内容などを記し,さらに注釈を加えた書。上下2巻。…

【神皇正統記】より

…南北朝時代に北畠親房が著した歴史書。3巻。…

【関城[町]】より

…東を小貝川,西を鬼怒川が流れ,常陸台地が中央部に広がる。町名は南北朝時代に北畠親房が拠った関城にちなむ。幕末に武蔵国(現,神奈川県)川崎から伝えられた梨栽培が発展し,全国的な産地となっている。…

【霊山神社】より

…福島県伊達郡霊山町大字大石に鎮座。北畠親房,顕家,顕信,守親をまつる。建武中興にあたり,北畠親房は長男顕家とともに陸奥守に任ぜられて,義良親王を奉じて下向,霊山に本拠を構えてその任にあたったが,足利尊氏の叛で西上,顕家の戦死後次男顕信がその子守親とともに霊山に下り,奥羽経略にあたった。…

※「北畠親房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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