河原村(読み)かわらむら

日本歴史地名大系 「河原村」の解説

河原村
かわらむら

[現在地名]三和町川原かわら宮崎みやざき

蚊焼かやき村の南に位置し、東部は海(天草灘)に臨む。北部に秋葉あきば山があり、南部の宮崎との間を宮崎川が流れる。地内の徳道とくどうに一〇世紀とされる川原大蔵大夫高満の館跡と伝える地があり、五輪塔・宝篋印塔が十数基残されている。川原大池の池之御前いけのごぜん社は天徳二年(九五八)創祀という池之御神社とともに古く、正暦五年(九九四)の創建と伝え、高満の娘阿池姫が竜に化して昇天したという伝説がある。元亨三年(一三二三)一一月二二日の藤原致澄等連署契約状(深堀文書)にみえる仲裁人のかわら殿沙弥禅覚は当地を拠点とする者であろう。暦応五年(一三四二)四月日の狼藉人交名注文(同文書)によれば、当地を拠点とした者と考えられる「河原源六・同舎弟又六」が、同年四月に深堀時元とともに深堀時広の所領に対して狼藉をはたらいたという。当時すでに河原氏は深堀氏の被官であった可能性がある。康永二年(一三四三)には「かわら」から竹留たけるに通う道が戸町とまち浦の田地山野を分ける際の和与の境となっている(同年一〇月三日「深堀時広和与状案」同文書)


河原村
かわらむら

[現在地名]美祢市伊佐いさ町河原

現美祢市の東、秋吉あきよし台南斜面の石灰岩台地に位置する小村。西に雨乞あまごう(天子山)、南東に大平おおひら山がある。北を嘉万かま(現美祢郡秋芳町)、西を大嶺おおみね村、東を岩永いわなが(現秋芳町)、南を伊佐いさ村と接する。

河原の名は寛永三年(一六二六)の熊野帳にみえるが、元禄一二年(一六九九)の郷帳には「大嶺村枝郷河原村」とある。しかし「注進案」は、古くより河原とよぶとし、俚伝として村名の由来を次のように記す。


河原村
かわらむら

[現在地名]灘区上河原通かみかわらどおり一―四丁目・下河原通しもかわらどおり一―五丁目・鹿しか下通したどおり一―三丁目・船寺通ふなでらどおり一―二丁目・灘南通なだみなみどおり一―三丁目・灘北通なだきたどおり一―三丁目・千旦通せんたんどおり一―四丁目・かみ木通きどおり一―四丁目・将軍通しようぐんどおり一―四丁目・泉通いずみどおり一丁目・大内通おおうちどおり一丁目

もり村の北東、都賀とが川の両岸にあり、沖積平地の中央部に位置する。村の南端を山陽道が通る。中世は都賀庄内にあり、文安四年(一四四七)頃の夏麦山手注文(天城文書)には河原・川原とみえ、奥山手春納分一七〇文・烏帽子銭一〇〇文、冬山手分一軒につき五〇文ずつを納める。天正一九年(一五九一)一二月一日の若林久大夫分山手指出(同文書)では山手銭二〇〇文を納める。


河原村
かわらむら

[現在地名]田辺町大字河原

西から北は田辺村に接し、北方に木津きづ川を隔てて久世郡富野との村・枇杷庄びわのしよう(現城陽市)を望む。低平な水田地帯で、木津川に近い北部の砂地に畑・果樹園がある。河内国から甘南備かんなび山麓を経て田辺村を通り、草内くさじ渡へ向かう街道が村の中央を通る。郷帳類では川原と表記することもある。

「日本書紀」崇神天皇一〇年九月条にみえる武埴安彦の乱は、南山城辺りの地名説話的な要素をもつが、武埴安彦が殺されたのち、敗卒が逃走して甲を脱いだ所を「伽和羅かわら」とよんだという。


河原村
かわはらむら

[現在地名]河原町河原

北流する千代川に西流する八東はつとう川が合流する地点の西岸に位置し、北は袋河原ふくろがわら村、西は長瀬ながせ村・谷一木たにひとつぎ村。川原とも記し、谷一木村の枝村。智頭ちず街道が村内を南北に通り、千代川の氾濫原ではあるが、陸上・水上交通の要地であった。正保(一六四四―四八)以後の新村で、高付されないまま元禄国絵図に一村として記載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。支村として上ノ茶屋がある(因幡志)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」による高三〇石余。本免四ツ五分。家数は宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内懐中鑑(西郷小学校蔵)で三二軒、「因幡志」では四〇軒。


河原村
かわらむら

[現在地名]油谷町大字河原

油谷湾に流入する掛淵かけぶち川の南側に位置し、北西の一部が油谷湾に面する。南の大部分は山地で、西は伊上いがみ村、東は新別名しんべつみよう久富ひさとみの各村。先大津宰判に所属する。

天正一六年(一五八八)閏五月六日付の山田中務丞宛毛利輝元書状(「閥閲録」所収三吉与一右衛門家文書)に「長門国大津郡倉小田之村三拾八石九斗余足、同郡河原・倉小田両村之内三拾石六斗余足勝屋采女先給」とある。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳では総石高七六六石余、うち田方が五二町余で五三〇石余、畠方が六町余で二三石余、百姓屋敷六三、浦屋敷五、浦浮役三石余、塩浜方一三六石余、小物成三七石余とある。


河原村
かわらむら

[現在地名]岐宿町川原郷かわらごう

岐宿村の西に位置する。南東に流れる大川原おおがわら川・小川原こがわら川は白石しらいし浦に注ぐ。北に障子しようじ岳、北西に坊主ぼうずヶ岳がある。江戸時代は福江藩領岐宿掛に属する。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長徴収のキリシタン連判書付にみえる「五島大かわら」は当地と考えられ、ミける又右衛門・地にす二良太ら五名が署名している。また「五島小河原」ともあり、満てうす太良兵衛・里やうこ兵衛小兵衛・とめい孫兵衛ら六名がみえるが、いずれもキリシタン代表者と想定されている。


河原村
かわらむら

[現在地名]加茂町大字河原

木津きづ川北岸、瓶原みかのはら中央部南の平野に位置する。北は伊賀街道を限り登大路のぼりおおじ村、東は岡崎おかざき村に接する。恭仁くに京の大内裏跡ともいわれる山城国分寺跡の南に位置し、早くから開けた地と思われる。村内に大門だいもん・東大門・吹上ふきあげ(京都府地誌)朱雀しゆしやか(相楽郡誌)などの地名が残るが、恭仁京や国分寺に関係あるかと思われる。「続日本紀」天平一五年(七四三)正月一二日条に「御石原宮楼、賜饗於百官及有位人等有」と記される石原宮楼は、河原村域にあったといわれる(「山城志」ほか)が不詳。

明暦元年(一六五五)までは津藩藤堂家の知行地であった(宗国史)


河原村
かわらむら

[現在地名]高森町河原

高森町の東北端に位置する明治九年(一八七六)成立の村名。東は豊後国直入なおいり郡、西は上色見かみしきみ村、北は波野なみの村・中江なかえ(現波野村)、南は尾下おくだり村に接する。河原川流域にあり、近世には左岸の上流から市野尾いちのお村・黒岩くろいわ村・仁田水にたみず村、右岸に河原村・味鳥みどり村が位置する。寛弘八年(一〇一一)二月一一日の阿蘇郡四境注文写(阿蘇家文書)のなかに、阿蘇郡東境の地の一つとして「河原」とある。


河原村
かわらむら

[現在地名]青谷町河原

山根やまね村の南、日置ひおき谷の奥部に位置する。南は小畑おばた村。集落は日置川西岸にあるが、対岸にも何軒かの民家がある(因幡志)。特産物に階田・美濃紙があるように(同書)、和紙の産地として知られ、鳥取藩の御用紙も漉いていた(→山根村。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「小畑・河原」とみえ、高二三三石余、反別は田一六町九反余・圃五町五反余、物成二〇〇石。拝領高は二四七石余、本免は六ツ四分。藪役銀三匁一分三厘が課せられていた(藩史)


河原村
かわらむら

[現在地名]国東町川原かわら

田深たぶか村の西に位置し、田深川が東流する。中世は国東郷のうち。小倉藩元和人畜改帳に藪小吉知行分として川原村とみえ、高四一九石余で、家数五七のうち本百姓・小百姓一六、隠居・名子・牛屋四〇、男三五(うち名子一)・女四三、牛一八・馬二。正保郷帳では来崎くのさき郷川原村として田高二二四石余・畑高四八石余で、茅山のほか新田が開かれており、また半分日損所と注記される。天保郷帳では高六〇八石余。享保元年(一七一六)富来とみく村・北江きたえ村との間で山野論が起き、来浦くのうら庄屋の仲介があったものの、当村の一〇〇人余が三ヵ村の庄屋とともに杵築城下に入り、越訴に及んだことにより、庄屋三人ほか四人が捕らえられ、横手の泉福よこてのせんぷく寺の尽力で死罪を免れたものの、家族ともども追放となった(国東町史)


河原村
かわらむら

[現在地名]日野町河原

日野大窪ひのおおくぼ町の北に隣接し、西は松尾山まつおやま村。集落の北側を日野川支流出雲いずも川が西流し、地名は同川の河川敷に立地することに由来するという(日野町志)。天文一四年(一五四五)の太神宮御師株売券(来田文書)に地名がみえる。近世の領主の変遷は激しく幕府領に始まり、寛永四年(一六二七)伊予松山藩領となって以後、幕府領・上野館林藩領・甲斐甲府藩領と変わり、天和元年(一六八一)志摩鳥羽藩領となり、のち幕府領。


河原村
かわらむら

[現在地名]押水町河原

小川おがわ村の東、宝達ほうだつ山北西麓にあり、南縁を宝達川が西流。正保郷帳の高三八六石余、田方二〇町一反余・畑方五町六反余、免二ツ七歩、新田高五二四石余(免二ツ九歩五厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九二七石、免四ツ二歩、新田高一〇石で、小物成は山役九八匁・苦竹役一一匁、鳥役五匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


河原村
かはらむら

[現在地名]北勢町川原かわはら

千司久連せんじぐれ新田の西、員弁川支流田切たぎり川の西岸に位置する。慶安郷帳(明大刑博蔵)・「勢陽雑記」では「川原」としている。江戸時代は桑名藩領。天明四年(一七八四)手控帳に田九町余、畑二一町一反余とあり、畑地のほうが多い。また文政七年(一八二四)の村明細帳(徳川林政史蔵)によると、戸数一七一、人数七七〇(男四〇二・女三六八)、牛五三、馬一一。


河原村
かわはらむら

[現在地名]西原村河原

阿蘇外輪山の山頂尾根を境に東は下久木野しもくぎの(現久木野村)、西は上益城かみましき杉堂すぎどう(現益城町)、南は同郡北中島きたなかしま(現矢部町)、北は宮山みややま村・布田ふた村と接する。木山きやま川・たき川が西流し、西部に沖積平野を形成する。字栖の倉すのくら西福さいふく禅寺跡の阿弥陀堂境内から出土した応永二二年(一四一五)二月七日銘の青銅製の鰐口に「肥後州津森保河原村西福禅寺常住也」とみえる。近世は上益城郡で沼山津手永に属し、「国誌」に「上河原村アリ、生迫村塩塚村小野村猿返村麦納所村灰床村志高村医王寺村葉山村立古閑村下古閑村滝村田中村秋田村星村中鶴村栖高村等ノ小村アリ」とある。


河原村
かわらむら

[現在地名]市川市河原・妙典みようでん一―二丁目・下新宿しもしんしゆく大和田おおわだ三―五丁目など

大和田村の南、江戸川の左岸にあり、集落は八幡やわた村や市川村と本行徳ほんぎようとく村とを結ぶ往還に沿って形成される。川原とも記し、江戸時代は幕府領として推移した(旧高旧領取調帳)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図には「川原」とみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二四四石余。


河原村
かわらむら

[現在地名]三田市川原かわら

十倉とくら村の北に位置し、大部分は山地で羽束はつか川支流末吉すえよし川両岸に平坦地が開ける。東は西畑にしはた村・清水しみず(現猪名川町)。当村は観福かんぷく寺の門前集落として成立したという。慶長国絵図に河原村とみえ、フキ村・なか村を合せて高四六五石余。正保郷帳では布木ふき村が別に高付され、川原村として高三一〇石余。御領地雑事記(森本家文書)によれば家数七八・人数三三五、寺二、享保元年(一七一六)開墾の新田高一石余。酒井の高売布さかいのたかめふ神社の別当寺であった真言宗大覚寺派観福寺は、光明山観福密寺略縁起(観福寺蔵)によれば大化年間(六四五―六五〇)に法導が開創したという。


河原村
かわはらむら

[現在地名]愛知川町川原かわはら山川原やまがわはら

長野中ながのなか村の北西に位置し、北には山河原やまがわはら村がある。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に河原村とみえ高一千二一二石余。元禄八年大洞弁天寄進帳によると河原村の人数は男一九七・女二二八、寺社方男一三・女二。延宝九年(一六八一)大水が数度にわたって起こり、年貢免除のための検見願が出された(坪田文書)。明治一二年(一八七九)山河原村は河原村より分離した。現在川原には御崎みさき神社がある。浄土真宗本願寺派願龍がんりゆう寺・臨済宗妙心寺派興禅こうぜん寺があり、興禅寺は愛智大領の開基した古刹であったが、天正年中(一五七三―九二)の兵火により衰退し、江戸時代に彦根藩により再興されたと伝える。


河原村
かわらむら

[現在地名]加古川市加古川町河原かこがわちようかわら

篠原しのはら村の北に位置し、加古川左岸に接する。賀原村・川原村とも記す。応永一六年(一四〇九)九月四日、足利義持は赤松頼則の譲状にまかせ、子息満則に五箇ごか庄河原村などを安堵している(「足利義持御判御教書」赤松春日部文書)。「蔭涼軒日録」の長享二年(一四八八)八月三日条には京都北野社梅香院領の「五箇庄内賀原村」の年貢二〇石は前出羽守源(赤松有馬)頼則が寄進したと記される。姫路藩主池田輝政は慶長五年(一六〇〇)福田牛介に河原村から二一四石余の年貢徴収を許し、翌六年当村の高五八八石余などの知行を同人に認めている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)


河原村
かわらむら

[現在地名]松山市上川原町かみがわらまち大橋町おおはしまち

松山平野の南平坦部、重信川南岸の農村。東は中野なかの村、西は麻生あそう(現伊予郡砥部町)、南は村に接し、北は重信川を隔てて高井村(浮穴郡)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「高井村 河原分共、日損所、小川有」とある。この「河原分」が独立した村で、独立時期を天保年間(一八三〇―四四)とする説もあるが(新編温泉郡誌)、天保郷帳には「高井村枝郷河原分」と記述している。


河原村
かわらむら

[現在地名]敦賀市三島みしま

徳市とくいち村の南、しようノ川の河原に位置する。「敦賀志」は「今は街道の少し西にあり、永禄・元亀の頃にや、庄の河上洪水の為め封疆くずれ、作土流て河原と成れり、其河原に居しより河原村と云」とその成立期と村名の起源を記す。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしま郷に、正保郷帳では新田しんで村に属した。元禄郷帳で河原村と出、高三六石余。


河原村
かわらむら

[現在地名]北条市河原

粟井あわい川の下流南岸にある海辺の農村。安岡やすおか和田わだ久保くぼの村々に囲まれる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「川原村 日損所」とみえ、村高は一三五石九斗、うち田方一一〇石四斗五升、畑方二五石四斗五升とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記では村名を「河原村」とし、天保郷帳では村高一六九石八斗九升五合と増加している。池内家文書によると、建保三年(一二一五)河野通信の池内公通に対する譲状に「かわら」の名がみえ、また二神家文書によると、天文一四年(一五四五)河野弾正少弼通直が二神兵庫助弥五郎に与えた書状にも「河原分之内 一所壱町」の文字がみえる。


河原村
かわらむら

[現在地名]加西市和泉町いずみちよう

田井たい村の南西、普光寺ふこうじ川中流域に位置する。南は富家ふけ村。正保郷帳に川原村とみえ、田方二三八石余・畑方五一石余。領主の変遷は享保一〇年(一七二五)までは国正くにまさ村と同じ。その後幕府領を経て、同一五年から延享三年(一七四六)までは西長にしおさ村と同じ。


河原村
こうらむら

[現在地名]舞鶴市字河原・字下見谷しもみだに

由良川支流の岡田おかだ川が西方寺さいほうじ村北より東方へ直角に曲がったところに立地する。農業を中心とする散村。香良とも記す(旧語集、丹哥府志)

慶長検地郷村帳に高一二〇・三石「河原村」とみえ、「河原村之内下見谷」の付記がある。享保三年(一七一八)の領中郷村高付に河原村の「枝郷下見谷」とあり、下見谷は河原村の枝村であった。


河原村
かわばるむら

[現在地名]二丈町上深江かみふかえ

片峯かたみね村の北西に位置し、東は石崎いしざき村、北西は深江村、南は一貴山いきさん村。寛文四年(一六六四)の肥前唐津藩主大久保忠職の領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、元禄国絵図では高七二四石余。領主の変遷は深江村と同じ。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高七二五石余(うち安永四年から文化元年までの出高六斗余)


河原村
かわはらむら

[現在地名]岡山市河原

掛畑かけはた村の南西に位置。足守あしもり川源流地点の左岸にあたる。正保郷帳に足守藩領真星まなぼし村の枝村として記される。貞享二年(一六八五)の賀陽郡・上房郡寺社改帳(総社市史編さん室蔵)には河原村とあり高三七七石余、家数六九・人数三九五、うち男二一五・女一八〇。


河原村
かわらむら

[現在地名]湖北町山本やまもと

種路しゆろ村の東に位置。集落内を余呉よご川が南西流。慶長五年(一六〇〇)九月一六日の徳川家康禁制(南部文書)に村名がみえる。寛永石高帳によれば高七三八石余。


河原村
かわらむら

[現在地名]加賀市河原町

清水しみず村の南、勅使ちよくし村の西にあり、村の南から西辺を動橋いぶりはし川が北流。地名は一条天皇の勅使河原右京にちなむと伝え(→勅使村、右京の墓という塚がある。正保郷帳によると村高三三五石余、田方一六町七反余・畑方四町一反余、物成高一七〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android