経済学説史(読み)けいざいがくせつし

改訂新版 世界大百科事典 「経済学説史」の意味・わかりやすい解説

経済学説史 (けいざいがくせつし)

経済学の歴史を研究する必要性を考える場合,まず経済学もその一分野である実証科学はどのように発展していくものかを考える必要がある。教科書的な説明をすれば次のようになろう。たびたびおこる,あるいはいくつもおこる事象を説明するために,われわれは最も重要であると考える要因だけを考慮に入れて,つまり何が重要であるかについての仮定を立てたうえで,現実を簡単化した理論モデルをつくる。ミクロ経済学の例をとると,消費者の効用,所得,いろいろな財の価格,消費者のいろいろな財の需要量などの間に成立するいくつかの方程式の体系は,消費者の行動を説明するための理論モデルである。次に,このモデルを分析して説明すべき事象に関する予測を論理的に導出する,つまり演繹(えんえき)する。理論モデルから得られた予測(たとえば需要量の変動の予測)が現実に観察される事象の動き(たとえば需要量の実際の変動)をうまく説明しているかどうかを調べるのが,実験とか観測とかによる理論の検証である。もし検証によって反証されなければ理論はひとまず正しいことになる。しかし反証された場合は,理論モデルを構成する要因が正しく選ばれていなかったわけであり,仮定が間違っていたのであるから,理論モデルは修正されなければならない。このように,理論モデルの構成,演繹,検証,理論モデルの改善,演繹,検証という循環を通じて,理論は一歩一歩,しかし確実に真理へ近づいていくわけである。

 もし理論がほんとうにこのような具合で発展していくとすると,現代の理論体系に含まれていない過去の学説は,検証によって反証されたものばかりであり,現在において一応は正しいとされている理論を理解するためにも,また現在の理論をさらに発展させるためにも,間違っている過去の学説を再検討する必要はない。過去においてどうしてそのような間違いがなされたのか,研究活動に関する心理学的・社会学的研究,さらには懐古趣味的な研究を別にすれば,学説史研究の意義はないことになる。しかし,この理論,検証,理論という理論の発展のサイクルは,あまりに優等生的であり,実際の科学の歴史はけっしてこのようなきれい事ではすまされないのである。検証によって理論が反証されても,実験とか観測に問題があるとされたり,理論に例外を設けるなどしたりして,理論の本質的部分はなかなか変更されない。新しい理論体系をつくるのはなかなかたいへんであり,たびたび反証されても,なかなか古い理論体系は棄却されないのである。

 天文学における天動説から地動説へのコペルニクス革命の研究に基づいて,クーンが説明した科学の発展過程はより科学の歴史に即しているといえよう。支配的なパラダイムと呼ばれる理論的枠組みは,単に何度か検証されて反証されただけでは棄却されない。ただ,あまりにもしばしば反証され,非現実性がはなはだしくなり,そしてより良い別のパラダイムが準備できた場合にかぎり,パラダイムの交代である科学革命がおこるとされるのである。しかし,現代の天文学を理解するのに天動説の研究が必要でないように,クーンのように考えてみても,現代経済学の理解に経済学説史の研究は必要であるとはいえないであろう。ただし,クーンの説明は経済学の歴史にはあてはまらないようである。クーンは一度他のパラダイムにとってかわられたパラダイムは決定的にとってかわられるのだと主張するが,経済学においては流行遅れになった考え方といえども,けっして他の考え方に決定的にとってかわられたということにはならないのである。

 経済学においては,むしろ多くのパラダイムが同時に存在して競合しており,流行遅れになった考え方も消滅せずに存在しつづけ,また強力に復活してくる可能性もあると考えるべきであろう。それぞれのパラダイムは中心的部分と周辺部分とがあり,前者はビジョンとも呼ばれる基本的な経済社会観をあらわすもので,理論による予測が検証によって反証されても変わることはない。たびたび反証されて現実を説明する能力が低下したパラダイムは,その周辺部分を新たにつくり直して再登場してくる。周辺部分の改善が遅れているパラダイムは流行遅れではあるが,復活の可能性がないわけではなく,消滅したわけではない。したがって,経済学説史研究の意義は,現在のところ流行遅れであり,不振である休眠状態の学説に関する研究を継続することにより,そのパラダイムが中心的部分を保持しつつ周辺部分を改善して復活するのを促進し,現代経済理論のフロンティアを前進させるために資することにある。

経済学の歴史的な源泉の一つは哲学の内部における経済的思想であり,アリストテレスの考えによってアクイナスが展開した中世の公正価格論はその代表的なものの一つである。それは競争的市場が存在しない場合に価格をどのように決定すべきかを論ずる規範的理論であり,最近の所得政策,労使間の団体交渉による賃金の決定との関連で,現代的意義をもつといえる。経済学のもう一つの歴史的源泉は,実際的な時事問題に関する通俗的討議から発展した科学的認識であり,その代表は,16世紀から18世紀にいたるヨーロッパ絶対主義諸国家の経済政策およびそれをめぐる諸学説の総称である重商主義である。通常,重商主義は金が国富であると考える重金主義に基づく貿易差額重視の政策であるといわれるが,これについては貨幣量と物価の比例関係を主張する貨幣数量説による批判が当時からあった。ケインズは有効需要を確保する政策として重商主義政策の意義を高く評価している。また,自国の産業のために市場を確保する政策と解するならば,現代の貿易摩擦との関連も否定しえない。

 重商主義の諸学説は断片的なものであったから,最初の体系的経済理論はフランス重商主義に対する批判であった重農主義であるといえる。重農主義は自然法思想に基づき,自由取引を提唱し,農業を重視した。F.ケネー経済表(1758)は,経済循環に関する最初の理論モデルである。しかし重農主義においては,土地だけが純生産物を生むと考えられ,前貸しとしての資本の概念は確立されていたが,恒常的所得としての利潤の概念は存在しなかった。

 古典派経済学の創設者は《国富論》(1776)の著者A.スミスであり,重農主義者と同じく自然法思想により自由放任を提唱,重商主義を論難した。私利の追求は価格機構のみえざる手に導かれて公益を促進するというのである。しかしスミスは,土地のみが生産的であるとする重農主義をも批判し,利潤の概念を確立させた。古典派経済学は,さらに《経済学および課税の原理》(1817)の著者D.リカード,《人口論》(1798),《経済学原理》(1820)などを著し,有効需要の問題を重視して後にケインズに評価されたT.マルサスなどにより展開されていく。そして,古典派経済学の最後の巨峰はJ.S.ミルであり,その著《経済学原理》(1848)は古典派経済学の完成の記念碑である。

 スミスは,商品の交換比率は生産に必要な労働量によって決まるという投下労働価値説を,土地所有と資本蓄積のない未開社会にのみ認め,土地所有と資本蓄積のある社会については長期的な需要と供給の均衡により,賃金,地代,利潤の自然率の和として商品の自然価格が決定されるものとした。しかしリカードは,若干の修正の必要を認めながらも,未開社会でなくても投下労働価値説が基本的には成立すると主張し,商品の交換比率は需要から独立であるとする。ミルもまた,労働の移動がない国際間の貿易の場合は別として,需要と無関係に交換比率が決まり,労働価値説,生産費説が成立する場合も多いことを認めている。すなわち古典派の価値論は,需要供給説を基礎にしながらも,需要と無関係になる場合を重視するが,この考え方は現代経済学の一翼を占める新リカード学派(ネオ・リカーディアン)の経済学の基礎になっている。

 この考え方は賃金にも適用され,賃金はその社会で習慣的に定まっている労働力の再生産費用に等しいとされ,労働に対する需要の変動は人口の変動に吸収されるというマルサスの人口論に基づく動学的過程が考えられる。現代の先進工業諸国においては経済成長は人口の増大に解消されず実質賃金の上昇となるが,発展途上国においては経済成長の萌芽が人口の増大により踏みつけられてしまうことも多く,古典派経済学のこの動学的過程はまだ存在しているといえよう。

 リカードは,生産性の高い土地の供給には限界があることから,生産性の高い土地に投下された資本と生産性の低い土地に投下された資本の利潤率を均等化するために,前者の土地に地代が発生するという差額地代論を展開した。この考え方は,後に近代経済学によって,賃金,利潤にも適用される限界原理に一般化される。資本蓄積と人口増加により,地代が存在しない限界地としてますます生産性の低い土地が使用されることとなり,地代は増大するが,賃金は不変であるから,利潤率は低下する。これが古典派経済学のもう一つの動学的過程である。土地の概念を広く解して資源,環境を含めて考えるならば,古典派経済学のこの考え方は成長が無限に可能であるとする近代経済学の成長理論よりもはるかに重要な現代的意義をもつものである。

 古典派経済学は重商主義の貿易論を批判したが,貿易収支が均衡していても,各国が相対的に生産費の安い財の生産に特化することから貿易利益が得られるという比較生産費説を展開した。また国際間の商品の交換比率は,労働の国際間移動がないために労働価値説では説明できず,各国の相手国の生産物に対する需要,すなわち自国の生産物の供給により決定されるという相互需要説をJ.S.ミルが提唱した。比較生産費説と相互需要説とは,ほとんどそのまま現代の貿易論に取り入れられており,その意味では古典派経済学がわれわれに残した最大の遺産であるといえる。

古典派経済学が主として先進資本主義国であったイギリスにおいて展開されたのに対して,歴史学派の経済学は19世紀の半ばから主として後発資本主義国であるドイツにおいて,古典派経済学を批判する立場から展開された。前者が自然法思想,啓蒙主義に基づき,抽象的・演繹的方法により普遍妥当的な理論を樹立しようとしたのに対して,後者はロマン主義的な歴史意識の影響下に,具体的・帰納的方法による個別的・特殊的な問題の研究を重視した。歴史学派の特徴としてはさらに,普遍性を排する相対性の観点,社会生活の統一性の観点,倫理的動機を強調する反合理主義的観点,発展の観点,原子論的・機械論的社会観を否定する有機的社会観,などをあげることができよう。古典派経済学の自由貿易主義を批判し,重商主義的・保護主義的な主張をしたF.リストは歴史学派の先行者であり,歴史哲学要素の濃いW.ロッシャーK.G.クニースなどは旧歴史学派,歴史的・記述的な細目研究を重視するG.シュモラーなどは新歴史学派と呼ばれる。そして《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》で有名なM.ウェーバーの理念型や価値自由性などの方法論的研究は,歴史学派の自己批判であったといえる。

 ドイツにおける歴史学派に対応するものが,アメリカにおける制度学派である。《有閑階級の理論》(1899)のT.B.ベブレン,《集団行動の経済学》のJ.R.コモンズ,景気循環の測定のW.ミッチェルなどのほか,現代のJ.K.ガルブレースもこの学派に属するといえよう。制度学派の経済学の傾向は,古典派経済学の原子論的社会観を排して,行動主義心理学に基づき,社会的制度と人々の行動との間の相互作用を進化の過程として把握することにある。そして,近代産業技術と近代資本主義の企業制度の間の矛盾を重視し,経済活動の社会的統制により経済的福祉を向上させようとする改良主義的立場であるといえよう。

 しかし,古典派経済学に対する最大の批判者はK.マルクスであった。マルクス主義の三つの源泉は,ドイツ古典哲学,イギリス古典派経済学,そしてフランス社会主義であったといわれる。すなわち,古典派経済学の労働価値説を発展させ,資本主義経済における等価交換を通じての搾取の存在を明らかにする。しかし,古典派経済学が資本主義経済を絶対視し永続的なものとしていたのを批判し,ヘーゲルの精神史観を逆立ちさせた唯物史観(史的唯物論)に基づき,資本主義生産様式が歴史的・過渡的なものにすぎないことを主張する。そして,空想的社会主義とは異なり,社会科学に基礎づけられた科学的社会主義を提唱する。マルクスの主著《資本論》の第1巻(1867)は資本の生産過程を扱い,労働力という商品の特殊な性格から剰余価値が発生し搾取されることを明らかにする。資本の流通過程を対象とする第2巻(1885)は,マルクスの死後にエンゲルスにより公刊されたが,資本の回転,再生産表式などを論ずる。同じくエンゲルスにより出版された第3巻(1894)は資本主義的生産の総過程を扱うもので,利潤率の傾向的低下の法則,価値から生産価格への転化問題,市場価値論,商業資本論,信用論,地代論などが論じられ,搾取された剰余価値がさまざまな資本家や地主などの間で再分配される過程が明らかにされる。しかし,マルクスが構想した経済学体系は,(1)資本(資本一般,競争,信用,株式資本),(2)土地所有,(3)賃労働,(4)国家,(5)外国貿易,(6)世界市場,からなるといわれ,《資本論》はその資本一般の部分に当たると考えてよいようである。要するに《資本論》は,マルクス経済学のごく原理的な部分であるといえる。さらに,《資本論》の第4巻に当たる《剰余価値学説史》は,古典派経済学にいたるまでのマルクス自身の批判的な経済学説史にほかならない。

 マルクス以後のマルクス経済学は,《金融資本論》(1910)の著者R.ヒルファディング,《資本蓄積論》(1913)の著者R.ルクセンブルク,《帝国主義論》(1917)の著者レーニン,そして宇野弘蔵などの手により展開されていく。また,L.ボルトキエビチ,柴田敬などを先行者として,置塩信雄,森嶋通夫などにより,マルクス経済理論の数学的構造が明らかにされ,ある意味で近代経済学の立場からのマルクス経済学への接近が容易になった。そのような試みにより,転化問題,利潤率の傾向的低下の法則などが批判的に解明されたのである。

近代経済学なる用語は日本における造語であるが,若干の先行者を別にすれば,古典派経済学に対して,《経済学の理論》(1871)の著者W.S.ジェボンズ,《国民経済学原理》(1871)の著者C.メンガー,そして《純粋経済学要論》(1874-77)の著者L.ワルラスの3人が,新しい経済学を体系的に展開したいわゆる限界革命が,近代経済学の始まりであるといえる。限界革命と呼ばれるのは,この3人がイギリスのマンチェスターオーストリアのウィーン,そしてスイスのローザンヌにおいて,独立に,ほぼ同時に,限界効用,さらには限界生産力などの限界概念を駆使した経済理論を樹立したからにほかならない。しかし3人の間の相違点も重要である。

 ワルラスにとっては,古典派の費用価値説に対して限界効用理論を主張することよりも,古典派が経済諸量間の因果関係を追求したのに対して,相互依存関係を重視する一般均衡理論を展開することが重要であった。ローザンヌにおけるワルラスの後継者はV.パレートであったが,その後,一般均衡理論は他の学派の業績をたくみに吸収し,総合して発展したので,新古典派と呼ばれる現代の近代経済学の主流の共有財産となっているのである。

 メンガーとその後継者たちのオーストリア学派にとっては,ワルラスの場合と異なり,効用価値説の意義は大きい。費用とは失われた効用であると考える機会費用の概念が説かれ,生産要素の価値はそれから生産される消費財の効用に基づく価値が帰属すると考えられた。またワルラスと異なり,メンガーは不完全な市場に関心をもち,商品の販売力,貨幣の販売力を考察した。メンガーの後継者の一人,ベーム・バウェルクは《資本の積極理論》(1889)で利子の三原因を説き迂回生産の重要性を強調したが,その資本理論はK.ウィクセルによって一般均衡理論に導入される。メンガーのもう一人の後継者F.ウィーザーは,価格の厚生経済学的意味を明らかにし,先駆的な社会主義経済理論を展開している。

 限界革命をになう3人のなかで,古典派経済学と最もはげしく対決したのはジェボンズであった。彼は学派を形成せず孤立した存在であったといわれるが,その問題意識はある意味でF.Y.エッジワースの《数理心理学》(1881)にひきつがれ,現代の一般均衡理論につながっている。

 古典派経済学以後のイギリスの経済学を支配したのは,《経済学原理》(1890)の著者A.マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは,古典派経済学を否定するのではなく一般化するかたちで,効用と費用,需要と供給ははさみの二つの刃のように重要であると論じた。また,短期,長期などの需給均衡の時間的構造に関するその構想は,J.R.ヒックスの《価値と資本》(1939)により一般均衡理論に導入された。もともと新古典派(新古典派経済学)という名称は,最近のように一般均衡理論を中心とする現代経済学の主流を指すのではなく,ケンブリッジ学派の別名であったが,そこでA.C.ピグーの《厚生経済学》(1920),J.ロビンソンの《不完全競争の経済学》(1933)などが生まれた。しかしマーシャル以後のケンブリッジ学派における最大のトピックは,その自己批判の書であるJ.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》(1936)の出現である。市場機構の自動的調整により有効需要の不足は解消し,完全雇用が実現するという古典派から新古典派へ続くパラダイムに対して,それを否定する重商主義,マルサス以来のパラダイムがケインズの有効需要の原理という新しい周辺部分を得て強力に復活したのがケインズ革命である。労働をはじめ諸資源の総雇用量が必ずしも完全雇用ではない水準にどのようにして決定されるのかを論ずるマクロ経済学理論がその核心であった。

 一方,アメリカにおける近代経済学の先駆者はI.フィッシャーで,その《貨幣の購買力》(1911)は貨幣数量説を有名なフィッシャーの交換方程式に定式化している。古典派経済学の重商主義批判の一つは貨幣数量説による正貨流出入メカニズム論,すなわち貿易収支均衡論であった。また,ケインズ革命の一つの重要な側面は利子の流動性選好説による貨幣数量説批判であった。すなわち,古典派,新古典派のパラダイムの中心的部分の一つは貨幣数量説である。最近のアメリカにおける反ケインズ革命,M.フリードマンを中心とするマネタリズムは貨幣数量説の最新版である(新貨幣数量説ともいう)が,ケインズ以前の貨幣数量説と比べると雇用量の変動を説明する新しい理論がつけ加えられているので,古典派,新古典派のパラダイムの復活が可能になったのである。
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資本主義経済の運動原理ならびに現実的発展と現状を,その歴史性とあわせて体系的に解明しようとするところに,マルクス経済学の特質がある。その基礎はK.マルクスの《資本論》によって理論的にほぼ確立された。もともと,経済学が独立の学問として発達を開始するのは,15世紀末の大航海時代に続く世界商業の拡大にともない,西ヨーロッパ諸社会に商品経済が支配力を増し,やがてその中枢に資本主義的生産が生成する過程においてであった。商品経済とそれに基づく資本主義的生産の発展過程では,中世までの諸社会と異なり,宗教や政治権力の支配に対し,私的な商品取引による経済過程が相対的に独立の運動を展開し,しかもかなり複雑な運動機構を形成する。そのため,その仕組みが独自の学問分野の課題とされ,しだいに深く考究されていったのである。しかし,経済学はその発達の過程で,みずからの考察対象をなす資本主義的商品経済の特殊な歴史性を容易に明確にしえず,むしろこれをしばしば自然的自由の秩序とみなしてきたのであって,その誤認を理論的に克服したところにマルクスによる経済学の発展の土台が築かれたのであった。

 すなわち,マルクスに先だつ古典派経済学は,産業革命による資本主義的生産の確立と発展を予定し,重商主義の学説に反対し,社会の富は商品取引における売買差額からではなく,年々の労働の成果から生ずるのであり,その増進のためには人為的な保護貿易は有害で自由放任が最善であると主張していた。そしてその論拠として,近代社会の三大階級の経済的基礎をなす労賃,利潤,地代が,自由な商品経済を通じ年々形成され分配される原理に立ちいった考察をすすめていた。そのさい,一つの有力な理論的武器とされたのが労働価値説であった。しかし資本主義経済を自然的秩序とみなしていたかぎりで,労働価値説は剰余価値源泉や利潤率均等化の原理を正確に解明しえず,また恐慌や不況に示されるような資本主義経済の内的矛盾にも考察をすすめえなかった。

 そこでリカードを頂点として古典派経済学がゆきづまると,経済学の原理的体系一般を拒否する歴史学派や,あるいは古典派と同じく市場経済を自然的秩序とみなしながら労働価値説は放棄して心理的選好に基づく限界原理による近代経済学の価格理論が展開されるにいたる。これらに対し,マルクスの経済学は,労働価値説とその成果を全面的に吸収しつつ,資本主義の歴史性を解明する理論にこれを組みかえて古典派の限界を突破し,価値形態論,剰余価値論,蓄積論,再生産表式論,生産価格論,信用論,恐慌論などを開発し統合して,社会科学としての経済学の原理を体系的に構成するものとなった。

その後,マルクス経済学は,《資本論》の理論体系に残された問題点の究明をめぐる原理的考察と,その理論体系によってマルクス以後の資本主義の発展をどのように解明しうるかをめぐる検討との2面に,事実上大きく分かれて発展してきている。後者の面では修正主義論争と帝国主義論の形成が重要な意義をもっている。

 すなわち,マルクスが1883年に,ついでその緊密な協力者F.エンゲルスが95年に亡くなると,その有力な後継者の一人とみられていたE.ベルンシュタインが,マルクスの学説,とりわけ資本家と労働者とへの社会の両極分解と労働者の〈窮乏化〉の理論(窮乏化説)は,19世紀末以降の資本主義の新たな発展にそぐわなくなっていると主張し,ドイツ社会民主党にマルクス主義から改良主義への修正を要求した。これに対しK.カウツキーは,当時の正統派を代表して反論を加え,たとえば大量に残存している農民層も事実上プロレタリア化していることなどをあげ,マルクスの学説の妥当性を擁護しようとした。しかしこの論争では,資本主義の新たな発展の様相を《資本論》によってどのように解明するかは未解決であった。この問題に事実上の解決を与えたのが,R.ヒルファディングの《金融資本論》(1910)と,ことにレーニンの《帝国主義論》(1917)であった。そこでは,《資本論》の原理的規定を考察基準としながら,新たな支配的資本としての金融資本の形成展開が,主要諸国の産業と金融の現実的発展に即して解明され,さらにそれにともなう世界の経済的・政治的分割から帝国主義世界戦争にいたる必然性が明らかにされている。マルクス経済学は,それによって《資本論》のような抽象的な基礎理論に対し,より具体的な研究次元における資本主義の発展段階論として,国家の役割や世界市場編成の動態を明らかにしうる研究領域を開拓したのであった。

 他方,基礎理論の領域では,たとえば価値論において,限界効用学派ベーム・バウェルクヒルファディングとの間に古典的論争がみられた。すなわち,ベーム・バウェルクが《資本論》第1巻冒頭の労働価値説は論証されていないし,第3巻の生産価格論とも矛盾していると批判したのに対し,ヒルファディングは,マルクスの労働価値説は唯物史観によって理解されるべきであり,単純商品生産から資本主義的生産への歴史的発展を論理化したものとみれば,生産価格論への展開にも矛盾はないと反論した。ヒルファディングのこうした歴史・論理説はその後ながくマルクス学派の正統的価値論の展開とみられてきたが,《資本論》の理論構成の解釈としても,さらには資本主義に先だち無階級の単純商品生産社会を想定する点でも,疑問の余地を残すものであった。

日本には,明治維新以降まず古典派経済学が,ついでドイツの歴史学派とくに社会政策学派の学説が輸入されたのち,第1次大戦後マルクス経済学が本格的に導入された。そのさい,小泉信三らがベームによってマルクス価値論を批判し,それに応戦するマルクス派の試みを通じて価値論研究が深められていく。その一応の到達点はヒルファディングと同様の論点によった櫛田民蔵らの歴史的・論理的展開説であった。非マルクス学派との論争は地代論にも波及し,そのほか貨幣論,再生産論,恐慌論などにもマルクス学派の理論研究がすすめられつつあった。

 それとともに,《資本論》の経済理論に基づき,日本資本主義の歴史的特性をどのように明らかにすべきかをめぐり,マルクス学派の内部に大規模な日本資本主義論争が展開される。そのなかで,野呂栄太郎山田盛太郎羽仁五郎らの講座派(封建派)は,コミンテルンの指示による日本共産党の二段階革命路線を支持し,明治維新後の日本の農村にも封建的地主制が存続しており,これと都市のブルジョアジーとの双方に支えられた絶対主義的天皇制の変革をともなうブルジョア民主主義革命が,社会主義革命に先だってまず行われなければならないと主張していた。これに対し,山川均荒畑寒村,向坂逸郎らの労農派は,明治維新がすでにブルジョア革命であり,その後の日本社会は資本主義の発展に規定されており,農民もますます賃金労働者に転化しつつあるとみて,一段階革命路線を支持したのであった。この論争は,1930年代後半の軍国主義化のなかで両派ともに弾圧されて終息する。

 第2次大戦後の日本の学界と論壇には,他の資本主義諸国にはみられないほど広範にマルクス経済学が復活し,戦前の研究をひきつぎ発展させる。なかでも宇野弘蔵とその後継者たちから成る宇野学派は,経済学の研究全体を原理論,資本主義の発展段階論,および現状分析の三つの次元に体系的に区分する三段階論の方法を立て,それによって講座派と労農派との対立の限界を克服しようとした。たとえば日本の農業問題も,《資本論》のような原理論と直接対比するのでは不十分で,帝国主義段階のドイツ農業問題をも参照基準とすることにより,はじめて正確で現実的な分析が可能になると考えられる。それとともに宇野は,《資本論》を経済学の原理論の位置において純化整備する作業をすすめた。たとえば労働価値説は,宇野によれば,原理論冒頭の商品論においてではなく,資本の生産過程の論理に即して論証すべきであり,それに先だつ商品,貨幣,資本の諸形態は純粋の流通形態論として労働実体に言及することなく展開されてよい。それは,ベーム以来の価値論論争に一定の解決を与えたものといえよう。他方,置塩信雄は,戦前の柴田敬の考察などを発展させ,近代経済学にも通ずる数理的手法によってマルクス経済学の論理構造の一面を解明し,同様の手法によりながら労働価値説に批判的な森嶋通夫の考究とあわせて,欧米マルクス学派の再生運動にも重要な刺激を与えている。

ソ連圏のマルクス経済学がスターリン化現象のなかで教条主義化をまぬかれず,ナチスの制圧によってドイツ文化圏のマルクス経済学も根絶されて以来,戦後の欧米の学界はながらく近代経済学の圧倒的支配下におかれていた。イギリスのM.ドッブやR.ミーク,アメリカのP.スウィージーといったすぐれたマルクス経済学者は例外的で,孤立的な点在にとどまっていた。しかしP.スラッファの《商品による商品の生産》(1960)に始まる新リカード学派の台頭による新古典派理論の威信の低下,南の諸国の急進的革命運動に理論的基礎を与えようとするA.G.フランクやS.アミンらの新従属学派(従属論)の登場,さらに社会思想や政治運動の内部に広がる欧米のマルクス・ルネサンスの波などを介して,1970年代以降欧米にマルクス経済学の再生運動が広がり,かなりの数のマルクス経済学者の層が形成され定着してきている。

 その基礎理論における関心は,まず転化問題から価値論にむけられた。かつてスウィージーが《資本主義発展の理論》(1942)において,20世紀初頭のL.ボルトキエビチにより,マルクスによる価値の生産価格への転化手続の数理的不備を補強する試みを示し,1950年代にかけてその当否をめぐり欧米に一連の論争が行われていた。70年代に入ると,P.サミュエルソンのような近代経済学正統派の理論家やI.スティードマンのような新リカード学派の論客から,この論争問題を手がかりにマルクス労働価値説自体への攻撃が加えられ,それに応戦しながら欧米マルクス学派の価値論研究が深められつつある。そこには,価値形態論を重視する日本の宇野学派からの貢献も十分に生かされてよい余地がある。

 さらに,マルクスの恐慌論に整理検討を加えながら,これに依拠して1973年以降の長期世界不況に分析をすすめる試みや,資本主義国家の本質および役割,あるいは資本のもとでの労働過程における労働者の疎外と管理についての理論的・実証的研究なども活発に行われている。また,東欧改革派の提言やポーランド連帯労組の運動などに告発されている現存社会主義の問題状況についても,ソ連型正統派マルクス理論による説明に対立しつつ,マルクスが目指していたと考えられる社会主義の思想と理論に立ちもどり,より批判的に検討をすすめる試みが,さまざまな角度からすすめられつつある。日本のマルクス経済学も,従来の研究の蓄積を生かしながら,欧米マルクス学派のこうした再生発展の動向と交流を深め,新たな展開を図るべき時期にある。
経済学 →資本論 →マルクス経済学
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「経済学説史」の意味・わかりやすい解説

経済学説史
けいざいがくせつし

経済学の理論、概念、分析方法が、経済社会の発展とともにどのように変化してきたかを研究する学問。経済学はもともと16世紀以後ヨーロッパで広く行き渡った社会・経済の構造変化、具体的には、市場経済の発達の過程で、その法則性を明らかにするために、当時の哲学と倫理学から独立して生まれた学問である。したがって経済学の理論は、自然科学と異なり、経済学者の哲学的・思想的根拠が重要な役割を果たしてきた。この意味で経済学説史の研究は、経済思想史の研究と密接な関連をもっている。

 しかも指導的な経済学者は、つねにその時代のもっとも重要な経済問題に従って研究の主題を定め、核心となる経済理論(パラダイム)を築いてきた。しかし、時代とともに経済・社会・政治機構が変化すると、経済問題の内容も変化し、古い理論や概念は新しい変化に対応できなくなり、経済学者の考え方や政策論も変化して新しい経済理論が登場する。この意味から経済理論と経済政策は切り離せない関係にある。しかし、経済学の場合、自然科学のように、以前の理論が完全に消滅して他のまったく新しい理論や考え方にとってかえられることはけっしてない。むしろ、時代遅れになった理論が事実に照らして誤りであることが実証されたとしても、経済学者のビジョン、つまり分析以前の認識行為なり社会観は保持されながら、その周辺部分の細部を改善することによって復活する可能性もある。このような復活を促進し、現代経済学の地平を切り開くために資することに、過去の経済学説を学ぶ意義があるといえる。

[玉井龍象]

古典派以前――重商主義と重農主義

経済学の歴史的源泉の一つは、アリストテレスの時代の「オイコス・ノモス」(家計経営術)にさかのぼることができる。これを受け継いだものが、中世における代表的な経済思想家T・アクィナスが展開した公正価格論である。それは、自由な市場経済が存在しなかった時代にあって、どのような価格で商品が売買されるべきかを論ずる規範的な哲学の一種であった。しかし、直接的な源泉は、15世紀末葉から18世紀中葉に至る資本主義発展の初期段階において、経済問題に関する思想学説の総称であった重商主義である。この時代にはヨーロッパ絶対主義諸国家の経済政策をめぐり、多くの議論ないし論争のたぐいの文献が存在した。しかし、当時はまだ専門の経済学者や体系的な経済理論は存在しなかった。ただし、これらのなかのある種の文献にはほぼ共通した問題意識ないし経済思想的見地が存在しなかったわけではない。すなわち、15世紀になって神聖ローマ帝国とローマ・カトリック教会という国際的権威が崩壊し、新たに成立した多数の国民国家が、富国強兵政策として国家管理主義的諸手段による産業・貿易の保護と、金銀の獲得を目ざした点で、重商主義の教説は一致していた。このような国家管理主義的な自国産業保護政策は、その後19世紀にはドイツで、1930年代にはすべての資本主義諸国でとられ、また今日の貿易摩擦問題にもみられる。事実、J・M・ケインズは、有効需要を確保する政策として重商主義の意義を高く評価している。

 17世紀後半になると、商人層を中心に、重商主義の貿易差額説を批判し、貿易の規制に反対する自由貿易論が現れ、18世紀に入ってふたたび保護主義的貿易差額説が製造業者および地主層を中心に復活したが、市場機構の発展に伴い、自由貿易への学説上の前進と直接的なかかわりなしに、重商主義は徐々に崩壊の過程をたどった。

 断片的な諸学説にすぎなかった重商主義に対し、最初の体系的な経済理論がフランスの重農主義から生まれた。重農主義は、現実の背後にある自然秩序に関する理論に基づいて経済現象を説明した。F・ケネーの『経済表』(1758)は、経済循環に関する最初の静学的モデルであり、外国貿易ではなく国内市場における自由放任政策を主張した。しかし、重農主義においては農業余剰のみが経済成長の唯一の根源と考えられており、産業革命以前の分析概念が用いられ、前貸しとしての資本の概念は確立されていたが、恒常的所得としての利潤の概念は存在しなかった。

[玉井龍象]

古典派経済学

古典派経済学の創始者は、『国富論』(1776)の著者A・スミスである。スミスは本来道徳哲学者であり、その経済学は、自然神学、倫理学、法学、行政論からなる彼の道徳哲学のうち、他の部門とは異なる特色をもつ社会的分野として経済の世界を取り出して、この世界の諸現象を詳細に分析したものである。それは歴史上、最初の統一的な社会経済モデルであり、当時の社会変化、つまり資本主義社会の発展状況によく適合する形で、基本的な経済問題を定式化することに成功した。また彼は、重農主義者と同じく自然法思想により自由放任政策を提唱し、重商主義を批判した。私利の追求が価格機構の見えざる手に導かれて公共の利益を促進するというものである。

 スミスは同時に、農業部門が経済の唯一の生産的部門であるという重農主義をも批判し、工業部門における分業によって生ずる労働生産物の増加と利潤の貯蓄による資本蓄積が経済成長の原動力であることを明らかにした。このように、スミスが生産と分配を含む経済世界の全体的関連を解明し、競争的世界の分析により自由経済の政策原理を初めて首尾一貫した形で提示した点に『国富論』の学説史的意義がある。したがって、スミス理論のおもな貢献は、価値=価格、分配、経済成長の3点に求められる。

 スミスは、商品の価値はそれでもって購入しうる労働の数量(支配労働)に等しく、いっさいの商品の交換価値の尺度は労働であると主張した。しかし、生産に必要な投下労働量が交換価値の尺度となりうるのは、土地所有と資本蓄積のない未開社会にのみ適合するにすぎないとした。土地所有と資本蓄積のある分業的商業社会では、長期的な需要と供給の均衡により、賃金・利潤・地代の自然率の和として商品の自然価格(長期費用価格=生産費)が決定されるとした。ただしスミスは、固定資本と流動資本との関係に関する理論的分析にまで進むことはできず、また、地代について統一的な理論を提示していない。

 これに対し、スミスの経済学を継承した『経済学および課税の原理』(1817)の著者D・リカードは、よりいっそうの抽象化と演繹(えんえき)的方法に基づいて、投下労働価値説を主張し、商品の交換比率は需要から独立であるとし、これを基礎に競争経済における再生産可能な商品の長期的相対価格の一般理論をつくりあげた。そして古典派の完成者といわれるJ・S・ミルは、需要供給説を基礎にしながらも、労働移動のない国際貿易を除いた封鎖体系では、需要と無関係に商品の交換比率が決まる場合が多いことを認めた。リカードの考え方は、スラッファPiero Sraffa(1898―1983)を中心とする現代の新リカード学派の経済学に受け継がれている。

 一方、リカードと同時代に活躍し、『人口論』(1798)、『経済学原理』(1820)の著者であるT・R・マルサスは、労働価値説を批判し、生産費は従属的にしか商品の価値に関係しないとする価値の需給説を主張した。マルサスの主張はのちにケインズの有効需要論によって再評価されることになる。

 産業革命の本格的展開期を迎えた19世紀初頭のイギリスにおける最大の経済問題の一つは、穀物法改正問題であった。1815年に、外国穀物の輸入制限強化を求める地主・農業者の請願により、穀物法改正案が下院で可決された。産業資本家と一般民衆はそれが穀物価格上昇につながるとして反対を唱えた。この問題をめぐり、リカードは後者の立場を代表し、一方、マルサスは国内農業保護の立場から輸入制限に賛成した。リカードの理論的根拠は、穀物価格上昇の結果、賃金支払い増加により利潤が下落し、経済成長が停滞するというものである。その基礎には賃金の生存費説とマルサスの人口論がある。

 また、リカードの差額地代論は、もともと1815年にマルサス、ウェストSir Edward West(1782―1828)、トレンズRobert Torrens(1780―1864)によって提唱された理論と基本的に同一であるが、スミスによって指摘されなかったという点で新しい理論であった。人口が増え、資本が蓄積されるにしたがって新しい土地が使われるようになるが、もっとも生産性の低い土地(限界的土地)では生産費をかろうじて補うことができるにすぎず、地代を支払うことができない。一方、生産性の高い土地では余剰が生み出され、地代が支払われる。そこで地代は、限界的土地に必要な資本と労働によって決まる基本的生産費を超える余剰額に等しくなる。こうして長期の傾向として、国民所得のなかで地代は増加するが、賃金支払い総額は生存費説に基づいて不変であるから、残余の利潤は低下し、ゼロ近傍にまで到達すれば資本蓄積は停止し、社会の進歩も止まる。リカードによれば、これらのコースは経済の自然的運行によって生ずる不可避のものであると考えられる。穀物法改正は人為的にこれらのコースを早めるものとして糾弾される。以上がリカード経済学における動学的過程の価格論、分配論の骨格である。

 経済学は、イギリスでは1830年ごろまでには比較的確立された科学として認められるようになり、J・S・ミルの『経済学原理』(1848)は、リカードの方法論をよりいっそう包括的に説明した教科書として、1890年にA・マーシャルの『経済学原理』が出版されるまでの半世紀間、権威ある入門書の役割を果たした。しかし、社会全体の利潤がゼロになる状態(定常状態)をリカードは望ましくないと考えていたが、ミルは、この状態以後、人類は経済問題以外の精神的・文化的ならびに道徳的進歩が広まるだろうという明るい展望を抱いた。土地を資源や環境を含め広く解すれば、古典派の考え方は、最近の1960年代におけるローマ・クラブを中心とする成長の限界論にも連なっている。

[玉井龍象]

古典派批判の経済学

歴史学派

圧倒的な影響力を国際的にももつようになったイギリス古典派経済学に対して、後発資本主義国独自の事情を反映して種々の批判的見解が現れた。なかでも『経済学の国民的体系』(1841)の著者F・リストを先駆者とするドイツ歴史学派の経済学は、帰納的方法により個別的・特殊的な問題を重視し、民族の倫理的観点、経済発展の観点、有機的社会観に基づき、国家政策によって社会問題を解決しようとする立場から、古典派の自然法思想と抽象的・演繹的方法に基づく普遍妥当的な一般理論に対立した。この立場から歴史学派は、とくにリストの時代には、古典派の自由貿易主義を批判し、保護貿易を主張した。歴史学派のうち、19世紀前半に歴史哲学的方法を強調したW・ロッシャー、K・クニースらは旧歴史学派、また19世紀後半に経済史や社会政策の研究を重視したG・シュモラーやL・ブレンターノらは新歴史学派とよばれる。やがて1904年には、歴史学派内部からM・ウェーバーが学問の内容に主観的価値判断を持ち込むべきでないことを趣旨とする批判を提起したが、そのときには、歴史学派の改良主義的立場による社会政策も矛盾を露呈していた。とはいえ、歴史学派の伝統は、ドイツ国内ではウェーバー、W・ゾンバルトによって批判的に継承され、一方、イギリス、アメリカ、日本の経済学界にも大きな影響を与え、現在でも経済体制論や経済社会学のなかに生かされている。

[玉井龍象]

制度学派

ヨーロッパの経済学の輸入ではなく、独自の展開として、ドイツの歴史学派に対応するものに、アメリカの制度学派がある。『有閑階級の理論』(1899)のT・B・ベブレン、『集団行動の経済学』(1950)のJ・R・コモンズ、景気循環の実証研究のW・C・ミッチェルらのほか、現代のJ・K・ガルブレイスや内部組織の経済学もこの学派に属するといえる。制度学派の特徴は、行動主義心理学に基づき、近代企業制度などの社会制度を人々の経済行為の習慣化の累積的な進化の過程として把握することにある。

[玉井龍象]

マルクス経済学

古典派経済学に対する最大の批判者はカール・マルクスであった。マルクスは、ドイツの歴史哲学者ヘーゲルの弁証法を転倒させて史的唯物論の立場から、フランスの社会主義思想とイギリスの古典派経済学、とくにリカードの経済学原理を批判的に吸収することによって、資本主義体制の歴史的意義と次の体制への転換の必然性とを、『資本論』(第1巻・1867、第2巻・1885、第3巻・1894。第2巻および第3巻はエンゲルスの編集による)体系によって解明しようとした。マルクスは、リカードの投下労働価値説、利潤率低下の法則、技術的失業などの考えを受け入れ、剰余価値の唯一の源泉は生きた労働であるという剰余価値説を展開した。しかし、社会の生産物の価値と社会的剰余の量とが、生産過程で具体化された労働時間から発生するという彼の仮定は、反証可能な事実ではない。そこでマルクス以後、「転形問題」すなわち生産価格をどう実質価値(具体化された労働の価値)と関連づけるかという問題へのマルクスの説明に関連して膨大な量の文献が書かれ、近代経済学からもL・ボルトキエビッチらにより、マルクス理論の数学的構造が批判的に解明されるようになった。

 一方、マルクス以後のマルクス経済学は、『金融資本論』(1910)の著者R・ヒルファーディング、『資本蓄積論』(1913)の著者R・ルクセンブルク、『帝国主義論』の著者レーニン、M・ドッブ、P・M・スウィージーそして宇野弘蔵(こうぞう)らによって展開されていくが、最近における経済社会の大きな変化に対して、本来のマルクスのモデルは現実性のないモデルになった。

[玉井龍象]

限界革命と近代経済学

W・S・ジェボンズ『経済学の理論』(1871)、C・メンガー『国民経済学原理』(1871)、そしてM・E・L・ワルラス『純粋経済学要論』(1874~77)がイギリスのマンチェスター、オーストリアのウィーン、スイスのローザンヌで、ほぼ同時に、それぞれ独立して公刊された。これらはいずれも古典派経済学とは異なり、近代主義の立場から新しい分析方法である限界原理に基づく均衡分析を基盤にしているため、「限界革命」の発生、あるいは近代経済学の始まりといわれる。限界原理とは、経済活動の微小量の変化を分析すること(限界分析)により、希少な資源や競合する資源のもっとも効率的な配分の状態をみいだそうとする原理のことで、極大化原理または合理的選択の原理がその基本前提となる。したがって、このような市場均衡理論の立場は、古典派のように市場現象の背後にある価値の実体を探る哲学的思弁を捨て、社会構造および社会階級を与件とみなして市場分析の範囲外に置き、経済社会を個々の経済主体(家計、企業)の行動の分析と市場における需要と供給の整合性のメカニズムのうえにとらえるという立場である。しかし、以上の共通点にもかかわらず、3人の間には相違点もある。

 1860年代にはイギリス古典派経済学の理論的欠陥が露呈し、自由放任政策は時代の要求にこたえられなくなっていた。こうした経済学の危機に際してジェボンズは、J・ベンサムの効用(功利)理論に限界分析の手法を導入することによって、リカード‐ミル体系を批判し、新しい効用価値論を構成するとともに、時代の要請する新しい経済政策への道を開いた。すなわち、ジェボンズは、リカードのように賃金は労働の再生産費によって決定されるとするのではなく、地代や資本利子と同様にその生産的貢献(限界生産力)によって決定されることを定式化することにより、自由放任のドグマからその理論的基盤を取り除き、社会改革諸立法による経済への国家の介入政策を提案した。彼は早逝により学派を形成しなかったが、その問題意識は現代の一般均衡理論に連なるF・Y・エッジワースの『数学心理学』(1881)に引き継がれた。

 ローザンヌ学派の創始者ワルラスは、限界効用価値論を主張することよりも、古典派の自然法思想にかわって力学的方法により経済諸量間の相互依存関係を重視する一般均衡理論の展開に重点を置いた。ワルラスの後継者はV・パレートであり、一般均衡理論はその後他の学派をも吸収して、現代経済学の主流となっている。

 オーストリア学派の創始者メンガーは、3人のなかでは効用価値論をもっとも徹底的に追究した。すなわち、交換はいかなる快楽主義的仮定からも独立した「合理的経済人」の財に対する主観的価値評価の差異に基づいて行われ、生産手段の価値は消費財の効用価値が帰属すると考えた。メンガーはまた、ジェボンズやワルラスと異なり、不完全競争市場についても考察した。メンガーの後継者は、限界概念を彫琢(ちょうたく)し、帰属価値の考え方をいっそう明確にしたF・ウィーザー、『資本の積極理論』(1889)の著者ベーム・バベルクらである。とくに後者は迂回(うかい)生産概念に基づく資本および利子理論を発展させ、それはのちに北欧学派(ストックホルム学派)のK・ウィクセルの資本・利子論に吸収された。またベーム・バベルクの教えを受けたJ・A・シュンペーターは、その資本理論を批判的に摂取して動態的利子・資本理論を展開するとともに、ワルラスの一般均衡理論をも吸収して独自の経済学体系である『経済発展の理論』(1912)を著した。さらにオーストリア学派の流れは、L・E・フォン・ミーゼス、F・A・フォン・ハイエクらに受け継がれていく。

 古典派経済学以後のイギリス経済学を支配したのは、マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは需要面では限界効用価値論を、供給面では古典派の生産費説を取り入れて需要・供給による相対価格の決定理論を提示した。そこでケンブリッジ学派は新古典(学)派ともよばれる。しかし、今日ではこの名称は、むしろ一般均衡理論を中心とする現代経済学の主流をさすものとして用いられている。またマーシャルは、生活程度の向上を指標とする有機的成長の理論を樹立しようと努め、一般均衡論よりも部分均衡論をより現実的な理論と考え、さらに、外部経済、消費者余剰、弾力性など多数の分析用具を案出した。とくに短期・長期の需給均衡の時間的構造に関する彼の構想は、J・R・ヒックスの『価値と資本』(1939)により一般均衡理論に導入された。マーシャル以後ケンブリッジ学派は『厚生経済学』(1920)の著者A・C・ピグー、D・H・ロバートソン、J・M・ケインズ、J・V・ロビンソンらに引き継がれていく。

[玉井龍象]

ケインズ革命

ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)は、成熟期を迎えた資本主義諸国にとってもっとも広範で危急な経済問題であった慢性的失業問題に対し有効な処方箋(せん)を提供できなかった当時の正統派(新古典派)理論を根本的に批判し、価格よりも所得・支出分析の枠組みを定式化することによって、諸資源の不完全な雇用のもとで全体の経済活動水準がどのように決定されるかという新しいマクロ経済理論を提示したことで、経済思想上「ケインズ革命」とよばれる。ケインズ革命によって、古典派が批判した重商主義やマルサスの有効需要論が復活した。ケインズ理論はその後R・F・ハロッドにより長期動態化され、経済成長理論となり、また第二次世界大戦後の裁量的需要管理政策に対し理論的根拠を与えた。またケインズ革命の一つの重要な側面は、古典派および新古典派の貨幣数量説を批判し、利子の流動性選好説を展開したことであった。

[玉井龍象]

ケインズ以後

貨幣数量説は、20世紀に入ってからアメリカのI・フィッシャーによってその著作『貨幣の購買力』(1911)のなかで初めて明確に定式化されたが、1960年代後半以後、M・フリードマンを中心とするマネタリズム(新貨幣主義)によって復活した。それはケインズ以前の貨幣数量説とは異なり、雇用量の変動を説明する新しいマクロ経済理論を含包している。マネタリズムとともに、期待(予想)形成の合理性と連続的需給均衡を仮定する最近の合理的期待形成理論は、「新しい古典派マクロ経済学」とよばれているように、古典派、新古典派のパラダイムがふたたびよみがえりつつある。

[玉井龍象]

『E・ロール著、隅谷三喜男訳『経済学説史』全2巻(1951、1952・有斐閣)』『J・A・シュムペーター著、東畑精一訳『経済分析の歴史』全7巻(1955~1962・岩波書店)』『M・ブローグ著、久保芳和他訳『経済理論の歴史』全3巻(1966~1968・東洋経済新報社)』『K・マルクス著、岡崎次郎・時永淑訳『剰余価値学説史』全9冊(大月書店・国民文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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