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経済学説史 けいざいがくせつし

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世界大百科事典 第2版の解説

けいざいがくせつし【経済学説史】


経済学説史研究の意義】
 経済学の歴史を研究する必要性を考える場合,まず経済学もその一分野である実証科学はどのように発展していくものかを考える必要がある。教科書的な説明をすれば次のようになろう。たびたびおこる,あるいはいくつもおこる事象を説明するために,われわれは最も重要であると考える要因だけを考慮に入れて,つまり何が重要であるかについての仮定を立てたうえで,現実を簡単化した理論モデルをつくる。ミクロ経済学の例をとると,消費者の効用,所得,いろいろな財の価格,消費者のいろいろな財の需要量などの間に成立するいくつかの方程式の体系は,消費者の行動を説明するための理論モデルである。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

経済学説史
けいざいがくせつし

経済学の理論、概念、分析方法が、経済社会の発展とともにどのように変化してきたかを研究する学問。経済学はもともと16世紀以後ヨーロッパで広く行き渡った社会・経済の構造変化、具体的には、市場経済の発達の過程で、その法則性を明らかにするために、当時の哲学と倫理学から独立して生まれた学問である。したがって経済学の理論は、自然科学と異なり、経済学者の哲学的・思想的根拠が重要な役割を果たしてきた。この意味で経済学説史の研究は、経済思想史の研究と密接な関連をもっている。
 しかも指導的な経済学者は、つねにその時代のもっとも重要な経済問題に従って研究の主題を定め、核心となる経済理論(パラダイム)を築いてきた。しかし、時代とともに経済・社会・政治機構が変化すると、経済問題の内容も変化し、古い理論や概念は新しい変化に対応できなくなり、経済学者の考え方や政策論も変化して新しい経済理論が登場する。この意味から経済理論と経済政策は切り離せない関係にある。しかし、経済学の場合、自然科学のように、以前の理論が完全に消滅して他のまったく新しい理論や考え方にとってかえられることはけっしてない。むしろ、時代遅れになった理論が事実に照らして誤りであることが実証されたとしても、経済学者のビジョン、つまり分析以前の認識行為なり社会観は保持されながら、その周辺部分の細部を改善することによって復活する可能性もある。このような復活を促進し、現代経済学の地平を切り開くために資することに、過去の経済学説を学ぶ意義があるといえる。[玉井龍象]

古典派以前――重商主義と重農主義

経済学の歴史的源泉の一つは、アリストテレスの時代の「オイコス・ノモス」(家計経営術)にさかのぼることができる。これを受け継いだものが、中世における代表的な経済思想家T・アクィナスが展開した公正価格論である。それは、自由な市場経済が存在しなかった時代にあって、どのような価格で商品が売買されるべきかを論ずる規範的な哲学の一種であった。しかし、直接的な源泉は、15世紀末葉から18世紀中葉に至る資本主義発展の初期段階において、経済問題に関する思想学説の総称であった重商主義である。この時代にはヨーロッパ絶対主義諸国家の経済政策をめぐり、多くの議論ないし論争のたぐいの文献が存在した。しかし、当時はまだ専門の経済学者や体系的な経済理論は存在しなかった。ただし、これらのなかのある種の文献にはほぼ共通した問題意識ないし経済思想的見地が存在しなかったわけではない。すなわち、15世紀になって神聖ローマ帝国とローマ・カトリック教会という国際的権威が崩壊し、新たに成立した多数の国民国家が、富国強兵政策として国家管理主義的諸手段による産業・貿易の保護と、金銀の獲得を目ざした点で、重商主義の教説は一致していた。このような国家管理主義的な自国産業保護政策は、その後19世紀にはドイツで、1930年代にはすべての資本主義諸国でとられ、また今日の貿易摩擦問題にもみられる。事実、J・M・ケインズは、有効需要を確保する政策として重商主義の意義を高く評価している。
 17世紀後半になると、商人層を中心に、重商主義の貿易差額説を批判し、貿易の規制に反対する自由貿易論が現れ、18世紀に入ってふたたび保護主義的貿易差額説が製造業者および地主層を中心に復活したが、市場機構の発展に伴い、自由貿易への学説上の前進と直接的なかかわりなしに、重商主義は徐々に崩壊の過程をたどった。
 断片的な諸学説にすぎなかった重商主義に対し、最初の体系的な経済理論がフランスの重農主義から生まれた。重農主義は、現実の背後にある自然秩序に関する理論に基づいて経済現象を説明した。F・ケネーの『経済表』(1758)は、経済循環に関する最初の静学的モデルであり、外国貿易ではなく国内市場における自由放任政策を主張した。しかし、重農主義においては農業余剰のみが経済成長の唯一の根源と考えられており、産業革命以前の分析概念が用いられ、前貸しとしての資本の概念は確立されていたが、恒常的所得としての利潤の概念は存在しなかった。[玉井龍象]

古典派経済学

古典派経済学の創始者は、『国富論』(1776)の著者A・スミスである。スミスは本来道徳哲学者であり、その経済学は、自然神学、倫理学、法学、行政論からなる彼の道徳哲学のうち、他の部門とは異なる特色をもつ社会的分野として経済の世界を取り出して、この世界の諸現象を詳細に分析したものである。それは歴史上、最初の統一的な社会経済モデルであり、当時の社会変化、つまり資本主義社会の発展状況によく適合する形で、基本的な経済問題を定式化することに成功した。また彼は、重農主義者と同じく自然法思想により自由放任政策を提唱し、重商主義を批判した。私利の追求が価格機構の見えざる手に導かれて公共の利益を促進するというものである。
 スミスは同時に、農業部門が経済の唯一の生産的部門であるという重農主義をも批判し、工業部門における分業によって生ずる労働生産物の増加と利潤の貯蓄による資本蓄積が経済成長の原動力であることを明らかにした。このように、スミスが生産と分配を含む経済世界の全体的関連を解明し、競争的世界の分析により自由経済の政策原理を初めて首尾一貫した形で提示した点に『国富論』の学説史的意義がある。したがって、スミス理論のおもな貢献は、価値=価格、分配、経済成長の3点に求められる。
 スミスは、商品の価値はそれでもって購入しうる労働の数量(支配労働)に等しく、いっさいの商品の交換価値の尺度は労働であると主張した。しかし、生産に必要な投下労働量が交換価値の尺度となりうるのは、土地所有と資本蓄積のない未開社会にのみ適合するにすぎないとした。土地所有と資本蓄積のある分業的商業社会では、長期的な需要と供給の均衡により、賃金・利潤・地代の自然率の和として商品の自然価格(長期費用価格=生産費)が決定されるとした。ただしスミスは、固定資本と流動資本との関係に関する理論的分析にまで進むことはできず、また、地代について統一的な理論を提示していない。
 これに対し、スミスの経済学を継承した『経済学および課税の原理』(1817)の著者D・リカードは、よりいっそうの抽象化と演繹(えんえき)的方法に基づいて、投下労働価値説を主張し、商品の交換比率は需要から独立であるとし、これを基礎に競争経済における再生産可能な商品の長期的相対価格の一般理論をつくりあげた。そして古典派の完成者といわれるJ・S・ミルは、需要供給説を基礎にしながらも、労働移動のない国際貿易を除いた封鎖体系では、需要と無関係に商品の交換比率が決まる場合が多いことを認めた。リカードの考え方は、P・スラッファを中心とする現代の新リカード学派の経済学に受け継がれている。
 一方、リカードと同時代に活躍し、『人口論』(1798)、『経済学原理』(1820)の著者であるT・R・マルサスは、労働価値説を批判し、生産費は従属的にしか商品の価値に関係しないとする価値の需給説を主張した。マルサスの主張はのちにケインズの有効需要論によって再評価されることになる。
 産業革命の本格的展開期を迎えた19世紀初頭のイギリスにおける最大の経済問題の一つは、穀物法改正問題であった。1815年に、外国穀物の輸入制限強化を求める地主・農業者の請願により、穀物法改正案が下院で可決された。産業資本家と一般民衆はそれが穀物価格上昇につながるとして反対を唱えた。この問題をめぐり、リカードは後者の立場を代表し、一方、マルサスは国内農業保護の立場から輸入制限に賛成した。リカードの理論的根拠は、穀物価格上昇の結果、賃金支払い増加により利潤が下落し、経済成長が停滞するというものである。その基礎には賃金の生存費説とマルサスの人口論がある。
 また、リカードの差額地代論は、もともと1815年にマルサス、E・ウェスト、R・トレンズによって提唱された理論と基本的に同一であるが、スミスによって指摘されなかったという点で新しい理論であった。人口が増え、資本が蓄積されるにしたがって新しい土地が使われるようになるが、もっとも生産性の低い土地(限界的土地)では生産費をかろうじて補うことができるにすぎず、地代を支払うことができない。一方、生産性の高い土地では余剰が生み出され、地代が支払われる。そこで地代は、限界的土地に必要な資本と労働によって決まる基本的生産費を超える余剰額に等しくなる。こうして長期の傾向として、国民所得のなかで地代は増加するが、賃金支払い総額は生存費説に基づいて不変であるから、残余の利潤は低下し、ゼロ近傍にまで到達すれば資本蓄積は停止し、社会の進歩も止まる。リカードによれば、これらのコースは経済の自然的運行によって生ずる不可避のものであると考えられる。穀物法改正は人為的にこれらのコースを早めるものとして糾弾される。以上がリカード経済学における動学的過程の価格論、分配論の骨格である。
 経済学は、イギリスでは1830年ごろまでには比較的確立された科学として認められるようになり、J・S・ミルの『経済学原理』(1848)は、リカードの方法論をよりいっそう包括的に説明した教科書として、1890年にA・マーシャルの『経済学原理』が出版されるまでの半世紀間、権威ある入門書の役割を果たした。しかし、社会全体の利潤がゼロになる状態(定常状態)をリカードは望ましくないと考えていたが、ミルは、この状態以後、人類は経済問題以外の精神的・文化的ならびに道徳的進歩が広まるだろうという明るい展望を抱いた。土地を資源や環境を含め広く解すれば、古典派の考え方は、最近の1960年代におけるローマ・クラブを中心とする成長の限界論にも連なっている。[玉井龍象]

古典派批判の経済学


歴史学派
圧倒的な影響力を国際的にももつようになったイギリス古典派経済学に対して、後発資本主義国独自の事情を反映して種々の批判的見解が現れた。なかでも『経済学の国民的体系』(1841)の著者F・リストを先駆者とするドイツ歴史学派の経済学は、帰納的方法により個別的・特殊的な問題を重視し、民族の倫理的観点、経済発展の観点、有機的社会観に基づき、国家政策によって社会問題を解決しようとする立場から、古典派の自然法思想と抽象的・演繹的方法に基づく普遍妥当的な一般理論に対立した。この立場から歴史学派は、とくにリストの時代には、古典派の自由貿易主義を批判し、保護貿易を主張した。歴史学派のうち、19世紀前半に歴史哲学的方法を強調したW・ロッシャー、K・クニースらは旧歴史学派、また19世紀後半に経済史や社会政策の研究を重視したG・シュモラーやL・ブレンターノらは新歴史学派とよばれる。やがて1904年には、歴史学派内部からM・ウェーバーが学問の内容に主観的価値判断を持ち込むべきでないことを趣旨とする批判を提起したが、そのときには、歴史学派の改良主義的立場による社会政策も矛盾を露呈していた。とはいえ、歴史学派の伝統は、ドイツ国内ではウェーバー、W・ゾンバルトによって批判的に継承され、一方、イギリス、アメリカ、日本の経済学界にも大きな影響を与え、現在でも経済体制論や経済社会学のなかに生かされている。[玉井龍象]
制度学派
ヨーロッパの経済学の輸入ではなく、独自の展開として、ドイツの歴史学派に対応するものに、アメリカの制度学派がある。『有閑階級の理論』(1899)のT・B・ベブレン、『集団行動の経済学』(1950)のJ・R・コモンズ、景気循環の実証研究のW・C・ミッチェルらのほか、現代のJ・K・ガルブレイスや内部組織の経済学もこの学派に属するといえる。制度学派の特徴は、行動主義心理学に基づき、近代企業制度などの社会制度を人々の経済行為の習慣化の累積的な進化の過程として把握することにある。[玉井龍象]
マルクス経済学
古典派経済学に対する最大の批判者はカール・マルクスであった。マルクスは、ドイツの歴史哲学者ヘーゲルの弁証法を転倒させて史的唯物論の立場から、フランスの社会主義思想とイギリスの古典派経済学、とくにリカードの経済学原理を批判的に吸収することによって、資本主義体制の歴史的意義と次の体制への転換の必然性とを、『資本論』(第1巻・1867、第2巻・1885、第3巻・1894。第2巻および第3巻はエンゲルスの編集による)体系によって解明しようとした。マルクスは、リカードの投下労働価値説、利潤率低下の法則、技術的失業などの考えを受け入れ、剰余価値の唯一の源泉は生きた労働であるという剰余価値説を展開した。しかし、社会の生産物の価値と社会的剰余の量とが、生産過程で具体化された労働時間から発生するという彼の仮定は、反証可能な事実ではない。そこでマルクス以後、「転形問題」すなわち生産価格をどう実質価値(具体化された労働の価値)と関連づけるかという問題へのマルクスの説明に関連して膨大な量の文献が書かれ、近代経済学からもL・ボルトキエビッチらにより、マルクス理論の数学的構造が批判的に解明されるようになった。
 一方、マルクス以後のマルクス経済学は、『金融資本論』(1910)の著者R・ヒルファーディング、『資本蓄積論』(1913)の著者R・ルクセンブルク、『帝国主義論』の著者レーニン、M・ドッブ、P・M・スウィージーそして宇野弘蔵(こうぞう)らによって展開されていくが、最近における経済社会の大きな変化に対して、本来のマルクスのモデルは現実性のないモデルになった。[玉井龍象]

限界革命と近代経済学

W・S・ジェボンズ『経済学の理論』(1871)、C・メンガー『国民経済学原理』(1871)、そしてM・E・L・ワルラス『純粋経済学要論』(1874~77)がイギリスのマンチェスター、オーストリアのウィーン、スイスのローザンヌで、ほぼ同時に、それぞれ独立して公刊された。これらはいずれも古典派経済学とは異なり、近代主義の立場から新しい分析方法である限界原理に基づく均衡分析を基盤にしているため、「限界革命」の発生、あるいは近代経済学の始まりといわれる。限界原理とは、経済活動の微小量の変化を分析すること(限界分析)により、希少な資源や競合する資源のもっとも効率的な配分の状態をみいだそうとする原理のことで、極大化原理または合理的選択の原理がその基本前提となる。したがって、このような市場均衡理論の立場は、古典派のように市場現象の背後にある価値の実体を探る哲学的思弁を捨て、社会構造および社会階級を与件とみなして市場分析の範囲外に置き、経済社会を個々の経済主体(家計、企業)の行動の分析と市場における需要と供給の整合性のメカニズムのうえにとらえるという立場である。しかし、以上の共通点にもかかわらず、3人の間には相違点もある。
 1860年代にはイギリス古典派経済学の理論的欠陥が露呈し、自由放任政策は時代の要求にこたえられなくなっていた。こうした経済学の危機に際してジェボンズは、J・ベンサムの効用(功利)理論に限界分析の手法を導入することによって、リカード‐ミル体系を批判し、新しい効用価値論を構成するとともに、時代の要請する新しい経済政策への道を開いた。すなわち、ジェボンズは、リカードのように賃金は労働の再生産費によって決定されるとするのではなく、地代や資本利子と同様にその生産的貢献(限界生産力)によって決定されることを定式化することにより、自由放任のドグマからその理論的基盤を取り除き、社会改革諸立法による経済への国家の介入政策を提案した。彼は早逝により学派を形成しなかったが、その問題意識は現代の一般均衡理論に連なるF・Y・エッジワースの『数学心理学』(1881)に引き継がれた。
 ローザンヌ学派の創始者ワルラスは、限界効用価値論を主張することよりも、古典派の自然法思想にかわって力学的方法により経済諸量間の相互依存関係を重視する一般均衡理論の展開に重点を置いた。ワルラスの後継者はV・パレートであり、一般均衡理論はその後他の学派をも吸収して、現代経済学の主流となっている。
 オーストリア学派の創始者メンガーは、3人のなかでは効用価値論をもっとも徹底的に追究した。すなわち、交換はいかなる快楽主義的仮定からも独立した「合理的経済人」の財に対する主観的価値評価の差異に基づいて行われ、生産手段の価値は消費財の効用価値が帰属すると考えた。メンガーはまた、ジェボンズやワルラスと異なり、不完全競争市場についても考察した。メンガーの後継者は、限界概念を彫琢(ちょうたく)し、帰属価値の考え方をいっそう明確にしたF・ウィーザー、『資本の積極理論』(1889)の著者ベーム・バベルクらである。とくに後者は迂回(うかい)生産概念に基づく資本および利子理論を発展させ、それはのちに北欧学派(ストックホルム学派)のK・ウィクセルの資本・利子論に吸収された。またベーム・バベルクの教えを受けたJ・A・シュンペーターは、その資本理論を批判的に摂取して動態的利子・資本理論を展開するとともに、ワルラスの一般均衡理論をも吸収して独自の経済学体系である『経済発展の理論』(1912)を著した。さらにオーストリア学派の流れは、L・E・フォン・ミーゼス、F・A・フォン・ハイエクらに受け継がれていく。
 古典派経済学以後のイギリス経済学を支配したのは、マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは需要面では限界効用価値論を、供給面では古典派の生産費説を取り入れて需要・供給による相対価格の決定理論を提示した。そこでケンブリッジ学派は新古典(学)派ともよばれる。しかし、今日ではこの名称は、むしろ一般均衡理論を中心とする現代経済学の主流をさすものとして用いられている。またマーシャルは、生活程度の向上を指標とする有機的成長の理論を樹立しようと努め、一般均衡論よりも部分均衡論をより現実的な理論と考え、さらに、外部経済、消費者余剰、弾力性など多数の分析用具を案出した。とくに短期・長期の需給均衡の時間的構造に関する彼の構想は、J・R・ヒックスの『価値と資本』(1939)により一般均衡理論に導入された。マーシャル以後ケンブリッジ学派は『厚生経済学』(1920)の著者A・C・ピグー、D・H・ロバートソン、J・M・ケインズ、J・V・ロビンソンらに引き継がれていく。[玉井龍象]
ケインズ革命
ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)は、成熟期を迎えた資本主義諸国にとってもっとも広範で危急な経済問題であった慢性的失業問題に対し有効な処方箋(せん)を提供できなかった当時の正統派(新古典派)理論を根本的に批判し、価格よりも所得・支出分析の枠組みを定式化することによって、諸資源の不完全な雇用のもとで全体の経済活動水準がどのように決定されるかという新しいマクロ経済理論を提示したことで、経済思想上「ケインズ革命」とよばれる。ケインズ革命によって、古典派が批判した重商主義やマルサスの有効需要論が復活した。ケインズ理論はその後R・F・ハロッドにより長期動態化され、経済成長理論となり、また第二次世界大戦後の裁量的需要管理政策に対し理論的根拠を与えた。またケインズ革命の一つの重要な側面は、古典派および新古典派の貨幣数量説を批判し、利子の流動性選好説を展開したことであった。[玉井龍象]
ケインズ以後
貨幣数量説は、20世紀に入ってからアメリカのI・フィッシャーによってその著作『貨幣の購買力』(1911)のなかで初めて明確に定式化されたが、1960年代後半以後、M・フリードマンを中心とするマネタリズム(新貨幣主義)によって復活した。それはケインズ以前の貨幣数量説とは異なり、雇用量の変動を説明する新しいマクロ経済理論を含包している。マネタリズムとともに、期待(予想)形成の合理性と連続的需給均衡を仮定する最近の合理的期待形成理論は、「新しい古典派マクロ経済学」とよばれているように、古典派、新古典派のパラダイムがふたたびよみがえりつつある。[玉井龍象]
『J・A・シュムペーター著、東畑精一訳『経済分析の歴史』全7巻(1955~62・岩波書店) ▽K・マルクス著、岡崎次郎・時永淑訳『剰余価値学説史』全9冊(大月書店・国民文庫) ▽E・ロール著、隅谷三喜男訳『経済学説史』全2巻(1951、52・有斐閣) ▽M・ブローグ著、久保芳和他訳『経済理論の歴史』全3巻(1966~68・東洋経済新報社)』

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