洋菓子(読み)ようがし

精選版 日本国語大辞典 「洋菓子」の意味・読み・例文・類語

よう‐がし ヤウグヮシ【洋菓子】

〘名〙 和菓子に対して、西洋から渡来した菓子をいう。また、その製法によって作った菓子。チョコレート、カステラ、ビスケットシュークリーム、ケーキの類。西洋菓子。〔風俗画報‐二七五号(1903)〕

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デジタル大辞泉 「洋菓子」の意味・読み・例文・類語

よう‐がし〔ヤウグワシ〕【洋菓子】

西洋風の菓子。小麦粉・バター・牛乳・卵などを材料として作る。ケーキビスケットプディングシュークリームなど。西洋菓子。⇔和菓子
[類語]菓子和菓子茶菓子銘菓名菓粗菓茶請けお茶請けスナック菓子餅菓子駄菓子生菓子半生菓子蒸し菓子焼き菓子打ち菓子打ち物干菓子ひがし

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「洋菓子」の意味・わかりやすい解説

洋菓子
ようがし

西洋起源の菓子の総称で、日本古来の和菓子に対する語。ヨーロッパ各国によってその内容、発達の過程などが異なるが、種類はおよそ次の分野に大別することができる。

[熊崎賢三]

分類と特徴


(1)パティスリーpâtisserie 生(なま)・半生(はんなま)・干菓子、(2)コンフィズリーconfiserie 砂糖菓子、(3)ショコラトリーchocolaterie チョコレート菓子、(4)グラスリーglacerie 氷菓、アイスクリーム類であるが、(3)を(2)に含めることもある。さらに料理に伴う菓子として(5)アントルメentremets 料理菓子、デザート菓子もあげられる。

[熊崎賢三]

パティスリー

主として鶏卵、砂糖、小麦粉、油脂、アーモンドなどの堅果実、果実類を材料とした練り粉を焼き上げ、生クリーム、バタークリーム、カスタードクリーム、ジャムなどで仕上げる菓子。材料の配合法や加工技法の違いによって次のように分けられる。

〔1〕折りパイ菓子 水でこねた小麦粉の生地(きじ)でバターなどの油脂を包み込み、数回折り畳んでつくるもの。ミルフィユやリーフパイなど。

〔2〕イースト菓子 小麦粉その他の材料を練り合わせ、イースト菌の発酵によって膨張させる。パンとは配合内容の違いにより区別する。ブリオッシュやクーグロフなど。

〔3〕スポンジ菓子(ビスキュイ) 鶏卵と砂糖を泡立て、小麦粉、デンプン、油脂その他の副材料を加えてつくる菓子。各種のクリームやジャムなどを併用することが多い。ショートケーキなど。

〔4〕シュー菓子 沸騰させた水と油脂に小麦粉、鶏卵を加えて練り込み、オーブンで焼いて内部が空洞になるようにつくり、空洞部分にクリームなどを詰める。シュークリームやエクレアなど。焼き上げたシューを用いて大型のサントノーレ、クロカンブッシェなどもつくられる。

〔5〕ビスケット菓子 油脂、砂糖をよくすり合わせたものに鶏卵、牛乳、小麦粉を練り混ぜ、伸ばして型抜きする、あるいは冷やし固めて切り分けて焼くもの。クッキー類やサブレーなど。

〔6〕バターケーキ、フルーツケーキ 油脂と砂糖を混ぜて泡立て、鶏卵、小麦粉を加えて焼き上げる。スポンジ菓子とよく似ているが、油脂含有量がはるかに多く、技法も異なるのでいちおう区別される。パウンドケーキバウムクーヘン、プラムケーキなど。

〔7〕卵白を用いた菓子 砂糖と卵白を主材料に各種のナッツなどを加えてつくるもの。マカロン、メレンゲ、ジャポネなど。

[熊崎賢三]

コンフィズリー

砂糖、乳製品、ナッツ類、果物類を主材料とする菓子。〔1〕砂糖を主とするキャンディー、これに乳製品を加えたキャラメル、タフィー類、〔2〕砂糖とナッツ類を主とするクロカント、マジパン、ヌガー類、〔3〕砂糖と果物を主とするゼリー、ジャム、砂糖漬けなどに分けられる。今日では工業生産されるものが多い。

[熊崎賢三]

ショコラトリー

普通の板チョコから、プラリーネンとよばれる1個15グラムくらいの高価なチョコレート菓子までさまざまの種類がある。

[熊崎賢三]

グラスリー

アイスクリーム類は製法の違いにより二つに分けられる。一つはあらかじめ調合したミックスチュアを泡立てておき、型詰めしてから急速に凍結する静置凍結法によるもの、もう一つは専用の攪拌(かくはん)式凍結装置によって攪拌しながら泡立て、また凍結する攪拌凍結法によるもので、前者にはパルフェイ、ムースなどがあり、普通、アイスクリームとよばれるのは後者である。なお、アイスクリーム類はその乳脂含量その他の違いにより国によって呼称が異なる。

[熊崎賢三]

アントルメ

料理のあとの菓子として温冷2通りがある。温かいものにはプディング、スフレ、オムレツケーキ、クレープ、揚げ菓子などがあり、冷たいものにはゼリー、プディング、ババロアなどがある。グラスリー類も冷たいアントルメの一つといえよう。

 以上のほかにも、マジパン、粉砂糖を練り合わせたガムペースト、飴(あめ)などでつくられた工芸菓子の類もある。

 これらの洋菓子に共通した特徴は、材料として鶏卵、乳製品、油脂、ナッツ、果物を多用すること、空気と水分を菓子の中に十分に取り込むいわゆるエアレーションが行われていること、和菓子に比べて風味、香りを重んじること、味や形態が変化に富み、前述したようなさまざまな生地や種(たね)、クリーム類を自由に組み合わせていろいろな菓子を創作できること、などである。

[熊崎賢三]

歴史

洋菓子の歴史は、砂糖の出現以前と、砂糖の大量使用が可能となった時代以後とに大きく分けることができる。砂糖が広く普及して菓子などに大量に使用できるようになったのはそれほど遠い昔のことではなく、せいぜい15~16世紀ころからであり、それでも当初は非常に高価なため庶民がたやすく口にできるものではなかったが、近代菓子の祖ともいうべきものが、たとえばボーロやカステラのような形でこのころには姿を現している。砂糖以前の時代には、人類は甘味源をもっぱら蜂蜜(はちみつ)や果物、あるいは植物に求めており、菓子の起源は、人々がこうした甘味を利用して、単に生き延びるためだけではなく、食べる楽しみのため食物を調理加工するときにみいだすことができる。

 原始時代、人類にとっての菓子がなんであったかは想像する以外にはないが、干し柿(がき)や熟柿(じゅくし)、干しぶどうといった果物の加工品が人々の口を楽しませたはずであり、すでに穀物をつぶして粥(かゆ)や平焼きパン(フラーデンとかガレットとよばれるもの)をつくっていたから、これらに果実や酪を加え、蜂蜜(はちみつ)を混ぜて食べたり、果物に蜜を加えて食べることもあったであろう。

 古代エジプトでは紀元前10世紀ころには野生の酵母を利用した発酵パンが焼かれており、粘土を固めた素朴なものながら機構的には発達したオーブンもあったようである。パン生地にレーズンや蜂蜜を加え、巻いたり折り畳んだりした層状の組織のものもできていて、パンから菓子への分化がみられる。ラムセス3世の墳墓の壁画によれば、さまざまな形のパンや菓子が数十種以上もみられ、手のこんだ動物の形をした菓子もつくられており、これらは宗教的な供犠(くぎ)の儀式にも関係があるといわれている。

 古代ギリシア時代には、今日のプラム・プディングの祖型ともいえるトリヨン(イチジクの葉で包んで蒸したブドウ入りの菓子)、オリーブ油で揚げたエンクリスのほかに、蜂蜜を穀物粉でこね合わせたクッキー風の菓子もつくられており、これは中世から近世にかけてヨーロッパ菓子の主流をなした蜂蜜菓子(レープクーヘン、パン・デピス)につながる系統のものである。

 古代ローマ時代には製粉技術やオーブンの機構が大きく進歩し、職業としてのパン屋が現れ、オリーブ油、チーズ、蜂蜜、果実を使った菓子類が数多くつくられていた。アーモンドのような堅果実に蜂蜜を絡ませた一種のドラジェやリーブム、プラチェンタ(チーズケーキ)のほか、今日のパテやタルトにあたるトゥルトもつくられ、さらにローマ帝国末期になると食卓が豪華になるにつれて菓子にも手のこんだ工芸的なものが現れ、属国や植民地から取り寄せた果物を食事とともに食べる習わしとなり、デザートの分野が開かれるようになった。このころ砂糖の存在はかすかに知られていたが、実際に使用されることはまだなかったようである。

 砂糖は前4世紀にアレクサンドロス大王のインド遠征により発見されており、ペルシアを経て、のちの時代にはアラビア人により盛んにつくられていた。7~8世紀には当時の先進国であるアラビア人の世界では砂糖とナッツによる菓子が多くつくられており、エジプトのバザールなどでそれらを手に入れることができたという。ヨーロッパに砂糖がもたらされたのは10世紀ごろであり、ベネチアを通じてアラビアから輸入されていた。ベネチアには12世紀の初めごろ砂糖菓子屋がたくさんあったという。11世紀に始まる十字軍のエルサレム遠征によって、ヨーロッパ人は初めてアラブの先進文化に直接触れ、以後オリエントの進んだ技術、学問、文物をヨーロッパに流入させることになるが、砂糖もそのなかに含まれていた。十字軍のなかには遠征先のエルサレムやトリポリに定住してサトウキビの栽培を始め、砂糖の製造をする者もあったが、まだこの時代には広く普及するには至っていない。13世紀には地中海貿易によりアラビアでつくられた砂糖菓子がヨーロッパに伝えられていたが、それらは砂糖とともに薬種商によって医薬品同様に取り扱われていたようである。こうして中世ヨーロッパに砂糖はしだいに広がり、なかでもイタリアの都市国家を中心に、ナッツや砂糖を練ったマジパンやブラマンジェなどの菓子、コショウ、アニスなどのスパイスに砂糖をまぶしたコンフェクト(糖菓)などもつくられるようになったが、材料がいずれも高価なために、これらの菓子はまだ一握りの人たち、王侯や貴族、高位聖職者たちだけのものであった。この時代にごく一般的につくられていた菓子は豊富な蜂蜜を使ったレープクーヘンの類である。小麦やライ麦の粉を蜂蜜とこね合わせて長時間放置し、一種の乳酸発酵をさせたあと薄く伸ばして焼くもので、供物菓子、巡礼の土産(みやげ)菓子として広く普及していった。このレープクーヘンを焼く専門の職人も現れて、13世紀には同業組合(ギルド)を結成するに至っている。

 ローマ時代以来の伝統料理パテ(折り込みパイ生地を敷き込んだ型に肉や魚、野菜などの煮込みを詰めて焼くもの)は中世ヨーロッパでも盛んにつくられた料理で、13世紀のころフランスではパテ屋のギルドも存在していた。このパテ作りのなかから、アーモンドを詰めて焼いたトゥルト(タルト)や生菓子が生まれ、パテ屋を意味するパティスリーということばが菓子屋をさすようになったのもこの時代である。折りパイ生地は7~8世紀以来アラビア人により伝えられたとされるが、これを使った各種のパイ菓子やトゥルトはオーブンで焼かれるもののほかに、上蓋(ぶた)のある型を使って蓋の上におき火を置いて上下から熱を加える方法も行われた。

 このほか、ゆでる菓子(クネーデル)、油で揚げる菓子(ベーニェ)なども数多くあり、今日のシュークリームの皮と同じようなものを揚げた菓子はよく食べられていたようである。2枚の鉄板の間に種を挟んで焼くワッフルも中世に始まる菓子で、もともとはミサのときに用いる聖餅(ホスチア)として修道院で焼かれていたのがしだいに世間に広まったという。

 1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見以後、これまでの菓子の世界に新しい素材、チョコレートが加わることになった。フェルナン・コルテスの中南米征服行によりカカオがスペインにもたらされ、最初は飲み物として、のちに菓子の材料としてしだいにヨーロッパ全土に普及し、18~19世紀からはチョコレート菓子として独自の分野を確立するようになった。こうした新しい素材の登場と並んで、さらに近世ヨーロッパの菓子に大きな変化をもたらす条件が生じてきた。大国の植民地経営による砂糖の大量生産の開始である。カリブ海周辺、その他の地方におけるサトウキビ園の大規模な生産により、はるかに入手しやすくなった砂糖はヨーロッパで徐々に蜂蜜にかわる甘味源となり、菓子の性状や種類もそれに伴って飛躍的に発展するようになった。とくに17世紀以後、コーヒーや紅茶が日常的な飲み物として登場してくると、菓子も従来のようなスパイスのきいた堅い菓子より口あたりの柔らかなものが求められ、今日のスポンジケーキのような軽いふんわりとした菓子が生み出されるようになった。そうした菓子をつくるためには、砂糖の大量使用と、卵や油脂を十分に泡立てる技法の二つが前提となるが、このころには優れた菓子職人も輩出して、道具や技術も生み出されていった。こうして17~19世紀に至る長い時間を経て、現代の洋菓子の直接の祖ともいうべきクーグロフ、ビスキュイ(スポンジケーキ)、バターケーキ、ミルフィユ、シュークリーム、ババ、サバラン、チョコレート入りスペイン風トルテ、メレンゲなどがつくられていった。糖菓の発達も同時に著しく、マロングラッセ、ボンボン、ドラジェ、キャラメルなど多種類の菓子類がつくりだされて今日に至っている。19世紀になってビート糖がヨーロッパ内部で生産可能になったことも、これらの菓子の多様化と普及を一段と促したといえよう。

[熊崎賢三]

国別の特徴

ヨーロッパ各地の菓子は地方差や民族性、あるいは歴史的背景の違いから、前述した分類をすべて包含しながらも、国固有の菓子を育て発展させてきた。

 フランスの菓子は洋菓子の代表的存在であり、種類も豊富で料理との結び付きも優れ、日本も範として取り入れたところが大きい。ただしそれらはパリを中心とする貴族社会で育てられた洋菓子であり、地方色豊かな郷土菓子はそれぞれの地で伝えられており、いちおう中央の菓子と区別してみる必要がある。

 スイスの菓子は、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアなど周囲の国々の菓子が混然としているようにみえる。しかしチョコレート菓子に関しては優れた加工技術をもち、風土にも恵まれて世界一との定評がある。

 ドイツの菓子は、中央集権化されることのなかった国情を反映して地方分権的性格が強く、郷土菓子の集合体であるかのようにみえ、素朴な感じのものが多かった。しかし第二次世界大戦後の経済的発展により、急激に時代に適合した菓子がつくられつつあるのが現状である。

 かつてヨーロッパの中心に君臨し世界中の物資を集めえたイギリスは、世界各地のナッツや果物を用いてつくるプラムケーキを生み出している。また、イギリス人の生活と切り離せないティーとの関係から、ビスケット、スコーン、マフィンなどがいまも代表的な菓子とされるが、第二次世界大戦後は菓子界にも活気がみられず、他国に比べて見劣りする状態である。

 オーストリアはフランスと並ぶ菓子の国であるが、一種独特の雰囲気がありヨーロッパ菓子のなかでもユニークな存在である。フランスでは、美味の粋を集めて発展したパリの菓子のほかに地方土着の銘菓も数多くみられるのに対し、オーストリア菓子はすなわちウィーン菓子であり、みごとに中央集権化されて、全国どこへ行っても同じ菓子である。リンゴを使った有名なシュツルーデル、クレープの一種パラチンケン、温かいデザート菓子のノッケルン(スフレ)のほか、ドボストルテ、ザッハトルテ、マラコフトルテといったケーキ類がそれであり、現代の目で眺めると、ウィーン菓子はそのまま古きよき時代の名残(なごり)を色濃くとどめ、古風な雰囲気を保っている。味の点では甘味の強いのが特徴である。こうしたオーストリア菓子の雰囲気が何に起因するのか説明しがたいが、東ヨーロッパとの境界に位置するこの国の地理的・文化的・歴史的特異性が大きく影響していることを感じないではいられない。

[熊崎賢三]

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改訂新版 世界大百科事典 「洋菓子」の意味・わかりやすい解説

洋菓子 (ようがし)

西洋起源の菓子の総称であるが,近年ではハンドメード(手工業)的に作られる生菓子,半生,干菓子,チョコレート菓子などを,とくに〈洋菓子〉と呼ぶことが多い。したがって,機械的に量産されるビスケットやキャンディなどについては,商品分類上も洋菓子としては扱っていない。

 洋菓子は大きく分けると,生,半生,干菓子,さらにデザート菓子を含むパティスリーpâtisserie(フランス語。練り粉菓子,ケーキ),砂糖,果実,ナッツ,チョコレートなどを主原料とするコンフィズリーconfiserie(糖菓),凍らせた状態で食べるグラスリーglacerie(氷菓)の3分野がある。洋菓子の材料は和菓子にくらべ,鶏卵,バター,クリーム,果実,ナッツ,チョコレートなどと,ひじょうに変化に富んでおり,脂肪分,タンパク質の占める割合が高い。

果物やナッツを貯蔵し,保存するために,これらを天日で乾燥させたり,はちみつやアルコールに漬け込んでおく方法は,おそらくは有史以前から行われていた。このような方法で貯蔵された果物やナッツは,人類が初めて口にした菓子だといってよいが,それは同時にコンフィズリーの誕生でもあった。

 もう一つ菓子の起源として考えられるのは,すりつぶした穀物を粥や無発酵パン(パン)に加工する段階で,乾燥果実やはちみつ,あるいは乳・酪乳製品をこれに混入したものである。まだはっきりと菓子とはいえないが,パティスリーの祖先に当たる。約6000年前にメソポタミアですでにパンが焼かれていたといわれるが,約4000年前のエジプトでは菓子としての性格がよりはっきりしてくる。アッサイ渓谷の第13王朝期の墳墓からは,レーズンやはちみつ入りの菓子も発掘されているし,中には今日の折込みパイ(パイ)に似た層状のものもみられる。また,〈ウテン・ト〉と呼ばれるカタツムリの形をした揚げ菓子も作られていた。

 古代ギリシアでは,発酵は腐敗と同じ現象と考えられており,発酵パンはあまり焼かれていなかった。しかし,粥とか平焼きの無発酵パンは常食とされており,それらにレーズン,干しイチジク,オリーブ油などを加えたさまざまな菓子が作られていた。木の葉に包んで蒸焼きするレーズン入りの一種のプディングである〈トリオン〉,小麦粉にオリーブ油やワインを加えて練り油で揚げる〈エンクリシス〉,はちみつ入りの粥を焼いた〈アルカルネン〉といった菓子が知られている。また,はちみつと穀物粉を混ぜて焼いたクッキーの一種もあった。

 ローマ時代の前2世紀ころには職業としての菓子屋が生まれていたという。〈ドゥルキアリウスdulciarius〉というチーズや生クリームを用いた菓子,はちみつ入りのクッキー,はちみつとヤギ乳のチーズを使った〈プラケンタplacenta〉,チーズケーキの一種である〈リブムlibum〉などが作られていた。また,ローマ末期には手のこんだレリーフ模様のある菓子型も利用され,今日の〈クグロフ〉(レーズンをまぜた発酵生地を王冠形の型に入れて焼いたケーキ)に似た形の菓子もあった。ローマ時代には製粉技術やかまどの構造も,長足の進歩をとげたことにより,製パン・製菓技術は大幅に発展したと考えられるが,まだ砂糖は知られておらず,甘味源としてははちみつや乾果が使われていた。帝国末期には,ローマ人の食卓はひじょうに奢侈(しやし)になり,精巧な工芸菓子のようなものも現れている。そしてオリエントからの香辛料,果物,バラ水やオレンジの花の香料,アーモンド,デーツ(ナツメヤシの実)なども豊富に用いられるようになった。また,シャーベットに似た冷たい飲物も現れ,皇帝ネロがこれを好んだことはよく知られている。

砂糖は7世紀ころには地中海東部にアラブ人によってもたらされたが,10世紀ころまでは西ヨーロッパでは知られないままであった。したがって,中世のヨーロッパでも,甘味料は依然としてはちみつと乾果が主であった。あらゆる文化の庇護(ひご)所であった修道院では,はちみつと小麦粉やライ麦粉を練り合わせて焼く菓子〈レープクーヘンLebkuchen〉,ミサに用いられるホスティア(聖餅)から生まれた〈ゴーフル〉(ワッフル)など,中世を通じての代表的な菓子が発達した。とくにレープクーヘンは,のちには多種多様な香辛料を加えるようになり,ヨーロッパ各地で盛んに作られた。

 10世紀以後,ヨーロッパにも,主としてベネチアの仲介貿易により,オリエントの文物が伝えられるようになったが,その中に砂糖とマジパンmarzapane,Marzipan(前者はイタリア語,後者はドイツ語。すりつぶしたアーモンドと砂糖を練り,動物や果物の形に作る)の姿もみられた。エジプトでは,8世紀にはすでにバーザールで砂糖菓子が売られていたという。12世紀初めには,ベネチアにも砂糖菓子屋が数多くあったといわれる。11世紀末から開始された十字軍の遠征は,イスラムの文物をヨーロッパに広く知らせることになったが,砂糖や砂糖菓子もその一つであった。アニスやケイ(桂)皮(ニッケイ)に砂糖をまぶした菓子コンフェクトconfectや前記マジパンは,砂糖や香辛料とともに薬種商が扱っており,たいへんに高価であった。マジパンのようなものは例外として,砂糖は砕いてパラパラとふりかける程度しか使用できないほどの貴重品だった。また,精製度が低く,苦みさえ感じられるものであったために,甘味料としてははちみつのほうが優れていた点もみのがせない。

 中世に盛んに作られたものにパテがあるが,これの底には〈スペイン風の生地〉,すなわち折込みパイ生地が使用されていた。この生地はスペインにいたサラセン人によってもたらされたものと考えられる。やがて,パテ作りの専門職人の中から練り粉菓子職人パティシェpâtissierが現れ,今日のパティスリー(ケーキ,ケーキ屋)へとつながる。

 レープクーヘン作りの職人たちにせよ,フランスのパティシェにせよ,中世初めから半ばにかけては,例えばパン屋や薬種商,パテ屋などの同業組合に属していた。彼らは専売権をめぐって幾多の抗争を繰り返しながら,しだいに独立した同業組合を結成し,自分たちの権利と義務を明確にしていく。パリのウーブリ職人(薄く焼いたゴーフルのようなものを円錐や筒形に巻いたウーブリoublieの職人)は12世紀には独自でギルドをもちえたし,ドイツでもウルムでは13世紀,ニュルンベルクでは14世紀にはレープクーヘン業者のギルドがつくられている。ギルドは,後世になるとさまざまな弊害も生じているが,かつての修道院に代わって,伝統技術の保存と伝承にとっては大きな貢献を果たしたといってよい。

古代,中世を通していろいろな菓子が現れたが,若干の例外を除いては,焼き上がった状態は,今日のケーキのようにふわっと軽いものではなかった。11世紀に,スイスのザンクト・ガレン修道院では〈卵でふくらませた白いパン〉が作られたといわれ,それが今日のスポンジケーキの祖とみられている。しかし泡立てる技術がまだ十分に発達しておらず,砂糖が豊富に使用できない状態では,かなり目のつまった堅いものでしかなかったはずである。今日のようなスポンジケーキは,17世紀になって初めてフランスで作られたという。また,カスタードクリーム(クリーム),生クリームのようなものもよく使われるようになり,この時期にヨーロッパの菓子の性格が大きく変わり,現代の菓子の直接の祖先が生まれたといってもよい。アメリカ大陸の発見,それにつづく植民地経営により,砂糖が以前にくらべて大幅に安く,しかも大量に消費できるようになったこと,そして紅茶やコーヒーといった,香りを重視する新しい飲物が出現したことにより,軽くてこなれのよい菓子が好まれるようになったためである。またコロンブス,コルテスが持ち帰ってカカオが知られるようになり,チョコレートが新しく登場した点もみのがせない。その結果,コンフィズリーの分野がおおいに発達し,ジャムやボンボンなどの量産化もおこってくるとともに,砂糖をベースとした工芸的な菓子もおおいに作られることとなった。

 フランスにおいては大革命以後,かつては王宮や貴族たちの間の占有物だった豪華な料理や菓子が,市民階級の人々の間にも普及するようになり,菓子の大衆化が進んだ。新しい技術をとり入れて製菓技法も革新された。栗の砂糖漬であるマロングラッセとか,アーモンドなどのナッツ類に糖衣をかぶせたドラジェ,ゼリーを芯にしたゼリービンズのようなコンフィズリー,宴会やコースの料理のしめくくりとして今でもたいせつなデザートのババロアとかブラマンジェ,いろいろなタイプのプディングなどが今のものに近い形に作り上げられた。フランスの18世紀を代表し,フランス菓子の集大成といわれる偉大な料理人カレームMarie Antoine Carême(1784-1833)の功績が大きい。パティスリーの分野でも,卵白に砂糖を加えて泡立てて作るムラングmeringue(メレンゲ菓子),あるいはバウムクーヘン(古い形のものは,カシ(樫)の木などの軸棒に,ビール酵母を加えた生地を巻きつけて焼いていた),ウィーン名物のチョコレートケーキ〈ザハートルテ〉,生クリームとフルーツを多用するショートケーキなどが,この時期に現れたのである。

 20世紀に入ってからは,2度の大戦を経て人々の食生活が変化し,飽食の時代とまでいわれる今日,よりいっそう軽くてカロリーの少ない菓子が志向されるようになっている。なかでも注目すべきは,ドイツにおいて,ランプレヒトBernhard Lambrecht(1897-1971)が〈菓子は菓子としての素材を用い菓子独自の技法により作るべきだ〉といって,表面的な技巧を排して菓子独特の世界を追求した点は,ドイツといわず他の国々にも大きな影響を与えた。

約400年くらい前にポルトガル,スペインの宣教師たちによって,いわゆる南蛮菓子が伝えられ,カステラ金平糖有平糖として和菓子化している。幕末以後,そうした南蛮菓子とはまったく無関係の形で,フランスをはじめイギリス,アメリカといった国々から,当時の菓子が伝えられた。横浜,東京を中心に,狭い範囲ではあったが,明治初期にも,日本で洋菓子が作られるようになった。明治天皇の大膳職だった村上光保(みつやす),ビスケットやフランス菓子を伝えた米津恒次郎(よねづこうじろう),森永製菓を創立した森永太平などは,すでに明治初年にヨーロッパあるいはアメリカへ渡り,菓子作りの修業にはげみ,今日のわが国洋菓子の基を築いた。

 第1次世界大戦後,徳島県鳴門市の板東捕虜収容所にさまざまな職業出身のドイツ兵(青島守備隊)が収容されたが,彼らの中にはパンや菓子のマイスター(親方)が多数おり,後になって,神戸や東京でドイツ菓子や料理の店を開いたり,ハム,ソーセージの製造業を開業し,わが国でのドイツ菓子やドイツパンの嚆矢(こうし)となった。

 しかし,第2次世界大戦後までは,洋菓子はまだわが国では,限られた特定の人たちの嗜好(しこう)品でしかなく,都市,とくに大都会を中心に,きわめて特殊な食品として存在していたにすぎない。第2次大戦後の〈食の洋風化〉は,嗜好品の世界での欧米化を招き,洋菓子を普及させた。今日,わが国の洋菓子は種類的にも,また技術的なレベルのうえからも,欧米のそれに劣らないとの評価をえるまでに至っている。
菓子 →ケーキ
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和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典 「洋菓子」の解説

ようがし【洋菓子】

西洋伝来の菓子及び西洋風に作った菓子。ケーキ・クッキー・チョコレートなど。明治期以降に入ってきたものをさすことが多い。⇔和菓子

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洋菓子」の意味・わかりやすい解説

洋菓子
ようがし

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世界大百科事典(旧版)内の洋菓子の言及

【ケーキ】より

…小麦粉を主材料とし,油脂類,卵,砂糖,牛乳,香料などを加えた生地をオーブンで焼いた洋菓子。
[生地の種類]
 ケーキはその土台に用いる生地によって次のように分けられる。…

※「洋菓子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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