若宮村(読み)わかみやむら

日本歴史地名大系 「若宮村」の解説

若宮村
わかみやむら

[現在地名]市川市若宮一―三丁目

中山なかやま村の北東にある。鎌倉時代、千葉氏被官で日蓮の檀越であった富木常忍(日常)の居館が地内にあり、同館はやがて寺基を整えて法華寺となった。その後同寺は中山の本妙ほんみよう寺と合体して一寺となり法華経寺を号する。現在、法華寺の旧寺地は法華経寺奥之院となっており、境内を取囲む土塁や周辺の畑に堀の痕跡を確認することができる(市川市史)。中世には谷中やなか郷のうち。

〔中世〕

正和三年(一三一四)四月二一日法華経寺二代貫首日高は三代日祐に「若宮戸御堂」「若宮別当職并彼岸田」などを譲っている(「日高譲状」中山法華経寺文書、以下断りのない限り同文書)若宮戸わかみやと御堂とは法華寺の別称で、同月二六日の日高置文には「法華寺本尊聖教」とあり、大輔公(日祐)に申付けられている。若宮別当職とは現在若宮にある八幡神社の別当職をさすものとみられる。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]戸倉町更級さらしな 若宮

千曲川左岸に位置し、若宮・芝原しばはらの二集落がある。村の南は冠着かむりき山の八王子はちおうじ支脈と獅子ししはなによって山田やまだ村(現更級さらしな郡上山田町)と境する。北は羽尾はねお村。

八王子山嘴によって千曲川の洪水から守られる位置にあり、ここに八王子・若宮・箭塚やづか西洞にしほらなどの遺跡がある。八王子遺跡からは弥生中期伊勢宮式の異形注口土器が採集され、その底部の布目痕はこの地方で織物の存在を認められる最も古い資料とされている。箭塚遺跡からは細形銅剣が出土しており、西洞遺跡は須恵器が出土する古窯跡である。

伝承によると村名は古くは黒彦くろひこ村という(長野県町村誌)。慶長七年(一六〇二)森検地帳(川中島四郡検地打立之帳)では「三百八石四斗六升二合 若宮村」とある。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]大洲市若宮・東大洲ひがしおおず

大洲盆地の中央にあり、西南から東北へ流れるひじ川の東岸、連年の氾濫による自然堤防上にある大村。

慶長六年(一六〇一)藤堂高虎が家臣渡辺勘兵衛に与えた「知行方之目録」(南部文書)の中に「一、千弐拾壱石 喜多郡若宮村内」と記されている。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「若宮村 日損所、水損所、川有」、村高一千五三二石八斗四升五合、うち田方一二六石八斗二合、畠方一千四〇六石四升三合とある。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]立山町若宮

栃津とちづ川左岸に位置し、東端は若宮新わかみやしん(現上市町)、北はいずみ村。村名はかつて立山権現の末社若宮があったことに由来するという。正保郷帳では高三三七石余、田方二二町五反余、新田高一二五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四五六石、免四ツ一歩、小物成は野役一〇匁・鮎川役一匁のほか、鮭役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。所属組は道源寺どうげんじ村と同じ。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によると打銀高三三七石・定免四ツ一歩、別に村領として打銀高一〇石余がある。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]坂井町若宮

坂井平野の中央部南東寄りに位置し、北陸街道の西側にある。街道に沿って村端を十郷じゆうごう用水の幹線水路が流れる。南西は福島ふくしま村、南東は舟寄ふなよせ宿(現丸岡町)。室町時代には興福寺領河口かわぐち新庄しんじよう郷に含まれていたと考えられる。天文六年(一五三七)の朝倉三奉行十郷用水掟書(大連家文書)に「一、十郷用水若宮筒木広六尺壱寸、此上水之深三尺弐寸壱分之事」とあり、続いて東長田ひがしながた樋の記載もあることから、文中の「若宮」は当地をさすと考えられる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では新庄郷に含まれる。江戸初期には福井藩重臣多賀谷三経の知行地であったこともあるが(多賀谷文書)、貞享三年(一六八六)幕府領となり、元禄八年(一六九五)以降は丸岡藩領。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]川西市若宮

芋生いもう村の南西、猪名いな川の支流芋生川の上流域に位置する。南北朝期、後醍醐天皇の皇子が隠れ住み、大望を果さぬまま死んだので、皇子を慕い若宮村と名付けたと伝える。享禄四年(一五三一)五月二七日の塩川頼繁御廟所夜灯田寄進目録(多田神社文書)に、頼繁が多田ただ院源満仲廟所夜灯料田として寄進したなかに「若宮山」の年貢二斗五升があり、作人は若宮の左衛門五郎であった。年未詳一二月二三日の二階堂行頼書状(同文書)によれば、多田院領多田庄内本寺領とともに「若宮村」などへの軍勢の乱妨狼藉と、人夫課役をかけることが停止されたことを、雀部修理亮と森次郎左衛門尉に伝えている。慶長国絵図に「若宮村」とみえ、高三一六石余とするのは誤記と思われる。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 若宮

下津留しもづる村の西に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、下福良組に属する。村内には小村としてたけはる村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として若宮とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑四反余(高三斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)

若宮村
わかみやむら

[現在地名]富士宮市小泉こいずみ

下小泉しもこいずみ村の東、富士山南西麓の丘陵に立地する。右左口うばぐち(中道)が通る。中世は富士上方ふじかみかたのうち。永禄一二年(一五六九)武田氏の駿河侵攻を受けた今川氏を支援して出兵した北条氏政は、一二月一七日大宮おおみや浅間社(富士山本宮浅間大社)大宮司富士信忠に大宮城奪還を命じ、成功したら富士上方の「小泉・山本・石宮・ぬくと・若宮」のうち一所を含め一四ヵ所を与えることを約束しているが(「北条氏政判物」大宮司富士家文書)、奪還できなかった。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]葛飾区堀切ほりきり一丁目・四つ木よつぎ三丁目、墨田区八広やひろ五―六丁目・墨田四丁目など

四つ木村の西に位置し、南は木下きのした(現墨田区)、西は隅田すだ(現同上)、北は堀切ほりきり村。村名は若宮八幡が鎮座することによる(風土記稿)。もとは善左衛門ぜんざえもん村と一村をなし、元禄郷帳に善左衛門若宮新田村、天保郷帳には善左衛門若宮村とみえる。高はいずれも一七四石余。旧高旧領取調帳では各々独立村扱いで、若宮村の高七四石余。「風土記稿」は地理的にみてかつては隅田村に属したかとしている。検地は元禄八年(一六九五)に行われた。家数二〇。村の中ほどを東西に貫く古綾瀬ふるあやせ川に架かる土橋は若宮橋といった。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]最上町若宮

西流する最上小国もがみおぐに川の右岸に位置し、東辺を南東流するしら川が当地で合流する。白川対岸北方は法田ほうでん村。江戸中期頃(宝暦七年か)に枝郷の上若宮村(のち豊田村に改称)を分村した。新田本村鑑は枝郷として白川しらかわ村をあげる。慶長一六年(一六一一)の小国光忠知行宛行状(佐藤文書)に「三百かり わかミや」などとみえ、当地のうち合せて五〇〇刈が佐藤半七に与えられている。元和八年(一六二二)御前帳写では高五〇四石余、寛文四年(一六六四)には高一千二二三石余、うち新田二三石余(新田本村鑑)、明和三年(一七六六)には高七二八石余、うち田方六三七石余、反別六七町三反余、うち田方五二町六反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数四二(うち借屋四)、人数二〇二、駄馬八四、明治三年(一八七〇)の郷村高帳によると糀屋運上銀一二匁・諸職人運上銀七匁を上納している。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]金沢市若宮町

大豆田まめだ村の西、犀川下流北岸に位置する。中世には豊田といた庄のうち。永禄五年(一五六二)八月、野市ののいち(現野々市町)の友重三右衛門尉宣盛は「豊田若宮村之北」の田地(二ヵ所で合せて四石)を本願寺坊官下間頼充に代銭八貫文で永代売渡している(「友重宣盛売券」竹田文書)。同所の作職は「若宮之甚右衛門尉」と「若宮之大郎左衛門尉」が保持していた。なおこの田地二ヵ所は永禄末年から天正(一五七三―九二)初年頃と推定される加賀国五箇所田地書上(同文書)にも記載がある。正保郷帳では若宮出わかみやで村・薬師堂やくしどう村と併記され、三村合せて高八二八石余、田方五〇町九反余・畑方四町三反余。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]小国町宮原みやばる

杖立つえたて川沿いに集落が広がり、北は土田はんた村、西はじよう村に接する。近世には片田かたた村を小村としたり、片田村の小村となったりしている。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)には、「かふりかた」として「一所わか宮」とあり、初穂米収納使に酒饌を提供することにより初穂米は免除されていた。慶長国絵図に若宮村とある。北里手永に属し、元禄一二年(一六九九)の北里手永高反別帳には片田村とあり、高一六〇石余、男八九・女五九、竈数二一、馬七・牛二六とある。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]吉井町若宮

筑後川と巨瀬こせ川に挟まれた微高地に位置する。南は国光くにみつ村。本高は八八石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一三〇石・役高一七九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一八二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町三反余・開田一畝余・畑田一町五反余・畑五町二反余・居屋敷一反余。旧高旧領取調帳によると高一五七石余。若宮八幡宮の門前町の趣もあり、祭事以外にも何かと寄合場所になり、宝暦一揆発端の集合地ともなった(宝暦四戌久留米藩百姓一揆)

若宮村
わかみやむら

[現在地名]中野市大字若宮

東は竹原たけはら、西は荒井あらい、南は一本木いつぽんぎ、北は金井かないの各村に接している。もと現集落の南方にあったが、夜間瀬よませ川の洪水災害を被って若宮八幡宮の付近に移動している。

慶長七年(一六〇二)森忠政検地の際は灰塚はいづか村として高三〇四石八斗壱升四合、同九年松平忠輝領の時は松平庄右衛門宗世の知行を経て、同一七年八月領主堀直寄が渡辺伝左衛門へ渡した知行目録では四五二石二斗二升であった。ところが、元和七年(一六二一)福島正則検地では二六八石七斗二合と激減している。元和二年より同五年までは旗本井上庸名領となったが、災害はこの頃であろうか。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]豊橋市牛川うしかわ

飽海あくみ村と牛川村の中間に位置する。中世末期頃飽海村が開発した新田と考えられている。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は七四石余。享保一〇年(一七二五)の吉田宿助郷帳によると、村高一三八石のうち助郷高は七五石で、吉田よしだ宿まで一三町。

明治五年(一八七二)村差出帳(村越家文書)に「渥美郡飽海村、八名郡若宮村、差出帳」とあって、村高のみ別に記し、家数・人数・助郷高・定納米・夫銭その他いっさいが合計高で記入され、庄屋名はなく、組頭二名が連署してある。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]養老町若宮

舟見ふなみ村の西、小倉おぐら谷の形成した扇状地の南端部にある。北東は小倉村。文化六年(一八〇九)円墳が発見され、大岩で囲んだ長さ三間・幅一間ほどの石室があった。その石室から須恵器や「青玉といふべきもの、白銀もて造れる釧めくもの、小き剣の形」をしたものなどが出たという(文化八年「若宮新田石窟古奇物図」中島文書)慶長郷帳に村名がみえ、高一二石余。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]平戸市下中津良町しもなかつらちよう 若宮

中津良村の南西、中津良川と敷佐しきさ川の合流域に立地する。神功皇后の義弟十城別命が上陸した地という所伝があり、地名に聖御出しよさで・神野が残る。若宮墓地に宝篋印塔(安山岩質凝灰岩製)が四基分あり、現福井県高浜たかはま日引ひびきで製作されたと考えられる。江戸時代は津吉村のうちで、正保国絵図に若宮村とあり、高五四石余。

若宮村
わかみやむら

[現在地名]大野町田中たなか 若宮

妙勝庵みようしようあん村の西、田代たしろ川の上流にある。元禄・天保両郷帳および「豊後国志」には記載されず、旧高旧領取調帳に村名がみえ、高一四三石余。安永七年(一七七八)には田中組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

若宮村
わかみやむら

[現在地名]茨城町若宮

西南は上石崎かみいしざき村、北は石川いしかわ(現水戸市)。「新編常陸国誌」によると元和年間(一六一五―二四)上石崎村より分村した。近世は水戸藩領で元禄郷帳に「若宮村」とみえ、天保一三年(一八四二)の検地では田畠三二町余、分米二〇六石余であった(新編常陸国誌)

若宮村
わかみやむら

[現在地名]佐賀市兵庫町ひようごまち大字若宮

巨勢こせ川と現国鉄長崎本線が交差する地点にある。巨勢川の東で、クリークの多い水田地域。正保絵図に村名がみえる。

村田鍋島家(鍋島内記家)の配分地で、五〇六石の地米(年貢)を納めていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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