茨城県南東部にある湖。東側にある北浦に対して西浦ともいう。水郷筑波国定公園(すいごうつくばこくていこうえん)の中心をなし、周辺は土浦、かすみがうら、行方(なめがた)など7市と1町1村に囲まれる。日本で第二の大湖で、面積171.5平方キロメートル、周囲122キロメートル、最大深度7メートル、水面の海抜高度は0.16メートル。富栄養湖で透明度は低い。高浜入(たかはまいり)と土浦入の細長い入り江によって三つまた形をなし、恋瀬(こいせ)川、桜川、園部(そのべ)川、菱木(ひしき)川、小野川、新利根(とね)川などが流入し、常陸(ひたち)利根川、横利根川によって排水される。古くは常陸、下総(しもうさ)にわたる海の入り江をなし、『常陸国風土記(ふどき)』には流海(ながれうみ)とあり、沿岸で塩、ノリ、ハマグリなどを産したと記されている。成因は、入り江に利根川が運び出す土砂によって三角州がつくられ、出口をふさいで湖となったもの。魚類は、淡水、汽水、海水に産するものがあり、85種を数える。コイ、ワカサギは有名。しかし、常陸川水門で海との交流が絶たれ、ウナギ、スズキなどは減少した。昆虫では湖岸の生活を悩ますユスリカが多く、植物ではヨシ、マコモが代表的であるが、水質悪化で絶滅したものもある。浮島(うきしま)に鳥のコジュリンの営巣地がある。
古くから交通路となり、江戸時代はもっとも栄え、那珂(なか)川―涸(ひ)沼―霞ヶ浦―利根川―江戸川に通じる幹線水路の中心であった。沿岸の町々は、この時代に河岸(かし)(港)で発達した。汽船時代は湖が主となり、貨物や旅客の輸送のほか、佐原(さわら)(千葉県)の大商店は「船のデパート」を仕立てて沿岸を周航(1955年ごろまで)するなど、湖面の交通は続いた。自動車時代に入って衰え、わずかに残った土浦―潮来(いたこ)間の定期船も1975年(昭和50)に廃止され、観光船を残すだけとなった。
霞ヶ浦の漁獲量は、1993年(平成5)ではコイ、ハゼ、フナなど魚類4456トンで全国2位。ワカサギ、シラウオ、シジミは乱獲や環境変化で減少した。漁法は張(はり)網、掛網、トロールが主で、特色ある大徳(だいとく)網や帆引(ほびき)網は減少または消滅している。ワカサギ漁で有名な帆引船はすべて動力船にかわり、1999年にはわずかに観光用4隻を残すのみとなった。これに対し食用コイの養殖は網生け簀(あみいけす)(小割り式)の方法で発展し、長野、群馬両県を追い越して第1位。これらは漁業の盛んな北岸に多く、行方市、かすみがうら市が中心である。ほかに淡水真珠(イケチョウガイ)の養殖も行われている。南岸では本新島(もとしんしま)、浮島、江戸崎地区など稲敷(いなしき)市域に大規模な干拓地ができて、米作農業が主となっている。
豊富な水は、農業、工業、水道用水として利用される。とくに霞ヶ浦用水事業が1969年着工され、筑波山を越えて県南西にまで供給しようとしている。水質汚濁が進行しており、県は1982年2月富栄養化防止条例を施行して保全対策を図っている。霞ヶ浦はまた海軍航空隊と第二次世界大戦時の「予科練」の所在地(阿見(あみ)町)であったことで知られている。北西岸の土浦はかつて軍都として、いまは霞ヶ浦観光の基点として、中心的位置を占めている。
[櫻井明俊]
『茨城大学地域総合研究所編『霞ヶ浦――自然・歴史・社会』(1984・古今書院)』
茨城県中央部、新治郡(にいはりぐん)にあった旧町名(霞ヶ浦町(まち))。現在はかすみがうら市の東部を占める地域。1955年(昭和30)下大津(しもおおつ)、美並(みなみ)、牛渡(うしわた)、佐賀、安飾(あんしょく)、志士庫(ししくら)の6村が合併して出島村となったが、1997年(平成9)名称変更して霞ヶ浦村となり、同時に町制施行した。2005年(平成17)同郡千代田町(ちよだまち)と合併して市制施行、かすみがうら市となった。旧町域は国道354号が通じ、JR常磐(じょうばん)線土浦駅からバスがある。1987年霞ヶ浦大橋が開通、対岸の玉造(たまつくり)町(現、行方(なめがた)市)と結ばれた。台地と湖岸低地よりなる。中世は小田氏から佐竹氏の支配を経て、近世は水戸藩と土浦藩に属した。農漁業が主産業で、養豚と蓮根(れんこん)の産が多いほか、米、クリ、ナシの栽培が行われる。漁業ではワカサギ、シラウオが漁獲、加工されるが、漁獲量は減っている。椎名(しいな)家住宅は国指定重要文化財。歩崎(あゆみざき)は県指定名勝で歩崎公園となっており、付近に水族館、民家園、歩崎森林公園、郷土資料館がある。
[櫻井明俊]
『『出島村史』正続(1971、1978・出島村)』
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茨城県南東部,利根川下流域に位置する海跡湖。広義には北浦を含めた呼称で,北浦に対して西浦とも称する。面積167.6km2は琵琶湖につぎ日本第2位。最大水深7m,湖面標高0m。淡水湖で水郷筑波国定公園の中心をなす。名称は《常陸国風土記》の香澄里(霞郷),《和名抄》の香澄郷に由来する。Y字状の湖面形をなし,北西側を土浦入,北側を高浜入とよび,桜川,恋瀬川がそれぞれ流入する。南西部では小野川が流入,南東端では西から新利根川が入り,利根川へは横利根川,常陸利根川をもって通じる。古代は北浦,外浪逆浦(そとなさかうら)を含んだ銚子方向に開いた入江で,中世には関東平野内部への交通路として利用され,また入江の奥は高浜(石岡市)をはじめ,物資集散の港として栄えていたが,江戸初期の利根川東遷の影響をうけて東よりで堆積作用が盛んになり,水域は縮小し,淡水化が進んで,現状に至った。昭和初期以降,干拓が沿岸各地で行われ,開田が進んだ。底質は軟泥で砂や礫(れき)は少なく,富栄養湖の典型である。40種類をこえる魚類が生息し,ワカサギ,シラウオ,エビ,フナなどが多い。明治期開発の帆引網によるワカサギ漁は観光用に北浦で保存される程度で,1968年以来,トロール漁法にかわり,つくだ煮などに加工される。北東岸を中心に,湖面にコイ養殖が発達している。
鹿島臨海工業地域の建設に伴う工業用水確保をはかるため,沿岸水田の塩害防止もかねた常陸川水門が1963年に建設されてからは,排水口遮断による湖沼の溜池化が進行した。生活雑排水の流入,湖岸周辺の台地に卓越する養豚業に起因する屎尿たれ流し,湖面を利用する養殖などの影響が湖水滞留と水質汚濁をひきおこし,近年深刻な状況を呈している。夏季高温時には,湖面一帯にアオコを発生させ,魚類生息へのマイナス要因となるほか,悪臭を伴い,沿岸市町村での上水道用水取水の障害となっている。こうした事情にもかかわらず,首都圏内に位置する貯水量豊富な湖沼としての霞ヶ浦への期待は大きい。都市用水,農業用水供給源を霞ヶ浦に求める複数の計画があるだけに,水質保全が茨城県政の重要課題とされている。利水面からの活用促進策としては,県西部地域の市町村への上水道・工業・農業用水供給を目的とする霞ヶ浦用水事業が1991年完成し,湖水のポンプアップによる用水の安定供給が行われるようになった。明治期から昭和初めまでは外輪蒸気船が貨客を輸送した水上交通は,地域の発展に大きく貢献した。鉄道交通が盛んになり,観光客輸送に重点を移してからも水上交通は定期運航が続けられたが,第2次世界大戦後は沿岸道路が普及,1975年に廃止。
執筆者:中川 浩一
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…1871年(明治4)廃藩置県をへて,茨城,新治(にいはり),印旛(いんば),木更津の4県に統合され,後2者が合併してできた千葉県の一部と新治県のうち常陸6郡を併せて,75年ほぼ現在の県域が定まった。下総国常陸国
[広大な台地と豊富な湖沼・河川]
県内の地形は北部の山地,中央部から南部,西部にかけての関東平野北東部にあたる広大な台地,南東部の霞ヶ浦,北浦と利根川およびその支流に沿って樹枝状にのびる低地に三分される。県北地方では阿武隈高地に属する多賀山地,八溝山地が広い面積を占め,また筑波山地が半島状に突出して常陸台地と常総台地を分けている。…
…漁民の自由な立入りは禁止された。例えば,霞ヶ浦南東部には江戸初期,幕府の箕和田御留川が設定され,さらに1625年(寛永2)下玉里村の土豪鈴木氏の申請により,〈湖は入会〉の原則を固守する霞ヶ浦四十八津の抵抗を押し切って,水戸藩は湖の北部高浜入を玉里御留川としている。鈴木氏は御川守となり,当初は直営の大網を引いたが,83年(天和3)以降,江戸の問屋,霞ヶ浦周辺の漁民の請負となり,入札によって運上人を定め,運上金を上納させた。…
※「霞ヶ浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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