デジタル大辞泉 「コロンビア」の意味・読み・例文・類語
コロンビア(Columbia)
米国ミズーリ州中部の都市。1820年代に開かれ、1920年代に自動車交通の要地として発展。ミズーリ大学コロンビア校をはじめ、高等教育機関が多い。
翻訳|Colombia
南米大陸北西部にあり、太平洋とカリブ海に面した国家。人口約4822万人(2015年推定)。首都はボゴタ。1964年結成の左翼ゲリラ、コロンビア革命軍(FARC)などと政府軍が半世紀にわたり内戦を繰り広げたが、サントス現政権が今年9月、FARCと和平合意案に署名、サントス大統領は今年のノーベル平和賞受賞が決まった。ただ、合意案は10月の国民投票で否決され、和平実現に向けた努力が続けられている。(共同)
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出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
南アメリカ大陸の北西隅にある共和国。正式名称はRepública de Colombiaといい、国名のコロンビアはアメリカ大陸の「発見者」コロンブスに由来する。西は太平洋、北はカリブ海に臨み、北西部でパナマに、東はベネズエラとブラジルに、南はエクアドルとペルーに接する。古代の黄金文化とコロンビア・コーヒーとで日本にもなじみが深い。1985年11月、同国中西部のネバド・デル・ルイス(ルイス火山、5399メートル)が噴火、火山灰と融雪による大洪水が発生し、近くの町アルメロ周辺が泥流で埋まり、2万人を超える死者を出した。面積114万1748平方キロメートル、人口4153万7000(1999推計)、4416万4417(2018センサス)。首都はボゴタ。
[山本正三]
国土の南東部と北西部は対照的な地形を示している。東部および南東部はギアナ高原の一部に属する高原地帯、オリノコ川沿いのリャノとよばれる大草原地帯、アマゾン川沿いの密林地帯からなり、大半は未開発の草原と森林に覆われている。
北西部ではアンデス山脈の北端部がオリエンタル山脈(コルディエラ・オリエンタル)、セントラル山脈(コルディエラ・セントラル)、オクシデンタル山脈(コルディエラ・オクシデンタル)に分かれ、扇形状に広がっている。セントラル山脈がもっとも高く、オクシデンタル山脈との間にはカウカ川、オリエンタル山脈との間にはマグダレナ川が流れている。各山脈とも火成岩、変成岩の基盤の上に堆積(たいせき)岩が重なり、そこへさらに火山灰の積もっている所が多い。オリエンタル山脈は5000メートルを超える褶曲(しゅうきょく)山脈であり、エクアドル国境近くでセントラル山脈から分かれて北に走り、やがて北東に向かってベネズエラとの国境に達する。この山脈の内部にある多くの山間盆地は、この国の主要な生活空間となっており、ボゴタやソガモソなどの盆地はその好例である。土地が肥沃(ひよく)なため産物も豊富で、人口密度が高く、文化も発達している。セントラル山脈は幅50~60キロメートル、長さ800キロメートルにも及び、そのうえ5000メートルを超える火山を頂き、この国の交通上著しい障害となっている。3485メートルの高度に、古来ボゴタからカウカ河谷を経てブエナベントゥラ港に至る重要なキンディオ街道が通っている。マグダレナ川にカウカ川が合流するあたりが山脈の北端で、この付近の準平原化された花崗(かこう)岩の高地には金鉱脈が点在し、古くから重要な産金地になっている。オクシデンタル山脈は狭い太平洋岸の海岸平野のすぐ東にあり、高度は3000メートルを超えず、北上するにつれて低くなる。植物が繁茂し、太平洋側斜面は急峻(きゅうしゅん)なうえに湿潤である。同山脈にはカウカ河谷のカリと太平洋岸のブエナベントゥラ港を結ぶ重要な鞍部(あんぶ)がある。
太平洋岸の海岸線は約1300キロメートル、カリブ海岸は1600キロメートルである。太平洋側の海岸平野は、不健康地のうえ途中を山々に遮られているので経済的意義は少ない。カリブ海側は低地続きで暑く、その北東部のみが山地で、この国の最高峰クリストバル・コロン山(5800メートル)がそびえる。カリブ海上のサン・アンドレス島、プロビデンシア島、太平洋のマルペロ島がコロンビア領になっている。
国土の大部分が赤道と北緯10度の間にあるので、標高900メートル以下の地帯(ティエラ・カリエンテ)は高温多湿で不健康地が多く、典型的な赤道雨林地帯である。しかし低地の健康条件も、1970年代以降の合成薬の開発によるマラリア退治などによりかなり改善されてきている。山地では高度に応じて気候が変化し、標高900~2000メートルの地帯(ティエラ・テンプラダ)は亜熱帯気候で、おもにコーヒー栽培が行われている。2000~3000メートルの地帯(ティエラ・フリア)は温帯気候で、そこに山間盆地がある。この盆地では、平均気温が一年中14~15℃、年降水量も1000ミリメートル内外で、気候は快適であり、麦類や豆類、ジャガイモの栽培が盛んである。標高3000~4500メートルまでが荒涼とした樹木の乏しい草原地帯(パラモス)で、牧場に利用されている。標高約4500メートルで雪線に達し、それ以上の地帯は氷雪の地となる。
[山本正三]
コロンビアは自然の変化が大きく、東西方向の交通が不便なため、経済的にも政治的にも細分されて地域差が著しい。国土はカリブ海岸低地、太平洋低地、東部平原地域、アンデス地域に区分できる。
カリブ海岸低地は、低い丘陵、海岸段丘、河川沖積地などで、植民時代初期には重きをなしていたが、いまでは全人口の十数%がバランキヤ、カルタヘナ、サンタ・マルタなどの都市に住んでいる程度である。気候は暑く、東から西へ行くほど降水量が多くなる。カウカ、マグダレナ両川の合流点付近では雨林地帯になっている。海岸低地では伝統的な牧畜が行われ、シヌ川、セサル川の排水良好な沖積地では綿花とゴマを中心にした大規模な農業開発が進められている。ウラバ湾に面するトゥルボはバナナの主産地である。
太平洋岸低地は狭い海岸地帯で、年降水量が5000ミリメートル以上に達する大雨林地帯をなしており、農業にはあまり適しない。川が主たる交通機関で、農業開拓はその自然堤防の上に限られている。東部平原地域は、アンデスの東側山腹を流れ下る諸河川がつくった広大な扇状地で、コロンビア全土の3分の2の面積を占めるが、人口では2%足らずしかない。北部のオリノコ川流域は土壌が比較的良好で、広いリャノのサバナは早くから牧畜地になっている。アマゾン川流域には草原が少なく、セルバとよばれる濃密な雨林が多い。
アンデス地域は気候が温和で、鉱物資源に富み、先住民人口も多いため、植民地時代以来いまなおコロンビアの政治、経済の中心をなしており、総人口の78%を占め、三大都市のボゴタ、メデリン、カリを擁する。もっとも人口が稠密(ちゅうみつ)で、文化の中心をなしているのはオリエンタル山脈地域で、ジャガイモ、小麦、タバコ、コーヒーなどを産し、マグダレナ川を利用する交通が発達していた。セントラルおよびオクシデンタル山脈地域は、オリエンタル山脈より険しい火山性の地域であるが、牧草、サトウキビ、タバコ、コーヒーなどを産し、カリやメデリンは商工業都市の性格を帯びてきている。
[山本正三]
コロンビアの古代民族の歴史の全貌(ぜんぼう)は謎(なぞ)に包まれているが、12世紀ごろ種々の地方文化が発展していた。スペインは1525年にサンタ・マルタの町を建設してコロンビアの征服を開始した。1536年から1538年にかけて、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサダGonzaro Gimenez de Quesadaはマグダレナ川上流のチブチャ人の首都ボゴタに遠征し、これを占領してサンタフェ要塞(ようさい)を築いた。ケサダはボゴタをサンタフェ・デ・ボゴタと改め、この地方をヌエバ・グラナダと名づけた。1539年までに内陸の主要な植民都市のほとんどが建設され、以後3世紀に及ぶスペインの支配が確立された。18世紀の初めまでペルーの総督に統治されたが、1718年ごろから現在のコロンビアとベネズエラ、パナマを含めたヌエバ・グラナダ総督府が統治した。
植民地に対するスペイン本国の過酷な支配は、植民地住民の不満を募らせ、1810年にナリニョNariño(1765―1823)を指導者とする最初の独立革命が起こった。1819年には国民的英雄シモン・ボリーバルがヌエバ・グラナダに侵攻し、ボヤカにスペイン軍を破り、今日のコロンビア、パナマ、ベネズエラ、エクアドルを含む大コロンビア共和国が誕生した。しかし、中央集権主義者と連邦主義者の対立が起こり、1830年に大コロンビア共和国は解体し、コロンビアとパナマからなるヌエバ・グラナダ共和国が生まれた。その後、国名はしばしば変更されたが、1886年にコロンビア共和国と改称された。
独立闘争以来、権力を握った大地主階級と外国資本が結び付いて、コロンビアの社会経済的発展はゆがめられていった。それが典型的に現れたのはパナマ地域の独立であった。20世紀初め、パナマ運河建設に関連してコロンビアはアメリカと対立し、パナマはアメリカの援助のもとに1903年に独立を宣言し、アメリカに運河工事を許可した。コロンビア政府はアメリカの政策に有効に対処できず、1914年にパナマの独立を承認した。その後、比較的安定した民主政治が続いた。第二次世界大戦後は、1947年に「全米相互援助条約」に加盟、1952年にはアメリカとの間に軍事援助協定が結ばれるなど、親米反共的外交政策をとっていた。一方、コロンビア人民の生活が独占資本の支配によって耐えがたいものになるにつれて、民族解放を唱えるゲリラ闘争が1960年代に激化した。1970年代以降は麻薬シンジケートによるテロ事件に加え、左翼ゲリラ勢力も存続しているが、1980年代後半以降は武装闘争を放棄して合法政党化の姿勢をみせる勢力も出てきた。なお、この地域には古い土器が出土し、古代文化の存在が知られている。
[山本正三]
1891年に発効した新憲法では立憲民主共和制がしかれており、死刑廃止、参政権の男女平等、人身保護令要請権、信仰・集会・労働・思想・教育の自由などが保障されている。立法権は上院(定員102名、任期4年)と下院(定員166名、任期4年)からなる議会に属し、上・下院とも直接選挙により選出される。上院の被選挙権は30歳以上で公職従事の経験者にあり、下院のそれは25歳以上の者にある。政党としては、保守党と自由党が最大の政党として存在し、独立以来、両党の政争と、それに伴う変革が繰り返されてきた。保守党はかつての半封建的勢力の利益を代表し、スペインの植民地支配体制を維持し、現在も大地主や大ブルジョア階級の利益を擁護している。自由党はかつて奴隷労働やカトリック教会の封建的支配に反対する勢力として進歩的性格をもっていたが、現在ではブルジョア階級の利益を代表している。司法権は最高裁判所、上級裁判所、行政裁判所、地方裁判所、町村裁判所により行使されている。行政の最高責任は大統領にある。1957年の憲法修正で、大統領は国民戦線方式(政治休戦)により保守党と自由党の持ち回りと決められたが、1974年に通常の選挙が復活、大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は4年で、再選は認められていない。地方行政は32県、5特別地区、1首都特別区に分かれる。
コロンビアは深刻な政治的、社会的問題を抱えており、治安が悪く、アメリカへ密輸されるコカインの大部分はコロンビアからのものであり、メデジン・カルテルやカリ・カルテルとよばれる麻薬業者のシンジケートが牛耳(ぎゅうじ)っている。麻薬業者は国際的な非合法ネットワークを背景に、麻薬に関連したテロ事件を繰り返してきた。アメリカは1994年にコロンビア麻薬対策非協力国として経済制裁を課そうとし、この年に発足したサンペール新政権は麻薬テロ対策を推進し、対アメリカ関係の改善と社会経済開発計画を押し進めてきた。
[山本正三]
コロンビアは経済的に開発の後れた国で、農業が主要産業である。国民総生産(GNP)に占める第一次産業の割合は15.7%(1992推計)、全就業人口中に占める農林・漁業人口の割合は24.7%(1994)であるが、可耕地は546万ヘクタールで国土総面積の4.8%にすぎない。農業の発展はきわめて遅々としているが、その主要な障害は大土地所有制である。そのことは、土地のない農民が多数いることと、前近代的農業形態が支配的であることも意味している。輸出用農産物としてコーヒー、バナナ、タバコが、国内消費用としてトウモロコシ、小麦、米などが栽培されている。
コーヒーの生産は世界第2位で、その収穫高は68万4000トン(1994)、世界全体の12.6%を占めている。コーヒーは1850年以降、オリエンタル山脈でプランテーション作物として取り入れられ、コーヒー栽培が開始されたが、コーヒーが重要な輸出農産物になったのは1880年代以降であった。マグダレナ川からメデリンまでの鉄道が開通して、アンティオキア県南西部の火山斜面とカルダス県の土地はコーヒー・プランテーションに変えられていった。そして現在まで、キンディオ県のアルメニア周辺はコロンビアでもっとも重要なコーヒーの産地になっている。ほかに、クンディナマルカ、サンタンデル、ノルテ・デ・サンタンデルの諸県も重要なコーヒーの産地である。市価の維持、統制栽培のため、コーヒー生産者連合会が組織されている。また、成熟期を長くするため日陰で栽培し、よく熟したコーヒー豆を手で収穫して、コロンビア・コーヒーの品質は高く保たれている。コロンビア・コーヒーはマイルド種であり、通常ブラジル・コーヒーなどの強い種類のものとブレンドされて用いられている。
アメリカのユナイテッド・フルーツ社による大規模栽培に始まったバナナは、コーヒーに次いで重要な輸出農産物である。バナナ生産の中心地域はサンタ・マルタ地方からアンティオキア県トゥルボ地方以南へ移動した。トゥルボの南の地域は灌漑(かんがい)を必要とせず、バナナの風倒の被害と病虫害が非常に少ない所である。バナナはおもにヨーロッパ市場に向けて輸出されている。
砂糖生産は1959年に自給可能となり、61年に輸出を実現するとともに国際砂糖協定の一員となった。砂糖の生産量は196万4000トン(1994)である。サトウキビの主要栽培地はカウカ川流域の平野である。
工業生産は大きく立ち後れている。主要生産物はセメント、砂糖、小麦粉、綿糸などの軽工業製品で、重工業製品はみるべきものはない。しかし、低廉で豊富な水力発電と石炭・石油の利用により、コロンビアの工業は発達しつつあり、コロンビア政府も鉄鉱生産に力を入れ始めている。国民総生産中に占める製造業の割合は約35%であるが、食料品の100%、繊維の90%は国内自給できるようになった。
地下資源は豊富である。17世紀から18世紀にかけて、ヌエバ・グラナダは世界の主要な産金地域の一つであった。今日でもチョコ川とカウカ川の砂利から金が採掘され、金の生産額はラテンアメリカ第3位、世界第14位である。エメラルドはボヤカ県の鉱山で産し、コロンビアは世界のエメラルドの主要生産国になっている。ほかに銀やプラチナ、岩塩、石炭、鉄鉱石なども豊富であるが、開発はきわめて遅れている。
もっとも重要な地下資源は石油で、埋蔵量は推定で5億5700万キロリットル、石油生産は3366万キロリットル(1995)である。マグダレナ川中流域とカタトゥンボ川流域の油田は過去40年以上にもわたって石油を産出し、国内消費の余剰が輸出されていた。国産の石油は、マグダレナ川中流域やカルタヘナ、バランキヤなどの港湾都市で火力発電の燃料になっている。1966年には、エクアドル国境近くのプトゥマヨ県に新しい油田が発見され、太平洋岸の港湾都市トゥマコまでパイプラインが引かれた。石油化学と石油精製の二大中心はバランカベルメハとマモナールで、ここまで石油と天然ガスのパイプラインが内陸から引かれている。石油利権をもつおもなものは、デ・マレスのコロンビア石油産業、バルコのコロンビア石油会社、ヨンドのシェル石油などである。石油の産出量の増加がコロンビアの経済活性化に大きく寄与し始めている。
[山本正三]
貿易相手国はアメリカが輸出および輸入とも第1位で、それぞれ36.7%、38.4%を占めている(1994)。ついで輸出入とも、EU(ヨーロッパ連合)諸国、アンデス共同体(ボリビア、エクアドル、ベネズエラ、ペルー)、日本が続いている。コーヒーとバナナの輸出が外貨の20%以上を占め、石油、石炭などがこれに続いている。主要輸入品は機械、自動車、モーター、鉄鋼、化学製品などで、工業製品が53%を占めている。この国最大のブエナベントゥラ港がコロンビアの貿易の過半数を取り扱っている。
日本との貿易では、輸出、輸入額はそれぞれ2億6374万ドル、5億6621万ドル(2000)で、貿易収支はかなり赤字である。輸出品はコーヒー、貴石と半貴石、エビ、銅鉱石、綿花であり、おもな輸入品は電気機械、機械類、鉄鉱石、自動車である。
[山本正三]
初期のコロンビアの交通は河川交通に依存していた。マグダレナ川の下流は河口からラ・ドラーダまでの約1000キロメートルが航行可能で、内陸地方と海岸、さらに外国とを結ぶ生命線になっていた。カリとブエナベントゥラ間の鉄道と道路が開通するまで、カウカ河谷の商業やカルダス県のコーヒーはマグダレナ川を通って輸送されていた。現在、河川交通は幹線道路や鉄道、パイプラインと競合し、ほとんど利用されていない。
陸上交通網の不備は開発上の最大の欠陥で、1950年代から1960年代にかけて、コロンビアは国内の自動車道路網の拡張、改良計画に着手し、とくに主要都市と海港・河港とを結ぶ道路建設に力を入れた。ボゴタとこの国第一の港ブエナベントゥラを結ぶ道路と鉄道の改善、メデリン―カルタヘナ道路およびボゴタとサンタ・マルタを結ぶマグダレナ鉄道の完成は、交通システムを変化させただけでなく、コロンビアの産業経済にも大きな影響を与えた。しかし、主要都市は海岸から隔てられた内陸にあり、いまだ交通困難の状態である。
航空交通は、1920年にマグダレナ河谷で操業した現コロンビア航空アビアンカの前身の会社に始まる。陸上交通が不便なため、航空はコロンビアの重要な交通となっている。また、多くの貨物が空輸されており、このような航空貨物輸送は陸上交通網の発展をいっそう後らせている。ボゴタとメデリンの間を35分間で飛行する運賃は、南アメリカでもっとも屈曲の多い山道を越える24時間のトラック行程の運賃とあまり変わらない。
[山本正三]
コロンビアは他のアンデス諸国と違って、メスティソ(白人と先住民との混血)と白人が多数を占める国であり、総人口に占める割合はそれぞれ58%、20%である。コロンビアの指導・有産階級はおもに白人とメスティソにより占められている。白人はメデリンおよびマニサレスを中心にセントラル山脈の山間盆地に居住している。白人と黒人の混血であるムラートは総人口の14%を占め、海岸平野部や河谷低地に居住している。黒人は植民地時代にサトウキビ栽培の労働者として移入され、現在では総人口の4%を占める。ほかに、黒人と先住民の混血であるサンボが、総人口の3%を占めている。混血をしていない純粋な先住民は総人口の1%を占めるだけで、オリエンタル山脈やエクアドル国境に近いナリーニョ県、とくにパストに集中している。コロンビアの住民の78%はアンデス山脈地帯に集中し、17%は海岸地帯に住んでいる。
ローマ・カトリックはコロンビアで公認されてきた唯一の宗教であったが、1936年には国教の地位を外された。しかし、コロンビアのカトリック教会はラテンアメリカ諸国でもっとも強い勢力を保持しており、住民の90%以上はカトリック教徒である。言語はスペイン語で公用語になっている。
16世紀ごろまでのコロンビアには、チブチャ、キンバヤ、シヌー、タイローナなど先住民諸部族の高度な文化が存在していた。しかし、スペイン人との混血が進み、政治的な力をもった大きな部族集団や言語的統一が存在しなかったため、先住民の文化はスペイン文化に同化され、共通語としてスペイン語が採用されることになった。コロンビアの伝統的な生活様式を示すものは、農民が着用するルアナというポンチョ式外套(がいとう)と、先住民がかぶるフェルトの山高帽である。
教育制度は初等教育6年が義務制で、さらに4年の中等教育と4年から6年の大学がある。大学は1573年創立のコロンビア大学(ボゴタ)など公立、私立あわせて73校である。
[山本正三]
第二次世界大戦中は一時国交が中断されたが、戦後1954年(昭和29)に国交が再開され、現在両国の外交関係は良好である。両国間には、査証相互免除取決(1962年7月)および技術協力協定(1976年12月)が締結されており、両国国民の関心の高まりや、経済関係の増進を反映して、近年両国要人の往来が活発である。1996年現在、邦人移住者数は1353人で、大部分はカウカ県のパルミラ周辺で農業に従事しており、大農経営で相当の成功を収めている者も少なくない。ボゴタ盆地でカーネーションなど花の栽培を大規模に成功させた者もいる。しかし、1991年東芝社員誘拐事件、1992年マツダ社員殺害事件などのゲリラによる被害があり、日本企業の進出は活発でない。両国間の貿易は、わが国の大幅な出超となっており、コロンビア政府はこの是正を求めているが、片貿易の是正は、同国の輸出産品がコーヒー、エメラルドなど一次産品に限られているほか、対外競争力上の問題からきわめて困難な状況にある。
[山本正三]
『福井英一郎編『世界地理15 ラテンアメリカⅡ』(1978・朝倉書店)』▽『川崎栄治他著『ラテン・アメリカ事典』(1989・ラテン・アメリカ協会)』▽『日本貿易振興会編『コロンビア』(1986・同振興会刊)』▽『大原美範著『海外政治・経済研究レポートシリーズ コロンビア』(1995・科学新聞社)』▽『三津野真澄著『コロンビアに住んで教えて』(1996・日本貿易振興会)』▽『山本進著『中南米ラテン・アメリカの政治と経済』(岩波新書)』▽『田辺裕監修『世界の地理5――南アメリカ』(1997・朝倉書店)』
アメリカの映画会社。1920年にハリー・コーンHarry Cohn(1891―1958)が中心となって設立した映画製作会社CBCを、1924年にコロンビアと改称。このとき製作担当の副社長であったコーンは、後に社長も兼務してワンマン体制をしいた。1930年代のフランク・キャプラ監督の活躍により、安物映画のイメージだった同社も、業界で評価されるようになった。キャプラが去った1940年代は、女優リタ・ヘイワースRita Hayworth(1918―1987)の主演作品に支えられた。1950年代になると、さっそくテレビ製作部門をつくり、またサム・スピーゲルSam Spiegel(1901―1985)、スタンリー・クレイマーStanley Kramer(1913―2001)、エリア・カザン、フレッド・ジンネマンなど、独立のプロデューサーや監督を支援して作品を製作することにより、社の名声を高めた。1958年にコーンが没すると、こうした人脈が功を奏し、デビッド・リーンの『アラビアのロレンス』(1962)やジンネマンの『わが命つきるとも』(1966)といったアカデミー作品賞受賞作を生み出している。しかし、1970年代に業績が悪化し、1982年にはコカ・コーラに買収された。1987年に独立を回復するが、1989年にソニーに買収され、1991年からはソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントの映画部門の中核的存在として現在に至っている。
[濱口幸一]
アメリカ合衆国、サウス・カロライナ州中央部にある同州の州都。人口11万6278(2000)。州最大の都市で、州中央地域の商工業の中心地である。印刷、織物、衣服、プラスチック、電気部品、事務用機器、ガラス製品、タイヤなどの工場がある。ブロード川とサリューダ川が合流してコンガリー川となる地点に位置し、滝線都市の一つ。1786年に州の中央部にあるという理由で新しい州都として建設され、1854年に市となった。南北戦争時の1865年に市の大部分が焼き払われた。サウス・カロライナ大学、ベネディクト大学、コロンビア大学、コロンビア神学校などがある学園都市で、南北戦争以前の住宅も残る美しい景観は有名である。
[菅野峰明]
基本情報
正式名称=コロンビア共和国República de Colombia
面積=114万1748km2
人口(2010)=4551万人
首都=ボゴタBogotá(日本との時差=-14時間)
主要言語=スペイン語
通貨=コロンビア・ペソColombian Peso
南アメリカ北西部にある共和国。1830年1月独立。北東はベネズエラ,南東はブラジル,南はペルー,エクアドル,西はパナマに接する。カリブ海と太平洋に臨む熱帯の国で,国土面積は日本の約3倍,ブラジルに次ぐコーヒーの生産で知られ,国名はコロンブスを記念したものである。
地形的にはアンデス山系が形成する起伏のある山稜と河谷,および山間盆地(国土の35%)と未開のギアナ高地とアマゾン川流域の一部(同65%)とに大別でき,さらに(1)西部太平洋岸地域,(2)カリブ海岸低地,(3)東部山脈地域,(4)中央山脈地域,および(5)東部地域に区分される。(1)は標高の割には急峻な山系,狭隘(きようあい)な河谷,高温多雨などでブエナ・ベントゥーラ以北は,金,プラチナ,木材などを産出するが,まだ開発が進んでいない。最近,南部地方でバナナ農園,油田などの開発が始まった。(2)はマグダレナ,カウカ両川の沖積低地とアンデス山系の丘陵地帯から成る。洪水がしばしばあり,低水位時でも多くは湿地で,排水の良好な沖積地以外,農牧業は不可能であった。近年,農業振興政策により灌漑農地が開発され,綿花,バナナ,サトウキビなどの栽培が始まった。(3)はアンデス山系の最東部の山地部とマグダレナ河谷から成る。気候の良好な高地盆地(サンタンデル,クンディナマルカ地方)は,早くから開発され,タバコ,コーヒー,小麦,ジャガイモなどが栽培され,より高地部のパラモ地域では,放牧が行われている。岩塩や地下資源なども豊富にあり,鉱業も興っている。マグダレナ河谷部低地は未開発だが,気候のよい周辺部では綿花,カカオ,サトウキビなどが栽培されている。(4)はアンティオキア地方とカウカ河谷に区分される。アンティオキア地方は大小さまざまな河谷盆地から成り,地形がきわめて複雑なため,永年他地域から孤立していた。植民地時代より鉱業が発達していたが,本格的な地域開発はコーヒー栽培とその加工業の創設をもって開始された。第2次大戦後,鉄道や道路が拡張整備され,外部地域との交流が容易になり,さらに発展した。カウカ河谷部は植民地時代サトウキビの栽培が盛んであった。のち,カカオやタバコの栽培や牧畜も興った。高温多湿だが土地が高い生産力をもつ地域であるため,1960年代農業改革庁がこの地域の総合開発を始め,以後急速に開発が発展し各種産業が興り,今日では伝統産業のほかに,金属,機械,化学工業などがある。河谷部のさらに南部にパティア河谷地域があるが,湿潤なため河谷内部の高地部に牧畜が行われる以外,産業は発達していない。(5)はギアナ高地の一部と,オリノコ,アマゾン両川の支流が東部山脈の東側部に形成する扇状地とが展開する地域。全般的には開発は進展しておらず,地域南部の南カケタ地方の東部山脈沿いで,小規模な農牧業が営まれているのみである。
欧米系20%,アフリカ系4%,原住民系1%,混血系75%(うちメスティソ58%,ムラート14%,サンボ3%)という人種構成にみられるように,コロンビアはメキシコとともに混血度がきわめて高い国である。19世紀後半のコーヒー産業の興隆期に大規模な南欧からの移民を受け入れて以来,外部からの新しい血統の注入はない。またベネズエラ同様,アフリカ系人種の比率がきわめて高いことも,この国の人種構成上の特徴の一つとなっている。地域的には欧米系はアンデス山系の高地盆地に,アフリカ系は太平洋岸やカリブ海沿岸低地に,原住民系はエクアドル国境地帯や東部地域に,混血は全国各地にそれぞれ分布している。社会階級構成においては欧米系や一部の混血系が大規模な土地所有者,金融業者,商工業者,あるいは高級官僚などとして,社会の上層部を支配し,社会的・経済的実権を掌握している。一方,大部分の混血系,アフリカ系あるいは原住民系の人たちは経済的側面においては各種労働者として,また政治的には権力構造の末端部の構成者として位置づけられている。
こうしたコロンビア社会の基本的な権力または階級構造に多少の変化が生じるのは,1920年代からで,それがさらに大規模になるのは,40年にガイタンの社会改革運動が展開された後であり,いわゆるビオレンシア以後(1950年代)全国的な規模になったのである。さまざまな社会経済改革が施行された結果,中小規模の商工業者,運輸業者,砂糖,綿花,精肉などの農牧業者や下級官僚,技術者,専門家などが台頭して新たに中間層を形成するにいたった。こうした社会変化は下層部にも影響を与え,彼らの政治的,あるいは階級的意識の高揚の結果,中間層をも巻き込む労働者大衆運動が各地で展開され,労働組合,労働者大衆組織が結成されたが,現在の活動は概して活発ではない。それは政党(特に自由党)から独立しておらず,労働組合独自の活動ができる状況にないからである。特に58年以来の保守自由同盟の結果,いずれもの体制内に封じ込められ,御用組合化している。社会構造の変化に対応した教育制度および内容に関する改革は十分ではない。若干の教育機関の拡充,教育科目の多様化がなされたのみである。60年代前半〈進歩のための同盟〉政策の一環として,農村部における労働者大衆の成人教育や原住民教育が華々しく宣伝された。しかし農地改革の挫折とともにこれらの教育活動や識字運動は挫折し,文盲率は40%にとどまっている。学校あるいは日常生活においては,特定地域を除き,スペイン語が使用されている。
コロンビアは南米諸国のなかで,比較的早くから政党政治が定着している国の一つである。主要な政治組織として以下のようなものがある。(1)自由党はサンタンデルの自由主義思想をその源泉にもち正式には1853年に結成され,信教の自由,地方分権,政教の分離などを党是として,約1世紀半にわたり保守党と国論を二分して,国家政治を指導してきた。工業ブルジョアジーを中核とし,組織労働者や自営農民をもその勢力に加え結成されているが,急速に社会の階層化が進行し,構成勢力内の利害関係が複雑化した第2次大戦後,多くの派閥が生まれた。(2)保守党は1849年マリアノ,オスピナを中心に結党され,伝統的特権,カトリックの擁護などを旗印としている。大土地所有者,大産業資本家,キリスト教関係者などにより構成されているが,1960年代以降内部の派閥抗争が激しい。(3)全国大衆同盟(ANAPO)は1940年代の人民社会党の流れをくむもので60年代後半より既成の政党に不満な新興社会階層を中心に勢力を結集したもの。大土地所有制の解体,貿易・金融機関の国有化,政治経済分野における民主主義的諸改革の遂行(推進)などを綱領としている。70年の大統領選挙では,わずかの差で敗れた。(4)キリスト教社会民主党はホワイトカラーや中間層の専門家,中小企業家などを結集して1959年に結成された。学生組織や労働者同盟のなかにも支持勢力を拡大しつつある。(5)共産党は1944年に結成された。中ソ論争を契機に分裂し,ソ連派は民族解放軍を,中国派は人民解放軍を組織し武力闘争を開始したがその後崩壊状態に陥った。最近再建され,都市部では平和路線を,農村部では武闘路線をとっている。しかし,労働者大衆を広範囲に結集するにいたっていない。ほかに小規模な左翼政党があるが大局に立つ政治展望に欠け,労働者,農民を十分に掌握していない。政治的圧力団体として企業家同盟,砂糖生産同盟,商業家連盟,大衆企業家連盟などがある。
歴代政府は,保守,自由を問わず対米従属外交をその基本路線としている。特に1958年以来,60年代前半には〈進歩のための同盟〉や平和部隊を受け入れたほか,アメリカ合衆国の提唱した米州平和維持軍構想にも積極的に賛意を表明した。米州諸国との関係は米州機構を通じてきわめて良好で,特にアンデス地域統合加盟諸国とは緊密な関係を維持し,その中心的役割を果たしている。隣国ブラジルとはアマゾン条約を締結し,地域開発を通じて経済政治関係のいっそうの発展を図っている。80年,中国と国交樹立するなど社会主義諸国との関係も消極的ながら維持されているが,1975年以来再開していたキューバとの国交関係は81年のゲリラM-19運動の外国公館占拠事件が原因で断絶した。
日本とコロンビアは1908年に修好通商航海条約を締結したが,実質的な関係は29年の移民の受入れをもって開始されたといえよう。カウカ河谷のパルミラ市を中心に移民者は居住し近代農業の経営を行っている。54年国交回復後,主として,技術援助や機械の輸出,コーヒー,綿花の輸入など経済面を中心に良好な関係にある。とくに,コーヒーは,アメリカ合衆国とともに最大の輸入国となっている。
1541年以来,アンティオキア地域で主として金の採掘が開始された。その後,鉱山用の食糧と荷役動物を生産・飼育するアシエンダが各地に開設された。とくに,1590年代よりレスグアルドresguardo(原住民保有地)の確保の名目のもとに,トゥンハ,ボゴダ,サンタ・マルタなどの地域の原住民共有地がアシエンダ所有者に収奪された。この過程で,現在,約23家族が大部分の耕地を所有するという大土地所有制度の原型が形成された。以後,アンティオキアの鉱工業,サンタ・マルタを中心とする海岸地域の農業,クンディナマルカ地域の農牧業がコロンビア植民地経済の中核をなしてきた。植民地時代末期のカルロス3世の自由貿易政策は,これら地域の諸産業を大いに刺激した。独立戦争の混乱期に一時停滞したコロンビア経済も1830年代には回復し,皮革,ココア,コーヒーなどの生産が増加し,貿易も活発に行われた。
国家経済は独立当初からこのように輸出産業に大きく依存していたが,その後,歴代政府はさらに,その育成と振興に努めた。なかでもコーヒー産業は18世紀後半に始まり,ククタ峡谷がその中心であったが,1850年よりサンタンデル全域へ,19世紀末から20世紀初頭にかけて,アンティオキアやクンディナマルカ地域(1910)へと栽培が拡大した。コーヒー産業の異常なまでの成長は,国内生産条件もさることながら,当時主要なコーヒーの生産国であったベネズエラやカリブ諸国が石油,砂糖,ココアなどの生産の方に傾斜するという外的条件にも大きく依拠していた。その結果,1870年から1910年にかけてコーヒー・ブームが現出した。コーヒー生産は,西部アンティオキア地域では,小規模な自作農により,また,クンディナマルカ地方では,大小さまざまな大土地所有者により担われた。欧米諸国のコーヒー産業への投資は,道路,鉄道,港湾設備,倉庫などへの投資とともに,1880年代よりさらに活発になった。自由,保守両党間の千日戦争(1899-1902)で10万人の死者が出,大規模な労働力不足が生じたため,多数の中小コーヒー生産者が破産した。コーヒー価格の低落が追打ちをかけ,外国資本を含む特定コーヒー生産者への土地と生産の集中が進行した。この傾向は1950年代になってより強まった。その一方で自作農民の零細経営化,あるいは無産者化が深化した。こうして,農業経営者のうち3%の大土地所有者が全耕地面積の60%を占有する一方で,圧倒的多数の農民は土地を欠くという事態が生じた。この傾向は他の熱帯性農産物産業にも生じ,しかも拡大されつつある。
本格的な工業化は1920年代,主としてアンティオキア地域で始まった。ここは元来,鉱工業の発展を通じて,小規模な資本蓄積があったうえに,コーヒー生産で多くの経済的余剰を創出し,その他の農産物の加工産業が興った。その後,この地域の総合開発のため多くの外資が民間や公共部門(とくに鉄道,道路)に導入され,地域の統合化や交通機関の整備を促進するとともに,より大規模な食品加工業を中心とする各種産業を創出した。この時代にはまた,全国的な規模での開発が,パナマの賠償金をもとに行われ,港湾設備,鉄道,石油産業,鉄鉱業,製糖業,バナナ産業などが興された。1930年代の世界的規模の経済恐慌を契機に,これらの工業生産力を基礎に輸入代替産業が発展した。その初期は,経済成長率は年2%に低下したが,少なくともこのとき,この地域の本格的な工業発展の基礎が確立された。
全国的な規模での産業開発はやっと1940年代より,大規模な外資の導入をもって開始された。コーヒー,バナナ,砂糖,石油,化学製品,薬品,機械などの産業部門へのアメリカ資本を中心とする外資の導入が積極的に行われた。こうした外部依存の経済構造のもとで対外債務の累積赤字,経済の停滞,インフレによる慢性的失業などが生じた。この経済的閉塞状況を打開するために,61年,経済開発十ヵ年計画が実施されたのを皮切りに,鉱業公団の創設(1967),農業総合開発計画の画定とカウカ河谷開発(1968)と国家の鉱業,エネルギー産業などの基幹産業への介入(1978),世界銀行からの融資受入れとコーヒー輸出国機構の組織(1980)などが行われた。とくに70年以降の自由党政権のもとでコロンビア経済は民族主義的性格をもつようになったが,基本的には,外国資本が国家経済の重要部分を支配するという,いわゆる欧米依存の経済的体質を依然として保持しており,そのため,大土地所有制と低生産性,零細農業と貧困化,輸出用農産物生産を優先する農業経済政策,伝統工業との有機的結合を欠如した工業開発,投機的な鉱物資源の開発などの基本的な諸問題が未解決のまま放置されている。この解決なくしては現在苦悩する経済的後進性から脱却することは困難である。
先スペイン期には,北部,大西洋岸地域にカリブ系原住民が,また中央部から南東部にかけてアンデス系の原住民が居住していた。なかでも比較的高度の文化を有していたのはクンディナマルカ地方のチブチャ族であった。すでに1499年スペインの征服者,アロンソ・デ・オヘダがウラバ地方にその足跡を残していたが,本格的植民事業は1541年,アンティオキアの鉱物資源(金)の開発をもって始まった。以後全般的植民地支配がボゴタを中心にして展開された。アルカバラ(取引税)や人頭税などによる封建的な経済余剰の収奪は過酷なもので,1781年クンディナマルカのコムネロスが,85年にはカウカ河谷の貧農や奴隷が反乱を企てた(コムネロスの反乱)。91年A.ナリーニョー(1765-1823)はこうした社会的状況のなかで独立を企図したが失敗した。1819年植民地解放軍はサンタンデルやボリーバルの指揮のもとにボヤカの戦で勝利し,グラン・コロンビアとして独立を達成した。30年,現コロンビアの地域はヌエバ・グラナダ共和国として分離独立し,サンタンデルが初代大統領に就任した。彼は国内産業の育成に尽力したが,膨脹する支出の財源確保のため既存の輸出産業の発展に努力しなければならなかった。そのために原住民の保有地が1839年に,また教会の領有地が61年に没収され,労働生産性の見地から奴隷制が廃止された。綿花,コーヒー,織物などが重要な外貨獲得源として,この国の経済構造上に位置づけられた。40年代に自由党はサンタンデル政権が育成した産業資本家を中心に結成されたが,大土地所有制を容認し,輸出産業を育成,発展させるという国策に関しては保守党と同じであった。一方,教育,宗教については両党間に大きな意見の不一致があった。自由党は86年まで政権を握ったが,その間,きわめて積極的な自由主義的あるいは改良主義的政策を遂行した。
国家政治体制も1832年には連邦制となり,さらに58年には合州国制となった。1850年以降のコーヒー産業の興隆によって,教育,出版,科学技術において顕著な影響が現れた。それは大衆の購買力を増大させたからである。しかしこの自由貿易政策のもとに安価な欧米製品が流入し,国内の競合産業に大きな打撃を与えた。こうした自由党の自由主義的,あるいは地方分権主義的政策は,やがて自己の存立基盤を危うくし,党の分裂を招来した。独立派と急進派の確執は内戦に発展し,86年ついに支配能力を喪失した自由党は保守党に国家権力を奪取された。以後保守党は2度にわたる自由党の反撃(1895,99)を撃退して1930年まで国政を担当した。この間貿易,借款などを通じアメリカ合衆国の政治的・経済圧力が強まり,1903年パナマが分離独立させられた。パナマ独立に対するアメリカの賠償金2500万ドルと多量のアメリカ資本を基礎に各地の経済開発が行われた。新規の産業は多くの農村人口を労働力として都市に吸引する一方で,牧畜などの伝統的産業が衰退した。第1次大戦後の世界的経済不況は国家経済を直撃した。投機的な投資と巨大な公共支出で物価が高騰したうえ貿易条件が悪化し,輸出産業は停滞して,多くの失業者が生じた。輸入代替産業への転換も技術,資金などの制約から順調に運ばず深刻な事態を招来し,29年の反政府暴動は1400名の死者を出した。34年自由党左派のアルフォンソ・ロペスが反政府勢力を結集して大統領に当選した。税制の改革,財政の健全化,未耕地の分配などで労働者,農民大衆の不満を鎮静する一方,政教の分離を断行,教会の政治経済権力を規制し,外資を統制し,民族資本の育成を図った。政策は効を奏し,保守党勢力は弱体化して38年の大統領選挙には候補者も立て得なかった。第2次大戦後アメリカの圧力と1934年以来の大幅な社会構造の変化の結果,自由党内部で左右両派の間に深刻な対立が生じてきた。46年保守党は自由党の内紛に乗じて政権を奪回した。労働者,農民に対する弾圧が随所で始まり,世界政治の冷戦体制がこれに拍車をかけた。ガイタンの暗殺とボゴタ暴動はこうした状況の中で発生し,地方都市にも波及した。耕地破壊,工場占拠,農場の焼打ちなどが継起した,いわゆるビオレンシアの時代である。クーデタで大統領となったロハス・ピニーリャのもとで事態は終息するかに見えたが,59年,彼は軍部右派勢力に打倒された。徐々に階級的色彩を鮮明にする政治動向を前に,自由,保守両党は伝統的な政治構造を維持し,発展させるために58年,向こう16年間の政治闘争を凍結する休戦協定を締結した。両党は国民戦線を結成し,中央および地方の政治権力を掌握し,諸問題の抜本的解決を回避しながら,強権で労働者,農民大衆の政治経済的諸要求を封殺しようとした。
この間依然として欧米依存の諸政策のもとで,政府は土地改革を含む農業開発や鉱工業の促進,地域鉱工業開発を企図したが,それは民族経済の育成,国家経済の均衡発展を目標とするものではなく,むしろ社会矛盾を拡大し深化させた。そのため労働争議や土地占拠,ゲリラ活動などが頻発した。74年,16年間の協定解消後初の完全自由選挙で自由党左派のミケルセンAlfonso López Michelsen(1917- )が当選した。食糧難とインフレに困苦する国民大衆は彼の大胆な政策の転換を期待したが,相変わらず輸出産業に直結する公共部門への巨額の投資が続行され,そのうえ,75年より原油の自給自足体制が崩壊し,石油輸入のための多額の外貨支出は国家財政をさらに逼迫させた。インフレは78年には20%に達し,失業率も年々上昇し,78年には18%を記録した。同年行われた選挙で自由党右派のトゥルバイJulio Cesar Turbay Ayala(1916- )が,労働者大衆がボイコットするなかでわずかに20%の支持を受けて当選した。トゥルバイは政権の安定化を画策して国民戦線方式を踏襲し,閣僚ポストを保守党との間で折半した。物価高騰,失業,生活水準の低下などによる社会不安の増大から一段と悪化した社会状勢の打開のため,戒厳令を敷き,治安法を施行して,個人的自由を制限し,ストを禁止し,報道言論の統制を行い,軍隊を出動させ,社会秩序の維持に当たる一方,灯油,公共料金,輸入関税の引上げなどを断行して国家財政の改善を画策するとともに,既存の各種経済開発の見直しを行い,財政の安定化に努力している。彼には輸出産業の育成,鉱工業の促進という従来の経済政策を変更する意思はまったくなく,インフレ(1980年30%),失業,生活水準の低下という積年の諸問題は解決されそうにない。
執筆者:上谷 博
アメリカ合衆国サウス・カロライナ州中央部にある同州の州都。人口11万7088(2005)。同州最大の都市で,州中央地域の商工業の中心地。印刷,織物,衣服,プラスチック,電気部品,事務用機器,ガラス製品などの工場がある。コンガリー川の遡行の終点に位置し,1786年,州の中央部にあるという理由で新しい州都として建設された。1805年に村となり,54年に市制施行。サウス・カロライナ大学,ベネディクト大学,コロンビア大学,コロンビア神学校などがある教育都市でもある。
執筆者:菅野 峰明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
南アメリカ最北部に位置する共和国。先スペイン期には,ムイスカ(チブチャ)などの首長制社会があったが,1536年ヒメネス・デ・ケサーダに征服された。植民地時代は49年ボゴタに設立されたアウディエンシアによって統治され,1717年および39年には,ヌエバ・グラナダ副王領がペルーから分離設定された。ボリーバルの指導による独立戦争後,それがそのまま大コロンビア共和国として独立したが,彼の死後1830年にコロンビア,ベネズエラ,エクアドルに分裂した。その後,地主,教会などを背景にした保守派と,企業家,商人などに支持された自由主義派の対立が解消せず,20世紀に入って暴力化し,ボゴタソと呼ばれる首都の暴動事件まで引き起こした。1958年から74年まで,保守派と自由主義派が交互に政権を担当する協約が実行されたが,その後,麻薬問題や,それとからまった国内ゲリラ問題が深刻化して,国内政治の混迷が続いている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…気候風土への適応性強く,日本でも多く飼われていた),ポールワース種Polwarth(オーストラリア原産。毛質も肉質もよい),コロンビア種Columbia(アメリカ原産。白面大型)などがある。…
…面積21万3000km2。北緯83゜07′に位置するコロンビア岬はカナダの最北端。ノースウェスト・テリトリーズに属し,山地・丘陵性で氷河が多く,海岸にはいたるところフィヨルドがある。…
…スペースシャトルが宇宙へ運搬できる荷物の重量は打上げ場所などの条件によって違ってくるが,最大約30tである。スペースシャトルによる宇宙飛行は1981年4月12日の〈コロンビア〉が最初で,96年6月まで総計78回の有人飛行が行われている。 スペースシャトルのように翼をもった宇宙ロケット計画は日本でも進行中である。…
…面積8万0432km2,人口370万(1996)。州都および最大都市コロンビア。州名はイギリス王チャールズ1世(ラテン語でカロルス)にちなむ。…
※「コロンビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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