対償を受け、不特定の相手に対して、性関係をもち性サービスを提供すること。具体的な売春の形態は、歴史とともに大きく変化している。
[山手 茂]
もっとも古い形態は、寺院売春temple prostitutionである。古代インドでは、バヤデーレ(舞姫)が礼拝者に身をまかせたが、これは、上流階級の幼女が寺院に仕えて舞姫に育てられるデワダーシスと、下層の娘が職業舞姫にされるナーチュニとに分かれ、後者が売春を行った。古代エジプト、フェニキア、アッシリア、ペルシアなどにも同様な風習があった。古代ギリシアにおいては、売春の形態は多様化した。アテナイ(アテネ)には、文学や政治を論じる高級娼婦(しょうふ)ヘタイレ、主人夫婦に仕える妾(しょう)コンクビネス、比較的高級な売春婦アウレトリデス、下級売春婦ディクテリアデスなどがいた。下級売春婦は、アテナイ近郊の一郭に居住させられる公娼であった。これらの売春婦は、売買奴隷のほか、捕虜、さらわれた女子、市民の捨てた女子などからなっていた。東南アジアでも類似の記録がある。古代ローマにも、公娼と私娼があり、最盛期には男色が行われたり、売春婦が豪華な行列で練り歩いたり、共同浴場でマッサージを行う売春婦が現れたりしたといわれている。
中世ヨーロッパでは、売春は非難されたが、現実には公娼売春制度は保護され、徴税された。十字軍遠征など戦争の際には、大規模な売春婦部隊が従軍した。また、農村経済の崩壊などのため生活困難に陥った女子は売春婦になり、国際的大市が開かれるライプツィヒ、フランクフルト、リヨンなどに集まった。宮廷では吟遊詩人たちが貴婦人たちに売春をしていた。
近代に入ると、資本主義が発達するとともに売春が盛んになった。性が商品化され、生活困難な農民や労働者の娘は、需要に応じて売春婦になった。ロンドンの売春婦は、1777年には7万5000人であったが、1840年には16万人、1860年には30万人に増加したと推計されている。他方、15世紀末からコロンブス一行の水夫たちがアメリカ大陸からもち帰った性病(梅毒)が、ヨーロッパ各国に広がり社会問題化した。こうして、売春問題は、貧困問題と性道徳と性病との三重の問題として大きく取り上げられるようになった。
売春問題に対する対策は、教会や国家によって行われてきたが、19世紀から20世紀にかけては、救世軍をはじめとするキリスト教団体や女性解放団体による宗教的、人道的な廃娼・売春防止運動が活発になり、各国で次々に売春禁止法が制定されてきた。しかしながら、「もぐり売春」は各国とも依然として行われていた。
[山手 茂]
売春は、世界各地で交易の拡大と植民地支配、軍事基地の設置とともに、時代を追って広がっていった。19世紀ヨーロッパにおける売春の急増もまた大都市および軍港周辺に集中していたが、第二次世界大戦を経て、とくに東アジアと東南アジア、南米では、駐留アメリカ軍将兵の需要に応じた「基地売春」が各地に共通の現象となった。近代化、あるいは中産階級の勃興と時期を同じくすることが多い売春防止の社会的気運も、東アジア、東南アジア、南米では、植民地支配から解放されて国際経済開発の潮流に巻き込まれる20世紀後半に、とくに目だっている。
中東をはじめとするイスラム社会では、売春と認められる行為は聖典によって禁止されており、重い法的・宗教的罪を負う。
[青山 薫]
日本においては、古代には神社の巫女(みこ)の売春、門前町の売春など、寺院売春が行われていた。また、『万葉集』にみられる遊行女婦(うかれめ)や、室津(むろつ)・神崎(かんざき)(兵庫県)など船着場の遊君など、旅行者を相手にした売春もあった。鎌倉時代には公娼制度が確立したといわれる。封建社会の確立に伴い、京都の島原、江戸の吉原などに遊廓(ゆうかく)が形成され、遊女(ゆうじょ)が公認された。遊女には階層があり、なかでも花魁(おいらん)は芸事と教養に秀で、公家や武家、豪商をおもな顧客とする高級遊女であった。私娼は禁止されたが、実際には夜発(やほち)、夜鷹(よたか)、辻君(つじぎみ)なども増加した。また、町芸者、湯女(ゆな)などの売春も行われた。街道筋の地方小都市では旅籠(はたご)屋の飯盛女(めしもりおんな)の売春が黙認されていた。
明治維新ののち、1872年(明治5)娼妓(しょうぎ)解放令が出され、公娼は解放されるかにみえた。しかし、実際は自由営業の娼妓に場所を貸すという名目で遊廓は存続し、前借金、年季奉公によって拘束された売春が公然と行われ続けた。さらに、娼妓と一線を画していた芸妓の売春も一般化し、カフェーの女性従業員(「女給」とよばれた)や料理屋の雇仲居(やとな)にも売春が広がった。また、江戸時代から第二次世界大戦前まで、日本から当時貿易の拠点であったシンガポールなどへ売春に行った「からゆきさん」とよばれた売春婦がいた。第二次世界大戦中には、従軍「慰安婦」を戦地に送って日本軍将兵を対象に行わせる売春が組織された。「慰安婦」には植民地から強制連行された人が多く、軍票による対価は少額だったうえ戦後無価値になったなどの理由から、後に国連人権委員会United Nations Commission on Human Rights(UNHCR)によって「現代の奴隷制」の一形態であったと指摘されている。戦後には、日本国内で占領軍将兵向けの「慰安施設」がつくられ、戦争で夫を亡くした女性たちが多く働くことになった。
[山手 茂・青山 薫]
日本では1956年(昭和31)5月に売春防止法が制定された。この法律の目的は、おもに公娼制度と人身売買の禁止、露出した街娼の取り締まり、売春を行うおそれのある女子の保護更生に置かれているので、「対償を受け、不特定の相手方と性交すること」を禁止してはいるものの、単に性行為によって対償を受ける単純売春や、個人がそのことによって生計を立てること自体に対しては罰則がない。また、「性交」の定義もない。このため、旧赤線区域(集娼地域)における公然とした娼家経営は消滅したが、現在でも風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(昭和23年制定)によって認可された「性風俗産業」において、依然としてさまざまな形の売春=性サービスを供する営業行為が盛んに行われている。
売春を行う者も、高校生、大学生、主婦など、幅広くなってきているといわれ、その動機も、好奇心や小遣い稼ぎから、孤独を紛らすため、学費や生活費をねん出するためなど多様化している。1990年代には、中学生、高校生など低年齢の女性の売春を「援助交際」と称する風潮や、若い男性にもホストなどの形態で売春が広がっていることが社会問題となった。
他方、1980年代から1990年代にかけて、開発途上国から出稼ぎにきた女性の売春や、暴力団に搾取されている売春女性の存在が注目された。そこで、2003年(平成15)に発効した国連国際組織犯罪防止条約を補完する人身取引禁止議定書の批准も視野に入れた日本政府は、2005年に刑法を改正し人身取引罪を新設した。このことによって、売春防止が国際的な人身取引の側面からも図られるようになった。
国際労働機関International Labour Organization(ILO)が2012年に発表した「強制労働に関する報告書」によると、世界中で約2100万人が自分の意思に反した労働を強要されており、そのうち450万人(22%)が性的搾取を強いられているという。
[青山 薫]
1980年ごろからは、アジア諸国への「買春(かいしゅん)ツアー」参加者が増加し、その多数を占める日本人男性が世界的に非難されていた。なかでも児童買春(子ども買春)はとくに問題視され、2000年の『世界人口白書』(国連人口基金United Nations Fund for Population Activities=UNFPA)によると、毎年200万人の女児が性産業で働かされていた。そこで、アジアへの観光客による児童買春の根絶を目的とした国際的な非政府組織(NGO)の活動が行われるようになった。1991年(平成3)から活動を開始した「アジア観光における子どもの買春を根絶するための国際キャンペーン」The International Campaign to End Child Prostitution in Asian Tourism(ECPAT(エクパット))には、2012年時点で世界70か国以上の団体が参加している。
日本国内でも児童買春防止・取締り対策が進められるようになり、1999年5月には児童買春児童ポルノ処罰法(平成11年法律第52号)が制定された。また、地方自治体のなかには「青少年保護育成条例」などを制定して、法律とは別に、18歳未満の青少年に対する買春を禁止しているところもある。
もっとも深い人間関係ともいわれる性関係が商品として取引される売春は、AIDS(エイズ)(HIV感染症)などの性感染症の危険にとどまらず、人格や人間の尊厳にかかわる問題とも考えられている。
[山手 茂・青山 薫]
しかし一方で、ヨーロッパ、アジア太平洋、南米諸国を中心に、売春に従事する人びとによる売春を正当な労働として社会に認めさせようという運動もあり、1980年代からグローバルに展開されてきている。ほかに生活の糧を得る手立てがない人も好んで売春をする人も含め、労働者としての権利を獲得することで、売春婦(夫)に対する差別や搾取を軽減し、交渉力と安全を確保しようというものである。その影響もあって、2010年代までに、オランダ、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、南米各国、アメリカのネバダ州などで、売春が合法化(売春に特化した法規制を受ける)または非犯罪化(ほかの労働と同じ法規制しか受けない)されている。売春合法化・非犯罪化の背景には、AIDSと人身取引を予防するには、性産業を取り締まるより味方につけるほうが効果が高いという各国政府の判断や、税収への期待もあるといわれる。
また、売春は犯罪ではないが買春を犯罪とした国は1999年に法制定したスウェーデンが最初で、ノルウェー、アイスランドが続いている。
[青山 薫]
『中山太郎著『売笑三千年史』(1956・日文社)』▽『神崎清著『売春』(1974・現代史出版会)』▽『金一勉著『日本女性哀史』(1980・現代史出版会)』▽『佐伯順子著『遊女の文化史――ハレの女たち』(1987・中央公論社)』▽『V・ブーロー他著、香川檀他訳『売春の社会史――古代オリエントから現代まで』(1991・筑摩書房)』▽『T・D・トゥルン著、田中紀子・山下明子訳『売春――性労働の社会構造と国際経済』(1993・明石書店)』▽『「女性の人権」委員会編『女性の人権アジア法廷――人身売買・慰安婦問題・基地売春を裁く』(1994・明石書店)』▽『総理府編『売春対策の現況』(1997・大蔵省印刷局)』▽『藤目ゆき著『性の歴史学――公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』(1997・不二出版)』▽『J・G・マンシニ著、寿里茂訳『売春の社会学』(2000・白水社)』▽『R・ワイツァー著、岸田美貴訳『セックス・フォー・セール――売春・ポルノ・法規制・支援団体のフィールドワーク』(2004・ポット出版)』▽『要友紀子・水島希著『風俗嬢意識調査――126人の職業意識』(2005・ポット出版)』▽『青山薫著『「セックスワーカー」とは誰か――移住・性労働・人身取引の構造と経験』(2007・大月書店)』▽『井上理津子著『さいごの色街 飛田』(2011・筑摩書房)』▽『山崎朋子著『サンダカン八番娼館』(文春文庫)』▽『福田利子著『吉原はこんな所でございました――廓の女たちの昭和史』(ちくま文庫)』
一般に,双方の合意に基づき,金品を対価として不特定多数の相手との間に行われる,ある程度常習的な性的行為をいい,売色,売笑などとも称される。金品ではなく好意や愛顧を得ることを目的とするもの,また金品が対価とされても特定個人を相手にするものは,通常売春とはみなされない。ここにいう性的行為とは性交そのものを指し,類似の行為とは区別されることが多い。なお,金品の授受に主眼を置いた,常習でなく1回だけの行為でも売春が成立すると解されることもある。ただし上の定義は,あくまで近・現代において用いられるべきものにすぎず,時代により文化により何を売春とみなすかは多様で,一義的な規定は困難である。以下の記述においても,近代以前に関しては必ずしも冒頭の定義が適用されえない場合があることに留意されたい。
売春者の大多数は女性であり,売春婦,売笑婦,娼婦などさまざまな呼称があるが,男性の売春(男娼)も当然存在する。この項では女性の売春を中心として,西洋と日本につき概観を試みる。男娼については〈男色(なんしよく)〉の項目を,さらに日本における売春の法律的定義,罰則などについては〈売春防止法〉の項目を参照されたい。
売春は,俗に〈最古の職業〉と称されたりするが,その起源は明確ではない。ただ,都市の成立,およびそれに伴う商業活動や人的移動の活発化が主要な外的条件として指摘できるかもしれない。売春の古い形態としてしばしば引かれるのが,ヘロドトス《歴史》に見られる〈神殿売春〉である。《歴史》第1巻199節によれば,バビロンの全女性はミュリッタMylitta(ギリシアのアフロディテに相当する地母神)の神殿内で,一生に一度必ず見知らぬ男と交わらなければならず,その金額はいくらでもよく,どんな男でも拒まれることはなかったという。同様の風俗はキプロスにもあると記されているが,これは売春というよりも,大地の豊穣を祈願する宗教的行為,ないしは通過儀礼と考えたほうがよさそうである。このような〈神殿売春〉は,小アジアの各地やインドにもあったといわれている。
旧約聖書にも売春に関する記事が見られる。イスラエルの民は,同胞の子女を売春婦とすることや,子女みずからが神殿娼婦や神殿男娼となることを禁じているが(《レビ記》19:29,《申命記》23:17),売春それ自体を禁じていたわけではなく,外国人の売春行為はこれを容認していたし,同胞の違反者に対する罰則も,祭司の娘が〈淫行〉をなす場合は火刑とすべきこと(《レビ記》21:9)を除けば規定はなかった。実際,各地に多くの娼家があったと思われ,売春婦はエルサレムの神殿にもうでることは禁じられたものの,舶来の品々で身を飾って豪奢を誇っていたという。
古代ギリシアにも売春はあった。ギリシア語で〈売春〉を意味した最も普通の言葉はporneiaで,売春婦をpornē,男娼をpornosといった。いずれもpornanai(売る)と同系の語で,英語のpornography(原義は〈売春婦について書かれたもの〉)などの語源となっている。立法者ソロンはアテナイに初めて公共娼家を設けたと伝えられ,そこに属する売春婦たちは,それとわかる服装を強制され,他の街区への移動や宗教儀礼への参加を禁じられていたという。このほかギリシアには,厳密な意味での売春婦と規定するには微妙であるが,宴席での歌舞音曲をこととする女性たちや,ヘタイライの名で知られる階層があった。とくに後者の中からは,彫刻家プラクシテレスのモデルとなったフリュネ,政治家ペリクレスの寵を得て多くの芸術家に囲まれたアスパシア,実在は疑わしいがアレクサンドロスその他の王に愛され,キリスト教の聖女伝説にもその名を残すタイスなど,著名な女性が出ており,文化史上注目に値する。
一方,古代ローマでは,婦徳に高い敬意が払われた初期は別として,とくに帝政期以降は売春が殷賑(いんしん)を極めたことは疑えない。ユウェナリスやオウィディウスの詩や,ティベリウス,カリグラといった皇帝による登録,課税などの売春統制策がそれを証明している。法的な規制はかなり厳しかったらしく,売春婦は一定の服装,黄色に染めた髪などを義務づけられ,市民としての権利も制限されていたようである。キリスト教徒の皇帝が出現する4世紀以降には売春禁止令が出された。とくに6世紀初めのユスティニアヌスの法令は有名で,それは売春婦自体よりも仲介業者,娼家経営者の規制を目ざすものであった。彼はまた,売春婦の救護,更生にも熱心で,これにはもと売春婦であったという帝妃テオドラの意向が影響したとされる。なお,英語prostitutionなどは,元来ラテン語のprostituere(〈売物にする〉の意で,原義は〈前に置く〉)に由来する。
下って中世ヨーロッパにおいては,夫婦間の生殖を目的とする性交のみをよしとするキリスト教のたてまえはあったものの,一般に売春にはかなり寛容であったと思われる。娼家は多くの都市で登録制とされ,公的な歳入源となっていた。フランスのトゥールーズ,アビニョン,モンペリエ,イタリアのボローニャ,ラベンナ,ナポリ,イギリスのロンドンなどは大規模な娼家群をかかえていたことで知られ,ドイツにも娼家は各地に存在した。大きな年市が開かれる都市には売春婦が集まり,十字軍その他の遠征には多数の従軍売春婦が同行したといわれる。
宗教改革の時代にはカトリック,プロテスタントを問わず売春は厳しく罪悪視され,とくにトリエント公会議(1545-63)以後カトリック圏では禁欲の風潮が強まり,ピューリタン革命期のイギリスでは姦通の再犯は死刑の適用も可能な重罪とされた。ハプスブルク家のマリア・テレジア(在位1740-80)の布告に代表的に見られるように,売春婦は丸坊主にされて道路掃除にかりたてられるなど,各国で厳罰が繰り返し下されたが,売春の根絶は不可能であった。
産業革命期には農村から都市への人口移動が顕著となるが,本格的な工業化以前の初期には,都市の女性の主たる職業は家事奉公であった。奉公人は法律によって規制される場合が多く,ウィーン(1810年公布の奉公人令)では警察が求人・求職業務を管轄し,転職にあたっては前の雇主の人物証明書(故意に酷評する例も多い)が必要とされ,8日を超える失業者は都市から追放された。人物証明書という条件はイギリスの場合も同様であった。こうした規制の下では,失業を恐れるあまり売春という職業に就かざるをえない女性の数も多かった。売春を全面的に禁止することは不可能であるという歴史的教訓から,産業革命期の西欧では登録による公認策がとられ,売春婦の衛生管理を含む監視システムが形成された。1795年のベルリンには政府公認の娼家54軒,登録された娼婦257人,1820年のパリではそれぞれ178軒,2800人であった。しかし,登録しない私娼の数は圧倒的に多く,また公娼にはしだいに客がつかなくなった。1844年のベルリンでは公認の娼家,娼婦数は26軒,240人である。当時の警察官吏の手になる匿名のパンフレット《ベルリンの売春とその犠牲者》(1843年ころ調査)によれば,ベルリンに約1万,パリに約3万,ロンドンに約9万の売春婦がおり,ベルリンでは男22人に売春婦1人の比率である。売春婦の実態については,パリのA.J.B.パラン・デュシャトレ,ロンドンのH.メーヒューなどの調査記録があり,メーヒューは50年代のロンドンの売春婦数を約8万と推定し,その分類を行っている。貴族相手の着飾った高級娼婦,処女売買,街娼(前職は婦人帽つくり,お針子,家事奉公人など),売春宿の娼婦,〈水夫の女〉や〈兵隊の女〉,女工の人目をしのんだ売春など。当時の女工やお針子はまともに働くだけでは生活できず,こうした社会状況が彼女らを街へ押しだしたのである。
メーヒューらの調査は社会改革を目ざすもので,イギリスでは1870年代以降J.バトラーを中心に廃娼運動が盛んになる。運動の直接の契機は性病法(1864,66,69)の制定で,同法は売春婦の定期検診を義務づけたものであったが,同時に売春行為を法的に容認した。バトラーらの運動は86年に実を結び,イギリスは世界に先駆けて公娼制を廃止する。その後第2次大戦までに,運動はバトラーが組織した国際廃娼同盟(1875創立)を通じてヨーロッパ諸国で進展し,廃娼が遅れたフランスも1946年に踏みきった。今日,各国は売春に関するなんらかの法律を設けており,その内容は,単純な売春行為,売春の相手方(客),売春による所得に寄生するいわゆる〈ひも〉,売春媒介行為,売春施設の経営や婦女子を雇って売春させる売春業(管理売春)などにかかわる規定に整理することができる。このうち,ひも,売春媒介行為,管理売春は多くの国(イギリス,フランス,ドイツ,イタリア,スイス,デンマーク,ブラジル,アメリカの多くの州など)で禁止されている。道路や公共の場において,また公然と人目をひく方法で売春の目的をもって勧誘することを禁じるイギリスやドイツなどの例もあるが,これらの国を含め多くの国では単純売春や相手方は処罰の対象となっていない。州ごとに法制を異にするアメリカでは,単純売春を処罰する州(ニューヨークやイリノイなど)が若干あり,浮浪罪の取締り規定によって単純売春を処罰しうる結果をもたらしている法制をとる州が多い。なお旧ソビエト連邦でも,ロシア共和国刑法典(1960公布)は売春宿などの堕落施設の経営および淫事の仲介を処罰する規定を設けていた。いずれにせよ法律内容のいかんにかかわらず,売春は種々の接客業と結びついて多様な形態をとりつつ存在し,不法組織との結びつき,衛生管理など多くの問題をかかえている。
執筆者:山田 宏
商取引の一種として売春が発生したのは日本でも古いはずであるが,文献上でさかのぼれるのは《万葉集》に登場する遊行女婦(うかれめ)を最古とする。ただし,その営業形態などの詳細は不明であり,売春婦の系譜として巫女(みこ)または流浪芸人をあてる説も確証に乏しい。一般的に古代において売春が成り立ったのは,旅行者などを対象としてのものと推定されるが,次の平安時代に著名となる売春地帯が,江口,神崎などの港や宿駅であることは,旅と売春との密接な関係をうかがわせる。中世以後における交通の発達と都市の発展とは,売春の機会と人員とを増加させ,近世初頭には豊臣秀吉が遊女を一区域に集める公娼制を採用した。公娼制は江戸幕府によって継承され遊廓となったが,それは都市の売春を無秩序に拡大させないことと,遊廓業者による独占を目的としたものであった。しかし,幕府の売春政策は不徹底で多くの私娼を容認した。その背景として,遊廓を悪所(あくしよ)と呼びながら,売春そのものを罪悪視しない風潮が存在したことが挙げられる。一方,売春の営業には情緒的要素を介在させることが多く,古代の白拍子(しらびようし),近世の上級遊女や芸者における芸能はその一例である。とくに,近世において一部の芸能が遊里を舞台に著しく発達したことは,遊里の社交機関的性格によるといわれ,ほかに社交場を形成しえなかった特殊状況とともに注目される。
維新後,明治政府は1872年(明治5)に〈娼妓解放令〉を公布したが,実際には公娼制を整備して強化を図った。しかし,情緒的要素の低下した公娼は有力な客を獲得することができず,大正期を境に数字上でも私娼が上回るに至った。私娼のなかにも風俗的流行などによる多様化が見られ,営業形態として巡回売春などが出現し,街娼に外国風の高級娼婦が加わるなど年代によって激しく変化した。なお,〈からゆき〉と呼ばれた東南アジア方面への出稼売春婦の存在と,第2次大戦中に東洋各地の戦場に軍が従軍慰安婦による売春施設を設置したことは,近代史の一面を示す。戦後,占領軍の指示によって公娼制は廃止されたが,日本政府は直ちに特殊飲食店と名称を変えて存続を図り,それらの営業許可区域を赤線または青線で指定した(これを特飲街,赤線地帯などといった。〈赤線・青線〉の項目参照)。もっとも,占領軍は売春そのものを否定したわけでなく,パンパンという名の街娼をはんらんさせたことによって売春は確実に拡大した。1956年には売春防止法が成立し,売春に対し国が初めて悪と公認した。しかし,売春を目的とする前借金は否定されたものの,売春を根絶することはできず,新しい風俗で擬装した売春営業が次々に出現している。それらが非公認営業であるため売春価格は上昇しており,一部の不正集団に利用される結果となっている。最近では,海外の売春婦を目的とした〈買春ツアー〉が流行し,または東南アジアから売春婦が流入するなど,国際的な問題も生じている。なお,売春の特殊形態としては男娼があり,また役者買いやホストクラブなどのように女性が客となる例が少数ながら存在する。
→公娼 →私娼 →廃娼運動
執筆者:原島 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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