1920年(大正9)ころから使用され始めた文学用語。作者自身とわかる人物が〈私〉として作中に登場し,〈私〉の生活や想念,目撃見聞した出来事を虚構を交えずありのまま語ったとみなされる小説をいう。これに類似するものに,ドイツのイッヒロマン(主人公が一人称で語る小説)や自伝があるが,私小説は近代日本の特殊性につよく規定される点でそれらとは異なる。最も日本的な文学形態だけに,日本的な偏りを批判されることが多かった。
用語例として〈私小説〉が確立される以前,田山花袋《蒲団》(1907)が赤裸々な恋愛感情を表現したのが私小説の事実上の発祥とされている。ヨーロッパの自然主義の影響による事実尊重と近代自我拡充の欲求が結合して私小説を生んだのである。しかし花袋のように,事実尊重は,公認の社会道徳から逸脱した私的側面,主として男女の情痴や破れかぶれの生活をえがく方向に向かい,岩野泡鳴〈泡鳴五部作〉(《放浪》《断橋》《発展》《毒薬を飲む女》《憑き物》,1910-18),近松秋江《疑惑》(1913)などをへて,葛西善蔵の苛烈で自虐的な自己剔抉(てつけつ)に達し,《子を連れて》(1918)や《湖畔手記》(1924)を生んだ。
そこまでいくと赤裸々な自己暴露も,人生の卑小さ醜さの底での自己観照,自己救済に転ずる契機をつかむが,それが私小説の究極的形態としての心境小説になってゆく。心境小説の典型には透明な死生観を述べた志賀直哉《城の崎にて》(1917)があげられる。心境小説にいたって私小説は自然主義風の暗さを脱したため,大正中期以降は《白樺》派や佐藤春夫,芥川竜之介ら芸術派までも手を染めるようになっていった。この段階で私小説の日本的特異性が気づかれ始め,〈私小説〉が概念として確立され,私小説論議が盛んになった。その中で中村武羅夫〈本格小説と心境小説〉(1924)は心境小説批判の側に立ったのに対し,久米正雄〈私小説と心境小説〉(1925)は本格小説を通俗的と決めつけ,私小説こそ人の肺腑をつく芸術の本道であるとする擁護の立場に立っていた。
私小説の長所はつくりごとや虚飾を去った自己認識を通じ,人間性の醇化(じゆんか)と救済に向かい,東洋的悟道,全世界と自己の宥和(ゆうわ)に達するところにある。反面その弱点は第1に,裸一貫の〈私〉の経験,思索に忠実たらんとするため,作品に社会的広がりが乏しくなることである。作品が私的日常性の範囲に限定され,みすぼらしい貧乏生活,主観的想念の自己満足的表現になりやすい。第2には〈私小説演技説〉が伊藤整により唱えられたように,私小説を書くための作者の意図的な自己演技がいつわりなきものであるべき生活をゆがめかねない。第3には,作品世界が実生活と別次元に立つことを忘れ,作品と実生活の混淆が生じがちである。こういう得失の検討はすべての私小説論でなされてきたが,中でも小林秀雄《私小説論》(1935)は重要である。小林はその中で〈社会化した私〉というキーワードを用いて私小説を批判しつつ,その批判を通じて否定しえぬ〈私〉の存在することを指摘した。
このように私小説について特徴的なのは作品と論議とが同程度の重要さをもって発表されてきたことである。小林秀雄や後の中村光夫《風俗小説論》(1950)(風俗小説)の批判にもかかわらず私小説は盛んに書かれていたのである。その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《無限抱擁》(1921-24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。そして前者を調和型心境小説,後者を破滅型私小説に分ける解釈が後に伊藤整《小説の方法》(1948)と平野謙〈私小説の二律背反〉(1951)によって完成,定着していった。伊藤の《小説の方法》と,〈私小説の二律背反〉を含む平野謙《芸術と実生活》(1958)は私小説論の最重要文献である。
作品では上述したもののほか徳田秋声《風呂桶》(1924),宇野浩二《枯木のある風景》(1933)ら先行世代の仕事をはじめ,川崎長太郎《路草》(1934),佐多稲子《くれなゐ》(1936),中野重治《歌のわかれ》(1939),太宰治《東京八景》(1941),上林暁《聖ヨハネ病院にて》(1946),外村繁《澪標(みおつくし)》(1960)など枚挙にいとまがないほどである。これらは作品の規模,方法がまちまちながら,その核に〈私小説〉をもっている点で共通する。そこからも私小説は各種の変形を含みつつ近代日本文学の中の常数になっていたと見ることができよう。私小説を他の方法とつき合わせるとか,戯画化するという例もそこから当然考えられるが,その例としては伊藤整《得能五郎の生活と意見》(1940-41)があげられる。
第2次大戦後,私小説は近代的自我を阻害し,近代小説の成立を妨げるものとして手きびしく論難されたが,その生命力は強靱で,旧来の作家のほか新しい作家たちも私小説を執筆している。その中のかなりの部分は私小説への批判や提言に対応する形で私小説の変質を実現しつつある。藤枝静男が《空気頭》(1967)でシュルレアリスム風のフィクションを混合した上に,グロテスク性を追求して私小説に荒々しいダイナミックスを与えたのがその顕著な例である。一方,“第三の新人”は家庭と日常生活の再認識に向かい,島尾敏雄《死の棘(とげ)》(1960-76),安岡章太郎《海辺(かいへん)の光景》(1959),庄野潤三《静物》(1960),阿川弘之《舷灯》(1966)などを生んだ。その後の世代でも三浦哲郎,阿部昭など私小説的なものを核にもつ作家が出現している。私小説の変質に伴い,私小説論も佐伯彰一,高橋英夫,饗庭孝男,蓮実重彦らによる新たな評価へと進んできているが,ともあれ私小説が賛否をこえ近代小説の日本的変種として日本人の体質と発想に適合していることには変りはない。
執筆者:高橋 英夫
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「わたくししょうせつ」とも。主人公兼語り手が作者自身で,語られる内容も作者の実体験の再現であると,作者・読者双方に了解されているような小説形式。1920年(大正9)頃このタイプの一人称小説が文壇で「私は小説」などとよばれたことに由来する。日本独特の文学形式で,長い間純文学の主流とみなされる一方,克服されるべき形式として議論の対象となってきた。代表的作品として志賀直哉「城の崎にて」,葛西善蔵「子をつれて」など。
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…作者自身とわかる人物が〈私〉として作中に登場し,〈私〉の生活や想念,目撃見聞した出来事を虚構を交えずありのまま語ったとみなされる小説をいう。これに類似するものに,ドイツのイッヒロマン(主人公が一人称で語る小説)や自伝があるが,私小説は近代日本の特殊性につよく規定される点でそれらとは異なる。最も日本的な文学形態だけに,日本的な偏りを批判されることが多かった。…
※「私小説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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