英語でgenre painting,フランス語でpeinture de genre,ドイツ語でGenremalerei,Sittenbildという。近代の美術批評で一般に定義する風俗画とは,いかなる社会階層,職業であれ,また人間の年齢にも関係なく,彼らの現実の日常生活(家庭生活,労働やレクリエーション)を主題とする絵画,しかも特定個人ではなく無名の人々の生活を表した絵画である。したがって神話的主題,宗教的主題,聖人伝や英雄伝,君主の栄光化のアレゴリー,歴史物語,国家的儀式(皇帝の戴冠式など),公共生活に関する主題などは風俗画の対象外とされよう。しかし絵画史の流れには画家が宗教的主題を描きながら,時代の趨勢,社会の趣向,画家自身または依頼者の解釈によって,室内空間や衣服に同時代性を強調し,その挿話のもつ日常的側面の表現に力点を置く場合がある(フレマールの画家《メロードの祭壇画》のフランドル市民の家,16世紀のブラウンシュワイクのモノグラミスト《放蕩息子》の居酒屋,ベラスケス《マルタとマリアの家のキリスト》の台所など)。ゆえに風俗画の対象外となる主題でも,その中の“風俗画的要素”が後代の風俗画の台頭に重要な橋渡しをする作例をも十分考慮されねばならない。逆に平凡な日常生活の一情景を描いた風俗画が,実は道徳的・教訓的な寓意画(アレゴリー)の場合もある(17世紀のモレナールJ.M.Molenaer《婦人の世界》に示される〈虚無〉のアレゴリー)。後者も広義の風俗画に入るが,今後イコノグラフィーの研究が進み,これまで風俗画と分類された絵画も,寓意画,象徴画,世俗化された宗教画,また同時代的表現をもつ神話画として解釈されることもあろう。
神話画,宗教画,歴史画,静物画,肖像画などとともに,風俗画が絵画の一ジャンルとして分類されるようになったのは19世紀以降である。フランス語のジャンルgenreは本来〈種類〉〈類概念〉〈属〉を意味する。18世紀にディドロがgenreという語を使ったとき,花,果実,動物,山,森,林,家庭生活などの特殊な〈種類〉の絵を専門とする画家を意図していた。またフランスの画家J.B.グルーズが1769年,アカデミー入りを許可されたとき,初めて〈Peintre du genre〉と称号されたが,それは彼が当時の中産階級の道徳・教訓を主題とする〈特殊なタイプの絵画〉を敷衍させた画家という意味であった。19世紀になりブルクハルトが〈ネーデルラントの風俗画〉(1874)を講じたとき,ようやく今日とほぼ同じ意味での風俗画を意図したのである。
風俗画は時代によっては,神話画や歴史画の荘重様式(大様式)の支持者から軽蔑されることもあった。たとえば,今日風俗画の大画家と目されるフェルメール,ル・ナン兄弟,ラ・トゥールなどは死後忘れられ,20世紀になって復権をみることになった。このように風俗画は,その評価の歴史も合わせて考慮する必要があろう。
すでに古代エジプト,とくに第18王朝の墳墓内の壁画には,大饗宴を楽しんだり,化粧する貴婦人,また農耕や狩猟,漁労などの労働に従事する奴隷など,貴賤にかかわらず,日常生活やその風俗が描写されていた(図1)。ギリシアでは,ローマ時代の大プリニウスが《博物誌》の中で,画家ピラエイコスPiraeikosは床屋や靴屋など下層階級の生活を描きながら,大衆に特別の喜びを与え,その作品は多くの画家のものよりも高価な値段で売られた,と伝えている。だが,そのためピラエイコスは〈リュパログラフォス(下劣な主題の画家)〉とあだ名されてしまった。タブローも壁画も残されていないギリシア時代の風俗的主題は,チェスや輪回し,婚礼や婦人部屋を描いた壺絵にみられる。ローマ時代,とくにポンペイの壁画には,田園生活,染色作業場(図2)などの職人の仕事場,闘鶏などの大衆的娯楽など,日常の多様な光景がくりひろげられている。
中世における絵画は,いうまでもなく宗教的主題が主であった。ただ11世紀の《バイユーのタピスリー》には,調理や宴会の談笑の場面が描写され,また13~14世紀のイギリスやフランドルの写本には,その余白彩飾にスポーツや狩猟,猿の曲芸,人形芝居などさまざまな市民のレクリエーションが描かれ,中世人の〈遊び〉の世界がかいまみられる。といっても,これらはあくまでも副次的な場にみられる風俗表現であり,風俗画そのものではなかった。やがてジョットのスクロベーニ礼拝堂(パドバ)の《カナの婚礼》(1305ころ)や15世紀ケルン派の画家の《マリアの誕生》などで,婚宴や出産における当時の生活様式が導入されはじめる。15世紀後半から16世紀にかけてブリュージュで彩飾されたベニング工房の聖務日課書や時禱書では,月次の貴族の行事(新年の宴会,5月の舟遊び)や農民の野ら仕事(6月の羊の毛刈り,7月の乾草作り)が全ページ大ミニアチュールとして描かれ,16世紀ネーデルラントの風俗画の先駆をなした(図3)。
ルネサンス期のイタリアの画家たち(とくにトスカナ派)は,レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロの人文主義的精神の影響をうけ,絵画の主題を古代神話,古代史,神学的著述,詩に溯源しようとした。その結果,日常的ないし生活面に関する主題を蔑視する傾向があった。その反面,ベネチア派の画家たち,たとえばカルパッチョは《二人のベネチア女》(1490ころ。図4)を描き,東方の人々の往来する,異国情緒にあふれた都市ベネチアの一風俗(クジャクやオウムの輸入)を伝えている。そうした中でカンピV.Campiなどのロンバルディアの地方画家たちは,果物売りなどの世俗的主題(とはいっても,こうした絵には〈豊饒〉の寓意もある)をのびやかに描いていた。他方,ベロネーゼは《レビ家の饗宴》(1573)で,華やかな饗宴,道化,酔漢,犬など主題に直接関係のない〈風俗的要素〉で画面を賑わしたため,異端審問所の召喚を受け,題名の変更を余儀なくされた。
北方ではH.ボスが《手品師》で騙(だま)されやすい人間,《阿呆船》で快楽にふける聖職者への風刺(つまり中世的な教訓)をこめながらも,宗教的枠組みから主題を解放した。ボスの伝統を継承するP.ブリューゲル(父)はフランドルの諺,子どもの遊戯,農民の婚宴や祝祭を表し,庶民のバイタリティ,日常の知恵,生活文化を記念碑化した。ブリューゲルの築いた風俗画の世界は,17世紀オランダ,フランドルにおいて絵画史上の黄金時代を迎える。ただしここで大きな役割を果たしたのは,題材だけでなく,革新的なリアリズムの台頭であり,とくにルネサンスの古典的な美のカノンに反旗を翻したカラバッジョは,その斬新な主題解釈と表現(《マタイ伝》で,聖人を禿頭でよごれた足の労働者として描く)で,17世紀の北方の画家たちに強い影響を与えた。他方,プロテスタンティズムの勝利と国家の経済的繁栄によって富裕な市民の国となったオランダは,デ・ホーホの家事に励む主婦,ヤン・ステーンの家庭での市民の団欒(だんらん)(図5),フェルメールの手紙を読み奏楽する若い娘などの主題が愛好された。このころから〈主題の専門化の風潮〉(ゴンブリッチ)が決定的となる。しかし,同時代フランスの美術批評家ピールR.de Pilesはフランドルのブラウエルの描いた喫煙や飲酒に興じる農民画を〈低俗な主題〉と酷評し,フェリビアンは同傾向のフランスのル・ナン兄弟による高い人間性の農民画を〈単純で美のない世界〉と非難するなど,17世紀の風俗画の世界は同時代の批評家から全面的に支持されたわけではなかった。ルイ14世がオランダの風俗画をみて,〈これらの恐るべきものを外してしまえ〉と叫んだというエピソードもあながち誇張ではなかった。
18世紀では,イギリスのホガースが《娼婦一代記》や《放蕩息子一代記》など時事性に富んだ油彩画連作,さらにその版画化によって大衆の心をつかむなど,風俗画の世界に新風をもたらした。フランスではロココ様式のフェート・ギャラント(雅宴画)の最盛期であった。ワトー,ランクレ,ブーシェは貴族の園遊会,あいびき,貴婦人と朝の化粧などをテーマに,上流階級の風俗のよき記録者となった。他方,シャルダンは《市場帰り》(1739。図6)などで,ロココの貴族的な風俗画に背を向け,中産階級の地味な生活感情を謳歌した。スペインではゴヤが,1770~80年代に王立タピスリー工場のために精力的に下絵(カルトン)を制作したが,《瀬戸物売り》《凧上げ》《洗濯女たち》など,主として民衆の生活や娯楽に題材を求めた。
19世紀,とくにマネ,ドガ,ルノアールを中心とする印象主義の画家たちは,日本の浮世絵版画の描写する庶民の日常的動作から新鮮な刺激をうけた(喜多川歌麿の《山姥と金時》とドガの《髪を梳く女》など)。しかし風俗を描く彼らの直接の関心は主題ではなく,光と色彩による視覚のリアリズムであった。20世紀になると,キュビスム,フォービスム,シュルレアリスム等どの芸術運動をとりあげても,その推進者は〈描写と意味の否定〉(ゼードルマイヤー)を主張し,主題からの自律を志向した。その意味で風俗画の世界はよりいっそう後退したといってよいだろう。
執筆者:森 洋子
風俗を主題とするせまい意味での風俗画の歴史は,日本では16世紀に始まるとされるがその前提としての風俗描写は,古代までさかのぼる。奈良時代の法隆寺金堂の天井裏や,唐招提寺の梵天像台座などに描かれている落書がその萌芽である。平安貴族の邸宅に描かれた四季絵,月次絵(つきなみえ),名所絵などやまと絵障屛画は,日本の四季の風景のなかに年中行事や祭礼・遊楽など生活の諸相を織りまぜて描く,いわば風景画とをかねる性格をもっていた。〈扇面法華経冊子〉下絵(12世紀中ごろ,四天王寺)のなかには,魚屋の店頭の情景を描いた図などの風俗描写がみられる。平安末,鎌倉期の絵巻は,風俗描写の宝庫ともいうべきもので,12世紀の《信貴山縁起絵巻》や《伴大納言絵詞》,《年中行事絵巻》(模本のみ現存)などには,貴族から庶民にいたる生活の機微が暢達な筆致によって描き出されており,《餓鬼草紙》《病草紙(やまいのそうし)》など六道絵系の絵巻は,人生の裏面に皮肉な観察を及ぼしている。《一遍聖絵》(歓喜光寺本,13世紀末)にみられる下層民の生活のこまやかな描写,《東北院職人歌合》(14世紀,東京国立博物館)の軽妙さも見のがせない。絵巻が衰退したとされる室町時代にあっても,《福富草紙》(春浦院),《道成寺縁起》(道成寺)のような御伽草子系の絵巻は,伝承や説話を題材にとりあげ,話し言葉を図の中に入れて,親しみやすい風俗描写を展開している。
中世から近世へと移行する16世紀には,時代の現実主義的風潮と新興武将の好みを反映して,障屛画の画題には花鳥画と並んで風俗描写が喜ばれた。ここにおいて名所絵,月次絵などの伝統的画題形式は,その風景画的要素を後退させ,風俗描写を前面に押し出して独立した風俗画へと変貌する。こうして近世初期風俗画と呼ばれる風俗画が誕生し,16世紀後半から17世紀前半にかけ,上方を中心に襖絵,屛風絵として流行した。その描き手の主体は狩野派であり,狩野永徳筆《洛中洛外図》(上杉家)には,京の市中と郊外の風俗がこまかな観察により,いきいきと描き出されている。これと同じ天正期(1573-92)の作品として,狩野秀頼筆《高雄観楓図屛風》(東京国立博物館),《聚楽第図屛風》(三井家)などがある。慶長期(1596-1615)に入ると遺品もふえ,風俗画の需要の増大を物語る。この時期の遺品としては,名古屋城対面御所襖絵,円満院風俗襖絵,狩野長信筆《花下遊楽図屛風》(東京国立博物館),狩野内膳筆《豊国祭礼図屛風》(豊国神社),狩野吉信筆《職人尽図屛風》(喜多院)などがあり,ほかに《犬追物図》(常盤山文庫ほか),〈南蛮屛風〉(宮内庁ほか)など,各種の画題による多彩な表現が展開された。狩野派のほか,海北(かいほう)派,雲谷(うんこく)派,土佐派の作品もあり,表現はいずれも明るく楽しげで,現世肯定の生活感情の反映がみられる。元和・寛永期(1615-44)に入ると,遊里芝居が好んで画題に取り上げられ,遊女の姿態がクローズアップされて,風俗画の私的な性格が増し,拡大する需要に応じて描き手の主体も狩野派から,民間の町絵師へと移った。《遊楽図》(《彦根屛風》井伊家),《湯女(ゆな)図》(MOA美術館)など,享楽主義的世相の内面をのぞかせるような興味ある心理的表現がみられる。〈浮世又兵衛〉こと岩佐又兵衛は,こうした風俗画の新しい動向に深くかかわったらしい。元和・寛永期の風俗画は,次期の浮世絵と密接な様式上のつながりをもち,初期肉筆浮世絵と呼ばれることもある。
初期風俗画は,17世紀後半に入ると,徳川幕藩体制の整備を反映して,おとなしい表現になるが,寛文期(1661-73)のころに上方,江戸で行われた美人の一人立姿は,江戸の菱川師宣(もろのぶ)の考案によって,一枚摺りの版画として普及し,ここに浮世絵美人版画の誕生をみた。以後風俗画の伝統は,おもに江戸の浮世絵師たちによって継承される。江戸の浮世絵は,吉原の遊女と役者の姿絵を画題の中心に据え,より広範な市民層の現実生活に取材しながらそれを美化したものとして発展していくが,そこには,鈴木春信の錦絵美人画におけるように,古典文芸の古典を当世風俗に見立てる趣向もみられる(見立絵)。江戸文化が爛熟した寛政期(1789-1801)以後になると,寛永期の風俗画に一脈通ずる退廃的傾向が,歌川豊国・国貞らの役者絵,美人画に現れ,幕末に向けてその色合いを強めていく。その中にあって葛飾北斎の《北斎漫画》が庶民生活のあらゆる表情を機知的にとらえ,風俗描写に一時期を画したことは特筆に値する。
江戸時代における浮世絵以外の風俗画の例としては,狩野派系の久隅守景(くすみもりかげ)筆《夕顔棚納涼図屛風》が農民の生活を味わい深く描き,同じく狩野派系の英一蝶(はなぶさいつちよう)も洒脱な風俗画を得意とした。ほかに鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の《近世職人尽絵詞》(東京国立博物館)や渡辺崋山の《一掃百態図》(愛知県田原市)などがあげられる。
→浮世絵
執筆者:辻 惟雄
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日常の現実生活に取材した絵画。17世紀末、歴史画、神話画、宗教画などの「大テーマ」を扱う作品に対して、日常風俗や静物、動物などを題材とする絵画を「小さな部門」genre mineureと批評家たちが区分したことに語源をもつ。18世紀フランスの家庭的・教訓的題材を描いた画家グルーズが、アカデミーに「ジャンルの画家」として受け入れられたときこの用語は定着し、19世紀に、市民生活が印象派の画家たちによって数多く取り上げられたとき一般化した。西洋では単に「ジャンル」ともよばれている。
しかし歴史的には、宗教、象徴主義、寓意(ぐうい)的表現などと複合しつつ、古くから風俗画の展開がみられる。古代エジプト墳墓の壁画や浮彫りなどに描かれた、農耕・狩猟など日常生活や労働を表す作品、古代ギリシアの壺絵(つぼえ)や墓碑浮彫りの生活情景、ローマの壁画やモザイクのそれなど、いずれも、風俗的情景の描写への関心が絵画的描写の重要な部分であったことを示している。中世後期、フランドルでもイタリアでも、宗教画は同時代の室内・服装・風俗の設定で描かれることがしばしばあり、大聖堂の「月暦(つきごよみ)の労働」を表す彫刻も風俗描写をみせている。なかでも手写本装飾画は、月暦の表現でほとんど純粋な風俗図をみせてくれる。ランブール兄弟による『ベリー公のいとも豪華なる時祷書(じとうしょ)』などがその代表例である。
16世紀は、宗教画の風俗的設定の傾向をいっそう進めるとともに、「五感」「虚栄」などの寓意的表現を風俗描写に託し始める。
しかし、17世紀に、イタリアのカラバッジョ、オランダのレンブラント、フェルメール、ピーテル・デ・ホーホ、フランスのルイ・ル・ナンなどの多くの画家たちが、日常生活の現実性を高い絵画的表現にもたらし、真の意味での風俗画が生まれる。「高貴で偉大」な宗教画や神話画、あるいは壮大な装飾画に並んで、日常性の描写が新教・旧教のいずれの国々にも多くみられるが、このことは、この時期における市民生活の充実とその自覚を示すものと考えられる。18世紀においても、この傾向は、ワトーのなかば夢想的表現、シャルダンの静かな現実直視、ホガースの風刺的表現など、多様な幅をもって展開し、19世紀以降の市民生活の確立、日常性の賛美のなかで生まれる写実主義、印象主義によって、もっとも主要な絵画ジャンルの一つとなる。
日本においても、年中行事絵巻、縁起絵などの形で平安時代から風俗描写がみられるが、独立したものとしては、洛中(らくちゅう)洛外図、祭礼図、遊楽図などが中世末から行われ、この流行は江戸時代の浮世絵の隆盛へとつながってゆく。
[中山公男]
風俗を主題とする絵画作品。日本では16世紀に始まる。風俗描写自体は,古代以来,月次絵(つきなみえ)や名所絵・絵巻物などに数多くみられたが,風俗描写が前面に押しだされてくるのは室町時代の後半頃で,独立した風俗画の誕生となる。桃山時代から江戸初期の近世初期風俗画は襖絵(ふすまえ)や屏風絵を中心に展開。洛中洛外図をはじめとする各種の風俗画が,上方でおもに狩野(かのう)派を中心に制作されるが,しだいに関心の対象をしぼりこみ,個々の人物そのものへ目をむけるようになる。同時に,風俗画の担い手は民間の絵師たちへと移行していく。17世紀後半に至って風俗画の中心は江戸に転じ,浮世絵師によって継承・発展した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸を中心に発達し,江戸絵ともいう。絵画様式の源流は遠く大和絵につながり,直接的には近世初期風俗画を母胎としている。町人の絵画として,武家の支持した漢画系の狩野派とは対立するが,様式の創造的な展開のために,その狩野派をはじめ土佐派,洋画派,写生画派など他派の絵画傾向を積極的に吸収消化し,総合していった。…
…また木版画,銅版画,石版画などの版画,あるいはその応用としての挿絵,ポスターなども,色と形による平面の造形芸術であるかぎり,絵画の一分野と考えられる。絵画の分類としては,画材,形式による分類のほか,主題による分類(歴史画,肖像画,風景画,静物画,風俗画等),社会的機能や役割による分類(宗教画,装飾画,記録画,教訓画等),地理的分類(イタリア絵画,フランス絵画,インド絵画等),歴史的流派や様式による分類(ゴシック絵画,バロック絵画,古典主義絵画,抽象絵画等)などがある。
[絵画の起源]
古代ギリシアのある伝説は,絵画の起源を次のように語っている。…
…信長の没後,永徳は豊臣秀吉に仕えて大坂城,聚楽第,御所などの障壁画を次々に手がけた。狩野派は,元信以来桃山期に最も流行する花鳥画と風俗画に積極的に取り組み,花鳥画では永徳の巨木による大画様式が当時の基本的構成法となって,狩野派のみならず長谷川派や海北友松などの他流派にも影響を与えた。また,風俗画は土佐派などやまと絵の中で生まれたものであるが,それを発展させたのは狩野派であり,秀頼(元信の次男,生没年不詳)の《高雄観楓図屛風》や長信(永徳の弟,1577‐1654)の《花下遊楽図屛風》をはじめとして,桃山期の代表作を残している。…
…このようなジャンル確立の原理や歴史的発展法則の究明は芸術研究の主要課題の一つであり,ブリュンティエールは文学史におけるジャンルの展開を生物の進化と類比的に論じて名高い。なお絵画では日常生活や習俗を描く風俗画をジャンルと呼ぶこともある。様式【細井 雄介】。…
…その中で《歌舞伎(中村座内外)図屛風》《見返り美人図》(いずれも東京国立博物館)などは師宣自身による作品と推定されている。版画,肉筆画の両分野にみずから開発した風俗画様式の普及を徹底させた師宣は,以後発展する浮世絵派の実質的な開祖,元祖と呼ぶにふさわしく,多大の影響を後世に及ぼした。【小林 忠】。…
…31年にアントウェルペン(アントワープ)に移転,同地で早世。ブリューゲル以来のネーデルラントにおける農民風俗画の伝統の,17世紀における最大の継承者で,居酒屋にたむろして飲酒,喫煙,ばくちにふけり,大げんかをする農民たちは,素朴な力強さと人間臭さにあふれるものとして小画面ながら迫真的に描き出されている。しかも,洗練された色彩感覚と自由な筆触,色調の微妙な変化による表現は,粗野な主題を扱いながら新鮮な絵画的魅力に満ちた作品を生んでいる。…
…この時代の絵画は宗教画が主体(ほかには肖像画)であるが,そこでたとえば〈聖告(受胎告知)〉の場面が当時のフランドル市民の室内に置かれているとしても,室内の事物は,たとえばタオルと水差しがマリアの純潔を表すというように,たいてい象徴的意味を宿している。中世の象徴的思考法と現実への新たな関心とを融和させたこの〈偽装象徴主義disguised symbolism〉は,17世紀オランダの風俗画や静物画にも継承されてゆく。 初期フランドル絵画の最大の巨匠でその輝かしい伝統の祖となったのは,ブリュージュのブルゴーニュ公宮廷に仕えたヤン・ファン・アイクである。…
※「風俗画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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