縄文土器の使われた時代を、普通、縄文時代とよんでおり、その時期は1万2000年前ごろから2400年前ごろまでとされている。また、その時代の文化を縄文文化と称している。
[岡本 勇]
縄文文化が、それ以前の先土器(旧石器)時代文化と画然と区別される点は、土器と弓矢の出現普及にある。この二つの道具が、日本の土地で自生したものであるか、他地域からの伝播(でんぱ)によるものであるかについては、まだ明確な発言を聞くまでには至っていない。
弓矢は、槍(やり)にかわって登場した狩猟具であるが、その構造が単純であるとはいえ、物理的な原理を応用した器械であり、道具の歴史からみて、大きな意義をもっている。とりわけそれが飛び道具であったことは、小形動物や鳥類に対する狩猟効果を高めることとなった。
一方、土器は物の化学変化を自覚的に利用することによってつくりだされた。柔らかくて可塑性のある粘土塊に、一定の時間火熱を加えることによって土器というまったく別の物体が生まれるのである。初め土器はもっぱら食物を煮炊きする道具として使われた。従来、食物の調理には「生(なま)で食べる」「焼いて食べる」の二つの方法があったが、土器の出現によって「煮て食べる」という新しい方法が加わった。このことは食料の種類と範囲を拡大し食生活の向上を促した。
現在、さかのぼりうる最古の土器の一つとして、長崎県佐世保(させぼ)市泉福寺(せんぷくじ)洞穴出土の「豆粒文(とうりゅうもん)土器」があげられている。縄文土器は、このあと約1万年もの長い年代にわたって、北海道から沖縄にかけての日本全土で発達した。器形や文様の多様なあり方は、世界の新石器時代の土器のなかでも、特異な存在とみなすことができる。
縄文土器には、地域性、共通性、連続性の三つの性格が備わっている。つまり、それぞれの地域の環境に対応するかのように、地域ごとの差をもっている。大きくは、東日本と西日本との間の違いが認められるし、また、東北と関東のものとの差、さらには関東内部での違いを指摘することも可能である。しかし、こうした地域性の反面、各地域を貫く共通の特徴がみいだされる。とくに土器文様の斉一性は、縄文文化の共通性の表れである。また、年代的に前後する土器相互の間には、強いつながりをたどることができる。もちろん断続や空隙(くうげき)もみられはするが、それ以上に連続性を保っているのである。この三つの性格は、縄文文化そのものの反映であると考えられる。
[岡本 勇]
縄文時代の遺跡の総数は、正確には把握されていない。概数はおそらく約10万か所といってよいであろう。遺跡数の多いことは、単純にはいえないが、一つには人口の多かったためである。日本の国土面積に比較して、人口密度は高かったとみてよい。遺跡数は、東日本に圧倒的に多いとされてきたが、西日本での調査が進行するなかで、その差は縮まってきた。人口の問題について、「15万から25万、西南に薄く、東北に多い」(山内清男(すがお))、「日本全体で12万人」(芹沢長介(せりざわちょうすけ)(1919―2006))という見解があるが、よりきめの細かい推算をした小山修三(こやましゅうぞう)(1939―2022)は「早期2万、中期26万、晩期7万6000」という数字を見積もっている。
[岡本 勇]
考古学研究のうえでは、土器の文様や形などの面にみられる特徴をもとに「型式」を設定し、各型式相互の新旧関係を年代順に秩序づけることによって、いわゆる「編年」が組み立てられている。土器型式は、それが最初に発見・注意された遺跡の名を冠してよぶのが習わしである。たとえば、縄文時代中期の「勝坂(かっさか)式土器」は、神奈川県相模原(さがみはら)市勝坂遺跡の名にちなんでいる。縄文土器の場合には、各地域ごとに土器型式の編年がつくられ、日本全土にわたる網の目のような秩序ができあがりつつある。これは、縄文文化研究の土台をなしている。この編年体系は、文字のなかった縄文時代の年代を測る基本的な尺度となるものである。その場合、型式は物差しの小さな目盛りとでもいうことができる。また別に、型式は、その土器をつくり、使った人間集団の輪郭を表していると考えられる。
長い縄文時代は、縄文土器の研究に基づいて、普通、早期、前期、中期、後期、晩期の五つの時期に大別されている。また、早期を二分して、古いほうを草創期とよぶこともある。この時期区分は、物差しの目盛りの大きな区分けに例えることができる。前記のような編年と時期区分は相対年代とよばれるが、近年ではC‐14年代法など理化学的方法によって数値で絶対年代を求める年代決定法が多く用いられるようになった。これらによれば縄文時代の開始は1万2000年前ごろといわれる。
縄文文化は、きわめて緩やかな発展をたどってきたが、しかしその軌跡は、単純な直線で描かれるようなものではない。たくさんの小さな段階を画しながら、変化に富んだ上昇線を表してきたのである。こうした小さな段階の累積が、縄文時代の歴史を形づくっている。これらの段階のなかには、一地域にのみ認められる小規模なものもあるし、また各地域を貫いて共通に認められる顕著なものもある。これらは時期区分の指標としてふさわしい意味をもっている。これに立脚して、縄文文化を歴史的に概括すると、次のような段階区分が可能である。
成立段階(「草創期」・早期)、発展段階(前期・中期)、成熟段階(中期末~晩期前半)、終末段階(晩期後半)。
また、縄文文化の諸現象の検討から、大きく前半期と後半期に二分する意見もある。
[岡本 勇]
縄文文化は、狩猟、漁労、植物性食料の採集を中心とする採集経済のうえに立脚する。人々は、自然の産物に食生活をゆだねていたのである。しかし、原始的な農耕があったとする考えや、イノシシの幼獣の飼食などが行われていたという見解が聞かれる。
[岡本 勇]
狩猟の道具として広く一般的に使用されたのは弓矢である。石鏃(せきぞく)は矢の一部分であり、しかも不可欠の部分である。縄文時代の各時期・各地域にわたって認められ、弓矢の発達を裏書きしている。弓はもっぱら木でつくられたが、植物質の遺物は泥炭層遺跡や低湿地遺跡のような限られた場所でしか発見されない。遺存例は、いままでに30例ほど知られている。大部分は丸木弓であり、イヌガヤ製が多い。青森県是川(これかわ)遺跡(晩期)からは、漆塗りの入念に加工した大小の弓が出土している。石の鏃(やじり)をつけた弓矢の威力は、どの程度のものであったろうか。かつて静岡県浜松市蜆塚(しじみづか)遺跡(後期)から、イノシシの骨の一部に石鏃が射込まれたままのものが発見されたことがある。これは、石鏃が皮と肉を貫いて骨にまで達する威力をもっていたことを示している。
槍先である石槍(せきそう)の出土例は、北海道・東北地方ではやや目だつが関東地方ではまれで、しかも中期以前に限られる。西日本では特殊なものを除けば皆無といってよい。またイヌが猟犬として大きな役割を担ったことは疑いない。縄文時代の貝塚からはイヌの骨格がしばしば発見される。さらに、動物を捕まえるのに落し穴の利用も盛んに行われた。
[岡本 勇]
主として魚類の捕獲には三つの方法があった。釣ること、突き刺すこと、網を使うことである。
貝塚から出土する釣り針、銛(もり)、あるいはやすなどの鹿角(ろっかく)製漁労具の形や種類は、かなり多様であるが、それは一つには年代差によるものであり、また一つには対象とする魚類の生態との関係に基づくものである。
釣り漁や突き漁は、本来1匹の獲物を対象とし、単独でも行うことができる。その限りでは、いわば単独漁であり、その道具は個人的漁労具ということができる。これに対し、網による漁労は多量の魚をいちどきに捕獲するものであり、個人漁に比較すれば、はるかに能率的で高度の漁法である。漁網の存在を間接的ながら示すものとして、土錘(どすい)・石錘がある。これらは沿岸部の遺跡で一般的に発見され、とくに中期以降急増する。そこでは魚骨の出土も多い。
[岡本 勇]
縄文時代人の食生活のうえで植物性食料の採集が占める割合は、予想以上に大きかったとみてよい。植物採集は、すでに早期の初頭から広く行われており、これは先土器時代からの伝統を継ぐものである。
植物性食料のなかで主要な位置を占めるものは、木の実類、とりわけどんぐり、クリ、クルミなどの堅果類であった。これらはいずれも秋の季節に収穫できる。その採集には、とりたてて道具も技術も必要としない。拾い集めて籠(かご)に入れる。簡単に大量に採集できるわけである。主として中期以降の集落遺跡からは、貯蔵穴とみられる断面フラスコ形(袋状)ないしはU字形の小竪穴(たてあな)(深さ、径ともに1メートル、またはそれ以上の大きさ)が、しばしば発見される。しかも群在している場合が多く、中から木の実の炭化したものがみつかったりする。単一の目的のものであったかどうかは別として、木の実類の貯蔵に使用されたことは間違いない。佐賀県坂の下(さかのした)遺跡(中期)、岡山県南方前池(みなみがたまえいけ)遺跡(晩期)などからは、内部にぎっしりとクリやどんぐりなどの堅果が詰まったままの状態で発見されている。
堅果類のほかに、なお多くの種類の植物性食料、たとえば根茎類や果実が利用された。低湿地性遺跡として有名な福井県鳥浜(とりはま)貝塚の前期の包含層からは、どんぐり、クリ、クルミ、ツバキなどの堅果とともに、ヒシ、マタタビ、ムクロジ、ムクノキ、ヤマボウシ、ブドウ、クマノミズキなどの食用になりうるものの種子が検出されている。しかし、これらは食料としての価値は低く、主食とはなりえないものである。また、ヒョウタン、リョクトウ(緑豆)などの「栽培植物」が発見され、原始農耕の問題とも関連して重要な所見となっている。さらに神奈川県平塚(ひらつか)市上ノ入(かみのいり)遺跡の中期の竪穴住居址(し)内から、炭化した状態の球根が固まって出土したが、これはキツネノカミソリ(ヒガンバナ科の1種)の球根であると判定されている。根茎類の場合には、遺存しにくいという問題があり、その意味でこれは貴重な発見である。実際には、もっと多くの、しかも食物として効率の高いものが食用に供されたと考えてよい。たとえばヤマノイモなどは、当然採集の対象とされていたであろう。
かつて、長野県曽利(そり)遺跡(中期)の竪穴住居址内から、黒焦げになったパン状の炭化物が出土し、注目を集めたことがある。その後、類例が岐阜、福島、岩手、新潟の各県下の遺跡で発見されるに至った。いずれも中期に属する遺跡からである。これらはデンプン質の粉を固めて焼いた食品であるとみて間違いない。何の粉を利用したかは不詳であるが、多分に考えられるのはどんぐり類である。どんぐりを水にさらしてあく抜きし、石皿と磨石(すりいし)を用いて製粉することは、早い段階から広く行われていたであろう。堅果類、球根類を中心とする植物性食料の利用は、縄文時代の初めから積極的に行われてきたとみてよい。しかし、それが食生活のうえで占める位置は、地域によって、または時期によってウェイトを異にしていたと考えられる。にもかかわらず、他の種類の食料との相互補完のもとに一定のバランスを維持しつつ食生活を大きく支えていたのである。植物性食料の採集は季節的に限定されるが、いちどきに大量の採集が可能である。それだけに貯蔵が計画的・組織的に行われるようになって初めて大きな意味をもつに至る。おそらく中期の段階のことであろう。
[岡本 勇]
一定の平面形(プラン)に地表を掘り下げて、壁や床、炉などを設け、さらに柱・梁(はり)その他による骨組をつくり、屋根を架ける。このようにしてつくられた住居、つまり竪穴住居は、すでに先土器時代に出現した住居形態のようである。引き続き縄文時代にも各時期・各地方を通じて採用され、普及・発展を遂げた。しかし、竪穴住居の発見例は、東日本に圧倒的に多く、西日本ではきわめて少ない。これは主として遺跡の地形的・土壌的条件によるものである。なお、早期段階の住居址は概して構造が簡単である。平面形は「方」を基本とするものと、「円」を基本とするものの二つに大別される。炉址や各部分のあり方には若干の違いが認められる。炉址には、単に床面を掘りくぼめて火を焚(た)いただけのもの(地床炉(じしょうろ))、深鉢(ふかばち)形土器の下半部を打ち欠いて埋めたもの(埋甕(まいよう)炉)、礫(れき)で周りを囲んだもの(石組(いしぐみ)炉、石囲(いしがこい)炉)などが知られている。また、東北・北陸地方のとくに中期の住居址内からは、大形で造りの複雑なもの(複式炉)が発見されている。中期以降の住居址には、入口部と考えられる遺構をもつものがあり、しかもその部分や床面に完全な形の土器を埋めるという風習があったらしい。この中に乳児の遺骸(いがい)や胎盤などを入れたとする見解がある。また、奥壁付近に大形の石棒(せきぼう)を立てた例や、壇状の石組を残した場合も知られている。竪穴住居は単に寝起きの場であっただけではなく、信仰・祭祀(さいし)にも深くかかわっていた。さらに、扁平な大きな石を平らに並べて床面とした「敷石(しきいし)住居」とよばれているものなどもつくられた。これは、石材の入手に有利な関東・中部地方の山間部に主として発達した。
竪穴住居の床面積は、一概にはいえないが、20~30平方メートル前後の大きさが普通である。ここにどれだけの数の人間が住んでいたのか、あるいは住みうるのか。千葉県姥山(うばやま)貝塚の中期末の一竪穴住居址の床面から、折り重なるような状態で発見された人骨群(男女成人各2、子供1)は、竪穴住居の居住人員を示す資料として知られている。その後、同様な遺存人骨を出土した住居址がいくつか報告されるに至った。これらの事実や床面の一般的な大きさから推して、数人またはその前後の居住人員を考えることができる。
しかし、北陸地方や東北地方の一部からは、特別大形の竪穴住居址が発掘されている。富山県不動堂(ふどうどう)遺跡(中期)の場合は、小判形のプランをもつ長径17メートル、短径8メートル、床面に四つの石組炉をもつものが出土している。構造的には竪穴住居一般と大差ないが、面積ははるかに大きい。また、秋田県杉沢台遺跡(前期)からは、同じく小判形であるが長径31メートル、短径8.8メートルの例が知られている。これらの特別大形の住居は、平均的な竪穴住居と性格を異にするものと思われる。集会所的な施設、一種の倉庫または作業場など、いくつかの考えがあるが、推測の域を出るものではない。
[岡本 勇]
竪穴住居は、いくつかが集まって集落を構成している。早期の段階には、せいぜい2、3戸から1集落がつくられていたようである。しかし、前期以降には確実に、数戸内外の住居が広場を囲んで一定の配置をもってつくられる。このようなあり方の集落は縄文時代に普遍的なものであり、すでに早期段階に萌芽(ほうが)的なものが現れる。そして、前期、中期、後期と時期を経るごとに定型的となり、かつ大型化する。「環状集落」あるいは「馬蹄(ばてい)形集落」などとよばれているものは、これに含められる。これを「定型的集落」とよんでおく。この集落では、継続的か断続的かは明確でないが、かなり長期にわたって生活が営まれた。土器でいえば、数型式あるいはそれ以上の存続期間に及ぶものが多い。その結果残された住居址はいたって多くなり、何十、何百を数えるものさえある。もとより、これは集落を構成する本来の住居数ではない。また重複する住居址が目だつ。定型的集落の広場は、集落を構成する集団の共有の施設であり、各種の生産活動や行事の必須(ひっす)の場であったと考えられる。
集落を構成する主体として竪穴住居址があるが、このほかに「長方形柱穴列」あるいは「掘立て柱建物址」とよばれる特殊な遺構が発見されている。竪穴住居址内の柱穴とほぼ同程度かそれ以上の規模の柱穴が、長方形または小判形、あるいは長めの亀甲(きっこう)形に規則的に並んだものであるが、壁・床・炉などはみられない。遺構の大きなものは長径15メートル、小さなものは5メートルほどである。これが建物の跡であることは、ほぼ間違いない。特別に大形の竪穴住居とともに、その性格は不詳であるが、しかし、定型的集落内にこうした建築物が存在していたという事実は、否定すべくもない。
なお、定型的集落が発達したのは前期以降であるが、これと併行して早期の段階にみられた2、3戸規模の小集落があったことも明らかである。また、まったく住居址の発見されない居住址も存在する。これは、キャンプ的な生活が行われた場所とみなされている。
[岡本 勇]
縄文人はどのような衣服をまとっていたのか。古くは土偶の意匠から衣の問題についての発言もあったが、なんらの進展もなく終わった。獣の毛皮やサケの皮を利用したという見解が聞かれる。その可能性は十分に考えられる。縄文時代には竹やつるを用いた組物・編物には工芸的にもみるべきものがあるが、しかし確たる織物の存在は知られていない。近年、アンギンのような原始的な織物の存在が報告されるに至った。縄文土器の原体にみられるように繊維技術はかなり発達していたから、これと織り方が結合すれば、衣服に用いる織物の生産は可能である。縄文人の衣服は予想を超える水準のものであったかもしれない。
[岡本 勇]
縄文時代の遺跡、とくに貝塚からは、埋葬された人骨が出土する。その多くは、手足を窮屈に折り曲げた姿勢で、遺骸がやっと入る程度の大きさの土壙(どこう)に埋められたもの(屈葬)である。なかには、手足を伸ばしたままの状態で葬られること(伸展葬)もあった。この伸展葬はもっぱら中期以降に行われた。一種のごみ捨て場である貝塚はおおむね住居の近くに残されたものであるが、その貝塚から埋葬人骨が出土するという事実は、墓地が住居からほど遠からぬ位置にあったことを示すものである。貝塚墓地から出土する人骨の数は、早期の段階にはいたって少なく、せいぜい1、2体が発見される程度である(しかし、洞穴遺跡や岩陰遺跡の場合には、やや多数の人骨が出土している。これは埋葬地が場所的に限定される結果である)。中期以降にはその数も増え、とくに後・晩期の貝塚からは、多量の人骨の発見例が知られている。愛知県吉胡(よしご)貝塚からは300体以上、岡山県津雲(つぐも)貝塚では57体、ほかに30体以上の人骨を出土した貝塚がいくつかある。こうした傾向は、一つには、居住期間の長さに関係をもつが、おもな理由は集落を構成する集団の人口量に比例してのことである。
貝塚墓地の場合、遺骸の埋葬された地表には、なんらの施設もみいだされない。本来は、木製の墓標のようなものがあったかもしれない。吉胡貝塚その他では、四肢骨を方形に並べ、その中に頭骨などを置いた葬法(盤状集積葬)が知られている。これは、新しい遺骸の埋葬の際にたまたま掘り出された古い人骨を雑然とではなく規則的に配列したものであり、いわば一種の改葬である。また複数の遺骸が同時に埋葬されたケース、つまり合葬は、各地の貝塚で発見されている。合葬された遺骸相互の関係は一定ではなく、男女の場合も同性の場合もあるし、また老人と子供という例も知られている。合葬は、同時または相前後して死亡したものをいっしょに葬ったものと考えるべきである。なお、千葉県宮本台貝塚(後期)の長さ2メートル強の大きな土壙内からは、15体の人骨が集中的に並んだ状態で発見されたことがあるが、希有(けう)な例として注目される。
貝塚以外の遺跡から、埋葬用の土壙がしばしば検出される。なかには遺骸の痕跡(こんせき)をとどめている例も知られている。地表には、いくつかの石を規則的に置いたものがあり、配石墓の名でよばれている。配石墓の多くは群在し、一定の墓域を形成している。墓としての標識を示す配石は中期の段階に現れるが、普及発達をみるのは後期に入ってからである。土壙とは別に、扁平な石を組み合わせたりっぱな石棺をもつものもあり、構造的に複雑さを増す。北海道には、環状列石墓や周堤墓(環状土籬(どり))などの名でよばれるりっぱな墓地がつくられる。これらは豊富な副葬品を有し、さらに集落から離れた場所に墓地が選定されるなど、その特異さが目だつ。
[岡本 勇]
葬法のうえで忘れてはならないものに甕棺(かめかん)葬がある。日常使用されていた大きな深鉢形の土器の中に遺骸を入れて葬るわけであるが、縄文時代には成人の遺体がそのまま入るような大形の土器は存在しないから、対象はもっぱら胎児、乳児、幼児に限定されざるをえない。小児甕棺とよばれるゆえんである。宮城県沼津貝塚(後・晩期)で発見された10例の甕棺についてみると、9例が早産児および死産児を、1例が生後まもない乳児を納めたものであった。また、愛知県吉胡貝塚(後・晩期)の35例の甕棺は、その半数以上が胎児骨の入ったもので、ほかに3歳から6歳ぐらいの幼児骨を葬ったものもあったといわれる。そのほか、小児甕棺は後・晩期の多くの遺跡で発見例が知られている。このことは、縄文時代に小児の死亡率の高かったことと無関係ではない。なお、甕棺のなかには、数こそ多くはないが、成人の人骨の入ったものがある。これは遺骸を洗骨にしてから納めたもので、この時代に洗骨の風習のあったことを示している。青森県天狗岱(てんぐたい)遺跡(後期)の例は古くから報告されていたが、その後、類例は増加している。また、火葬の行われていた痕跡も知られており、縄文時代の葬法は単純なものではなかったことを教えてくれる。しかし、墳墓やその葬法が多様であり複雑であったとしても、それは一定の枠内での現象であり、縄文時代社会の共同体的な関係を超える特別の個人や階級の存在を表すものではない。
[岡本 勇]
埋葬人骨に伴って、あるいは単に土壙内から、ときおり服飾品が発見される。生前身に着けていた一種の装身具であるが、呪術(じゅじゅつ)的な意味を多分にもつものである。髪飾り(櫛(くし)、かんざし)、耳飾り、首飾り、腕輪、指輪、腰飾りなどがあり、各種の材料でつくられている。これらのうち、貝製の腕輪(貝輪)と鹿角(ろっかく)製の腰飾りの出土が比較的目だつ。貝輪は、ベンケイガイ、アカガイなどの大形の二枚貝に孔(あな)をあけ、順次磨きあげたものである。また、腰飾りは、鹿角の叉(また)の部分を利用し、入念な彫刻や複雑な加工を施したもので、もっぱら人骨の腰部付近から出土するので、この名がある。これらは単なる装飾品ではなく、儀礼的な意味のこもったものである。貝輪を着用した人骨の大部分は女性であるが、腰飾りは男性人骨に伴った例がほとんどである。服飾品の有無や多寡は、身分差や地位の違いではなく、性別や年齢に深い関係があると考えられる。
いくつかの人骨には抜歯が認められる。これは、生前に一定の数の門歯や犬歯を意図的に抜いたものである。その抜き方には時期による若干の変化がみられる。抜歯はおもに後期から晩期にかけて(一部は弥生(やよい)時代にも及ぶ)日本各地に流行したが、これは成年式のような儀式の際に行われた風習とみられている。また、叉状研歯(さじょうけんし)とよばれているものがある。門歯に2本の切り込みを施してフォークのように変形加工したものであるが、かなり手のこんだ外科的手術である。
縄文時代の特徴的な遺物の一つに土偶がある。早期の古い時期から出現しており、茨城県花輪台(はなわだい)貝塚の出土例は、全長4、5センチメートルの小形のもので、顔面は表現されていないが、乳房をつけており、女性と識別できる。板状土偶(前・中期)、筒形(つつがた)土偶、有脚立体土偶、山形土偶、みみずく土偶(後期)、遮光器(しゃこうき)土偶(晩期)など、各種の形状のものが存在する。ほとんど女性像で、しかも腹部が膨らんでいるものが多い。土偶は玩具(がんぐ)や飾り物などではなく、縄文人の精神生活に深いかかわりをもつものであったと考えられる。土偶は完全な形で発見される場合はきわめて少なく、たいていどこかの箇所が欠損している。その欠けた箇所をアスファルトで接着している例がみられる。
ほかに土版、岩版などがあり、一種の護符(ごふ)とみる意見が多い。また、石棒、石剣、石刀などの非実用的な遺物は、指揮棒、権威のシンボルなどという解釈がある。土製仮面の存在も無視できない。
[岡本 勇]
縄文時代の技術のなかで、とくに注目される特徴的なものに、木工技術、漆とアスファルトの利用などがある。
木材の利用は、住居の建築材をはじめ、生活の各方面にわたっていた。基本的な工具が石器であるという限界をもちながらも、かなり高い技術的水準を保持し、多くの木器・木製品の生産を可能とした。木材を利用した施設や道具としては、魞(えり)(魚をとる装置)、橋(木道)、丸木舟、櫂(かい)、弓、石斧柄(せきふえ)、浅鉢・盆・椀(わん)などの容器類、櫛・腕輪などの装身具類その他が知られている。
丸木舟や巨大住居の柱には、径数十センチメートルの大きな原木が選ばれた。これらの伐採にはもっぱら磨製石斧が用いられた。石斧は両刃(縦斧)で、それと並行する柄がつけられた。福井県鳥浜貝塚(前期)からは、サカキ、ツバキなどの柔軟な樹種でつくられた精巧な柄と、その未製品が多数出土している。切る・割るという工程では縦斧が主役を果たしたが、削るのには機能的には片刃石斧(横斧)のほうが適している。孔をあけたり、細部の加工には石錐(せきすい)・石刃などが用いられた。石器のほかに、火で焦がして削るという方法が、丸木舟を刳(えぐ)る際などに広く行われた。また、仕上げの段階で表面を平滑にするのに軽石を利用したことが知られている。
木器の製作にあたっては、それに適した樹種を選択している。弓にはカヤ、イヌガヤ、容器類にはケヤキ、トチノキといったぐあいである。なお注意されるべきものとして、割れた深鉢を、両端をとがらせた鹿角製の釘で接合するという例が知られている(鳥浜貝塚)。木器が貴重に扱われていた証拠でもある。
[岡本 勇]
縄文時代に漆が塗料として使われていたことは、青森県亀ヶ岡遺跡や是川(これかわ)遺跡(ともに晩期)の出土品によって早くから知られていたところである。しかし、その後、各時期(早期を除く)、各地方(北海道~近畿)にわたる資料が漸次発見されるに至り、漆の利用は予想以上に普及していたと考えられるに至った。漆が塗られた遺物には、椀・高杯(たかつき)などの木製容器、飾り弓、櫛などがあり、また一部の精製土器にも、部分的に漆の塗られたものがある。朱と黒の2種がみられるが、朱色の使用率のほうが高い。両者を併用している場合や、文様を表しているものもある。なお、竹などで編んだ一種の籠に漆を塗ってつくりあげた籃胎漆器(らんたいしっき)は、縄文時代の特徴的な遺物の一つに数えられる。
[岡本 勇]
秋田県下で産出する天然のアスファルトを一種の接着剤として活用することが、縄文時代の後・晩期に東日本、とくに東北地方で行われた。石鏃、骨鏃、根ばさみ、離頭銛(もり)、石匕(せきひ)など、各種の石器、骨角器にアスファルトの付着した例がある。これらは、着柄・装着の際にアスファルトが接着剤・固定剤として使われた結果である。また、土偶の折損した箇所にも同様の例が知られている。
是川遺跡(晩期)では、小形の土器の中にアスファルトが固まったままの状態で発見されたことがある。火熱で溶かすためのものであったらしい。
[岡本 勇]
縄文文化は、四周を海で囲まれたこの島国で、約1万年もの長期にわたって存続した。この間、その文化の性格を大きく変えるような他地域、とくに大陸からの文化的影響は、ほとんどなかったといってよい。島国という地理的環境が縄文文化の形成に大きな影響を与えたことは無視できない。しかし、だからといって、まったくなんらの文化的交渉もなかったのであろうか。縄文時代の遺物のなかには、大陸からの影響と考えられる文物がいくつか認められる。古くから言及されていたものに擦切(すりきり)磨製石斧(せきふ)がある。これは擦切手法でつくられたことを特色とする。早期以降、主として北海道・東北地方に認められる。同じ手法による擦切石斧は、広くシベリアや中国東北部などに分布している。また、石刃鏃(せきじんぞく)も同様の分布をもつ。国内では北海道東部の早期後半から前期にかけての遺跡で発見される。いわゆる玦状(けつじょう)耳飾りは、縄文時代の身体装飾品の代表的なものの一つであり、早期末以降中期にかけて各地で使用された。これを中国の「玦」と関連あるとする考えは、古くから聞かれたが、近年中国新石器時代の同種のものとの対比が問題となっている。
[岡本 勇]
『鎌木義昌編『日本の考古学Ⅱ 縄文時代』(1965・河出書房新社)』▽『芹沢長介・坪井清足監修『縄文土器大成』全5巻(1981~1982・講談社)』▽『加藤晋平他編『縄文文化の研究』全10巻(1981~1984・雄山閣出版)』▽『近藤義郎他編『岩波講座 日本考古学』全9巻(1985~1986・岩波書店)』▽『小山修三著『縄文時代』(中公新書)』
日本列島における旧石器時代文化に後続する狩猟漁労採集経済段階の文化。縄文土器編年に基づいて草創期,早期,前期,中期,後期,晩期の6期に区分される。その開始は,炭素14法の年代測定値や汎世界的な海水準変動の地質学的年代などから前1万年前後と推定する長編年説,相対年代法により約前2500年とする山内清男(やまのうちすがお)の短編年説があるが,実際は長編年説にやや近い年代と考えられる。ちょうど洪積世(更新世)終末から沖積世(完新世)への移行期にあたり,これ以降は世界各地の先史文化に新しい胎動が次々に起こり,とくに農耕や牧畜の開始など,いわゆる新石器革命へと進む地域もあった。この具体的な要因の解明は依然として不十分であるが,縄文文化もまたこの動向と無関係ではなく,新石器文化の日本版として理解すべきもので,農耕と牧畜の行われなかった点に大きな特色がある。しかし,土器の製作と使用は,それまでの旧石器文化から縄文文化への発展を促す重要な契機となったのである。つまり土器製作は既存の複数の技術要素,すなわち(1)粘土を用いること,(2)容器の形に成形すること,(3)粘土を加熱して水に溶けない物質に変えること,などを組み合わせた総合によってまったく新しい道具を作り出したという意味において,日本歴史上の最初の技術革新として評価される。また土器の製作・使用にまつわる情報の拡大および使用の効果は,社会的・文化的革新の意義をもたらしたのである。とくに土器で煮炊きすることによって,それまで生食不可能あるいは困難な植物性食物の多数を食料品目に加えて,食料の確保を容易にしたことは重要である。また多種多様な食料の摂取は栄養学上のバランスにもかない,煮炊きによる衛生学上の効果もあった。この食料事情の安定は定住的な集落生活を可能にし,縄文文化を形成し蓄積する要因となったのである。
→旧石器時代
貝塚や洞窟あるいは湿地性の遺跡などは動物・植物遺存体の保存条件にかなっており,そうした自然遺物から食料対象物の一部を知り得る。動物狩猟は旧石器時代以来の主要な食料獲得活動であった。シカ,イノシシは,大型で1頭分の肉量も多く効率的であるために代表的な狩猟獣とされたが,山岳地帯ではクマ,カモシカ,北海道ではエゾシカ,クマなどにかわる。ほかにウサギ,タヌキ,キツネ,アナグマ,オコジョ,ネズミにいたる60種以上の陸棲獣の遺存体が知られている。鳥類ではガン,カモ,キジをはじめ,ツルやアホウドリなど15種以上が知られる。さらに早期以降には漁労活動も活発に展開され,貝塚を残すにいたり,さらに食料対象物は拡大開発されていった。ハマグリ,アサリ,アカガイをはじめ,サザエ,アカニシやシジミ,キサゴなど200種以上の貝類,クロダイ,スズキ,カツオ,マグロ,ニシンからフグにいたる70種以上の魚類,その他カニ,ウニ,カメ類からクジラ,イルカ,トド,アザラシなどの海獣類など多様である。海藻類の遺存体はないが,その利用も当然あったと推定される。また植物性食料は腐朽しやすいために,炭化物などの遺存例はごく限られるが,クリ,クルミ,トチ,各種ドングリ類など60種以上発見されており,遺存体は未発見であるが当然利用されたと推定されるゼンマイ,ワラビ,キノコなどを加えれば,実数300種を超えるものと予想される。変化に富む多種多様な動・植物の利用は,その対象物すべてについての正確な知識あるいは生育・生息場所や季節性などに関する生態学的な知識を前提とするものであり,縄文文化における知識の体系ならびに水準をもよく認識せねばならない。また夏,秋の河川に遡上するサケ・マスの捕獲や山野にみのるドングリなどの堅果類の収穫,春季の貝類の集中的な捕採などは,その日ごとの食料としてよりも,むしろ大量に確保しながら各種の保存加工法や貯蔵法などを駆使することによって,年間の食料計画を安定させたのである。これが縄文文化の基盤であり,原始的な農耕によって縄文経済が支えられていたとする,いわゆる縄文農耕説は疑問である。
早期初頭の神奈川県夏島貝塚からイヌの骨格が発見されており,世界的にも相当古い飼育例となる。さらにイヌの死体も手厚く葬られており,狩猟あるいは愛玩用としての縄文人との緊密な関係がうかがわれる。また,イノシシの生息しない北海道から多数の牙が発見されており,イノシシの子(ウリンボウ)の特色を示す横縞文様をもつ土製像がある。伊豆大島の早期下高洞遺跡からも相当数の骨格が発見されており,いずれも丸木舟で子イノシシを運びこみ,成獣まで飼育したものと思われる。またイノシシの幼獣の骨格が遺跡から発見される例も少なくない。イノシシはシカとともに代表的な食肉獣でありながら,シカに土製像がなく,イノシシ像だけが多数作られたのも,こうした理由によるのであろう。
草創期には洞窟や岩陰が好んで住居に利用されている。やや冷涼な気候をしのぐためであったという説もあるが,むしろ自然の狭い空間でまにあう規模の小集団であったこと,あるいは集団生活に空間的な間仕切りを必要としなかったことなどの社会的な意味が重要である。やがて早期になると地面を掘りくぼめて土間を作り,掘立柱構造に上屋を架けて四周に壁をめぐらした竪穴住居を台地上に営むようになる。竪穴住居を単位とする,例えば夫妻・子どもという核家族が,おのおの主体性をもちながら複数が寄り合って集落を形成したことを意味する。すなわち集団規模が拡大するとともに,その内部に家族の独立性が顕現してきたのである。とくに各竪穴住居は中央の広場を囲んで円形に並ぶ,いわゆる環状集落の形態をとりはじめ,前期を経て中期には一般化する。海岸地帯では大型の環状貝塚や馬蹄形貝塚が出現する。集落の規模や内容も一様でなく,土器,石器をはじめ土偶や耳飾や玉類など特殊な遺物を多量に保有する集落,直径あるいは1辺が20mを超えるほどの大型建物をもつ集落,大規模な配石遺構あるいは径70~80cmの巨木を円形に建て並べた円形柱列施設をもつ集落などが出現し,複雑な様相を呈する。つまり縄文時代の社会は決して平板的ではなく,構造化していたことの一端を示すものと考えられる。なお,各集落における竪穴住居の地点ごとの配置が二つの大群に区別される場合が一般的であることから,縄文文化社会に双分原理の存在を想定する説がある。
死体はていねいに埋葬されている。通常は土壙中に四肢を折り曲げた屈葬の姿勢がとられるが,伸展葬もまたとくに後期以降に併用された。さらに横臥,伏臥,仰臥あるいは手足の組み方などに多様な変化があり,時期ごと,地方ごとに特色がある。また一墓域内で,土壙の長軸や頭位を異にする場合,抜歯様式によって小群を形成する場合,男女の埋葬地点が区別される場合などがあり,いずれも縄文人の出自や社会組織・構造などを反映しているものとみられる。
坪井正五郎はアイヌの伝説に登場するコロボックル(フキの下の小人を意味する)こそが縄文文化の担い手であり,やがて北方に追放されてしまったとする。小金井良精は,縄文時代にはアイヌが先住していたが,移住者によって北海道に押しこめられたというアイヌ先縄文説を唱えた。清野謙次は,アイヌと現代日本人の共通の祖先が長い混血の歴史を経て形質上の変化を遂げてきたとする原日本人説を示した。同じく縄文時代以来の形質的変化によって,弥生人,古墳時代人を経て現代日本人になったとしながらも,その原因は混血ではなく,生活様式の変化が筋肉や骨の変化を惹起したとする長谷部言人の原日本人説がある。その後,金関丈夫は中国地方の弥生時代初期の人骨にみられる身長の高い一群に注目し,それが朝鮮半島からの渡来者集団ではないかと指摘した。このように縄文人自体の形質的変化とともに混血要素が加わって現代日本人が形成されてきたとみるべきであろう。
一方,先行の旧石器時代人との関係については,発見人骨も少ないために具体的に知り得ないが,例えば旧石器時代終末期に行われた細石刃製作が九州では縄文時代に入ってからもしばらく継続されている点などからみて,大幅な人種交替があったとは考えにくいところである。なお,縄文人にも地方差や時代差があり,概して早期・前期では中期以降と比較して,骨格全体が小ぶりで脳頭蓋,顔面がやや小さく,歯の磨耗度が著しい。生活様式や栄養の変化の影響ともみられる。また平均寿命は男女とも31歳前後と推定されている。縄文人の骨格にはさまざまな身体的特徴が指摘されるが,とくに上下の歯列が直接咬(か)み合う鉗子(かんし)状咬合(こうごう)が圧倒的で,現代日本人の大部分が鋏状咬合であるのと対照的である。その約半数は虫歯をもち,一般に狩猟採集民は虫歯の罹患率が低い傾向にあることに反する点は重要である。ドングリ類などのデンプン質の摂取が多かったことの反映ともみられる。また縄文人の下肢関節面には蹲踞(そんきよ)面の形成が著しく,長時間の休息姿勢あるいは作業姿勢に関係するものであろう。縄文時代の人口については,山内清男は経済状態が相似していて,ほぼ同じ面積に住むカリフォルニア・インディアンとの比較から約30万と推定している。
→縄文人
狩猟具,採集具,漁労具,調理具など各種があり,それらの材質から石器,骨角器,牙器,貝器,木器,土器,皮革製品,繊維製品などが区別されるが,金属器はいっさいなかった。主として石器の一部などの旧石器時代以来の継続品のほか,大陸からの渡来品あるいは影響を受けたもの,および縄文文化独自の発明などがあるが,その正確な区別は困難である。道具の種類やその組合せには地方ごと,時期ごとに差があり,また縄文時代全期を通じて継続する類や短期間で姿を消す類などがある。なお,鹿角製の離頭銛などのごとく,縄文文化に起源があり,大陸側に波及したと考えられる種類もある。食料獲得および調理加工に直接的にかかわる道具のほか,精神世界にかかわる呪術具,儀器など,いわゆる〈第二の道具〉の発達も重要である。土偶,石棒,石剣,石刀,岩版,土版,石冠,御物石器など各種がある。さらに耳飾,腕飾,腰飾,垂玉など,いわゆる身体装飾品があるが,単に身体を飾るという意味を超えて,抜歯や叉状研歯などとともに一定の社会的・文化的機能を果たしたものと思われる。
後期末の九州にはすでに米をはじめ朝鮮半島からの文化要素の流入が始まっていた。やがて西北九州に支石墓が出現し,晩期中葉には水田耕作が開始されて,いち早く弥生文化へと突入した。ついに縄文文化は西から東へとその幕を閉じてゆくのであるが,その交替は東海地方や東北南部で一時的に停滞し,とくに北海道へは容易に到達せず,縄文文化の強い伝統を継承する,いわゆる続縄文文化が続いた。
→続縄文文化 →弥生文化
執筆者:小林 達雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…またそのことと関連して,日本列島での原始・古代の歴史発展は中国や朝鮮半島での先進文化の存在がたえず前提条件になっており,日本の社会の変化も,このような大陸からの外来的要因をたえずふくみつつ行われたことである。
〔採取・狩猟・漁労を中心とする社会〕
この段階の原始社会は,先土器文化の時代と縄文文化の時代にわけられる。
【先土器文化の社会】
先土器文化の時代は前3万年前から前1万年前後までで,世界史的には旧石器時代の後期に相当するといわれている。…
…弥生文化の時代,すなわち弥生時代は,縄文時代に後続して古墳時代に先行し,およそ前4世紀中ごろから後3世紀後半までを占める。弥生文化は,基本的に食料採集(食用植物・貝の採取,狩猟,漁労)に依存する縄文文化と根本的に性格を異にする一方,後続する古墳文化以降の社会とは経済的基盤を等しくする。つまり水稲耕作を主として食用家畜を欠く農業,米を主食とする食生活は弥生文化に始まり,現代に至る日本文化を基本的に特色づけることになったのである。…
※「縄文文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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