エチオピア(読み)えちおぴあ(英語表記)Federal Democratic Republic of Ethiopia

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

エチオピア(国)
えちおぴあ
Federal Democratic Republic of Ethiopia

総論

アフリカ大陸の北東部にある連邦民主共和国。面積110万4300平方キロメートル、人口7506万7000(2006推計)、9173万(2013年世界銀行)。首都はアディス・アベバ。首都の人口310万(2007推計)。首都は標高2400メートルの高原にある。古代からの独立国としてアフリカでは特異な存在である。アフリカ諸国のうち独立を守り抜き、植民地となることを拒否してきた唯一の国であるという自信に裏打ちされた、エチオピア人は誇り高き民族である。「エチオピア」はギリシア語で「日に焼けた人」を意味し、旧称のアビシニアはアラビア語で「混血」を意味する。エチオピア人の肌は、数千年もの間にハム系、セム系、黒人などの混血によって生まれた微妙な色をしている。[諏訪兼位]

自然


地形
「アフリカのスイス」とよばれ、美しい国である。地形的には、西方のエチオピア高原、東方の東部高原、この二つの高原に挟まれたアフリカ大地溝帯の低地に分けられる。エチオピア高原は2000メートル以上の高原で、最高峰のラス・ダシャン山(ダシャン山)は標高4533メートル、西のスーダンに近づくにつれて緩やかに低くなる。東部高原も同様で最高峰のバトゥ山は標高4307メートル、南東のソマリアに向かって低くなり、砂漠となる。大地溝帯の低地はこの国の北東から南西にかけて走っている。しかし、1962年エチオピアに併合したエリトリアが1993年5月24日に分離独立。そのためエチオピアは、マッサワとアッサブ2港を含む、エリトリアの966キロメートルにわたる海岸を失い、ふたたび内陸国となった。
 河川は首都アディス・アベバ付近から四方八方に流れるかっこうになっている。黒ナイル川、青ナイル川、ソバト川、アワシュ川などである。なかでも、タナ湖(湖面の海抜高度1830メートル)に源を発する青ナイル川はエチオピア高原(アビシニア高原)を1000メートル以上もえぐり、みごとなV字谷を刻みつけながら、西方スーダンの広漠たる砂漠に流れ下る。そしてスーダンの首都ハルツームでナイル川本流の白ナイル川に合流する。大地溝帯の低地には北東から南西にかけて多くの湖が数珠(じゅず)玉のように連なる。この低地を北東に流れるアワシュ川はジブチ国境のアッベ湖のあたりで砂漠に吸いこまれるようになくなってしまう。紅海沿岸(エリトリア)のアファール凹地(くぼち)には海面より低い区域がある。[諏訪兼位]
気候
エチオピアは北緯3度から14度までの熱帯の国であるが、涼しいことで有名である。標高によって三つの気候帯に分けられる。標高1800メートルまでは熱帯で年平均気温は26℃、1800メートルから2400メートルまでは亜熱帯で年平均気温は22℃、2400メートル以上は温暖帯で年平均気温は16℃。亜熱帯と温暖帯にはマラリアも発生しない。
 6月中旬から9月中旬までの雨期に年降水量の8割が降る。雨期には南西風がギニア湾やコンゴ盆地から水分を運び、初め南西部に達するので、南西部のカッファ州(コーヒーの原産地)などでは雨量が多い。エチオピア高原では雨期の3か月間、毎日熱帯性のスコールが降る。雨水は、高原の北部では黒ナイル川、中部では青ナイル川、南部では白ナイル川に奔流する。ナイル川の水源の84%はエチオピア高原に降る雨である。しかし雨期の雨も北東部にいくにつれて少なくなり、とくに大地溝帯の低地にはほとんど降らない。9月下旬から翌年の2月にかけては乾期で、3月と4月には小雨期が訪れる。首都アディス・アベバ(海抜2400メートル)の年降水量は1145ミリメートル(2010)である。[諏訪兼位]
地質
エチオピア高原は、そのほとんどすべてが漸新世(約3000万年前)の玄武岩、粗面岩などの溶岩類に厚く広く覆われており、第四紀(約260万年前以降)の溶岩類も若干分布する。これら溶岩類の下位にあるジュラ紀(約1億5000万年前)の地層は、主として青ナイルのように深く刻まれ侵食された谷底や谷壁にみられる。
 先カンブリア時代(約6億年前以前)の基盤岩類(結晶片岩、片麻(へんま)岩)は、エチオピア高原の北部や西部の標高1500メートル以下の高原周辺部に露出している。漸新世に始まった著しい上昇運動のために、海成ジュラ紀層(ジュラ紀の海成層)は最高標高2500メートルの所に露出する。
 東部高原は、西端部では漸新世の溶岩類が広く分布するが、地表の大部分はその下位にくるジュラ紀または白亜紀(約1億年前)の海成層(海底に堆積した地層)によって覆われている。先カンブリア時代の基盤岩類は南西部では標高2000メートル以下、南東部では1000メートル以下の地域に広く露出し、そのほかハラル地方に地窓(フェンスター)のように露出する。地窓は、低角の衝上断層の形成後、衝上岩体の一部が大きく浸食されたため、衝上断層の下位の岩石が孤立して露出するようになった部分のことである。東端部には始新世(約4500万年前)の石灰岩が分布する。この地域も著しい隆起を示しており、始新世の石灰岩が、標高1500メートルの高度にみられる。
 大地溝帯の低地はほとんどが第四紀の火山岩類で覆われている。おもな火山噴火は、1810年ごろ(ガリバルディ峠、ファンターレ山)、1861年5月(デュビ火山)、1897年(トゥルカナ湖南方)、1907年6月(アフデラ火山)で、現在活動中のものにはエンタ・アレ火山、ウンムナ火山、ティブレ・アレ火山があるが、これら三つの火山はいずれもエリトリア領である。
 エチオピアとエリトリアでは、膨大な量の洪水玄武岩が流出している。エチオピアとエリトリアをあわせた火山の総噴出量は34万5000立方キロメートルに達する。また、エチオピアの大地溝帯の形成に伴って、地殻のドーム状隆起量は3000メートルである。[諏訪兼位]
初期人類化石の宝庫
初期人類史の構築は、人類学者による、アフリカ大地溝帯での絶え間ない化石探求のたまものである。なかでも、エチオピア南西部のオモ川下流域と、エチオピア北東部とエリトリアのアファール三角地帯から出土した多くの人類化石が、400万年の人類史の中核をなしている。
 1967年から10年間、オモ川下流域の調査が行われた。1000メートルを超えるオモの地層は、400万年前から100万年前までの連続層序を示している。この間、気候は湿潤から乾燥へと変化し、植生も湿潤型から乾燥型へと進化した。動物相も、茂みに生息するものから、草原性のサバンナに生息するものへと変化した。ヒト科についていえば、下部の地層からアファール猿人が、上部の地層からはエチオピクス猿人、ボイセイ猿人、ホモ・ハビリスなどがみいだされる。人間はある程度の乾燥化の産物である。
 アファール三角地帯のハダール地方では、1960年代後半から1970年代終わりまで調査が続けられ、アファール猿人の全貌(ぜんぼう)が明らかにされた。1980年代は不幸な内乱のために、エチオピアでの発掘は中断された。しかし、1988年から調査は再開され、多くの成果があがっている。1994年には、アラミス地域から、東京大学の諏訪元(すわげん)(1954― )、カリフォルニア大学バークリー校のホワイトTim D. White(1950― )らによって、人類の祖先としてはもっとも古い、440万年前のラミダス猿人の化石が発見された。この化石には、猿人と類人猿との中間的な要素が多くみられる。そして2009年には、ラミダス猿人の化石から全身像を復原することに成功した。[諏訪兼位]
植生
エチオピアはコーヒーの原産地として有名であり、コーヒーということばはエチオピア高原南部の州名カッファKaffaに由来するといわれている。コーヒーの自生地はこのカッファ州を中心として、北緯6~9度、東経34~38度、標高1500~1900メートル、水の十分にある涼しい高原である。自生のコーヒーの木は高さ10メートルを超えることがある。もちろん栽培も本格的に行われており、栽培するコーヒーの木は高さ3メートルにとどめる。標高1500~2400メートルの高原では、高さ3~4メートルのチャットの木が栽培されている。エチオピア人はチャットの生の葉を、口中を緑色にしてもぐもぐとかみ、空腹と疲労感を和らげる。南アメリカのコカと同様の効用がある。標高2500~3500メートルの高原にはコソの大木が自生する。コソの木は高さ15メートル、幹の太さ1メートルに達することがある。雨量の多いエチオピア高原は昔は豊富な樹木で覆われていたが、いまでは住民の乱伐によって森林地帯は少なくなり、ほとんど耕地になっている。それでもコソの大木だけは点々と残っている。牛肉を生で食べるエチオピア人は、条虫の駆除と予防のために、コソの雌花を毎月1回服用している。高原の道路わきにはユーカリの並木をよくみかける。オーストラリアから移植したものが、気候風土に適しているためか、どこでもみごとな大木に生長している。エチオピア特産の穀物であるテフは、日本のニワホコリ(イネ科)に似たもので、高原に多量に栽培されている。テフの粉に水を入れ、こねて数日間そのまま放置し、発酵して酸を生じたものを鉄板上に丸く薄く延ばし、直火(じかび)で焼く。これがインジェラというエチオピア人の主食である。[諏訪兼位]
動物相
動物地理学上の区分のひとつにエチオピア区がある。キリン、カバ、ハゲワシなどが固有種で、爬虫類の多いことが特徴である。そのほかエチオピアには、昔はゾウやライオンなども多数いたが、古代からの象牙(ぞうげ)の輸出などによってゾウはほとんどみられず、ライオンも少なくなっている。ハイエナは多く、夜になると餌(えさ)を求めて町の中に侵入する。カッファ州にはジャコウネコが多く、その分泌物は香料や薬に用いられる。
 エチオピア高原北部にすむゲラダヒヒについては京都大学の河合雅雄(かわいまさを)(1924― )らによって詳細な生態が明らかになった。霊長類のなかに、テリトリー制も群れどうしの対立もない社会をもつ種(ゲラダヒヒ)が存在することは、従来のサル学の知識を根底から覆すものである。[諏訪兼位]

歴史

エチオピアは3000年に及ぶ歴史をもち、この点で他のアフリカ諸国とはきわだって異質である。紀元前10世紀ごろ、ソロモンとシバの女王との間にできたメネリク1世をもってエチオピア初代皇帝とする。1974年まで続いたエチオピア帝国憲法ではこれを史実とし、メネリク1世からハイレ・セラシエ皇帝まで、皇統連綿として伝わっていると規定されていた。この建国神話はともかくとして、前7世紀ごろにアラビア半島のイエメン付近からセム系の種族がエチオピアに移動してきたのは事実である。その中核は現在のエチオピアの支配部族であるアムハラ人で、彼らは強大な商業都市アクスムを建設し、先住のハム系住民を征服した。首都アクスムはアフリカ内陸から運ばれてくる象牙の集散地として栄えた。アクスム王国は前1世紀の西部イエメンへの侵入を手始めに、アラビア半島の支配を試みた。これはメッカ攻撃の行われた6世紀の「象戦争」のころまで断続的に続く。4世紀にエザナ王はキリスト教(コプト派)をアクスム王国の公的な宗教とした。コプト派はこのとき以来エチオピア人の生活のあらゆる面に浸透した。また、エザナ王は西方スーダンの白ナイル川と、青ナイル川の合流点付近まで軍を進めた。いまもエザナ王の「キリスト教徒の碑文」にその勝利の記録を読み取ることができる。30メートルに及ぶオベリスク(方尖塔(ほうせんとう))、防塞(ぼうさい)を備えた宮殿、石の王座を建て、貨幣を製造し、溜池(ためいけ)やダムの建設、田畑の灌漑(かんがい)まで行われた。
 7世紀になると、アラビア半島にイスラム勢力が台頭し、アラビア人は北アフリカを支配下に置いてイスラム化した。イスラム教は紅海を渡ってアクスム王国の海岸にも進出してきた。そのためにこのキリスト教王国は衰退し、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三つの大宗教が部族的対立と結び付いて不安と混乱を繰り返した。13世紀後半になってアクスム王国はふたたびこの地域の支配権を回復したが、そのときからエチオピア高原に孤立し、海岸地方ではイスラムの土侯が各地に出現していた。
 東部のハラルを中心にしたアダルのイスラム王国はその一つである。アダル王国のイスラム教徒とエチオピア皇帝との間には、14世紀以来、数世紀にわたって断続的な戦いが繰り返された。15世紀にはアダル王国は西方はるかサハラ砂漠以南のイスラム諸王国と盛んに交易している。16世紀に入ってアダル王国のグランはトルコのオスマン帝国の手先となり、キリスト教攻撃の急先鋒(きゅうせんぽう)となってエチオピアと16年間にわたって激しい戦いを続けた。エチオピア軍は一時敗走したが、ポルトガル軍の援助で勝利を得た。
 スエズ運河の開通(1869)後、イギリス、フランス、イタリア3国は、海岸地帯のイスラム土侯と保護領協定を結び、エリトリアやソマリ人の領土を植民地化した。アクスム王国はアビシニア王国といわれ、のちにエチオピアとよばれるが、この海岸地帯の植民地化によっていよいよ孤立化を強めた。イタリアはエチオピアをも植民地化しようと侵略したが、1896年アドワの決戦でメネリク2世のエチオピア軍に敗退した(第一次エチオピア戦争)。さらに1935年、ファシスト政権下のイタリアは、ふたたびエチオピア侵略を開始し全土を占領、1936年ハイレ・セラシエ皇帝はイギリスへ亡命した。そしてエチオピアはイタリア領東アフリカ連邦の一属領となった(第二次エチオピア戦争)。しかし、第二次世界大戦中、エチオピアのイタリア軍はイギリスの攻撃により敗退し、ハイレ・セラシエ皇帝が帰国、エチオピア帝国として再独立を果たした。1941年のことであった。
 1952年エチオピアはエリトリアと連邦を結成し、1962年に同地域を併合した。これによってエチオピアは初めて海に面した領土を回復した。そして1955年には近代的な立憲君主制憲法を実施して政治的統一と経済開発に努めた。1963年ハイレ・セラシエ皇帝は、ギニア大統領セク・トゥーレAhmed Skou Tour(1922―1984)とともに、アフリカ統一機構(OAU)を設立した。OAUはエチオピアなどアフリカ30か国によって設立された主権尊重と地域協力を目ざす国際機構であり、2002年にアフリカ連合(AU)として発展的に改組された。加盟国は54か国(2015)に達する。本部は1963年以来アディス・アベバにある。エチオピア国内では1971~1973年の大干魃(かんばつ)で500万人の被災者を出し、餓死者は20万人に達した。またインフレや失業者の増大により、皇帝独裁政治への不満が高まった。[諏訪兼位]

政治


帝政の廃止と共和制の樹立
1973年エチオピア東部のオガデン地方でソマリア人の反政府闘争が起きた。インフレと低賃金から労働者は労働組合をつくり、各地でストライキを起こした。1974年には軍隊も各地で賃上げを要求して反乱を起こした。1974年9月11日に宮殿に突入した軍隊によってハイレ・セラシエ皇帝は連れ去られた。臨時軍事評議会は1975年3月21日に皇帝位の廃止を正式に告示し、長い歴史をもつエチオピアの帝政は終った。1975年8月、幽閉されていたハイレ・セラシエは失意のうちに83歳の生涯を閉じた。
 臨時軍事評議会議長のメンギスツ中佐は1977年独裁体制を固め、都市住民組織と集団農場を基盤に急速な社会主義化を進めた。1987年新憲法が制定されてエチオピアは人民民主共和国となり、メンギスツは初代大統領に就任した。しかしエチオピア国内にはメンギスツ政権に対抗する反政府勢力が存在した。エチオピアからの分離独立を目ざすエリトリア人民解放戦線(EPLF:Eritrean People's Liberation Front)は反政府勢力の代表的なものであった。
 EPLFの動きはエチオピア北部のティグレ人に影響を与え、ティグレ人民解放戦線(TPLF:Tigrayan People's Liberation Front)が結成され、1989年にはオロモ人民民主機構(OPDO:Oromo People's Democratic Organization)も加わってエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF:Ethiopian People's Revolutionary Democratic Front)が結成された。EPRDFはエチオピア政府軍への攻撃を開始した。内戦状態は1990年にピークを迎え、1991年2月13日ゴンダルとゴジャムの政府軍はEPRDFの攻撃によって完全に壊滅し、メンギスツ政権の命運は尽きた。1991年4月21日メンギスツ大統領は辞任し、ジンバブエに亡命して16年に及ぶ独裁政治は終った。
 メンギスツ大統領のジンバブエへの亡命によって、EPRDF書記長のメレス・ゼナウィMeles Zenawi Asres(1955―2012)が暫定大統領となり新政権を樹立した。新政権はEPLFと休戦協定を締結、1993年5月エリトリアは正式にエチオピアからの分離独立を達成した。1995年8月22日に新憲法が制定され、ネガソ・ギダダNegasso Gidada(1943― )が大統領に、メレス・ゼナウィが事実上の最高指導者である首相に就任。国名をエチオピア連邦民主主義共和国と改称した。2001年10月8日下院議員ギルマ・ウォルドギオルギスGirma Wolde-Giyorgis Lucha(1924― )が大統領に就任した(2007年に再選)。2010年5月の国会選挙で与党が圧勝し、メレスが首相に再任されたが2012年8月に死去したため、同年9月に当時副首相と外相を兼任していたハイレマリアムHailemariam Desalegn(1965― )が首相に就任(2015年に再選)。2013年10月にはムラトゥMulatu Teshome Wirtuが大統領に選出され、就任した(任期は6年)。
エリトリアの独立とエチオピア・エリトリア国境紛争
エリトリアは1952年までイギリスの軍政下にあったが、国際連合決議でエチオピアに連邦という形で編入されることになった。エリトリアは本来エチオピアとは異なる歴史をたどってきた国家であり、宗教をはじめ文化も違いが大きかった。
 1958年にイスラム教徒を中心にエリトリア解放戦線(ELF:Eritrean Liberation Front)が結成され、自治権の確立を目ざした。しかしエリトリアは1962年にエチオピアに併合されエチオピアの1州となってしまった。1970年にEPLFが結成された。EPLFによるエリトリア分離独立運動は活発化した。1991年エチオピアのメンギスツ政権が崩壊するなかでEPLFはエリトリアの首都アスマラを占領した。EPRDFを中心とする新政権はEPLFと休戦協定を締結し、1993年にエリトリアは正式にエチオピアから分離独立し、アフリカ第53番目の独立国となった。
 エリトリアの独立によってエチオピアは紅海への出口であったマッサワ港とアッサブ港を失った。1998年5月以降、エチオピアはマッサワ、アッサブ両港の利用をやめ、隣国ジブチのジブチ港とジブチ鉄道を利用するようになった。さらにエチオピアとエリトリアの両国は国境付近のバドメ地区の領有権をめぐって紛争状態に入った。アフリカ統一機構(OAU)は両国紛争の調停に乗り出し、2000年12月12日にエチオピア・エリトリア両国の和平協定が結ばれた。
オガデン地方とソマリア
オガデン地方(エチオピア東部・東南部)はエチオピアの領土とされていたが、そのおもな住民であるソマリ系諸民族やオロモ人はイスラム教徒であり、エチオピアの支配には抵抗を示していた。一方、第二次世界大戦後のアジア・アフリカにおける民族自決の流れのなかでイギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリアはそれぞれ1960年に独立し、さらに合併してソマリア共和国が誕生した。
 1974年からオガデン地方では飢餓が続いていた。メンギスツ政権は18の難民キャンプを設置して飢えた70万人の救済に乗り出した。しかしイスラム教の習慣を行うことが許されず、大多数のオガデン人はキャンプを出た。そして、オガデンの分離独立とソマリアへの併合を目ざして西ソマリア解放戦線(WSLF:Western Somali Liberation Front)が結成された。1977年8月にソマリア軍はオガデン砂漠を通過してエチオピア領内に侵攻し、エチオピアとソマリアとの全面戦争に発展した。1978年3月、エチオピアは勝利し、ソマリア軍はオガデン地方から撤退した。戦争は1988年4月に休戦協定を結んで終結したが、残されたものは以前と変わらぬ国境線と難民によって衰退したオガデンの街、疲弊しきったエチオピア、ソマリア両国だけであった。
軍事
エチオピアの陸軍の兵力は、軍事費圧縮と軍隊の近代化のために削減され、2014年には13万5000人になった。エチオピア空軍の兵力は約3000人である。2012年の国防予算は3億5100万ドル。なおエチオピア海軍はエリトリア独立の後に廃止され、この時残存していた艦船は売却された。

経済

農業がエチオピア経済の基盤でGDPの約半分、輸出の60%、雇用の80%を占める。ハイレ・セラシエ皇帝時代には、農地の70%が人口の0.1%にすぎない人々(封建的地主とコプト教会勢力)に握られていた。1974年の革命によって地主・小作制度は廃止され、農地は10ヘクタール程度の単位で農民に配分された。しかしすべて借地(最長99年間)であり、保有することも、抵当に入れることも、売却することもできない。経済成長率は2007年で11.2%、2012年で8.5%など好転しているが、人口爆発(2000年6940万人、2006年7507万人、2013年9173万人)のために、依然として世界最貧国の一つである。[諏訪兼位]
産業
農林・漁業就業者の比率は84.5%(2005)に達する。国土総面積の75%は農業牧畜に利用できるというが、そのうち農耕地は14%にすぎず、82%は牧草地である。農民は自家用の穀物や野菜を手元に置くため、都市への供給が減り、年に30万トンの穀物輸入に頼らざるをえない。
 外貨収入の70%近くは、年産32万トン(2007)のコーヒーと、ウシ4700万頭(2007)、ヒツジ2370万頭(2007)、ウマ145万頭(2002)、ラクダ47万頭(2002)などの家畜である。コーヒーの大部分は野生のコーヒーを採取する形で生産され、そのコーヒーも零細な農民にゆだねられているため生産性は低い。全人口の25%はコーヒーに依存して生活をたてていると推定される。コーヒーは、1970年末からの国際市場価格の高騰によって、1989~1990年には輸出額2億0262万ドルに達し、総輸出額の55%となった。農産物にはコーヒーのほか綿花、サイザル麻、タバコがあるが、近年は減産傾向にある。2007年の農産物生産は、いも類593万4000トン、トウモロコシ333万7000トン、小麦221万9000トン、米1万1000トン、大豆6000トンなどである。サトウキビの増産は続いている。2006年の木材生産量は総量9740万9000立方メートル、うち用材は292万8000立方メートル、薪材は9448万1000立方メートルである。
 国内総生産(GDP)は167億1200万ドル(2007)、1人当り201ドル。人口がエチオピアの60%弱しかない南アフリカ共和国では2007年の国内総生産が2741億4300万ドル、1人当り5643ドルであり、両者を比べれば、エチオピアの経済規模の小さいことは明らかであろう。[諏訪兼位]
貿易
1974年以来の輸出量の減少にもかかわらず、穀物類、燃料製品、自動車などの輸入量が増大し、価格も上昇したので、貿易は慢性的に入超で、赤字幅が増えている。輸出のなかで圧倒的な比重を占めるのは、コーヒー、家畜、食肉缶詰などの農業牧畜の一次産品で、これは発展途上国の典型的な貿易構造である。1999年には輸出が4億6000万ドル、輸入が12億5000万ドル、赤字7億9000万ドルだったが、2007年には輸出が10億3000万ドル、輸入が77億8700万ドル、赤字67億5700万ドル、2012年には輸出が31億0900万ドル、輸入が94億9800万ドル、赤字63億8900万ドルとなっている。2012年のおもな輸入相手国は、中国、アメリカ、サウジアラビア、インドなどであり、おもな輸出相手国は、中国、ドイツ、アメリカ、サウジアラビア、ベルギーなどである。[諏訪兼位]
消費原油・消費電力
2005年の消費原油は77万トンで、1人当りの消費原油は11キログラムである。また2005年の消費電力は28億7200万キロワット、1人当りの消費電力は40キロワットである。
資源
鉱業は、金、銀、白金、鉄、銅、マンガン、岩塩、硬石膏(せっこう)などを少量産出するほか、水銀、タングステン、タンタル、ニオブ、ニッケルなどの埋蔵が確認されている。金は1990年に0.8トン産出したが、開発が進み2003年には5.3トンに増加した。銀は2003年に1トン産出した。1960年代には白金は毎年10キログラム程度、鉄は毎年400トン程度産出していた。銅については、エリトリア地方で日本鉱業が高品位の銅鉱床を発見し、1974年初頭初めて船積みされた。しかしその直後に革命が起こり、銅鉱山の開発は中断されている。1960年代にはマンガンは毎年2000トン、岩塩は毎年1万トン、硬石膏は毎年6000トン産出していた。なお岩塩は2003年に6万1000トン産出した。このほか天然ガスが1969年にマッサワ沖の紅海で発見され、また石油もオガデン地方で発見されている。
 水力発電については国連によって大地溝帯地域などの調査が行われ、年に560億キロワット時の可能性があるとみられているが、現在の設備は12億キロワット時で、110の都市、村落に供給しているにすぎない。[諏訪兼位]
交通
交通は道路網が中心で、2003年の自動車保有台数は、乗用車7万1000台、トラック・バス9万2000台である。1000人当りの自動車台数は2台である。2004年時点で、道路の総延長は3万6469キロメートルで主要幹線道路は1万8702キロメートル、二次道路は1万7767キロメートル、舗装率は19.14%である。2004年の道路関連支出は1億0600万ドルであった。アディス・アベバとジブチ共和国のジブチ港を結ぶ880キロメートルの鉄道のうち、国内区間は783キロメートルである。1917年に建設されたこの鉄道は単線である。内陸水運の可能なのはタナ湖と南西端部のバロ川だけである。海運はジブチ港を中心に行われている。国営のエチオピア航空(EAL)はアディス・アベバの国際空港を本拠に、大型ジェット旅客機の離着陸可能なディレ・ダワ、ジンマのほか、40近くの空港で国内線を運航している。[諏訪兼位]

社会・文化

民族的には、数のうえではハム系がもっとも多いが、階級的な最上層はセム系およびセム系とハム系との混合である。セム系のアムハラ人とティグレ人(合計32.6%)は主としてエチオピア高原に住み、首都アディス・アベバもその支配下にある。もっとも大きな人口比重を占めるハム系のガラ人(42.7%)は高原地帯の遊牧民であり、その40%はイスラム教徒である。シダモ人(10.1%)、ソマリ人(6.0%)、ダナキル人(2.0%)もハム系で、ソマリ人は狂信的なイスラム教徒である。
 最大の宗教は国教であるキリスト教コプト派で、アムハラ人を中心に総人口の約55%がその信徒といわれる。かつては法王だけをエジプト、すなわちコプトから受け入れていたが、近年は法王もエチオピア人になっている。正確には「エチオピア正教会」といい、コプト教会とは姉妹関係にある。次に重要なのはイスラム教で、ダナキル人、ソマリ人などとガラ人のかなりの部分など、総人口の30%以上がその信徒である。そのほかは部族的なアニミズムを信じているが、これは南西部から西部のバントゥー系、ナイロート系の諸部族に多くみられる。国民の生活は現在でも教会を中心に行われるものが多く、祭りと断食が、畑を耕すことよりもたいせつな関心事となっている。
 国語はアムハラ語で、アラビア語やヘブライ語の系統に属するが、文字は独自のものである。ほかに商業用語として英語、教会用語としてセム系のゲエズ語が学校でも教えられている。ほかにセム系、ハム系、バントゥー系などの部族語は70以上にも及ぶ。
 約2万人の教師、活動家によって教育の普及に努力が払われており、200万人の識字教育が行われている。1993年の初等学校就学率は23%、中等学校就学率は11%である。7~13歳の義務教育の制度がある。2004年の識字率は男50%、女22.8%である。2004年の新聞発行部数は35万8000部で、1000人当り、4.6部である。
 平均寿命は男55歳、女58歳(2006)と短く、満5歳未満児死亡率も16.4%(2005)と高い。満5歳未満児の38%(1996~2005)は低体重児である。医療状況は人口5000人当りベッド数1(2000~2006)、人口5000人当り看護師・助産師1人(2000~2006)、人口2万人当り医師1人以下(2000~2006)である。2007年のエイズ感染者は98万人にのぼる。うち15歳以上が89万人(男36万人、女53万人)である。15~49歳人口に占める感染者の割合は2.1%で、エイズによる死亡者は6万7000人にのぼる。2006年の失業者は76万7000人に達し、男27万3000人、女49万4000人である。失業率は全体として16.7%で、男11.5%、女22.1%である。[諏訪兼位]

日本との関係

エチオピアはともに長い歴史をもつ君主国家として、明治初年から日本人に親近感や好感がもたれていた。1899年(明治32)に日本人の立場で初めてアフリカ論を書いた東京帝国大学教授の戸水寛人(とみずひろんど)(1861―1935)の『亜非利加(アフリカ)之前途』や、1901年(明治34)発行の徳冨蘆花(とくとみろか)の『ゴルドン将軍伝』に登場するエチオピアに明治人のエチオピア観がよく表れている。1930年代初頭には日本の一華族の娘と、エチオピア王族の一人との結婚話さえ生じた。1956年(昭和31)、ハイレ・セラシエ皇帝は国賓として来日し、それに対する答礼として皇太子夫妻のアディス・アベバ訪問があった。
 日本は紡績工場、鉄板工場、タイヤ・チューブ工場など合弁企業の設立から、各種の技術援助、留学生の受け入れなども行っている。大使を交換していることはもちろんである。2013年(平成25)10月時点で、在留邦人は274人である。2012年度までの日本の援助は有償資金協力が37億円、無償資金協力が1010億0500万円、技術協力が336億0100万円に達している。また2012年の対日貿易は輸出(コーヒーなど)が104億4000万円、輸入(自動車など)が49億3000万円である。[諏訪兼位]
『松本真理子・福本昭子著『裸足の王国』(1960・光文社) ▽末続吉間著『エチオピアの経済構造』(1964・アジア経済研究所) ▽在エチオピア日本国大使館編『エチオピア帝国』(1965・日本国際問題研究所) ▽鈴木秀夫著『高地民族の国エチオピア』(1969・古今書院) ▽松枝張著『エチオピア絵日記』(1976・岩波新書) ▽諏訪兼位著『裂ける大地 アフリカ大地溝帯の謎』(1997・講談社選書メチエ) ▽岡倉登志著『エチオピアの歴史 “シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』(1999・明石書店) ▽高根務編『アフリカの政治経済変動と農村社会』(2001・日本貿易振興会アジア経済研究所) ▽諏訪兼位著『アフリカ大陸から地球がわかる』(2003・岩波ジュニア新書) ▽福井勝義編著『社会化される生態資源 エチオピア絶え間なき再生』(2005・京都大学学術出版会)』

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