エチオピア(英語表記)Ethiopia

翻訳|Ethiopia

精選版 日本国語大辞典 「エチオピア」の意味・読み・例文・類語

エチオピア

  1. ( Ethiopia )
  2. [ 1 ] アフリカ東北部、紅海に面する国。アビシニア高原の大部分を占める。紀元前からアクスム王国が成立。一九三六年イタリアに併合されたが、四二年独立を回復。六二年から九三年まで北部のエリトリアを併合。七五年帝政廃止。首都アジスアベバ。アビシニア。
  3. [ 2 ] ( 昭和一〇年(一九三五)エチオピア皇帝の来日の頃東京の魚市場に大量に入荷し始めたところから ) 魚「しまがつお(縞鰹)」の異名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア(国)
えちおぴあ
Federal Democratic Republic of Ethiopia

総論

アフリカ大陸の北東部にある連邦民主共和国。面積110万4300平方キロメートル、人口7506万7000(2006推計)、9173万(2013年世界銀行)。首都はアディス・アベバ。首都の人口310万(2007推計)。首都は標高2400メートルの高原にある。古代からの独立国としてアフリカでは特異な存在である。アフリカ諸国のうち独立を守り抜き、植民地となることを拒否してきた唯一の国であるという自信に裏打ちされた、エチオピア人は誇り高き民族である。「エチオピア」はギリシア語で「日に焼けた人」を意味し、旧称のアビシニアはアラビア語で「混血」を意味する。エチオピア人の肌は、数千年もの間にハム系、セム系、黒人などの混血によって生まれた微妙な色をしている。

[諏訪兼位]

自然

地形

「アフリカのスイス」とよばれ、美しい国である。地形的には、西方のエチオピア高原、東方の東部高原、この二つの高原に挟まれたアフリカ大地溝帯の低地に分けられる。エチオピア高原は2000メートル以上の高原で、最高峰のラス・ダシャン山(ダシャン山)は標高4533メートル、西のスーダンに近づくにつれて緩やかに低くなる。東部高原も同様で最高峰のバトゥ山は標高4307メートル、南東のソマリアに向かって低くなり、砂漠となる。大地溝帯の低地はこの国の北東から南西にかけて走っている。しかし、1962年エチオピアに併合したエリトリアが1993年5月24日に分離独立。そのためエチオピアは、マッサワとアッサブ2港を含む、エリトリアの966キロメートルにわたる海岸を失い、ふたたび内陸国となった。

 河川は首都アディス・アベバ付近から四方八方に流れるかっこうになっている。黒ナイル川、青ナイル川、ソバト川、アワシュ川などである。なかでも、タナ湖(湖面の海抜高度1830メートル)に源を発する青ナイル川はエチオピア高原(アビシニア高原)を1000メートル以上もえぐり、みごとなV字谷を刻みつけながら、西方スーダンの広漠たる砂漠に流れ下る。そしてスーダンの首都ハルツームでナイル川本流の白ナイル川に合流する。大地溝帯の低地には北東から南西にかけて多くの湖が数珠(じゅず)玉のように連なる。この低地を北東に流れるアワシュ川はジブチ国境のアッベ湖のあたりで砂漠に吸いこまれるようになくなってしまう。紅海沿岸(エリトリア)のアファール凹地(くぼち)には海面より低い区域がある。

[諏訪兼位]

気候

エチオピアは北緯3度から14度までの熱帯の国であるが、涼しいことで有名である。標高によって三つの気候帯に分けられる。標高1800メートルまでは熱帯で年平均気温は26℃、1800メートルから2400メートルまでは亜熱帯で年平均気温は22℃、2400メートル以上は温暖帯で年平均気温は16℃。亜熱帯と温暖帯にはマラリアも発生しない。

 6月中旬から9月中旬までの雨期に年降水量の8割が降る。雨期には南西風がギニア湾やコンゴ盆地から水分を運び、初め南西部に達するので、南西部のカッファ州(コーヒーの原産地)などでは雨量が多い。エチオピア高原では雨期の3か月間、毎日熱帯性のスコールが降る。雨水は、高原の北部では黒ナイル川、中部では青ナイル川、南部では白ナイル川に奔流する。ナイル川の水源の84%はエチオピア高原に降る雨である。しかし雨期の雨も北東部にいくにつれて少なくなり、とくに大地溝帯の低地にはほとんど降らない。9月下旬から翌年の2月にかけては乾期で、3月と4月には小雨期が訪れる。首都アディス・アベバ(海抜2400メートル)の年降水量は1145ミリメートル(2010)である。

[諏訪兼位]

地質

エチオピア高原は、そのほとんどすべてが漸新世(約3000万年前)の玄武岩、粗面岩などの溶岩類に厚く広く覆われており、第四紀(約260万年前以降)の溶岩類も若干分布する。これら溶岩類の下位にあるジュラ紀(約1億5000万年前)の地層は、主として青ナイルのように深く刻まれ侵食された谷底や谷壁にみられる。

 先カンブリア時代(約6億年前以前)の基盤岩類(結晶片岩、片麻(へんま)岩)は、エチオピア高原の北部や西部の標高1500メートル以下の高原周辺部に露出している。漸新世に始まった著しい上昇運動のために、海成ジュラ紀層(ジュラ紀の海成層)は最高標高2500メートルの所に露出する。

 東部高原は、西端部では漸新世の溶岩類が広く分布するが、地表の大部分はその下位にくるジュラ紀または白亜紀(約1億年前)の海成層(海底に堆積した地層)によって覆われている。先カンブリア時代の基盤岩類は南西部では標高2000メートル以下、南東部では1000メートル以下の地域に広く露出し、そのほかハラル地方に地窓(フェンスター)のように露出する。地窓は、低角の衝上断層の形成後、衝上岩体の一部が大きく浸食されたため、衝上断層の下位の岩石が孤立して露出するようになった部分のことである。東端部には始新世(約4500万年前)の石灰岩が分布する。この地域も著しい隆起を示しており、始新世の石灰岩が、標高1500メートルの高度にみられる。

 大地溝帯の低地はほとんどが第四紀の火山岩類で覆われている。おもな火山噴火は、1810年ごろ(ガリバルディ峠、ファンターレ山)、1861年5月(デュビ火山)、1897年(トゥルカナ湖南方)、1907年6月(アフデラ火山)で、現在活動中のものにはエンタ・アレ火山、ウンムナ火山、ティブレ・アレ火山があるが、これら三つの火山はいずれもエリトリア領である。

 エチオピアとエリトリアでは、膨大な量の洪水玄武岩が流出している。エチオピアとエリトリアをあわせた火山の総噴出量は34万5000立方キロメートルに達する。また、エチオピアの大地溝帯の形成に伴って、地殻のドーム状隆起量は3000メートルである。

[諏訪兼位]

初期人類化石の宝庫

初期人類史の構築は、人類学者による、アフリカ大地溝帯での絶え間ない化石探求のたまものである。なかでも、エチオピア南西部のオモ川下流域と、エチオピア北東部とエリトリアのアファール三角地帯から出土した多くの人類化石が、400万年の人類史の中核をなしている。

 1967年から10年間、オモ川下流域の調査が行われた。1000メートルを超えるオモの地層は、400万年前から100万年前までの連続層序を示している。この間、気候は湿潤から乾燥へと変化し、植生も湿潤型から乾燥型へと進化した。動物相も、茂みに生息するものから、草原性のサバナに生息するものへと変化した。ヒト科についていえば、下部の地層からアファール猿人が、上部の地層からはエチオピクス猿人、ボイセイ猿人、ホモ・ハビリスなどがみいだされる。人間はある程度の乾燥化の産物である。

 アファール三角地帯のハダール地方では、1960年代後半から1970年代終わりまで調査が続けられ、アファール猿人の全貌(ぜんぼう)が明らかにされた。1980年代は不幸な内乱のために、エチオピアでの発掘は中断された。しかし、1988年から調査は再開され、多くの成果があがっている。1994年には、アラミス地域から、東京大学の諏訪元(すわげん)(1954― )、カリフォルニア大学バークリー校のホワイトTim D. White(1950― )らによって、人類の祖先としてはもっとも古い、440万年前のラミダス猿人の化石が発見された。この化石には、猿人と類人猿との中間的な要素が多くみられる。そして2009年には、ラミダス猿人の化石から全身像を復原することに成功した。

[諏訪兼位]

植生

エチオピアはコーヒーの原産地として有名であり、コーヒーということばはエチオピア高原南部の州名カッファKaffaに由来するといわれている。コーヒーの自生地はこのカッファ州を中心として、北緯6~9度、東経34~38度、標高1500~1900メートル、水の十分にある涼しい高原である。自生のコーヒーの木は高さ10メートルを超えることがある。もちろん栽培も本格的に行われており、栽培するコーヒーの木は高さ3メートルにとどめる。標高1500~2400メートルの高原では、高さ3~4メートルのチャットの木が栽培されている。エチオピア人はチャットの生の葉を、口中を緑色にしてもぐもぐとかみ、空腹と疲労感を和らげる。南アメリカのコカと同様の効用がある。標高2500~3500メートルの高原にはコソの大木が自生する。コソの木は高さ15メートル、幹の太さ1メートルに達することがある。雨量の多いエチオピア高原は昔は豊富な樹木で覆われていたが、いまでは住民の乱伐によって森林地帯は少なくなり、ほとんど耕地になっている。それでもコソの大木だけは点々と残っている。牛肉を生で食べるエチオピア人は、条虫の駆除と予防のために、コソの雌花を毎月1回服用している。高原の道路わきにはユーカリの並木をよくみかける。オーストラリアから移植したものが、気候風土に適しているためか、どこでもみごとな大木に生長している。エチオピア特産の穀物であるテフは、日本のニワホコリ(イネ科)に似たもので、高原に多量に栽培されている。テフの粉に水を入れ、こねて数日間そのまま放置し、発酵して酸を生じたものを鉄板上に丸く薄く延ばし、直火(じかび)で焼く。これがインジェラというエチオピア人の主食である。

[諏訪兼位]

動物相

動物地理学上の区分のひとつにエチオピア区がある。キリン、カバ、ハゲワシなどが固有種で、爬虫類の多いことが特徴である。そのほかエチオピアには、昔はゾウやライオンなども多数いたが、古代からの象牙(ぞうげ)の輸出などによってゾウはほとんどみられず、ライオンも少なくなっている。ハイエナは多く、夜になると餌(えさ)を求めて町の中に侵入する。カッファ州にはジャコウネコが多く、その分泌物は香料や薬に用いられる。

 エチオピア高原北部にすむゲラダヒヒについては京都大学の河合雅雄(かわいまさを)(1924―2021)らによって詳細な生態が明らかになった。霊長類のなかに、テリトリー制も群れどうしの対立もない社会をもつ種(ゲラダヒヒ)が存在することは、従来のサル学の知識を根底から覆すものである。

[諏訪兼位]

歴史

エチオピアは3000年に及ぶ歴史をもち、この点で他のアフリカ諸国とはきわだって異質である。紀元前10世紀ごろ、ソロモンとシバの女王との間にできたメネリク1世をもってエチオピア初代皇帝とする。1974年まで続いたエチオピア帝国憲法ではこれを史実とし、メネリク1世からハイレ・セラシエ皇帝まで、皇統連綿として伝わっていると規定されていた。この建国神話はともかくとして、前7世紀ごろにアラビア半島のイエメン付近からセム系の種族がエチオピアに移動してきたのは事実である。その中核は現在のエチオピアの支配部族であるアムハラ人で、彼らは強大な商業都市アクスムを建設し、先住のハム系住民を征服した。首都アクスムはアフリカ内陸から運ばれてくる象牙の集散地として栄えた。アクスム王国は前1世紀の西部イエメンへの侵入を手始めに、アラビア半島の支配を試みた。これはメッカ攻撃の行われた6世紀の「象戦争」のころまで断続的に続く。4世紀にエザナ王はキリスト教(コプト派)をアクスム王国の公的な宗教とした。コプト派はこのとき以来エチオピア人の生活のあらゆる面に浸透した。また、エザナ王は西方スーダンの白ナイル川と、青ナイル川の合流点付近まで軍を進めた。いまもエザナ王の「キリスト教徒の碑文」にその勝利の記録を読み取ることができる。30メートルに及ぶオベリスク(方尖塔(ほうせんとう))、防塞(ぼうさい)を備えた宮殿、石の王座を建て、貨幣を製造し、溜池(ためいけ)やダムの建設、田畑の灌漑(かんがい)まで行われた。

 7世紀になると、アラビア半島にイスラム勢力が台頭し、アラビア人は北アフリカを支配下に置いてイスラム化した。イスラム教は紅海を渡ってアクスム王国の海岸にも進出してきた。そのためにこのキリスト教王国は衰退し、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三つの大宗教が部族的対立と結び付いて不安と混乱を繰り返した。13世紀後半になってアクスム王国はふたたびこの地域の支配権を回復したが、そのときからエチオピア高原に孤立し、海岸地方ではイスラムの土侯が各地に出現していた。

 東部のハラルを中心にしたアダルのイスラム王国はその一つである。アダル王国のイスラム教徒とエチオピア皇帝との間には、14世紀以来、数世紀にわたって断続的な戦いが繰り返された。15世紀にはアダル王国は西方はるかサハラ砂漠以南のイスラム諸王国と盛んに交易している。16世紀に入ってアダル王国のグランはトルコのオスマン帝国の手先となり、キリスト教攻撃の急先鋒(きゅうせんぽう)となってエチオピアと16年間にわたって激しい戦いを続けた。エチオピア軍は一時敗走したが、ポルトガル軍の援助で勝利を得た。

 スエズ運河の開通(1869)後、イギリス、フランス、イタリア3国は、海岸地帯のイスラム土侯と保護領協定を結び、エリトリアやソマリ人の領土を植民地化した。アクスム王国はアビシニア王国といわれ、のちにエチオピアとよばれるが、この海岸地帯の植民地化によっていよいよ孤立化を強めた。イタリアはエチオピアをも植民地化しようと侵略したが、1896年アドワの決戦でメネリク2世のエチオピア軍に敗退した(第一次エチオピア戦争)。さらに1935年、ファシスト政権下のイタリアは、ふたたびエチオピア侵略を開始し全土を占領、1936年ハイレ・セラシエ皇帝はイギリスへ亡命した。そしてエチオピアはイタリア領東アフリカ連邦の一属領となった(第二次エチオピア戦争)。しかし、第二次世界大戦中、エチオピアのイタリア軍はイギリスの攻撃により敗退し、ハイレ・セラシエ皇帝が帰国、エチオピア帝国として再独立を果たした。1941年のことであった。

 1952年エチオピアはエリトリアと連邦を結成し、1962年に同地域を併合した。これによってエチオピアは初めて海に面した領土を回復した。そして1955年には近代的な立憲君主制憲法を実施して政治的統一と経済開発に努めた。1963年ハイレ・セラシエ皇帝は、ギニア大統領セク・トゥーレAhmed Sékou Touré(1922―1984)とともに、アフリカ統一機構(OAU)を設立した。OAUはエチオピアなどアフリカ30か国によって設立された主権尊重と地域協力を目ざす国際機構であり、2002年にアフリカ連合(AU)として発展的に改組された。加盟国は54か国(2015)に達する。本部は1963年以来アディス・アベバにある。エチオピア国内では1971~1973年の大干魃(かんばつ)で500万人の被災者を出し、餓死者は20万人に達した。またインフレや失業者の増大により、皇帝独裁政治への不満が高まった。

[諏訪兼位]

政治

帝政の廃止と共和制の樹立

1973年エチオピア東部のオガデン地方でソマリア人の反政府闘争が起きた。インフレと低賃金から労働者は労働組合をつくり、各地でストライキを起こした。1974年には軍隊も各地で賃上げを要求して反乱を起こした。1974年9月11日に宮殿に突入した軍隊によってハイレ・セラシエ皇帝は連れ去られた。臨時軍事評議会は1975年3月21日に皇帝位の廃止を正式に告示し、長い歴史をもつエチオピアの帝政は終った。1975年8月、幽閉されていたハイレ・セラシエは失意のうちに83歳の生涯を閉じた。

 臨時軍事評議会議長のメンギスツ中佐は1977年独裁体制を固め、都市住民組織と集団農場を基盤に急速な社会主義化を進めた。1987年新憲法が制定されてエチオピアは人民民主共和国となり、メンギスツは初代大統領に就任した。しかしエチオピア国内にはメンギスツ政権に対抗する反政府勢力が存在した。エチオピアからの分離独立を目ざすエリトリア人民解放戦線(EPLF:Eritrean People's Liberation Front)は反政府勢力の代表的なものであった。

 EPLFの動きはエチオピア北部のティグレ人に影響を与え、ティグレ人民解放戦線(TPLF:Tigrayan People's Liberation Front)が結成され、1989年にはオロモ人民民主機構(OPDO:Oromo People's Democratic Organization)も加わってエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF:Ethiopian People's Revolutionary Democratic Front)が結成された。EPRDFはエチオピア政府軍への攻撃を開始した。内戦状態は1990年にピークを迎え、1991年2月13日ゴンダルとゴジャムの政府軍はEPRDFの攻撃によって完全に壊滅し、メンギスツ政権の命運は尽きた。1991年4月21日メンギスツ大統領は辞任し、ジンバブエに亡命して16年に及ぶ独裁政治は終った。

 メンギスツ大統領のジンバブエへの亡命によって、EPRDF書記長のメレス・ゼナウィMeles Zenawi Asres(1955―2012)が暫定大統領となり新政権を樹立した。新政権はEPLFと休戦協定を締結、1993年5月エリトリアは正式にエチオピアからの分離独立を達成した。1995年8月22日に新憲法が制定され、ネガソ・ギダダNegasso Gidada(1943―2019)が大統領に、メレス・ゼナウィが事実上の最高指導者である首相に就任。国名をエチオピア連邦民主主義共和国と改称した。2001年10月8日下院議員ギルマ・ウォルドギオルギスGirma Wolde-Giyorgis Lucha(1924―2018)が大統領に就任した(2007年に再選)。2010年5月の国会選挙で与党が圧勝し、メレスが首相に再任されたが2012年8月に死去したため、同年9月に当時副首相と外相を兼任していたハイレマリアムHailemariam Desalegn(1965― )が首相に就任(2015年に再選)。2013年10月にはムラトゥMulatu Teshome Wirtu(1957― )が大統領に選出され、就任した(任期は6年)。

エリトリアの独立とエチオピア・エリトリア国境紛争

エリトリアは1952年までイギリスの軍政下にあったが、国際連合決議でエチオピアに連邦という形で編入されることになった。エリトリアは本来エチオピアとは異なる歴史をたどってきた国家であり、宗教をはじめ文化も違いが大きかった。

 1958年にイスラム教徒を中心にエリトリア解放戦線(ELF:Eritrean Liberation Front)が結成され、自治権の確立を目ざした。しかしエリトリアは1962年にエチオピアに併合されエチオピアの1州となってしまった。1970年にEPLFが結成された。EPLFによるエリトリア分離独立運動は活発化した。1991年エチオピアのメンギスツ政権が崩壊するなかでEPLFはエリトリアの首都アスマラを占領した。EPRDFを中心とする新政権はEPLFと休戦協定を締結し、1993年にエリトリアは正式にエチオピアから分離独立し、アフリカ第53番目の独立国となった。

 エリトリアの独立によってエチオピアは紅海への出口であったマッサワ港とアッサブ港を失った。1998年5月以降、エチオピアはマッサワ、アッサブ両港の利用をやめ、隣国ジブチのジブチ港とジブチ鉄道を利用するようになった。さらにエチオピアとエリトリアの両国は国境付近のバドメ地区の領有権をめぐって紛争状態に入った。アフリカ統一機構(OAU)は両国紛争の調停に乗り出し、2000年12月12日にエチオピア・エリトリア両国の和平協定が結ばれた。

オガデン地方とソマリア

オガデン地方(エチオピア東部・東南部)はエチオピアの領土とされていたが、そのおもな住民であるソマリ系諸民族やオロモ人はイスラム教徒であり、エチオピアの支配には抵抗を示していた。一方、第二次世界大戦後のアジア・アフリカにおける民族自決の流れのなかでイギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリアはそれぞれ1960年に独立し、さらに合併してソマリア共和国が誕生した。

 1974年からオガデン地方では飢餓が続いていた。メンギスツ政権は18の難民キャンプを設置して飢えた70万人の救済に乗り出した。しかしイスラム教の習慣を行うことが許されず、大多数のオガデン人はキャンプを出た。そして、オガデンの分離独立とソマリアへの併合を目ざして西ソマリア解放戦線(WSLF:Western Somali Liberation Front)が結成された。1977年8月にソマリア軍はオガデン砂漠を通過してエチオピア領内に侵攻し、エチオピアとソマリアとの全面戦争に発展した。1978年3月、エチオピアは勝利し、ソマリア軍はオガデン地方から撤退した。戦争は1988年4月に休戦協定を結んで終結したが、残されたものは以前と変わらぬ国境線と難民によって衰退したオガデンの街、疲弊しきったエチオピア、ソマリア両国だけであった。

軍事

エチオピアの陸軍の兵力は、軍事費圧縮と軍隊の近代化のために削減され、2014年には13万5000人になった。エチオピア空軍の兵力は約3000人である。2012年の国防予算は3億5100万ドル。なおエチオピア海軍はエリトリア独立の後に廃止され、この時残存していた艦船は売却された。

経済

農業がエチオピア経済の基盤でGDPの約半分、輸出の60%、雇用の80%を占める。ハイレ・セラシエ皇帝時代には、農地の70%が人口の0.1%にすぎない人々(封建的地主とコプト教会勢力)に握られていた。1974年の革命によって地主・小作制度は廃止され、農地は10ヘクタール程度の単位で農民に配分された。しかしすべて借地(最長99年間)であり、保有することも、抵当に入れることも、売却することもできない。経済成長率は2007年で11.2%、2012年で8.5%など好転しているが、人口爆発(2000年6940万人、2006年7507万人、2013年9173万人)のために、依然として世界最貧国の一つである。

[諏訪兼位]

産業

農林・漁業就業者の比率は84.5%(2005)に達する。国土総面積の75%は農業牧畜に利用できるというが、そのうち農耕地は14%にすぎず、82%は牧草地である。農民は自家用の穀物や野菜を手元に置くため、都市への供給が減り、年に30万トンの穀物輸入に頼らざるをえない。

 外貨収入の70%近くは、年産32万トン(2007)のコーヒーと、ウシ4700万頭(2007)、ヒツジ2370万頭(2007)、ウマ145万頭(2002)、ラクダ47万頭(2002)などの家畜である。コーヒーの大部分は野生のコーヒーを採取する形で生産され、そのコーヒーも零細な農民にゆだねられているため生産性は低い。全人口の25%はコーヒーに依存して生活をたてていると推定される。コーヒーは、1970年末からの国際市場価格の高騰によって、1989~1990年には輸出額2億0262万ドルに達し、総輸出額の55%となった。農産物にはコーヒーのほか綿花、サイザル麻、タバコがあるが、近年は減産傾向にある。2007年の農産物生産は、いも類593万4000トン、トウモロコシ333万7000トン、小麦221万9000トン、米1万1000トン、大豆6000トンなどである。サトウキビの増産は続いている。2006年の木材生産量は総量9740万9000立方メートル、うち用材は292万8000立方メートル、薪材は9448万1000立方メートルである。

 国内総生産(GDP)は167億1200万ドル(2007)、1人当り201ドル。人口がエチオピアの60%弱しかない南アフリカ共和国では2007年の国内総生産が2741億4300万ドル、1人当り5643ドルであり、両者を比べれば、エチオピアの経済規模の小さいことは明らかであろう。

[諏訪兼位]

貿易

1974年以来の輸出量の減少にもかかわらず、穀物類、燃料製品、自動車などの輸入量が増大し、価格も上昇したので、貿易は慢性的に入超で、赤字幅が増えている。輸出のなかで圧倒的な比重を占めるのは、コーヒー、家畜、食肉缶詰などの農業牧畜の一次産品で、これは発展途上国の典型的な貿易構造である。1999年には輸出が4億6000万ドル、輸入が12億5000万ドル、赤字7億9000万ドルだったが、2007年には輸出が10億3000万ドル、輸入が77億8700万ドル、赤字67億5700万ドル、2012年には輸出が31億0900万ドル、輸入が94億9800万ドル、赤字63億8900万ドルとなっている。2012年のおもな輸入相手国は、中国、アメリカ、サウジアラビア、インドなどであり、おもな輸出相手国は、中国、ドイツ、アメリカ、サウジアラビア、ベルギーなどである。

[諏訪兼位]

消費原油・消費電力

2005年の消費原油は77万トンで、1人当りの消費原油は11キログラムである。また2005年の消費電力は28億7200万キロワット、1人当りの消費電力は40キロワットである。

資源

鉱業は、金、銀、白金、鉄、銅、マンガン、岩塩、硬石膏(せっこう)などを少量産出するほか、水銀、タングステン、タンタル、ニオブ、ニッケルなどの埋蔵が確認されている。金は1990年に0.8トン産出したが、開発が進み2003年には5.3トンに増加した。銀は2003年に1トン産出した。1960年代には白金は毎年10キログラム程度、鉄は毎年400トン程度産出していた。銅については、エリトリア地方で日本鉱業が高品位の銅鉱床を発見し、1974年初頭初めて船積みされた。しかしその直後に革命が起こり、銅鉱山の開発は中断されている。1960年代にはマンガンは毎年2000トン、岩塩は毎年1万トン、硬石膏は毎年6000トン産出していた。なお岩塩は2003年に6万1000トン産出した。このほか天然ガスが1969年にマッサワ沖の紅海で発見され、また石油もオガデン地方で発見されている。

 水力発電については国連によって大地溝帯地域などの調査が行われ、年に560億キロワット時の可能性があるとみられているが、現在の設備は12億キロワット時で、110の都市、村落に供給しているにすぎない。

[諏訪兼位]

交通

交通は道路網が中心で、2003年の自動車保有台数は、乗用車7万1000台、トラック・バス9万2000台である。1000人当りの自動車台数は2台である。2004年時点で、道路の総延長は3万6469キロメートルで主要幹線道路は1万8702キロメートル、二次道路は1万7767キロメートル、舗装率は19.14%である。2004年の道路関連支出は1億0600万ドルであった。アディス・アベバとジブチ共和国のジブチ港を結ぶ880キロメートルの鉄道のうち、国内区間は783キロメートルである。1917年に建設されたこの鉄道は単線である。内陸水運の可能なのはタナ湖と南西端部のバロ川だけである。海運はジブチ港を中心に行われている。国営のエチオピア航空(EAL)はアディス・アベバの国際空港を本拠に、大型ジェット旅客機の離着陸可能なディレ・ダワ、ジンマのほか、40近くの空港で国内線を運航している。

[諏訪兼位]

社会・文化

民族的には、数のうえではハム系がもっとも多いが、階級的な最上層はセム系およびセム系とハム系との混合である。セム系のアムハラ人とティグレ人(合計32.6%)は主としてエチオピア高原に住み、首都アディス・アベバもその支配下にある。もっとも大きな人口比重を占めるハム系のガラ人(42.7%)は高原地帯の遊牧民であり、その40%はイスラム教徒である。シダモ人(10.1%)、ソマリ人(6.0%)、ダナキル人(2.0%)もハム系で、ソマリ人は狂信的なイスラム教徒である。

 最大の宗教は国教であるキリスト教コプト派で、アムハラ人を中心に総人口の約55%がその信徒といわれる。かつては法王だけをエジプト、すなわちコプトから受け入れていたが、近年は法王もエチオピア人になっている。正確には「エチオピア正教会」といい、コプト教会とは姉妹関係にある。次に重要なのはイスラム教で、ダナキル人、ソマリ人などとガラ人のかなりの部分など、総人口の30%以上がその信徒である。そのほかは部族的なアニミズムを信じているが、これは南西部から西部のバントゥー系、ナイロート系の諸部族に多くみられる。国民の生活は現在でも教会を中心に行われるものが多く、祭りと断食が、畑を耕すことよりもたいせつな関心事となっている。

 国語はアムハラ語で、アラビア語やヘブライ語の系統に属するが、文字は独自のものである。ほかに商業用語として英語、教会用語としてセム系のゲエズ語が学校でも教えられている。ほかにセム系、ハム系、バントゥー系などの部族語は70以上にも及ぶ。

 約2万人の教師、活動家によって教育の普及に努力が払われており、200万人の識字教育が行われている。1993年の初等学校就学率は23%、中等学校就学率は11%である。7~13歳の義務教育の制度がある。2004年の識字率は男50%、女22.8%である。2004年の新聞発行部数は35万8000部で、1000人当り、4.6部である。

 平均寿命は男55歳、女58歳(2006)と短く、満5歳未満児死亡率も16.4%(2005)と高い。満5歳未満児の38%(1996~2005)は低体重児である。医療状況は人口5000人当りベッド数1(2000~2006)、人口5000人当り看護師・助産師1人(2000~2006)、人口2万人当り医師1人以下(2000~2006)である。2007年のエイズ感染者は98万人にのぼる。うち15歳以上が89万人(男36万人、女53万人)である。15~49歳人口に占める感染者の割合は2.1%で、エイズによる死亡者は6万7000人にのぼる。2006年の失業者は76万7000人に達し、男27万3000人、女49万4000人である。失業率は全体として16.7%で、男11.5%、女22.1%である。

[諏訪兼位]

日本との関係

エチオピアはともに長い歴史をもつ君主国家として、明治初年から日本人に親近感や好感がもたれていた。1899年(明治32)に日本人の立場で初めてアフリカ論を書いた東京帝国大学教授の戸水寛人(とみずひろんど)(1861―1935)の『亜非利加(アフリカ)之前途』や、1901年(明治34)発行の徳冨蘆花(とくとみろか)の『ゴルドン将軍伝』に登場するエチオピアに明治人のエチオピア観がよく表れている。1930年代初頭には日本の一華族の娘と、エチオピア王族の一人との結婚話さえ生じた。1956年(昭和31)、ハイレ・セラシエ皇帝は国賓として来日し、それに対する答礼として皇太子夫妻のアディス・アベバ訪問があった。

 日本は紡績工場、鉄板工場、タイヤ・チューブ工場など合弁企業の設立から、各種の技術援助、留学生の受け入れなども行っている。大使を交換していることはもちろんである。2013年(平成25)10月時点で、在留邦人は274人である。2012年度までの日本の援助は有償資金協力が37億円、無償資金協力が1010億0500万円、技術協力が336億0100万円に達している。また2012年の対日貿易は輸出(コーヒーなど)が104億4000万円、輸入(自動車など)が49億3000万円である。

[諏訪兼位]

『松本真理子・福本昭子著『裸足の王国』(1960・光文社)』『末続吉間著『エチオピアの経済構造』(1964・アジア経済研究所)』『在エチオピア日本国大使館編『エチオピア帝国』(1965・日本国際問題研究所)』『鈴木秀夫著『高地民族の国エチオピア』(1969・古今書院)』『松枝張著『エチオピア絵日記』(1976・岩波新書)』『諏訪兼位著『裂ける大地 アフリカ大地溝帯の謎』(1997・講談社選書メチエ)』『岡倉登志著『エチオピアの歴史 “シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』(1999・明石書店)』『高根務編『アフリカの政治経済変動と農村社会』(2001・日本貿易振興会アジア経済研究所)』『諏訪兼位著『アフリカ大陸から地球がわかる』(2003・岩波ジュニア新書)』『福井勝義編著『社会化される生態資源 エチオピア絶え間なき再生』(2005・京都大学学術出版会)』



エチオピア(シマガツオ)
えちおぴあ

シマガツオ

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改訂新版 世界大百科事典 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア
Ethiopia

基本情報
正式名称=エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia 
面積=110万4300km2 
人口(2010)=8295万人 
首都=アジス・アベバAddis Ababa(日本との時差=-6時間) 
主要言語=アムハラ語,オロモ語,英語 
通貨=ビルBirr

アフリカ大陸北東部に位置するアフリカ最古の独立国。1974年の革命で帝政が倒れたのち社会主義が宣言され,臨時軍事政権のもとにあったが,87年民政移管をはたした。91年メンギストゥ政権が打倒され,エチオピア人民革命民主戦線による政権が発足,94年の憲法で連邦制に移行した。古くはアビシニアAbyssiniaと呼ばれたこともあったが,これは俗称である。
執筆者:

エチオピアの風土を最も特徴づけているものは,その高原である。日本語の感覚で高原というと,山の上の方にある,少し開けたなだらかな土地であるが,エチオピア高原というのは,ほとんどまっ平らな広大な平原が高い所に広がったものである。これは,水平に堆積した地層が静かに隆起した山地の上に,流動的な溶岩が流れかぶさって,平たんな溶岩面をつくったためである。その隆起は静かではあったが,最高点は4620mにも及んだために,一方では,激しくナイル川の支流などの河川によって切り刻まれ,その平たんな高原面は無数の峡谷によって分断されている。すなわち,エチオピア高原とは,大小さまざまな大きさのテーブル状の土地の集合ということができる。この峡谷の急崖が外敵の侵入を防ぎ,エチオピアが3000年の独立の歴史を保つことができた根本的な要因となっている。

 航空機で首都アジス・アベバに着陸する前には,そのきわめて平たんな土地が印象深く目に入る。そしてまたその土地が,それまで通過してきた褐色の砂漠とは対照的に,一面の緑でおおわれていることも,劣らぬ強い印象を与える。この植生の違いは,標高の違いによっている。同じ緯度のサハラ南部やソマリアでは,半砂漠ないし砂漠が広がっているが,エチオピア高原では,その高度のために雨の降ることがずっと多く,そのため,高原の上はもともと一面に森林によって完全におおわれていた。その雨をもたらす主因である湿った赤道西風は,エチオピアの南からしだいに北上し,また南下する。このためエチオピアの南部では雨季が長く,北部では短い。南部では熱帯雨林が形成されているが,北部ではもともと針葉樹林であったものが,いまではほとんど完全に伐採されて畑地になっている。風向が西であるため,西斜面は雨が多いが,東斜面は乾燥している。エチオピアの中央部には,南北に走るアフリカ大地溝帯があるが,この底も風下になるので空気は乾燥している。しかし,周囲の山地から川の流入があるので,いくつかの湖ができており,また地下水の水位も高いので,アカシアなどの林もできている。湖のほとりには,高原から濃い酸素を求めて保養に来る人々のためのホテルなどができており,週末にはにぎわうが,それ以外の経済活動は活発でない。エチオピアの湖や川のなかには,ビルハルツ住血吸虫という危険な微生物がいることが多いので,水につかる場合には注意が必要である。
執筆者:

エチオピアはしばしば民族の博物館と呼ばれる。紀元前数世紀にさかのぼる長い歴史のあいだにアラビア半島からの数度の移住の波に洗われ,今日のエチオピアの住民は,言語,宗教,政治組織,生活様式などで,きわめて多様性に富んでいる。一般に80の部族が,方言を含めて100以上もの言語を話すといわれている。そのなかで最も有力なセム語系のアムハラ族と,近縁のティグレ族が人口の30%を占め,おもに中央高原と北部高原に居住している。亜熱帯の南部地域に居住するオロモ族(ガラ族)はクシ語系に属し,人口では最大で,アムハラをやや上回っている。南西部のシダモ族(9%),南東部の乾燥地帯に居住するソマリ族(6%)もクシ語系に属する。スーダンとの国境地帯に住むニグロ系の諸部族は,アムハラ族からシャーンケラー(6%)と総称されている。またナイロート系の部族も散在している。そのほか,エチオピアにはアラブ,ユダヤ人,アルメニア人,ギリシア人,インド人などが,商業などに従事している。

 アムハラ族はエチオピアの支配層でもあって,誇り高い人々である。彼らはアクスム王国の子孫であり,故ハイレ・セラシエ皇帝はソロモン王とシバの女王の子孫と主張した。彼らは選ばれた民として4世紀にはキリスト教を受容した。アムハラの社会は貴族,高官,聖職者,農民,奴隷(シャーンケラー)などの階級が厳しく分かれている。貴族,僧侶,軍人たちは大土地所有者であり,小作農民とのあいだの封建的関係が複雑に入り組んでいる。農民は小麦,大麦,トウモロコシ,テフ(エチオピア固有のイネ科の穀物)などを栽培し,インジェラという発酵パンを主食とした。ティグレ族とアムハラ族の区別はむずかしいが,ティグレ族はエチオピア北部とエリトリアにかけて,孤立した山塊に居住して,アムハラ族の支配に抵抗した。またアクスム王国の故地に居住するため,文化的な正統性を誇っており,キリスト教を純粋に保っているとの自負をもつ。

 オロモ族はエチオピア高原の南端から南方にかけて居住する牧畜民で,単一部族としてはエチオピアで最も大きい人口をかかえる。先住民のネグロイド諸族を征服して,王国を形成した。近隣のソマリ族やシダモ族などとの戦争が激しく,オロモ族の一部は高原に上がって農耕生活を送っている。ほぼ10%はキリスト教徒であるが,40%はイスラムを信じている。南東部のオガデン地方のソマリ族は,〈アフリカの角〉地方に広く分布するラクダ遊牧民の一部である。イスラム教徒であるソマリ族は,エチオピア政府に反目していたが,隣国のソマリア共和国の独立をきっかけに,反政府運動を活発におこし,エチオピア,ソマリア両国の軍事衝突を招いた。一方,北東部のエリトリア地方でも,アムハラ族の支配に反発していたイスラム教徒が分離独立運動をおこし,隣国のスーダンとの難民問題とのからみで,大規模な戦闘がくりひろげられた。ハイレ・セラシエ皇帝の廃位以降のエチオピア政府の急進的な革命政策は,部族対立や旧勢力の抵抗などの難問をかかえているが,この間にかつてのアムハラ族の支配は弱体化し,代わって最大部族のオロモ族の地位が上昇している。

 エチオピアの公用語はアムハラ語で,人口の約40%に使用されている。英語が中等教育以上で第2語として教えられ,またイタリア語やアラビア語もよく通じる。宗教は単性論に立つキリスト教のエチオピア教会が国教である。イスラム教徒もキリスト教徒と同じく人口の40%を占めるが,シャーフィイー派やマーリク派,ハナフィー派などの信徒が北部,東部,南部に多く,東部のハラールがその中心の町である。そのほか,ユダヤ教の特殊な形式がファラシャにより守られている。ファラシャは,モーセのエジプト脱出に従わなかったユダヤ人の子孫ともいわれていて,〈モーセ五書〉をエチオピアの古いゲエズ語で朗読する。
エチオピア諸語
執筆者:

国としてのエチオピアの起源は歴史的というよりもむしろ伝説的で,ソロモン王とシバの女王のあいだに生まれたメネリク1世(前1000年ころ)によって創設されたといわれている。歴史的にその存在が確認できる最も古い国は,1世紀になって歴史に登場したアクスム王国である。アクスム王国はエチオピア北部,現在のティグレ州アクスムを中心に栄え,4世紀にはいってエザナ王の時代に最盛期を迎えた。王自身キリスト教に改宗したばかりでなく,これを国教として受けいれ,またオベリスクを建てるなど,文化的に見るべきものを残したほか,近隣地方を征服してその版図を拡大した。7世紀にはいって,紅海を隔てたアラビア半島がイスラム教徒の支配下に組みこまれると,エチオピアはそれまでつづいたアラブ圏との接触を断たれ,孤立化したものの,逆に中央部への進出がこの時期に本格化しはじめた。9世紀にはいるとアクスム王国の衰退がはじまり,12世紀には権力は南方のザグウェ王朝の手に移ったが,13世紀後半にはイェクノ・アムラクによって再びソロモン王朝の手に権力が回復された。

 これ以後19世紀半ばにいたるまでのあいだ,エチオピアの歴史にはいくつもの起伏がみられた。たとえば14世紀前半のアムダ・セヨンの治世には,征服によって版図はさらに拡大した。ヨーロッパ人によってエチオピアがプレスター・ジョン(アジア,アフリカ地域に実在すると信じられたキリスト教王)の国に擬せられたのも,この時代およびその前後であった(〈プレスター・ジョン伝説〉参照)。16世紀にはいるとイスラム教徒の勢力が台頭してエチオピアを脅かし,長い戦乱の時代に突入した。この間エチオピアはポルトガルの支援をえてイスラム勢力を撃破したものの,戦乱のために王権は衰え,地方勢力割拠の状態へ移行するのを止めることはできなかった。またこの間,オロモ(ガラ)族がソロモン王朝の中心的地域ともいうべきショア地方の南部,東部の大部分を含む広範な地域に侵入を開始し,17世紀末までに当時のエチオピア帝国の領土の3分の1以上をその手におさめた。オロモ族は農耕民としてそれらの土地に定着したが,その勢力を背景に政治に介入しはじめ,ソロモン王朝側もオロモ族の貴族と結ぶことによってその王統を保たざるをえなくなった。そして17世紀半ばに,ファシラダス王のもとで一時的に隆盛を示したのを最後に王権は再び衰え,アムハラ貴族とオロモ貴族の勢力争いのなかで国王は傀儡(かいらい)化していった。〈親王の時代〉と呼ばれた1769年から1855年までの時期は,国王の権力が最も衰微した時代で,エチオピアは事実上いくつかの小王国に分裂することを余儀なくされた。

この分裂状態に終止符をうち,国内の再統一を実現したのはテオドロス2世(在位1855-68)である。彼は本名をカッサといい,ソロモン王朝とは血縁関係になかったが,北西部の山岳地帯から勢力を興して他の豪族を制圧し,討伐のために向けられた皇帝の兵をも撃破して,ついにみずから皇帝の位についた。さらに彼は南部のショア地方を従え,ガラ族をも圧して,かつてのエチオピア帝国の領土をことごとく勢力下におさめた。テオドロス2世はエチオピアの再統一を維持するために中央集権的支配体制を確立し,また国を強化するために近代化に力をいれた。彼の治世は,国の再統一と近代化の基礎を準備したという面で,エチオピア史上画期的なものである。しかしその反面,中央集権化に対する地方豪族の反発や,重税に対する民衆の不満は強く,しだいに民心が離反していく傾向もみられた。テオドロス2世はのちにイギリスと事をかまえ,1868年のマグダラの戦で敗れて自殺した。その後2人の王の治世をへて,89年にショアの王メネリク2世が帝位についたが,彼の時代は,ヨーロッパ列強の進出をくいとめると同時に,西部および南部を征服し,エチオピア帝国の基礎を築いた点で,テオドロス2世の時代に劣らず重要である。エリトリアを除く現在のエチオピアの領土はメネリク2世の時代に確定されたのであるが,そのために彼は,東アフリカに進出しつつあったヨーロッパ列強によく対抗し,イタリア,イギリス,フランスの勢力争いを巧みに利用して,エチオピアの独立を守り抜いた。エチオピアの保護領化を狙うイタリアを96年のアドワの戦(第1次イタリア・エチオピア戦争)で破り,その野望を粉砕したことは,その努力を象徴するできごとである。こうしてエチオピアは,ヨーロッパ植民地主義列強による〈アフリカ分割〉の時代に生き残った,例外的な国になりえたのである。

1913年にメネリク2世が没したのち,イヤス5世(リジ・イヤス)の短い治世をへて,16年にメネリク2世の皇女ザウディトゥが帝位につき,その遠縁にあたるラス・タファリ・マコンネン(のちのハイレ・セラシエ1世)が摂政兼皇太子として実権をにぎった。当時のエチオピア社会の伝統主義的な性格に照らしてみれば,タファリは異論なく進歩派であった。彼は内政面では保守派の壁に阻まれて思うように改革を推進できなかったが,外交面ではたとえば23年に国際連盟加入を果たすなどしてエチオピアの国際的地位を向上させ,先進諸国との交流を拡大するのに貢献した。30年にザウディトゥ女帝が没すると,タファリは即位してハイレ・セラシエ1世となった。ハイレ・セラシエとは〈三位一体の力〉という意味である。彼は即位するとただちにより本格的な近代化政策に着手した。31年に初の憲法を制定したのはそうした努力の結実で,これによってエチオピアは形式的には立憲君主国となった。しかし実質的には〈ユダ族の覇王獅子,神の選びし者〉と憲法に明記された皇帝に,絶対権が付与されており,絶対君主政とほとんど変わるところがなかった。また同年二院制の議会も創設されたが,議員はすべて勅選議員であり,議案も皇帝によって提出され,採決もなしに通過するシステムになっていた。政府も首相以下閣僚全員が皇帝によって人選され,任命された。彼の近代化政策は見かけほどではなかったのである。

 35年10月ファシズム・イタリアのエチオピア侵略(第2次イタリア・エチオピア戦争)が開始された。エチオピアは防戦に努める一方で国際連盟に提訴したが,連盟はなんの手もうたず,翌36年5月には首都アジス・アベバも陥落し,ついにエチオピアはイタリアに併合された。ハイレ・セラシエ1世はイギリス亡命を余儀なくされた。しかし第2次世界大戦がはじまると,やがて独立回復の好機が訪れる。すなわちイギリス軍の支援を受けたハイレ・セラシエ1世の軍は,スーダンをへてゴッジャム地方へ進撃を開始し,ついに41年5月アジス・アベバを奪回,5年ぶりに独立を回復した。戦後のエチオピアにとって最初の大きなできごとは,52年,旧イタリアでイギリスの暫定統治下にあったエリトリアと,国連決議に基づいて〈連邦〉を結成したことである。しかし10年後の62年,エチオピアは住民の意思によるとしてエリトリアを一州として併合してしまった。以後エリトリア解放戦線(ELF),エリトリア人民解放戦線(EPLF)などの解放勢力が,エリトリアの独立をめざして,中央政府軍とのあいだに激しい戦いをくりひろげることになった。

内政面では,1955年に新憲法を公布し普通選挙制を導入するなど,制度面でいくぶんか民主化の方向へ動いたものの,立法,司法,行政の3面における皇帝の絶対権は基本的には変わらなかった。また議会政治に不可欠であるはずの政党も,あい変わらず存在を認められなかった。アフリカにも〈独立の時代〉が訪れようとしている50年代後半になっても,エチオピアは制度的に旧弊のままであり,皇帝を頂点とし貴族,豪族,僧侶などからなる少数の半封建的特権階級の支配体制が温存され,国民の大多数を構成する農民,労働者は苦難にあえいでいた。60年12月にメンギストゥ・ネウェイ,ギルマメ・ネウェイの兄弟が起こした皇帝の親衛隊によるクーデタは失敗に終わったが,エチオピア社会の矛盾をあらためて露呈した。だが内政面の不安定とは対照的に,エチオピアは外交面ではアフリカ圏内でもきわだった存在であり,ハイレ・セラシエ1世は強い指導性を発揮した。彼は63年5月にアフリカ諸国首脳会議を主催して,アフリカ統一機構(OAU)という世界最大の地域的国際機構を創設するのに貢献し,本部をアジス・アベバに誘致した。しかし,国際社会における威信の増大は国内的矛盾の減少につながるはずはなかった。そしてついに,74年1月以降断続的に起こった軍隊の反乱をきっかけに,軍部内の革新派(軍事調整委員会=デルグ)を中心とし,労働者,農民,知識人層を戦列のなかに加えた〈エチオピア革命〉が起こった。同年9月ハイレ・セラシエ1世は廃位され,社会主義を唱える革命軍事政権(臨時軍事行政評議会)が成立した。

革命軍事政権は社会主義宣言(1974年12月)を行い,75年には主要産業の国有化,土地改革など思いきった政策に着手した。土地改革は脱封建革命の根幹をなすものであるが,それは単に土地国有化の実施だけではなく,民衆の組織化という政治的側面をも併せもっていた。すなわち農村では,土地の国有化にともない集団農場が主として村落単位でつくられたが,各集団農場には農民組合が組織され,政府は革命行政開発委員会を通じてこれをコントロールするという方式がとられた。都市部でも住民は都市住民組合(ケベレ)へと組織化され,政府のコントロールのもとにおかれた。しかし,マルクス主義的社会主義を標榜する革命軍事政府の指導部内では当初から権力闘争が絶えず,臨時軍事行政評議会議長はアマン・アンドム中将(1974年11月粛清)からテフェリ・ベンティ(1977年2月粛清)へ,そしてメンギストゥ・ハイレ・マリアム(1977年2月就任)へと変わった。また左派であるエチオピア人民革命党(EPRP)や右派であるエチオピア民主同盟(EDU)のテロ攻撃,ゲリラ攻撃も一時さかんであった。また前述のエリトリアの解放勢力や,隣国ソマリアに支援された西ソマリア解放戦線(WSLF)によるオガデン地域解放のための反政府武装闘争も続き,革命軍事政府は苦境におかれた。そうした状況のなかで,政府は79年以来,エチオピア勤労人民党組織委員会(COPWPE)を通じて〈一党体制のもとでの文民政府〉実現へ向けて準備を進め,革命10周年にあたる84年9月にはCOPWPEを発展的に解消してエチオピア労働者党(WPE)を創設した。ついで87年2月の国民投票で共和国憲法が81%の賛成を得て承認されると,同年6月には一院制の国民議会(シェンゴ)の選挙を行い,さらに同年9月の国民議会初会期で,77年2月以来臨時軍事行政評議会議長の任にあったメンギストゥを初代大統領に選出して民政移管を果たし,一党制に基礎を置いた人民民主共和国を正式に発足させた。1994年の新憲法によって,連邦民主共和国となった。

 1960年代初めから武力解放闘争を続けてきたエリトリアに対しては,93年に独立を認めた。

エチオピアは世界の最貧国のひとつであり,その経済水準はアフリカ圏においてすら最も低い。いうまでもなく農業国であり,主要産品はコーヒー,綿花,茶,大麦,小麦,トウモロコシ,キビ,豆類,採油用種子などである。このうち輸出品は主としてコーヒーであり,豆類,採油用種子がつづく。皮革製品も若干は輸出される。工業は1960年代以降しだいに発展してきたが,まだ経済全体に占める比重は小さい。セメント,石油製品,綿糸,綿織物などが,主要産品としてあげられる。メレス政権のもとで国営企業の民営化を含む市場経済化が進められているが,長年の国内紛争,干ばつなどの影響も大きく,見通しは必ずしも明るいとはいえない。
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エチオピアは前6世紀ごろからしだいに文化社会としての展開を示したが,とくにアラビア半島南部との関係が深く,イェハYehaの神殿やハウルティHaoulti像などはその文化の質の高さを示すものである。後3~6世紀に栄えたアクスム王国時代の遺物は,建築構造を細かく刻みこんだ単一石柱の,いわゆるオベリスクによって代表される。最長のものは長さ33mを超え,素材を遠隔の地から輸送したことと併せて,驚異的な技術を示すモニュメントである。首都アクスムには他に諸種の建造物があり,それらの様式は後世の岩窟聖堂に伝えられた。紅海に臨む北部地域(現,ティグレ州)は,象牙貿易などによって地中海地域との関係が強まり,当然その方面よりの影響が入り込む。そして4世紀以降キリスト教化し(エチオピア教会),キリスト教美術が大いに栄えたはずであるが,その後のイスラム教徒の侵入により,大部分は破壊された。今日知られるキリスト教美術の遺産は主として11世紀以降のもので,特に注目されるのは岩窟聖堂である。その代表的なものはアジス・アベバ北方の聖都ラリベラLalibelaに見られる。ここには諸種の形式をもつ数群の聖堂があるが,それらは岩層に方形の溝を深く掘り,その中央部を内部外部とも野外に建造した聖堂と同じ構造に仕上げたもので,そこにアクスム王国様式の伝統やシリアおよびコプト建築(コプト美術)の影響を見ることができる。内部は壁画で飾られ,ほかに組紐文などの線彫装飾を柱,窓などに多用している。16世紀以降ポルトガルの影響がゴンダルを中心に入り込むが,西洋風のゴンダル城(17世紀)はともかく,聖堂建築は木造の円堂が多くなる。これは民家の構造と関係をもつ。それらを飾る壁画には,明らかに西洋の近代写実主義の影響が見られる。絵画芸術の重要な一分野は写本画である。それらも13世紀以前にさかのぼるものはほとんどないが,東方キリスト教絵画の影響を受け入れながら,きわめて素朴な独特の感覚によって強い表現力を発揮しているものが多い。ほかにブロンズや木の十字架に見られる繊細な装飾感覚も注目される。
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多様な人種,民族そして文化を擁しているエチオピアの音楽は多彩である。クシ語系に属する諸民族やシャーンケラーと総称される黒人系諸民族の音楽の,東アフリカ一帯の音楽に共通する性格が,エチオピアの音楽文化の重要な側面である。狭義のエチオピア(アビシニア)の音楽を代表するのは,久しくこの国の支配者層を形成してきたティグレとアムハラのいずれもセム系の民族である。約500年にわたりエチオピアを統治したアムハラ族は圧倒的に優勢であり,その音楽も例外ではない。

 エチオピア教会の典礼音楽は,6世紀の伝説的な音楽家聖ヤレドの創作になるといわれるが,今日もデブテラと呼ばれる教会の専業音楽家によって伝承されている。

 アムハラ族の重要な世俗音楽の伝統の一つがアズマリと呼ばれる吟遊詩人である。マセンコと呼ばれる一弦の胡弓で自ら伴奏し即興の詩を歌う大道芸人の一種だが,庇護を求めて王侯貴族の屋敷に下僕として仕え,主人を称賛する歌,気晴しの歌のほかに,巷の情報や社会批判,宗教的な訓戒などを即興詩に詠み込んで歌う。メロディは5音音階に基づく旋法が支配的である。

 ほかに,ベガンナとクラールの2種の弦楽器がある。語り物や恋歌の伴奏に用いられるが,いずれもリラ属で,前者は古代ギリシアのキタラに,後者はリラに酷似している。気鳴楽器としてはワシントと呼ばれる葦の竪笛(ネイ属)とマラカト(竹製トランペット)が重要。また体鳴楽器としてダワル(石の鐘)とツァナツェル(シストルムの一種)が挙げられるが,これらはもっぱらキリスト教典礼に用いられる。
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百科事典マイペディア 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア

◎正式名称−エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia。◎面積−112万7127km2。◎人口−8490万人(2010)。◎首都−アディスアベバAddis Ababa(274万人,2007)。◎住民−オロモ(ガラ)人40%,アムハラ人40%など。◎宗教−エチオピア教会50%,イスラム30%など。◎言語−アムハラ語(公用語)40%,ガラ語など。◎通貨−ビルBirr。◎元首−大統領,ムラトゥMulatu Teshome Wirtu(2013年10月就任,任期6年)。◎首相−ハイレマリアムHailemarian Desalegn(2012年8月就任)。◎憲法−1994年12月制定,1995年8月発効。◎国会−二院制。上院(定員108),下院(定員547)。最近の選挙は2010年5月。◎GDP−265億ドル(2008)。◎1人当りGDP−180ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−81.1%(2003)。◎平均寿命−男62.0歳,女65.3歳(2013)。◎乳児死亡率−68‰(2010)。◎識字率−39.0%(2007)。    *    *アフリカ北東部の共和国。古くはアビシニアとも。大部分が標高2400m前後の高原地帯で気候温暖。北東部にダナキル砂漠がある。農業が主で,コーヒーが主産品,重要輸出品。テフ(穀物の一種),大麦,小麦もつくられる。羊,牛,ヤギの畜産もある。アディスアベバを中心に繊維,食品加工など小規模な工業も行われる。〔歴史〕 前10世紀にエジプトの支配を脱し,独立王国が成立したと伝えられる。紀元前後からアクスム王国が発展,4世紀にコプト派のキリスト教が伝わり,のちのエチオピア教会となった。7世紀にイスラム勢力の包囲で,他のキリスト教世界から孤立。のち群小国に分裂。19世紀半ばテオドロス2世の手によって統一国家が出現。1889年メネリク2世が即位,エリトリアを占領後エチオピアに攻め入ったイタリア軍を1896年,アドワの戦で撃退した。1936年イタリアに占領されたが,1941年独立を回復(イタリア・エチオピア戦争)。1952年エリトリアと連邦を形成,1962年これを併合。1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争(オガデン戦争),および干ばつによる10万人餓死という惨状,石油危機の影響による物価騰貴が引金となって,首都のデモ騒乱から軍隊の反乱が起こり,1974年9月皇帝ハイレ・セラシエ1世は軍部によって逮捕,廃位させられ,翌1975年帝制は廃止となった。1977年臨時軍事評議会議長にメンギストゥが就任,1987年メンギストゥは大統領に就任,人民民主共和国となった。同政権はソ連に強く依存する政策をとったが,エリトリア独立派との戦闘での敗北や干ばつ被災地の拡大など困難な情勢に立たされ,1991年反政府ゲリラ組織に打倒された。1993年5月エリトリアが平和裏に分離・独立。1994年新憲法を制定し,連邦制を採用。政権を奪取したエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)は,親米路線をとっている。1998年5月に勃発したエリトリアとの国境紛争は,2000年6月和平協定の調印で終結へ向かったが,国境画定をめぐってその後大きな進展はない。2006年12月,イスラム原理主義が優勢なソマリアへ侵攻。
→関連項目アフリカアフリカの角ウサマ・ビン・ラディンシミエン国立公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア
Ethiopia

正式名称 エチオピア連邦民主共和国 Federal Democratic Republic of Ethiopia。
面積 106万3652km2
人口 1億447万7000(2021推計)。
首都 アジスアベバ

アフリカ大陸北東部の国。アムハラ語では Ītyop'iya。西はスーダンと南スーダン,南はケニア,東はソマリアとジブチ,北はエリトリアに国境を接する。国土の大半が標高 2000~3500mのエチオピア高原で,そのほぼ中央部をアフリカ大地溝帯(グレートリフトバレー)が北東から南西方向に貫通。気候は一般に高原性で快適。6~8月が雨季。年平均気温はアジスアベバで 16℃,海岸部で 31℃。降水量は高原部に多く年平均 1270mm,草原や耕地が発達。低地は乾燥が激しく,北東部にはダナキル砂漠が広がる。前数世紀以来アクスム王国(→アクスム)をはじめいくつかの王国が栄えたが,16世紀の一時期イスラムが支配,19世紀末ショア王メネリク2世の時代に近代国家の基礎が築かれた。アフリカ大陸にあって最後まで植民地化を免れた独立国であったが,1936年イタリアが占領,第2次世界大戦で 1941年連合国軍が奪還,1952年,旧イタリア植民地エリトリアとともにエチオピア連邦を結成,1962年エリトリアを完全に統合した。1974年エチオピア革命により帝制を廃止し,社会主義国エチオピア人民民主共和国となったが,1991年エチオピア人民革命民主戦線 EPRDFを中心とする反政府勢力が首都を制圧,暫定政府を樹立した。1994年12月に承認された新憲法のもとで,大統領の地位は形式的なものとし,国民議会が選出する首相に行政権を与えている。議会選挙が実施され,1995年8月エチオピア連邦民主共和国が正式に発足した。住民は,アラビア半島から移住してきたハム系(→ハム語系諸族)とセム系(→セム語系諸族)に大別され,セム系のアムハラ族が古くから支配層を形成。住民の大部分は 4世紀からのコプト派キリスト教徒。農業,牧畜を主とし,コーヒー,皮革が主要輸出品。ほかに自給用として穀類,トウモロコシなどを産する。銅,プラチナの鉱床があるが本格的な開発は行なわれておらず,国民総生産 GNPではアフリカ諸国の平均を下回る。言語の種類は 100をこえるがセム語系(→セム語族)が最も広く用いられ,そのなかのアムハラ語が事実上の公用語。エリトリア地方はイスラム教徒が多く,分離・独立運動が続いていたが,1991年の政変に伴い,1993年に独立を問う住民投票の結果,独立した。(→エチオピア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「エチオピア」の解説

エチオピア
Ethiopia

アフリカ北東部,ナイル川上流にある国。アビシニアともいう。首都アディスアベバ
古くからセム語族系およびハム語族系の諸侯が住んでいたが,前15世紀ごろエジプトに征服され,前11世紀末に独立した。1世紀末にアクスム王国が統一。4世紀にはキリスト教化し,単性説的なコプト教会が発展。7世紀にはイスラーム勢力に包囲され,孤立した。10世紀初めアクスム王国は滅び,群小の封建国家が割拠した。15世紀末にポルトガル人に「プレスター=ジョンの国」としてヨーロッパに紹介された。19世紀後半,列強のアフリカ分割が開始されると,特にイタリアの侵略目標となり,1895年の第1回エチオピア戦争となったが,アドワの戦いで撃退し,以来,列強の勢力均衡の中で独立を維持した。1930年ハイレ=セラシェ1世が即位し,立憲君主国となったが,35年,イタリアのファシスト政権による第2回エチオピア戦争の結果,占領された。1942年イギリスの支援で独立を回復。1962年エリトリアを統合,しかし74年2月,軍部のクーデタが起こり,9月皇帝が追放され,75年に共和国となり,77年からメンギスツ政権下で社会主義国家の建設が進められた。いっぽう,1962年の併合直後からのティグレ族によるエリトリア独立闘争に加え,77年にはソマリアの支援をうけた解放勢力によるオガデン州解放運動も起こった。こうした政情不安のなかで1987年,メンギスツ大統領のもとでエチオピア人民民主共和国が発足した。しかし,エリトリア解放勢力と反メンギスツ民主勢力の合流による首都攻勢が進むなか,1991年5月メンギスツが国外に逃亡し,人民革命民主戦線による新政権が成立した。なお,エリトリアは住民投票の結果,1993年5月に独立した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エチオピア」の解説

エチオピア
Ethiopia

アフリカ北東部の国。住民構成は多様で,支配層を占める主要民族のセム語系アムハラ人,北部山塊地域のティグレ人などのキリスト教徒と,南部のクシ語系オロモ人やソマリア国境地域のソマリ人などムスリムが居住。伝承では前1000年頃シェバの女王とソロモン王の子,メネリク1世がエチオピア帝国を創始したとされる。19世紀にテオドロス2世やメネリク2世が富国強兵に努め,アドワの戦い(1896年)でイタリア進出をくじき独立を堅持。1923年国際連盟加入を果たし,ハイレ・セラシエ1世は旧弊な封建制を温存しつつ近代化を推進。エリトリアと52年に連邦を形成,62年に併合を強行し,93年の分離独立まで解放勢力と抗争が続いた。1974年社会主義革命で帝政が崩壊し軍政に移行。隣国ソマリアとは77~78年のオガデン紛争など武力衝突が絶えず,国内では87年民政移管後も,ティグレ人民解放戦線やオロモ人民解放戦線などの攻勢が激化し,91年首都アジス・アベバが陥落,連邦民主共和国が成立し地方分権が保障された。

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世界大百科事典(旧版)内のエチオピアの言及

【シマガツオ(縞鰹)】より

…スズキ目シマガツオ科の海産魚(イラスト)。別名エチオピア。これは漁獲後に体色が黒変することと,1930年代に日本の太平洋岸で多獲されたころ,エチオピアとの関係が親密になったためといわれる。…

【大航海時代】より

…しかしこれは成功せず,ジョアン2世はとにかく東回りで一刻も早く中国,日本に到着しようとして,アフリカ西海岸にさかんに船を派遣した。この間86年にはニジェール川流域にあったベニン王国と接触し,ここでアフリカ大陸奥地にキリスト教王国(エチオピア)のあることを知った。ジョアン2世はこれを伝説上のキリスト教徒の王プレスター・ジョンの王国であると考え,彼と接触しようとした。…

【プレスター・ジョン伝説】より

…その後この王と王国の実在はカトリック修道士を中心に疑問視されるようになった。そして15~16世紀になると,今度は同じくキリスト教徒のいるエチオピアにプレスター・ジョンの存在を求めるようになり,ヨーロッパ人によるアフリカ探検の原動力となった。なお,エチオピアは〈プレスター・ジョンの国〉と雅称されることがある。…

※「エチオピア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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