エチオピア(英語表記)Ethiopia

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精選版 日本国語大辞典 「エチオピア」の意味・読み・例文・類語

エチオピア

(Ethiopia)
[1] アフリカ東北部、紅海に面する国。アビシニア高原の大部分を占める。紀元前からアクスム王国が成立。一九三六年イタリアに併合されたが、四二年独立を回復。六二年から九三年まで北部のエリトリアを併合。七五年帝政廃止。首都アジスアベバアビシニア
[2] (昭和一〇年(一九三五)エチオピア皇帝の来日の頃東京の魚市場に大量に入荷し始めたところから) 魚「しまがつお(縞鰹)」の異名。

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改訂新版 世界大百科事典 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア
Ethiopia

基本情報
正式名称=エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia 
面積=110万4300km2 
人口(2010)=8295万人 
首都=アジス・アベバAddis Ababa(日本との時差=-6時間) 
主要言語=アムハラ語,オロモ語,英語 
通貨=ビルBirr

アフリカ大陸北東部に位置するアフリカ最古の独立国。1974年の革命で帝政が倒れたのち社会主義が宣言され,臨時軍事政権のもとにあったが,87年民政移管をはたした。91年メンギストゥ政権が打倒され,エチオピア人民革命民主戦線による政権が発足,94年の憲法で連邦制に移行した。古くはアビシニアAbyssiniaと呼ばれたこともあったが,これは俗称である。
執筆者:

エチオピアの風土を最も特徴づけているものは,その高原である。日本語の感覚で高原というと,山の上の方にある,少し開けたなだらかな土地であるが,エチオピア高原というのは,ほとんどまっ平らな広大な平原が高い所に広がったものである。これは,水平に堆積した地層が静かに隆起した山地の上に,流動的な溶岩が流れかぶさって,平たんな溶岩面をつくったためである。その隆起は静かではあったが,最高点は4620mにも及んだために,一方では,激しくナイル川の支流などの河川によって切り刻まれ,その平たんな高原面は無数の峡谷によって分断されている。すなわち,エチオピア高原とは,大小さまざまな大きさのテーブル状の土地の集合ということができる。この峡谷の急崖が外敵の侵入を防ぎ,エチオピアが3000年の独立の歴史を保つことができた根本的な要因となっている。

 航空機で首都アジス・アベバに着陸する前には,そのきわめて平たんな土地が印象深く目に入る。そしてまたその土地が,それまで通過してきた褐色の砂漠とは対照的に,一面の緑でおおわれていることも,劣らぬ強い印象を与える。この植生の違いは,標高の違いによっている。同じ緯度のサハラ南部やソマリアでは,半砂漠ないし砂漠が広がっているが,エチオピア高原では,その高度のために雨の降ることがずっと多く,そのため,高原の上はもともと一面に森林によって完全におおわれていた。その雨をもたらす主因である湿った赤道西風は,エチオピアの南からしだいに北上し,また南下する。このためエチオピアの南部では雨季が長く,北部では短い。南部では熱帯雨林が形成されているが,北部ではもともと針葉樹林であったものが,いまではほとんど完全に伐採されて畑地になっている。風向が西であるため,西斜面は雨が多いが,東斜面は乾燥している。エチオピアの中央部には,南北に走るアフリカ大地溝帯があるが,この底も風下になるので空気は乾燥している。しかし,周囲の山地から川の流入があるので,いくつかの湖ができており,また地下水の水位も高いので,アカシアなどの林もできている。湖のほとりには,高原から濃い酸素を求めて保養に来る人々のためのホテルなどができており,週末にはにぎわうが,それ以外の経済活動は活発でない。エチオピアの湖や川のなかには,ビルハルツ住血吸虫という危険な微生物がいることが多いので,水につかる場合には注意が必要である。
執筆者:

エチオピアはしばしば民族の博物館と呼ばれる。紀元前数世紀にさかのぼる長い歴史のあいだにアラビア半島からの数度の移住の波に洗われ,今日のエチオピアの住民は,言語,宗教,政治組織,生活様式などで,きわめて多様性に富んでいる。一般に80の部族が,方言を含めて100以上もの言語を話すといわれている。そのなかで最も有力なセム語系のアムハラ族と,近縁のティグレ族が人口の30%を占め,おもに中央高原と北部高原に居住している。亜熱帯の南部地域に居住するオロモ族(ガラ族)はクシ語系に属し,人口では最大で,アムハラをやや上回っている。南西部のシダモ族(9%),南東部の乾燥地帯に居住するソマリ族(6%)もクシ語系に属する。スーダンとの国境地帯に住むニグロ系の諸部族は,アムハラ族からシャーンケラー(6%)と総称されている。またナイロート系の部族も散在している。そのほか,エチオピアにはアラブ,ユダヤ人,アルメニア人,ギリシア人,インド人などが,商業などに従事している。

 アムハラ族はエチオピアの支配層でもあって,誇り高い人々である。彼らはアクスム王国の子孫であり,故ハイレ・セラシエ皇帝はソロモン王とシバの女王の子孫と主張した。彼らは選ばれた民として4世紀にはキリスト教を受容した。アムハラの社会は貴族,高官,聖職者,農民,奴隷(シャーンケラー)などの階級が厳しく分かれている。貴族,僧侶,軍人たちは大土地所有者であり,小作農民とのあいだの封建的関係が複雑に入り組んでいる。農民は小麦,大麦,トウモロコシ,テフ(エチオピア固有のイネ科の穀物)などを栽培し,インジェラという発酵パンを主食とした。ティグレ族とアムハラ族の区別はむずかしいが,ティグレ族はエチオピア北部とエリトリアにかけて,孤立した山塊に居住して,アムハラ族の支配に抵抗した。またアクスム王国の故地に居住するため,文化的な正統性を誇っており,キリスト教を純粋に保っているとの自負をもつ。

 オロモ族はエチオピア高原の南端から南方にかけて居住する牧畜民で,単一部族としてはエチオピアで最も大きい人口をかかえる。先住民のネグロイド諸族を征服して,王国を形成した。近隣のソマリ族やシダモ族などとの戦争が激しく,オロモ族の一部は高原に上がって農耕生活を送っている。ほぼ10%はキリスト教徒であるが,40%はイスラムを信じている。南東部のオガデン地方のソマリ族は,〈アフリカの角〉地方に広く分布するラクダ遊牧民の一部である。イスラム教徒であるソマリ族は,エチオピア政府に反目していたが,隣国のソマリア共和国の独立をきっかけに,反政府運動を活発におこし,エチオピア,ソマリア両国の軍事衝突を招いた。一方,北東部のエリトリア地方でも,アムハラ族の支配に反発していたイスラム教徒が分離独立運動をおこし,隣国のスーダンとの難民問題とのからみで,大規模な戦闘がくりひろげられた。ハイレ・セラシエ皇帝の廃位以降のエチオピア政府の急進的な革命政策は,部族対立や旧勢力の抵抗などの難問をかかえているが,この間にかつてのアムハラ族の支配は弱体化し,代わって最大部族のオロモ族の地位が上昇している。

 エチオピアの公用語はアムハラ語で,人口の約40%に使用されている。英語が中等教育以上で第2語として教えられ,またイタリア語やアラビア語もよく通じる。宗教は単性論に立つキリスト教のエチオピア教会が国教である。イスラム教徒もキリスト教徒と同じく人口の40%を占めるが,シャーフィイー派マーリク派ハナフィー派などの信徒が北部,東部,南部に多く,東部のハラールがその中心の町である。そのほか,ユダヤ教の特殊な形式がファラシャにより守られている。ファラシャは,モーセのエジプト脱出に従わなかったユダヤ人の子孫ともいわれていて,〈モーセ五書〉をエチオピアの古いゲエズ語で朗読する。
エチオピア諸語
執筆者:

国としてのエチオピアの起源は歴史的というよりもむしろ伝説的で,ソロモン王とシバの女王のあいだに生まれたメネリク1世(前1000年ころ)によって創設されたといわれている。歴史的にその存在が確認できる最も古い国は,1世紀になって歴史に登場したアクスム王国である。アクスム王国はエチオピア北部,現在のティグレ州アクスムを中心に栄え,4世紀にはいってエザナ王の時代に最盛期を迎えた。王自身キリスト教に改宗したばかりでなく,これを国教として受けいれ,またオベリスクを建てるなど,文化的に見るべきものを残したほか,近隣地方を征服してその版図を拡大した。7世紀にはいって,紅海を隔てたアラビア半島がイスラム教徒の支配下に組みこまれると,エチオピアはそれまでつづいたアラブ圏との接触を断たれ,孤立化したものの,逆に中央部への進出がこの時期に本格化しはじめた。9世紀にはいるとアクスム王国の衰退がはじまり,12世紀には権力は南方のザグウェ王朝の手に移ったが,13世紀後半にはイェクノ・アムラクによって再びソロモン王朝の手に権力が回復された。

 これ以後19世紀半ばにいたるまでのあいだ,エチオピアの歴史にはいくつもの起伏がみられた。たとえば14世紀前半のアムダ・セヨンの治世には,征服によって版図はさらに拡大した。ヨーロッパ人によってエチオピアがプレスター・ジョン(アジア,アフリカ地域に実在すると信じられたキリスト教王)の国に擬せられたのも,この時代およびその前後であった(〈プレスター・ジョン伝説〉参照)。16世紀にはいるとイスラム教徒の勢力が台頭してエチオピアを脅かし,長い戦乱の時代に突入した。この間エチオピアはポルトガルの支援をえてイスラム勢力を撃破したものの,戦乱のために王権は衰え,地方勢力割拠の状態へ移行するのを止めることはできなかった。またこの間,オロモ(ガラ)族がソロモン王朝の中心的地域ともいうべきショア地方の南部,東部の大部分を含む広範な地域に侵入を開始し,17世紀末までに当時のエチオピア帝国の領土の3分の1以上をその手におさめた。オロモ族は農耕民としてそれらの土地に定着したが,その勢力を背景に政治に介入しはじめ,ソロモン王朝側もオロモ族の貴族と結ぶことによってその王統を保たざるをえなくなった。そして17世紀半ばに,ファシラダス王のもとで一時的に隆盛を示したのを最後に王権は再び衰え,アムハラ貴族とオロモ貴族の勢力争いのなかで国王は傀儡(かいらい)化していった。〈親王の時代〉と呼ばれた1769年から1855年までの時期は,国王の権力が最も衰微した時代で,エチオピアは事実上いくつかの小王国に分裂することを余儀なくされた。

この分裂状態に終止符をうち,国内の再統一を実現したのはテオドロス2世(在位1855-68)である。彼は本名をカッサといい,ソロモン王朝とは血縁関係になかったが,北西部の山岳地帯から勢力を興して他の豪族を制圧し,討伐のために向けられた皇帝の兵をも撃破して,ついにみずから皇帝の位についた。さらに彼は南部のショア地方を従え,ガラ族をも圧して,かつてのエチオピア帝国の領土をことごとく勢力下におさめた。テオドロス2世はエチオピアの再統一を維持するために中央集権的支配体制を確立し,また国を強化するために近代化に力をいれた。彼の治世は,国の再統一と近代化の基礎を準備したという面で,エチオピア史上画期的なものである。しかしその反面,中央集権化に対する地方豪族の反発や,重税に対する民衆の不満は強く,しだいに民心が離反していく傾向もみられた。テオドロス2世はのちにイギリスと事をかまえ,1868年のマグダラの戦で敗れて自殺した。その後2人の王の治世をへて,89年にショアの王メネリク2世が帝位についたが,彼の時代は,ヨーロッパ列強の進出をくいとめると同時に,西部および南部を征服し,エチオピア帝国の基礎を築いた点で,テオドロス2世の時代に劣らず重要である。エリトリアを除く現在のエチオピアの領土はメネリク2世の時代に確定されたのであるが,そのために彼は,東アフリカに進出しつつあったヨーロッパ列強によく対抗し,イタリア,イギリス,フランスの勢力争いを巧みに利用して,エチオピアの独立を守り抜いた。エチオピアの保護領化を狙うイタリアを96年のアドワの戦(第1次イタリア・エチオピア戦争)で破り,その野望を粉砕したことは,その努力を象徴するできごとである。こうしてエチオピアは,ヨーロッパ植民地主義列強による〈アフリカ分割〉の時代に生き残った,例外的な国になりえたのである。

1913年にメネリク2世が没したのち,イヤス5世(リジ・イヤス)の短い治世をへて,16年にメネリク2世の皇女ザウディトゥが帝位につき,その遠縁にあたるラス・タファリ・マコンネン(のちのハイレ・セラシエ1世)が摂政兼皇太子として実権をにぎった。当時のエチオピア社会の伝統主義的な性格に照らしてみれば,タファリは異論なく進歩派であった。彼は内政面では保守派の壁に阻まれて思うように改革を推進できなかったが,外交面ではたとえば23年に国際連盟加入を果たすなどしてエチオピアの国際的地位を向上させ,先進諸国との交流を拡大するのに貢献した。30年にザウディトゥ女帝が没すると,タファリは即位してハイレ・セラシエ1世となった。ハイレ・セラシエとは〈三位一体の力〉という意味である。彼は即位するとただちにより本格的な近代化政策に着手した。31年に初の憲法を制定したのはそうした努力の結実で,これによってエチオピアは形式的には立憲君主国となった。しかし実質的には〈ユダ族の覇王獅子,神の選びし者〉と憲法に明記された皇帝に,絶対権が付与されており,絶対君主政とほとんど変わるところがなかった。また同年二院制の議会も創設されたが,議員はすべて勅選議員であり,議案も皇帝によって提出され,採決もなしに通過するシステムになっていた。政府も首相以下閣僚全員が皇帝によって人選され,任命された。彼の近代化政策は見かけほどではなかったのである。

 35年10月ファシズム・イタリアのエチオピア侵略(第2次イタリア・エチオピア戦争)が開始された。エチオピアは防戦に努める一方で国際連盟に提訴したが,連盟はなんの手もうたず,翌36年5月には首都アジス・アベバも陥落し,ついにエチオピアはイタリアに併合された。ハイレ・セラシエ1世はイギリス亡命を余儀なくされた。しかし第2次世界大戦がはじまると,やがて独立回復の好機が訪れる。すなわちイギリス軍の支援を受けたハイレ・セラシエ1世の軍は,スーダンをへてゴッジャム地方へ進撃を開始し,ついに41年5月アジス・アベバを奪回,5年ぶりに独立を回復した。戦後のエチオピアにとって最初の大きなできごとは,52年,旧イタリアでイギリスの暫定統治下にあったエリトリアと,国連決議に基づいて〈連邦〉を結成したことである。しかし10年後の62年,エチオピアは住民の意思によるとしてエリトリアを一州として併合してしまった。以後エリトリア解放戦線(ELF),エリトリア人民解放戦線(EPLF)などの解放勢力が,エリトリアの独立をめざして,中央政府軍とのあいだに激しい戦いをくりひろげることになった。

内政面では,1955年に新憲法を公布し普通選挙制を導入するなど,制度面でいくぶんか民主化の方向へ動いたものの,立法,司法,行政の3面における皇帝の絶対権は基本的には変わらなかった。また議会政治に不可欠であるはずの政党も,あい変わらず存在を認められなかった。アフリカにも〈独立の時代〉が訪れようとしている50年代後半になっても,エチオピアは制度的に旧弊のままであり,皇帝を頂点とし貴族,豪族,僧侶などからなる少数の半封建的特権階級の支配体制が温存され,国民の大多数を構成する農民,労働者は苦難にあえいでいた。60年12月にメンギストゥ・ネウェイ,ギルマメ・ネウェイの兄弟が起こした皇帝の親衛隊によるクーデタは失敗に終わったが,エチオピア社会の矛盾をあらためて露呈した。だが内政面の不安定とは対照的に,エチオピアは外交面ではアフリカ圏内でもきわだった存在であり,ハイレ・セラシエ1世は強い指導性を発揮した。彼は63年5月にアフリカ諸国首脳会議を主催して,アフリカ統一機構(OAU)という世界最大の地域的国際機構を創設するのに貢献し,本部をアジス・アベバに誘致した。しかし,国際社会における威信の増大は国内的矛盾の減少につながるはずはなかった。そしてついに,74年1月以降断続的に起こった軍隊の反乱をきっかけに,軍部内の革新派(軍事調整委員会=デルグ)を中心とし,労働者,農民,知識人層を戦列のなかに加えた〈エチオピア革命〉が起こった。同年9月ハイレ・セラシエ1世は廃位され,社会主義を唱える革命軍事政権(臨時軍事行政評議会)が成立した。

革命軍事政権は社会主義宣言(1974年12月)を行い,75年には主要産業の国有化,土地改革など思いきった政策に着手した。土地改革は脱封建革命の根幹をなすものであるが,それは単に土地国有化の実施だけではなく,民衆の組織化という政治的側面をも併せもっていた。すなわち農村では,土地の国有化にともない集団農場が主として村落単位でつくられたが,各集団農場には農民組合が組織され,政府は革命行政開発委員会を通じてこれをコントロールするという方式がとられた。都市部でも住民は都市住民組合(ケベレ)へと組織化され,政府のコントロールのもとにおかれた。しかし,マルクス主義的社会主義を標榜する革命軍事政府の指導部内では当初から権力闘争が絶えず,臨時軍事行政評議会議長はアマン・アンドム中将(1974年11月粛清)からテフェリ・ベンティ(1977年2月粛清)へ,そしてメンギストゥ・ハイレ・マリアム(1977年2月就任)へと変わった。また左派であるエチオピア人民革命党(EPRP)や右派であるエチオピア民主同盟(EDU)のテロ攻撃,ゲリラ攻撃も一時さかんであった。また前述のエリトリアの解放勢力や,隣国ソマリアに支援された西ソマリア解放戦線(WSLF)によるオガデン地域解放のための反政府武装闘争も続き,革命軍事政府は苦境におかれた。そうした状況のなかで,政府は79年以来,エチオピア勤労人民党組織委員会(COPWPE)を通じて〈一党体制のもとでの文民政府〉実現へ向けて準備を進め,革命10周年にあたる84年9月にはCOPWPEを発展的に解消してエチオピア労働者党(WPE)を創設した。ついで87年2月の国民投票で共和国憲法が81%の賛成を得て承認されると,同年6月には一院制の国民議会(シェンゴ)の選挙を行い,さらに同年9月の国民議会初会期で,77年2月以来臨時軍事行政評議会議長の任にあったメンギストゥを初代大統領に選出して民政移管を果たし,一党制に基礎を置いた人民民主共和国を正式に発足させた。1994年の新憲法によって,連邦民主共和国となった。

 1960年代初めから武力解放闘争を続けてきたエリトリアに対しては,93年に独立を認めた。

エチオピアは世界の最貧国のひとつであり,その経済水準はアフリカ圏においてすら最も低い。いうまでもなく農業国であり,主要産品はコーヒー,綿花,茶,大麦,小麦,トウモロコシ,キビ,豆類,採油用種子などである。このうち輸出品は主としてコーヒーであり,豆類,採油用種子がつづく。皮革製品も若干は輸出される。工業は1960年代以降しだいに発展してきたが,まだ経済全体に占める比重は小さい。セメント,石油製品,綿糸,綿織物などが,主要産品としてあげられる。メレス政権のもとで国営企業の民営化を含む市場経済化が進められているが,長年の国内紛争,干ばつなどの影響も大きく,見通しは必ずしも明るいとはいえない。
執筆者:

エチオピアは前6世紀ごろからしだいに文化社会としての展開を示したが,とくにアラビア半島南部との関係が深く,イェハYehaの神殿やハウルティHaoulti像などはその文化の質の高さを示すものである。後3~6世紀に栄えたアクスム王国時代の遺物は,建築構造を細かく刻みこんだ単一石柱の,いわゆるオベリスクによって代表される。最長のものは長さ33mを超え,素材を遠隔の地から輸送したことと併せて,驚異的な技術を示すモニュメントである。首都アクスムには他に諸種の建造物があり,それらの様式は後世の岩窟聖堂に伝えられた。紅海に臨む北部地域(現,ティグレ州)は,象牙貿易などによって地中海地域との関係が強まり,当然その方面よりの影響が入り込む。そして4世紀以降キリスト教化し(エチオピア教会),キリスト教美術が大いに栄えたはずであるが,その後のイスラム教徒の侵入により,大部分は破壊された。今日知られるキリスト教美術の遺産は主として11世紀以降のもので,特に注目されるのは岩窟聖堂である。その代表的なものはアジス・アベバ北方の聖都ラリベラLalibelaに見られる。ここには諸種の形式をもつ数群の聖堂があるが,それらは岩層に方形の溝を深く掘り,その中央部を内部外部とも野外に建造した聖堂と同じ構造に仕上げたもので,そこにアクスム王国様式の伝統やシリアおよびコプト建築(コプト美術)の影響を見ることができる。内部は壁画で飾られ,ほかに組紐文などの線彫装飾を柱,窓などに多用している。16世紀以降ポルトガルの影響がゴンダルを中心に入り込むが,西洋風のゴンダル城(17世紀)はともかく,聖堂建築は木造の円堂が多くなる。これは民家の構造と関係をもつ。それらを飾る壁画には,明らかに西洋の近代写実主義の影響が見られる。絵画芸術の重要な一分野は写本画である。それらも13世紀以前にさかのぼるものはほとんどないが,東方キリスト教絵画の影響を受け入れながら,きわめて素朴な独特の感覚によって強い表現力を発揮しているものが多い。ほかにブロンズや木の十字架に見られる繊細な装飾感覚も注目される。
執筆者:

多様な人種,民族そして文化を擁しているエチオピアの音楽は多彩である。クシ語系に属する諸民族やシャーンケラーと総称される黒人系諸民族の音楽の,東アフリカ一帯の音楽に共通する性格が,エチオピアの音楽文化の重要な側面である。狭義のエチオピア(アビシニア)の音楽を代表するのは,久しくこの国の支配者層を形成してきたティグレとアムハラのいずれもセム系の民族である。約500年にわたりエチオピアを統治したアムハラ族は圧倒的に優勢であり,その音楽も例外ではない。

 エチオピア教会の典礼音楽は,6世紀の伝説的な音楽家聖ヤレドの創作になるといわれるが,今日もデブテラと呼ばれる教会の専業音楽家によって伝承されている。

 アムハラ族の重要な世俗音楽の伝統の一つがアズマリと呼ばれる吟遊詩人である。マセンコと呼ばれる一弦の胡弓で自ら伴奏し即興の詩を歌う大道芸人の一種だが,庇護を求めて王侯貴族の屋敷に下僕として仕え,主人を称賛する歌,気晴しの歌のほかに,巷の情報や社会批判,宗教的な訓戒などを即興詩に詠み込んで歌う。メロディは5音音階に基づく旋法が支配的である。

 ほかに,ベガンナとクラールの2種の弦楽器がある。語り物や恋歌の伴奏に用いられるが,いずれもリラ属で,前者は古代ギリシアのキタラに,後者はリラに酷似している。気鳴楽器としてはワシントと呼ばれる葦の竪笛(ネイ属)とマラカト(竹製トランペット)が重要。また体鳴楽器としてダワル(石の鐘)とツァナツェル(シストルムの一種)が挙げられるが,これらはもっぱらキリスト教典礼に用いられる。
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百科事典マイペディア 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア

◎正式名称−エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia。◎面積−112万7127km2。◎人口−8490万人(2010)。◎首都−アディスアベバAddis Ababa(274万人,2007)。◎住民−オロモ(ガラ)人40%,アムハラ人40%など。◎宗教−エチオピア教会50%,イスラム30%など。◎言語−アムハラ語(公用語)40%,ガラ語など。◎通貨−ビルBirr。◎元首−大統領,ムラトゥMulatu Teshome Wirtu(2013年10月就任,任期6年)。◎首相−ハイレマリアムHailemarian Desalegn(2012年8月就任)。◎憲法−1994年12月制定,1995年8月発効。◎国会−二院制。上院(定員108),下院(定員547)。最近の選挙は2010年5月。◎GDP−265億ドル(2008)。◎1人当りGDP−180ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−81.1%(2003)。◎平均寿命−男62.0歳,女65.3歳(2013)。◎乳児死亡率−68‰(2010)。◎識字率−39.0%(2007)。    *    *アフリカ北東部の共和国。古くはアビシニアとも。大部分が標高2400m前後の高原地帯で気候温暖。北東部にダナキル砂漠がある。農業が主で,コーヒーが主産品,重要輸出品。テフ(穀物の一種),大麦,小麦もつくられる。羊,牛,ヤギの畜産もある。アディスアベバを中心に繊維,食品加工など小規模な工業も行われる。〔歴史〕 前10世紀にエジプトの支配を脱し,独立王国が成立したと伝えられる。紀元前後からアクスム王国が発展,4世紀にコプト派のキリスト教が伝わり,のちのエチオピア教会となった。7世紀にイスラム勢力の包囲で,他のキリスト教世界から孤立。のち群小国に分裂。19世紀半ばテオドロス2世の手によって統一国家が出現。1889年メネリク2世が即位,エリトリアを占領後エチオピアに攻め入ったイタリア軍を1896年,アドワの戦で撃退した。1936年イタリアに占領されたが,1941年独立を回復(イタリア・エチオピア戦争)。1952年エリトリアと連邦を形成,1962年これを併合。1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争(オガデン戦争),および干ばつによる10万人餓死という惨状,石油危機の影響による物価騰貴が引金となって,首都のデモ騒乱から軍隊の反乱が起こり,1974年9月皇帝ハイレ・セラシエ1世は軍部によって逮捕,廃位させられ,翌1975年帝制は廃止となった。1977年臨時軍事評議会議長にメンギストゥが就任,1987年メンギストゥは大統領に就任,人民民主共和国となった。同政権はソ連に強く依存する政策をとったが,エリトリア独立派との戦闘での敗北や干ばつ被災地の拡大など困難な情勢に立たされ,1991年反政府ゲリラ組織に打倒された。1993年5月エリトリアが平和裏に分離・独立。1994年新憲法を制定し,連邦制を採用。政権を奪取したエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)は,親米路線をとっている。1998年5月に勃発したエリトリアとの国境紛争は,2000年6月和平協定の調印で終結へ向かったが,国境画定をめぐってその後大きな進展はない。2006年12月,イスラム原理主義が優勢なソマリアへ侵攻。
→関連項目アフリカアフリカの角ウサマ・ビン・ラディンシミエン国立公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア
Ethiopia

正式名称 エチオピア連邦民主共和国 Federal Democratic Republic of Ethiopia。
面積 106万3652km2
人口 1億447万7000(2021推計)。
首都 アジスアベバ

アフリカ大陸北東部の国。アムハラ語では Ītyop'iya。西はスーダンと南スーダン,南はケニア,東はソマリアとジブチ,北はエリトリアに国境を接する。国土の大半が標高 2000~3500mのエチオピア高原で,そのほぼ中央部をアフリカ大地溝帯(グレートリフトバレー)が北東から南西方向に貫通。気候は一般に高原性で快適。6~8月が雨季。年平均気温はアジスアベバで 16℃,海岸部で 31℃。降水量は高原部に多く年平均 1270mm,草原や耕地が発達。低地は乾燥が激しく,北東部にはダナキル砂漠が広がる。前数世紀以来アクスム王国(→アクスム)をはじめいくつかの王国が栄えたが,16世紀の一時期イスラムが支配,19世紀末ショア王メネリク2世の時代に近代国家の基礎が築かれた。アフリカ大陸にあって最後まで植民地化を免れた独立国であったが,1936年イタリアが占領,第2次世界大戦で 1941年連合国軍が奪還,1952年,旧イタリア植民地エリトリアとともにエチオピア連邦を結成,1962年エリトリアを完全に統合した。1974年エチオピア革命により帝制を廃止し,社会主義国エチオピア人民民主共和国となったが,1991年エチオピア人民革命民主戦線 EPRDFを中心とする反政府勢力が首都を制圧,暫定政府を樹立した。1994年12月に承認された新憲法のもとで,大統領の地位は形式的なものとし,国民議会が選出する首相に行政権を与えている。議会選挙が実施され,1995年8月エチオピア連邦民主共和国が正式に発足した。住民は,アラビア半島から移住してきたハム系(→ハム語系諸族)とセム系(→セム語系諸族)に大別され,セム系のアムハラ族が古くから支配層を形成。住民の大部分は 4世紀からのコプト派キリスト教徒。農業,牧畜を主とし,コーヒー,皮革が主要輸出品。ほかに自給用として穀類,トウモロコシなどを産する。銅,プラチナの鉱床があるが本格的な開発は行なわれておらず,国民総生産 GNPではアフリカ諸国の平均を下回る。言語の種類は 100をこえるがセム語系(→セム語族)が最も広く用いられ,そのなかのアムハラ語が事実上の公用語。エリトリア地方はイスラム教徒が多く,分離・独立運動が続いていたが,1991年の政変に伴い,1993年に独立を問う住民投票の結果,独立した。(→エチオピア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「エチオピア」の解説

エチオピア
Ethiopia

アフリカ北東部,ナイル川上流にある国。アビシニアともいう。首都アディスアベバ
古くからセム語族系およびハム語族系の諸侯が住んでいたが,前15世紀ごろエジプトに征服され,前11世紀末に独立した。1世紀末にアクスム王国が統一。4世紀にはキリスト教化し,単性説的なコプト教会が発展。7世紀にはイスラーム勢力に包囲され,孤立した。10世紀初めアクスム王国は滅び,群小の封建国家が割拠した。15世紀末にポルトガル人に「プレスター=ジョンの国」としてヨーロッパに紹介された。19世紀後半,列強のアフリカ分割が開始されると,特にイタリアの侵略目標となり,1895年の第1回エチオピア戦争となったが,アドワの戦いで撃退し,以来,列強の勢力均衡の中で独立を維持した。1930年ハイレ=セラシェ1世が即位し,立憲君主国となったが,35年,イタリアのファシスト政権による第2回エチオピア戦争の結果,占領された。1942年イギリスの支援で独立を回復。1962年エリトリアを統合,しかし74年2月,軍部のクーデタが起こり,9月皇帝が追放され,75年に共和国となり,77年からメンギスツ政権下で社会主義国家の建設が進められた。いっぽう,1962年の併合直後からのティグレ族によるエリトリア独立闘争に加え,77年にはソマリアの支援をうけた解放勢力によるオガデン州解放運動も起こった。こうした政情不安のなかで1987年,メンギスツ大統領のもとでエチオピア人民民主共和国が発足した。しかし,エリトリア解放勢力と反メンギスツ民主勢力の合流による首都攻勢が進むなか,1991年5月メンギスツが国外に逃亡し,人民革命民主戦線による新政権が成立した。なお,エリトリアは住民投票の結果,1993年5月に独立した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エチオピア」の解説

エチオピア
Ethiopia

アフリカ北東部の国。住民構成は多様で,支配層を占める主要民族のセム語系アムハラ人,北部山塊地域のティグレ人などのキリスト教徒と,南部のクシ語系オロモ人やソマリア国境地域のソマリ人などムスリムが居住。伝承では前1000年頃シェバの女王とソロモン王の子,メネリク1世がエチオピア帝国を創始したとされる。19世紀にテオドロス2世やメネリク2世が富国強兵に努め,アドワの戦い(1896年)でイタリア進出をくじき独立を堅持。1923年国際連盟加入を果たし,ハイレ・セラシエ1世は旧弊な封建制を温存しつつ近代化を推進。エリトリアと52年に連邦を形成,62年に併合を強行し,93年の分離独立まで解放勢力と抗争が続いた。1974年社会主義革命で帝政が崩壊し軍政に移行。隣国ソマリアとは77~78年のオガデン紛争など武力衝突が絶えず,国内では87年民政移管後も,ティグレ人民解放戦線やオロモ人民解放戦線などの攻勢が激化し,91年首都アジス・アベバが陥落,連邦民主共和国が成立し地方分権が保障された。

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世界大百科事典(旧版)内のエチオピアの言及

【大航海時代】より

…しかしこれは成功せず,ジョアン2世はとにかく東回りで一刻も早く中国,日本に到着しようとして,アフリカ西海岸にさかんに船を派遣した。この間86年にはニジェール川流域にあったベニン王国と接触し,ここでアフリカ大陸奥地にキリスト教王国(エチオピア)のあることを知った。ジョアン2世はこれを伝説上のキリスト教徒の王プレスター・ジョンの王国であると考え,彼と接触しようとした。…

【プレスター・ジョン伝説】より

…その後この王と王国の実在はカトリック修道士を中心に疑問視されるようになった。そして15~16世紀になると,今度は同じくキリスト教徒のいるエチオピアにプレスター・ジョンの存在を求めるようになり,ヨーロッパ人によるアフリカ探検の原動力となった。なお,エチオピアは〈プレスター・ジョンの国〉と雅称されることがある。…

※「エチオピア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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