20世紀前半を代表するイギリスの経済学者。その著《雇用・利子および貨幣の一般理論》(1936)によって経済学にケインズ革命と呼ばれる変革をもたらすとともに,その考え方は第2次大戦後の先進工業国の政策に大きな影響を与えた。その著《形式論理学》(1884)および《政治経済学の範囲と方法》(1890)によって知られる経済学者で,ケンブリッジ大学の管理者でもあったジョン・ネビルJohn Neville(1852-1949)を父とし,社会事業にたずさわり,ケンブリッジの最初の女性市会議員,市長などを務めたフローレンス・エイダを母として,ケンブリッジのハーベー・ロード6番地に生まれた。ケインズの知的エリート主義に対して批判者が使う〈ハーベー・ロードの前提〉という言葉はこれに由来する。セント・フェイス予備校から名門イートン校を経て1902年ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学,〈ユニオン〉をはじめとする各種学生団体に加入すると同時に〈ソサエティ〉と呼ばれるグループのメンバーとなり,リットン・ストレーチーやレナード・ウルフなどとともに,功利主義哲学の批判者G.E.ムーアから強い影響を受ける。06年文官試験に合格,インド省に勤務するかたわら,親友ストレーチーらとブルームズベリー・グループをつくり,レナードとバージニアのウルフ夫妻,ダンカン・グラント,ベル夫妻らの芸術家と親交をもつ。死後出版された回想記《若き日の信条》は彼の思想を知るうえで重要である。08年アルフレッド・マーシャルのすすめで母校にもどり,09年には前年不合格となった〈確率論研究〉を再提出,キングズ・カレッジのフェローとなる。この年,《指数の方法》でアダム・スミス賞を受けるとともに以後は経済学の研究に専念,13年の《インドの通貨と金融》で経済学者としての地位を確立。また,この時期に,学会誌《エコノミック・ジャーナル》の編集責任者,王立経済学会のセクレタリーとなり死の前年まで敏腕を振るった。
第1次大戦中は大蔵省に勤務,19年のパリ講和会議には大蔵省首席代表として出席したが,ドイツに対する過大な賠償案に反対して代表を辞任,その考えを《平和の経済的帰結》(1919)として公刊,世人の注目をひいた。《条約の改正》(1922)はその続編である。23年には自由党の機関誌《ネーション》の会長となり,その後は《ネーション》やその後身の《ニュー・ステーツマン・アンド・ネーション》その他に数多くの時論を発表して啓蒙に努めた。
第1次大戦後のイギリス経済の停滞に際して金本位制への復帰を望む声が強まったが,ケインズは,金本位制とくに旧平価による金本位制への復帰と自由放任主義に反対して管理通貨制度の必要性を提唱,《貨幣改革論》(1923)や《チャーチル氏の経済的帰結》(1925,小冊子)を発表するにいたった。このケインズの主張は,日本における昭和初年の金解禁をめぐる論争にも影響を与え,石橋湛山,高橋亀吉ら旧平価解禁反対論者の反対の根拠とされた。このようなケインズの主張の背後には,市場の自動的調整作用が失われ,自由放任のもとでは望ましい状態は達成されないという基本的な考え方があり,これを表明したのが《自由放任の終り》(1926,小冊子)である。この考え方は,29年の深刻な不況と失業を契機に失業対策としての公共支出の重要性に目を向けさせることになり,《ロイド・ジョージはそれをなしうるか》(1929,小冊子),《繁栄への道》(1933,小冊子)を上梓(じようし)させることになった。
1925年ロシアのバレリーナ,ロプホワLidiya V.Lopukhovaと結婚,ソビエトを訪ね《ロシア管見》を書くが,大著《貨幣論A Treatise on Money》の完成に打ち込み,30年これを出版。同書はケインズの書いた最も体系的な書物であり,貨幣価値の基本方程式によって注目を集めた。しかし,そこでは物価の安定が中心テーマであり,全体としての産出量や雇用量がどのように変化するかという問題の解決は《一般理論》(1936)にゆだねられることになった。《一般理論》の公刊後,第2次大戦に際しては,大蔵大臣顧問会議の一員となり,《戦費調達論》(1940,小冊子)を著してインフレ対策として支出の繰延べを提案するなどインフレの抑制に意を用いた。41年イングランド銀行理事となり戦後世界経済問題の処理に腐心,ケインズ案と呼ばれる多角的精算同盟案を作り,44年イギリス代表としてブレトン・ウッズの連合国通貨会議に臨み,アメリカ代表ホワイトと激しい応酬を行うが,敗れ,ホワイト案にそってIMFが設立される。46年IMFおよび国際復興開発銀行(世界銀行)の総裁に就任するが,その直後死去した。なお,1942年に男爵となり,以後Lord Keynesと呼ばれている。
主著《一般理論》は,《ロイド・ジョージはそれをなしうるか》や《繁栄への道》への考え方を受けつぎ,それを理論的に発展させたもので,価格の変化ではなく,産出量したがってまた,それに伴う雇用量の変化を明らかにすることがその主たる課題であり,将来について不確実性が存在する社会では投資を中心に有効需要が不足し,失業が生ずる可能性があることを明らかにした。したがって,失業を克服するためには,政府は低金利政策によって投資を刺激すると同時に,場合によっては積極的に公共事業を行う必要がある,というのがケインズの主張であった。それは自由放任主義への訣別であった。この意味でケインズはしばしば異端の経済学者ともいわれるが,他方,経済学は,自然科学と違い,価値や人々の動機,期待,心理的不安等を取り扱う〈道徳科学〉であることを強調する点,また第2に,理論のための理論を避け,現実の社会的目標の達成ということに強いコミットメントを示し,たえず実際の行動を提起してきた点など,すぐれてイギリスの伝統に忠実な経済学者であった。
→ケインズ学派
執筆者:館 龍一郎
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1883~1946
イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学の出身で,ブルームズベリ・グループの一員。母校で経済学を講じた。第一次世界大戦中は大蔵省に勤務し,パリ講和会議には大蔵省の主席代表として出席,ドイツへの過大な賠償金に反対して辞任。自由放任主義の終りを明言し,主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で,失業を克服するための国家の役割を強調し,経済学に大きな変革をもたらした。1942年男爵に叙された。
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…創刊当時は文字どおり世界第一級,類似の学術誌が激増した今日でも世界有数の純学術的経済学の専門雑誌である。F.Y.エッジワースが初代編集者で,J.M.ケインズが12‐45年の33年間その任に当たったが,前者も終生共同編集者として発展に貢献した。45年以降E.A.G.ロビンソンとR.F.ハロッドが共同編集者となってから,編集者の交代もかなり頻繁になり,また,おそらく経済学の多極的専門化の進展のために共同編集者の数も増えて今日にいたっている。…
…なぜならば,上記の貨幣類似資産が狭く定義された貨幣とほぼ同様の影響を経済に与えるであろうと考えられているためである。たとえば,現代の金融理論の基礎を構築したJ.M.ケインズは,マクロ経済の金融的側面を流動性選好(流動性選好理論)という概念によって叙述したが,その概念の中で扱われている貨幣は,実際に決済手段として機能するものばかりでなく,貨幣類似資産をも含んでいる。ケインズは,これらの資産が(ほぼ)確実に決済手段として機能するという意味で流動的であるのに対し,その他の金融資産はそのような流動性をもっていないがゆえに人々が進んでその他の金融資産を保有するためには,それらは利子を生まなければならないとして,利子率の存在を説明したのである。…
…通常,重商主義は金が国富であると考える重金主義に基づく貿易差額重視の政策であるといわれるが,これについては貨幣量と物価の比例関係を主張する貨幣数量説による批判が当時からあった。ケインズは有効需要を確保する政策として重商主義政策の意義を高く評価している。また,自国の産業のために市場を確保する政策と解するならば,現代の貿易摩擦との関連も否定しえない。…
…イギリスの経済学者J.M.ケインズによって創始されたいわゆる〈ケインズ経済学〉を研究し,その分析結果に基づいて一定の政策提言を行う経済学上の一学派をいう。
[新古典派とケインズ経済学]
通常ケインズ経済学とよばれる経済学は1936年に刊行されたケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》によって樹立された。…
…このうち第三命題は後に《産業変動論》(1927)へと発展させられたが,景気変動論はむしろ,彼の後継者D.H.ロバートソンの《産業変動の研究》(1915),《銀行政策と価格水準》(1926)などを通じて早くから展開されていた。 イギリス経済は,その後29年の大恐慌後の不況期に多量の失業者と遊休設備に悩まされるようになったが,そのなかでJ.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》(1936)が出版され,〈供給は需要をつくりだす〉という〈セーの法則〉に立って完全雇用のもとでの資源配分を取り扱ってきた従来の経済学に批判を加え,いわゆる〈ケインズ革命〉をひき起こすことになった。彼の理論はやがてケインズ学派を生みだしていくことになった。…
…資本的支出が借入れによってまかなわれるときには,償還のために減債基金が設けられ維持されなければならなかった。ケインズ主義はこの古典派の均衡予算原則を否定した。公経済の収支バランスはそれ自体は好ましいことだが,国民経済が失業あるいはインフレに悩んでいれば,経済全体が好ましい状態にはない。…
…失業が発生するのは労働市場の不完全性のために発生する失業か資本設備や技術の変化によって均衡条件が変化する場合,これに適応する過程で発生する失業だけである。
【ケインズ派の主張】
ところが,両大戦間,とくに1929年世界恐慌以後,大量の失業が発生すると同時に,それが慢性化した。新古典派はこの要因を労働市場における労働組合の独占力,失業保険の下支えにより,実質賃金が均衡水準よりも高く維持されることに求めた。…
…イギリスの経済学者J.M.ケインズの主著。1936年刊。…
…消費性向では,通常所得と消費の平均的比率(=消費/所得)で定義する平均消費性向と,所得・消費のある期間内の増分の比率(=消費の増分/所得の増分)で定義する限界消費性向とは必ずしも等しくならず,それを区別して用いる場合が多い。 ケインズは,国民所得水準の決定を論ずるに際して,一国のマクロ・レベルの消費(実質)が,所得(実質)の線形関数で近似的に表現できるとした。それをC=αY+βと表す。…
…1930年代に行われたJ.ロビンソンやE.チェンバレンの独占的競争理論も,独占の弊害を指摘し,市場が資源配分にバイアスをもたらすことを明らかにしたものの,合理的行動と市場均衡という新古典派の基本仮説を否定するものではなかった。 ところが,J.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論(一般理論)》は,新古典派からの逸脱であり,ケインズ革命とよばれるにふさわしい出発点であった。そこにおいてケインズは,企業および家計の合理的行動は一部認めつつも,価格の市場調整機能を否定し,短期的には価格よりも生産販売数量のほうが伸縮的であること,および貨幣を含む市場経済においては不均衡現象としての非自発的失業がむしろ常態であることを強調した。…
…そして,このような歴史への興味は,それだけにとどまらず,自然界ばかりか歴史においても一定の秩序を見いだそうとする彼の努力を示しており,神の被造物である自然と神の預言の成就としての歴史のいずれにおいても同一の普遍的な統一性が存在するという確信の結果であった。このように,ニュートン手稿の再収集に努力した経済学者のJ.M.ケインズの〈ニュートンは理性の時代の最初の人〉ではなく,〈最後の魔術師〉であったという発言もなるほどと思われる。いずれにせよ,今日の科学は近代的合理主義の所産であると考えられているが,その合理主義は宗教的情熱と無関係ではなかったということをニュートンは端的に示している。…
…名称はスティーブン家がロンドンのブルームズベリー街にあったことに由来する。メンバーは,姉妹のそれぞれ夫になるクライブ・ベル,レナード・ウルフをはじめ,J.M.ケインズ,リットン・ストレーチー,ロジャー・フライ,E.M.フォースターらで,美術評論家,政治評論家,経済学者,小説家など多分野にわたっているが,いずれも同世代でケンブリッジのトリニティ,キングズ両学寮で学んだ。そして当時の哲学教師G.E.ムーアの《倫理学原理》(1903)の中の〈最も価値あることは人の交わりの喜び,美しいものを享受すること〉という文句に影響されていた。…
…この結果,彼の理想主義の破綻は決定的となった。
[批判]
ベルサイユ条約ならびにベルサイユ体制に対する同時代人の批判としては,イギリスの経済学者ケインズの《平和の経済的帰結The Economic Consequences of Peace》が重要である。彼は最初パリ講和会議にイギリス大蔵省首席代表として出席していたが,この地位を中途で放棄して1919年12月に同書を刊行した。…
…この委員会の正式名称は〈金融および産業に関する委員会Committee on Finance and Industry〉であるが,委員長の名にちなんで〈マクミラン委員会〉と呼ばれる。委員会の最も活動的で最も影響力のあるメンバーがJ.M.ケインズであった。31年7月に提出された委員会報告すなわちマクミラン報告では,賃金・俸給の切下げは不況打開策として無力であること,固定為替相場制度のもとでの金融政策の有効性は限られたものにすぎないこと,公共事業を中心とする直接的な有効需要政策が望ましいこと,などが主張されているが,これらの主張のほとんどは,その後ケインズによって体系づけられた,いわゆるケインズ理論の中核となったものである。…
…ケインズ学派を批判して1960年代に台頭した学派で,その首唱者はM.フリードマンである。この学派の人々をマネタリストmonetaristと呼ぶ。…
※「ケインズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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