ベネズエラ べねずえら Bolivarian Republic of Venezuela 英語 República Bolivariana de Venezuela スペイン語
スペイン語ではベネスエラ。正式名称はベネズエラ・ボリバル(ボリーバル)共和国 República Bolivariana de Venezuela(1999年12月ベネズエラ共和国から変更)。南アメリカの北部、カリブ海に面する共和国で、東はガイアナ、南はブラジル、西はコロンビアに接する。面積は91万2050平方キロメートルで、日本の約2.4倍。人口は2722万7930(2011国勢調査)、人口密度1平方キロメートル当り30人。首都カラカス。国名は「小さなベネチア」の意。コロンブス時代の探検家が、ベネズエラ湾の水上の家がイタリアのベネチアに似ているところからこの名をつけた。かつては山岳性の自然と気候の影響を受けて貧しい農業国であったが、1910年代に発見された石油が経済構造を一変させた。
大統領に選出されたADのロムロ・ベタンクール(在任1959~1964)は、キリスト教社会党(COPEI:Comité de Organización Política Electoral Independiente)など3党(のちADとCOPEIの2党となる)と互いに閣僚ポストを提供するプント・フィホ協定を結んで政治の安定をはかり、農地改革、工業化、民族主義的な石油政策に着手する。彼はキューバ派ゲリラの活動を鎮圧し、軍の台頭を抑えて文民統治の基礎を固めた。後継のラウル・レオニRaúl Leoni Ostero(1905―1972)AD政権はベタンクールの中道左派政策を継承したが、1968年にCOPEIのラファエル・カルデラRafael Antonio Caldera Rodríguez(1916―2009)が勝利して、平和裡(り)に政権交代が実現し、イデオロギー的多元主義のもとに穏健な改革が進められた(1969~1974)。石油危機の直後に成立したADのカルロス・アンドレス・ペレス政権(1974~1979)は、油価高騰を背景に積極外交を展開し、国連で資源ナショナリズムをうたい、1976年に石油を国有化する。しかしその放漫財政と政治腐敗から、COPEIのエレラ・カンピンスLuis Antonio Herrera Campins(1925―2007)に政権が移行したが(1979~1984)、累積債務問題に対応できず、ADのハイメ・ルシンチJaime Ramón Lusinchi(1924―2014)に政権が受継がれた(1984~1989)。しかしすでに石油収入と二大政党制に基づく国家主導型開発路線は限界にきていた。第二次ペレスAD政権は政策を転換して新自由主義経済政策を打ち出したが、大統領就任直後の1989年2月首都カラカスで新政策に抵抗する大暴動(カラカッソ)が起き、1992年2月と11月には軍の反乱にみまわれた。ついで1993年5月に公金横領の罪でペレスは逮捕される。1993年の大統領選挙では元大統領のカルデラがCOPEIを離れて結成した国民統一党(CN:Convergencia Nacional)から出馬して当選し、協調型二大政党制は終焉(しゅうえん)した。
1998年には、1992年に軍クーデターを起こした元陸軍中佐ウーゴ・チャベスが、貧困層の支持を得て大統領に選出される。翌1999年に制憲議会が作成した新憲法案が国民投票で承認され、国名がベネズエラ・ボリバル(ボリーバル)共和国に変更された。また大統領の任期がこれまでの5年から6年に延期され(連続2期まで可能)、議会は2院制から1院制に縮小された。2000年、新憲法下での大統領選挙で当選(旧憲法下での選挙を含めると再選)したチャベスは、大統領授権法(議会ではなく大統領が1年間法律を制定できる法)により土地法、炭化水素(石油・天然ガス)法など49の法律を制定した(2001)。チャベスの急進的で強引な手法に対する反発は軍・財界・労組を中心に広がり、国営ベネズエラ石油(PDVSA:Petróleos de Venezuela, S.A.)の役職員更迭を機に、大規模なデモやストに発展する。2002年4月のクーデターでチャベスは拘束されたが、チャベス支持派の抗議によって2日後に大統領に復帰した。経済活動は停滞するが、貧困層に対する支援は強化された。こうして2004年8月の国民投票でチャベスは大統領として信任され、2006年の大統領選挙で圧勝した(63%の得票)。2007年に3期目(新憲法下では2期目)の大統領に就任したチャベスは、電力、通信などの国有化を宣言、反チャベス派の民放テレビ局を閉鎖して、12月に憲法改正(社会主義への移行をめざし、大統領の1回限りの再選規定を撤廃、任期を7年に延長)に対する国民投票に僅差(きんさ)で敗れた。しかし2009年2月、公選職の再選制限を撤廃する憲法修正の是非を問う国民投票に勝利し(賛成54%)、チャベスは2012年の大統領選挙に立候補して4選を果たした。
ボリーバル革命によってチャベスが目標としたのは、「21世紀の社会主義」社会の建設である。社会主義化を内容とする改憲案は2007年に国民投票で否決されたが、ベネズエラ統一社会党(PSUV:Partido Socialista Unido de Venezuela)の結成、主要産業の国有化、人民権力(労働者・農民・学生・地域住民の各委員会から構成)による参加民主主義の制度化が進められた。反体制派との対立、さらには反体制派の逮捕や政治犯としての追及が増え、社会主義と民主主義が両立できるか否かが問題となった。
反ネオリベラリズム(反新自由主義)を主張したチャベス政権は、その後増加した新自由主義に批判的な中南米の左派政権の先駆的存在であり、キューバ、ボリビアとともに最左派に属する。彼は石油を交渉の武器に多角的外交関係を築き、左派政権やかつての社会主義国とのグローバルな連帯を通じて、ボリーバル革命の推進を図った。2006年、親米的なコロンビアとペルーがアメリカと自由貿易協定(FTA)を結んだことに反発して、アンデス共同体から脱退する一方で、ブラジル、アルゼンチンなどが構成する南米南部共同市場(メルコスール)に加盟した。隣国コロンビアとは、左派ゲリラのコロンビア革命軍(FARC:Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)掃討中にコロンビア軍がエクアドル(左派コレア政権)の国境を侵犯したとして、一時緊張が高まった(2008)。アメリカ主導の米州自由貿易圏(FTAA)構想に対抗して、2004年に「米州ボリーバル主義代替構想」(2009年に米州ボリーバル主義同盟に改称、ともに略称ALBA)をキューバ、ボリビアとともに提唱し、ニカラグア、エクアドル、カリブ海諸国が加盟している。これは医療・教育協力や資源補完を通じて域内の経済・政治統合を目ざす構想で、ブラジル、アルゼンチンなどともエネルギーの相互供給を計画中である。