ベネズエラ(読み)べねずえら(英語表記)Bolivarian Republic of Venezuela 英語

共同通信ニュース用語解説 「ベネズエラ」の解説

ベネズエラ

南米北部に位置し、人口は約3200万人(2017年推計)。輸出収入の9割以上を石油に依存する。20世紀後半は二大政党が政権を担ってきたが、1999年に誕生したチャベス政権は社会主義的政策を推進、貧困層を中心に圧倒的な支持を得て、次第に独裁色を強めた。チャベス大統領は2013年3月に死去し、後継のマドゥロ大統領が同4月に就任。18年5月の大統領選で主要野党がボイコットする中、再選され、国際社会から非難の声が上がった。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ベネズエラ」の意味・読み・例文・類語

ベネズエラ

  1. ( Venezuela ) 南アメリカ北部の国。カリブ海に面する。一四九八年コロンブスが到達以来スペインの植民地となり、一八一〇~二一年の独立戦争の勝利の結果、三〇年に独立国となる。石油のほか、金・ダイヤモンド・鉄鉱石などを産出。一九九九年、正式国名をベネズエラ共和国からベネズエラ‐ボリバル共和国に改称。首都カラカス。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベネズエラ」の意味・わかりやすい解説

ベネズエラ
べねずえら
Bolivarian Republic of Venezuela 英語
República Bolivariana de Venezuela スペイン語

スペイン語ではベネスエラ。正式名称はベネズエラ・ボリバル(ボリーバル)共和国 República Bolivariana de Venezuela(1999年12月ベネズエラ共和国から変更)。南アメリカの北部、カリブ海に面する共和国で、東はガイアナ、南はブラジル、西はコロンビアに接する。面積は91万2050平方キロメートルで、日本の約2.4倍。人口は2722万7930(2011国勢調査)、人口密度1平方キロメートル当り30人。首都カラカス。国名は「小さなベネチア」の意。コロンブス時代の探検家が、ベネズエラ湾の水上の家がイタリアのベネチアに似ているところからこの名をつけた。かつては山岳性の自然と気候の影響を受けて貧しい農業国であったが、1910年代に発見された石油が経済構造を一変させた。

[山本正三]

自然・地誌

国土は赤道と北緯12度の間に位置する。西部、北部、南部に3山系があり、そのなかに4000メートル以上の高山が連なる西部のメリダ山脈ペリハ山脈、北部のカリブ海岸山脈、南部のラパリマ山脈、パカライマ山脈などがある。国土は4地域に分けられる。(1)国の核心地域であるベネズエラ高地、(2)世界的油田のあるマラカイボ低地、(3)リャノとよばれる中央平原、(4)国土の約半分を占めるギアナ高地である。

(1)ベネズエラ高地はアンデス山脈北端の支脈の一つで、コロンビアとの国境付近から北東に分岐する支脈がメリダ山脈とよばれ、マラカイボ湖東側のセゴビア高地へと続く。セゴビア高地から海岸線に沿って東に走るのが中央高地で、さらにその東に孤立しているのが北東高地である。中央高地と北東高地は標高2000~3000メートルである。高地や山中の盆地は、熱帯圏にもかかわらず気候が温暖なため快適な居住地を提供し、首都カラカスをはじめとしてベネズエラの主要都市がこの地域の盆地に集中している。また豊富な降水量に恵まれ、中央高地のバレンシア湖周辺などでは輸出用のサトウキビ、綿花、カカオ、コーヒーが集約的に栽培されている。また自給用のトウモロコシ、豆類なども生産されているが、食糧は自給には至っていない。メリダ山脈はコーヒーの主産地である。20世紀後半に入ってからベネズエラの経済の重点はしだいにギアナ高地北縁に移動する傾向を示していたが、現在でもベネズエラ高地が最高の人口密度を有し、生産性の高い農業地域および都市生活の中心である。

(2)マラカイボ低地はマラカイボ湖を中心とする低地帯で、西はコロンビアとの境をなすペリハ山脈、南東はアンデスの支脈メリダ山脈に囲まれる。平均気温が南アメリカ最高で、湿度も高い。メリダ山脈から海岸に行くにしたがってしだいに降水量を減じ、植生もこれにしたがって変化する。そのためあらゆる種類の熱帯果実を産する。1917年ここに世界的油田が発見されるまでは、居住に適さない土地であった。

(3)中央平原は南アメリカ第三の大河オリノコ川流域の沖積平野で、全国土の約3分の1を占める。2万平方キロメートル余の広大なデルタ地帯を中心に東部に広がるジャングル地帯とその西のわずかな丘陵地帯とを除いて、一面の大草原(リャノ)をなし牧畜の中心地となっている。冬季に乾燥し、夏季に雨が多く河川が氾濫(はんらん)する。

(4)ギアナ高地はオリノコ川の南にあって国土の約半分を占めるが、住民は全人口の5%程度(2011)にすぎない。長らく未開発状態であったが、1958年以降高地北部の工業化を目ざして強力に開発が進められた。金、ダイヤモンドのほか良質の鉄鉱石など鉱産資源に恵まれ、石油に次ぐ資源として注目されている。世界最大で高さ972メートルのアンヘル(エンジェル)滝がグランサバナ北辺の急崖(きゅうがい)にある。

 水系に関しては、オリノコ水系が国土の約80%を潤し、支流としてカロニ、アプーレ、カウラ、アラウカなどの河川がある。オリノコ川は全長2736キロメートルで、河口から420キロメートル上流のシウダー・ボリーバルまで外洋汽船が就航。同国最大の湖は面積約1万3000平方キロメートルのマラカイボ湖で、ベネズエラ湾につながり外洋汽船の出入りが可能なため石油の輸出手段として重要である。サンフアン川上流にあるベルムデス湖は表面が1メートルの厚さのアスファルトで覆われている。同国最高の山は5007メートルのボリーバル山でメリダ山脈に位置する。

[山本正三]

歴史

コロンブスが1498年の第3回航海の際に到着したベネズエラは、南アメリカ最初のスペイン植民地となった。エル・ドラド(黄金郷)の魅力に乏しい辺境の地であったが、熱帯農産物の生産と交易によって繁栄した。1717年にヌエバ・グラナダ副王領に統合され、カルロス3世の改革で1777年にベネズエラ総監領に昇格、カラカスにアウディエンシア(大審問院)が設置される(1786)。完全な貿易自由化を求めるクリオーリョ(「新大陸」生まれのスペイン人)はヨーロッパの啓蒙(けいもう)思想に共鳴し、ラテンアメリカ独立運動の先駆的動きを開始した。ナポレオン軍のスペイン侵入(1808)後、フランシスコ・デ・ミランダとシモン・ボリーバルの指導のもと、1811年に独立を宣言するが、ヤネーロ(リャネロス。牛牧民)やアフリカ系の人々を顧慮しなかったため王党派に利用され、スペインに敗れた。運動の主導権を握ったボリーバルはヤネーロやイギリス、ハイチなどの協力を得てアンデス諸国をスペインから解放し、1819年にコロンビア、エクアドルを含む大(グラン)コロンビア共和国を成立させた。ベネズエラが大コロンビア共和国から分離独立するのは1830年で、長い独立戦争の間に国土は荒廃した。

 独立後約1世紀の間、反専制を掲げる勢力の台頭を挟みながら軍人統領(カウディーリョ)の暴力的支配が続き、約50回のクーデターを経験する。ヤネーロ出身の初代大統領ホセ・アントニオ・パエス(在任1830~1835、1839~1843、1861~1863)は、軍人とカラカスの商人の支持のもとに保守的寡頭支配を開始した。しかし反専制・反教権(カトリック教会の権威に反対)を掲げる自由党が台頭し、中央集権(保守)派対連邦主義(自由)派の対立は19世紀中葉に連邦戦争に発展し、連邦主義派が実権を握ることになる。ついで19世紀末から第二次世界大戦終了時まで、アンデス出身(アンディノ)のカウディーリョたちが政権を掌握した。なかでも「アンデスの暴君」と称された大統領ファン・ビセンテ・ゴメス(在任1908~1928、1931~1935)は秘密警察を用いて統一国家の基礎をつくり、外資を招いて石油開発を開始した。このゴメス時代の1928年に、カラカス中央大学の学生を中心に反独裁組織が結成され、これがのちに近代化の推進力となる民主行動党(AD:Acción Democrática)に発展する。

 第二次世界大戦後の世界的民主化の潮流のなかで、青年将校と組んだADは1945年10月にクーデターで政権を掌握し、相次いで改革を打ち出した。普通選挙制が実現し、政治参加と政党政治への道が開かれた。しかし改革に抵抗する軍人が1948年にクーデターを起こし、ペレス・ヒメネス独裁(在任1952~1958。選挙を無視して大統領に就任)を準備することになる。東西冷戦期アメリカの支持を得たヒメネスは外資に石油開発を任せて成長政策をとり、批判勢力に対する弾圧を強めたが、居座り工作を機に盛り上がった反独裁運動によって1958年に追放された。

 大統領に選出されたADのロムロ・ベタンクール(在任1959~1964)は、キリスト教社会党(COPEI:Comité de Organización Política Electoral Independiente)など3党(のちADとCOPEIの2党となる)と互いに閣僚ポストを提供するプント・フィホ協定を結んで政治の安定をはかり、農地改革、工業化、民族主義的な石油政策に着手する。彼はキューバ派ゲリラの活動を鎮圧し、軍の台頭を抑えて文民統治の基礎を固めた。後継のラウル・レオニRaúl Leoni Ostero(1905―1972)AD政権はベタンクールの中道左派政策を継承したが、1968年にCOPEIのラファエル・カルデラRafael Antonio Caldera Rodríguez(1916―2009)が勝利して、平和裡(り)に政権交代が実現し、イデオロギー的多元主義のもとに穏健な改革が進められた(1969~1974)。石油危機の直後に成立したADのカルロス・アンドレス・ペレス政権(1974~1979)は、油価高騰を背景に積極外交を展開し、国連で資源ナショナリズムをうたい、1976年に石油を国有化する。しかしその放漫財政と政治腐敗から、COPEIのエレラ・カンピンスLuis Antonio Herrera Campins(1925―2007)に政権が移行したが(1979~1984)、累積債務問題に対応できず、ADのハイメ・ルシンチJaime Ramón Lusinchi(1924―2014)に政権が受継がれた(1984~1989)。しかしすでに石油収入と二大政党制に基づく国家主導型開発路線は限界にきていた。第二次ペレスAD政権は政策を転換して新自由主義経済政策を打ち出したが、大統領就任直後の1989年2月首都カラカスで新政策に抵抗する大暴動(カラカッソ)が起き、1992年2月と11月には軍の反乱にみまわれた。ついで1993年5月に公金横領の罪でペレスは逮捕される。1993年の大統領選挙では元大統領のカルデラがCOPEIを離れて結成した国民統一党(CN:Convergencia Nacional)から出馬して当選し、協調型二大政党制は終焉(しゅうえん)した。

 1998年には、1992年に軍クーデターを起こした元陸軍中佐ウーゴ・チャベスが、貧困層の支持を得て大統領に選出される。翌1999年に制憲議会が作成した新憲法案が国民投票で承認され、国名がベネズエラ・ボリバル(ボリーバル)共和国に変更された。また大統領の任期がこれまでの5年から6年に延期され(連続2期まで可能)、議会は2院制から1院制に縮小された。2000年、新憲法下での大統領選挙で当選(旧憲法下での選挙を含めると再選)したチャベスは、大統領授権法(議会ではなく大統領が1年間法律を制定できる法)により土地法、炭化水素(石油・天然ガス)法など49の法律を制定した(2001)。チャベスの急進的で強引な手法に対する反発は軍・財界・労組を中心に広がり、国営ベネズエラ石油(PDVSA:Petróleos de Venezuela, S.A.)の役職員更迭を機に、大規模なデモやストに発展する。2002年4月のクーデターでチャベスは拘束されたが、チャベス支持派の抗議によって2日後に大統領に復帰した。経済活動は停滞するが、貧困層に対する支援は強化された。こうして2004年8月の国民投票でチャベスは大統領として信任され、2006年の大統領選挙で圧勝した(63%の得票)。2007年に3期目(新憲法下では2期目)の大統領に就任したチャベスは、電力、通信などの国有化を宣言、反チャベス派の民放テレビ局を閉鎖して、12月に憲法改正(社会主義への移行をめざし、大統領の1回限りの再選規定を撤廃、任期を7年に延長)に対する国民投票に僅差(きんさ)で敗れた。しかし2009年2月、公選職の再選制限を撤廃する憲法修正の是非を問う国民投票に勝利し(賛成54%)、チャベスは2012年の大統領選挙に立候補して4選を果たした。

 2013年チャベスの死に伴い大統領選挙が行われ、ニコラス・マドゥーロNicolás Maduro Moros(1962― )が当選した。

[乗 浩子]

政治・外交

政治的に混乱した農牧国から石油に支えられた近代国家に急速に変貌(へんぼう)したベネズエラは、南米諸国が軍政化した1960年代、1970年代に民政を維持した。この「ベネデモクラシア」(ベネズエラの民主主義)の基盤は、二大政党制と石油の富にあったが、政治は二大政党に独占され、左派勢力は政治参加を阻まれ、汚職が蔓延(まんえん)する。また石油価格は1980年代に下落し、対外債務に対処する新自由主義経済政策は国民生活を直撃、中間層の所得低下と貧困層の増大をもたらした。

 「ボリーバル革命」を掲げて登場した大統領チャベスの夢は、独立の志士ボリーバルの理想(ラテンアメリカの自立と連帯)の実現にあった。そのために彼は、政治から排除された人々の参加と動員によって社会経済的正義を目ざし、これを可能にする強力な中央集権国家の形成と中南米の連帯にエネルギーを注いだ。彼はオイルマネーによる貧困対策(住宅・医療・教育など)によって民衆の支持を固めたが、反体制派の反発は国民を二分(両極化)した。また憲法改正によって行政府の拡大強化と立法府・司法府(チャベス派を任命)の弱体化が進み、大統領の独裁的権力が強まり、民主主義の基盤は揺らいでいる。

 ボリーバル革命によってチャベスが目標としたのは、「21世紀の社会主義」社会の建設である。社会主義化を内容とする改憲案は2007年に国民投票で否決されたが、ベネズエラ統一社会党(PSUV:Partido Socialista Unido de Venezuela)の結成、主要産業の国有化、人民権力(労働者・農民・学生・地域住民の各委員会から構成)による参加民主主義の制度化が進められた。反体制派との対立、さらには反体制派の逮捕や政治犯としての追及が増え、社会主義と民主主義が両立できるか否かが問題となった。

 政治体制は共和制で、連邦制をとる。ベネズエラ・ボリバル(ボリーバル)共和国憲法が1999年に制定された。元首は大統領で、任期6年。国会は1院制(167議席)。国軍は陸海空および国家警備隊の4軍よりなり、兵力は11万5000人で選抜徴兵制。国防予算は約46.5億ドル(2014)。2006年にアメリカがベネズエラへの武器売却を全面禁止して以来、ロシアとの協力を強化し、44億ドルの武器を供与され、2008年12月カリブ海でロシア艦隊との合同演習を行った。

 反ネオリベラリズム(反新自由主義)を主張したチャベス政権は、その後増加した新自由主義に批判的な中南米の左派政権の先駆的存在であり、キューバ、ボリビアとともに最左派に属する。彼は石油を交渉の武器に多角的外交関係を築き、左派政権やかつての社会主義国とのグローバルな連帯を通じて、ボリーバル革命の推進を図った。2006年、親米的なコロンビアとペルーがアメリカと自由貿易協定(FTA)を結んだことに反発して、アンデス共同体から脱退する一方で、ブラジル、アルゼンチンなどが構成する南米南部共同市場(メルコスール)に加盟した。隣国コロンビアとは、左派ゲリラのコロンビア革命軍(FARC:Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)掃討中にコロンビア軍がエクアドル(左派コレア政権)の国境を侵犯したとして、一時緊張が高まった(2008)。アメリカ主導の米州自由貿易圏(FTAA)構想に対抗して、2004年に「米州ボリーバル主義代替構想」(2009年に米州ボリーバル主義同盟に改称、ともに略称ALBA)をキューバ、ボリビアとともに提唱し、ニカラグア、エクアドル、カリブ海諸国が加盟している。これは医療・教育協力や資源補完を通じて域内の経済・政治統合を目ざす構想で、ブラジル、アルゼンチンなどともエネルギーの相互供給を計画中である。

 アメリカ政府の2002年クーデター関与疑惑後、チャベスは国連でアメリカ大統領ブッシュを悪魔呼ばわりし、アメリカはチャベス政権のFARC支援を懸念した。2008年にはボリビアのモラレス政権に同調してアメリカ大使を国外退去とした。一方、アメリカもベネズエラ大使を国外退去とするなど両国は相互に大使の国外退去を求めたが、アメリカのオバマ政権に関係改善を期待して、2009年に大使の相互再派遣が実現した。伝統的にベネズエラ石油の最大の顧客はアメリカであるが(総輸出量の約50%)、減少傾向にある。

 石油の新たな輸出先としてベネズエラが注目したのが中国である。2001年、オリノコ超重質油(オリノコタール)を中国に供給する協定が締結され、国営ベネズエラ石油と中国石油は2008年、初の合弁製油所を広東(カントン)省に建設することに合意した。ロシアとの関係も親密で、両国首脳の相互訪問が行われ、ロシアはベネズエラの石油探査や原子力発電所建設の支援を約束している。

 チャベスは第三世界の連帯をはかる外交を展開し、2000年に石油輸出国機構(OPEC)議長国元首としてイラクを訪問、石油価格の安定を協議した。2002年には発展途上国77か国グループ(G77)の議長国として、新自由主義経済に対抗する途上国の連携を呼びかけ、2004年の発展途上国15か国グループ(G15)のカラカス会議でも、同様の提案を行った。

[乗 浩子]

経済

植民地時代に熱帯農産物の産地として知られたベネズエラは、独立後の自由貿易政策によってカカオ、コーヒー、砂糖に加えてバナナや食肉を輸出する農業国であった。1910年代に欧米資本によって石油採掘が開始され、ベネズエラは世界有数の石油輸出国となった。中東産油国へのベネズエラの積極的な働きかけによって、1960年に石油輸出国機構(OPEC)が設立される。政府の石油政策は国際石油資本に対する正当な利潤配分要求から国家管理のプロセスをたどり、生産調整を通じて価格を上げるOPECの政策に同調してきた。1936年に7%に過ぎなかったベネズエラの利益配分率は1945年に50%、1975年に72%に増え、1976年に石油を国有化した。2014年時点で、原油生産量は世界11位、輸出の約8割、歳入の4割を石油に依存している。石油の可採埋蔵量は、オリノコ川北岸の超重質油の可採埋蔵量が年々増加していることから、2014年には2983億バレルに達し、サウジアラビアをしのいで世界一である。

 社会主義革命を標榜(ひょうぼう)したチャベスは、歴代政権の石油政策が一部エリートを利するものと断じ、国民に利益を還元する資源ナショナリズムを主張した。彼は1990年代に進行した民営化の流れを逆転させて、農業、食品流通、金融などの国営企業を設け、2007年には電力、通信、オリノコ超重質油プロジェクトなど戦略的産業を国有化した。2008年にセメント産業、鉄鋼会社SIDOR(シドール)および金鉱山の国有化を発表、2009年には石油関連事業および製鉄関連企業の国有化が相次いだ。

 政治混乱やストライキにより、国内総生産(GDP)成長率は2002年にマイナスに落ちたが、石油価格の高騰により2004年以降高成長に転じた。しかし生産活動が停滞して成長率はふたたび低落し、2009、2010年はマイナス成長に陥った。また、貧困対策の拡充や非効率な経済運営により歳出が膨張し、インフレ率は27%(2009)に上昇した。2008年1月のデノミネーション(通貨呼称単位の変更)で1000ボリバル(ボリーバル)が1ボリバル・フエルテとなった。石油に過度に依存するボリーバル革命の前途は安泰ではない。貿易は2014年に輸出が795億ドルで約8割を石油が占め、輸入は工業用原材料、機械などを中心に515億ドル。主要貿易相手国は輸出入ともにアメリカと中国である。

[乗 浩子]

社会・文化

人種的には、メスティソ(白人と先住民との混血)がもっとも多く66%、白人は22%、アフリカ系は10%でいずれも海岸地帯に集中し、先住民はわずか2%でギアナ高地とマラカイボ湖西岸に居住する。公用語はスペイン語であるが、産業界、政府関係機関では英語が広く通用する。憲法では信仰の自由が保障されているが、カトリックが支配的で、プロテスタントは全人口の1割に満たない。

 教育の面では、政府は国家予算の10%以上をあてて教育の普及に努め、義務教育は6歳から10年間である。就学率が94.8%(2011)、識字率が95.5%(2009)と推定されている。カラカスにあるベネズエラ中央大学をはじめ20校の大学があるが、教育程度の格差は甚だしい。このことはベネズエラの経済的問題を反映している。豊かな石油資源に恵まれた富裕国と考えられているが、実際には貧富の差が甚だしく失業者も多い。農村から都市に大量の人口が流入し、都市のあちこちにスラムが形成されている。ちなみに都市人口は全人口の89%(2014)に上る。ベネズエラの労働政策はきわめて進歩的であり、労働者に利潤追求への参加を認め、同一労働に対して同一賃金を与えねばならず、政府は強制的に最低賃金を定めることができる。文化や風俗は、地域によって大きく異なる。文化人としては、19世紀の世界的人文学者アンドレス・ベージョや、元大統領で作家のロムロ・ガジェーゴスが著名である。スポーツではサッカーと並んで野球も盛んである。

[山本正三]

日本との関係

1938年(昭和13)に国交を樹立したが、第二次世界大戦中の1941年にベネズエラは対日断交、1945年2月に宣戦布告した。1952年(昭和27)に国交回復している。在留邦人は443人(2014年10月)、在日ベネズエラ人は380人(2012年12月)。戦前の移住者はペルーなどからの再移住者で、戦後はこれら移住者による呼び寄せが増え、近年はビジネス関係が多い。

 両国の経済交流は活発で、日本からの直接投資は2005~2009年の累計で235億円(2004年までの累計は7億7000万ドル)に達する。1975年に日本・ベネズエラ経済協力懇談会(JAVEC)が結成され、資金・技術協力が行われてきた。オリノコタール軽質化プロジェクトなどがその例であり、2010年にはオリノコ重質油帯の一部の開発に日米の企業連合が参加した。また2009年、国営ベネズエラ石油は196億ドル規模の液化天然ガス(LNG)事業の共同実施を、三菱商事などを含む日米欧企業と合意した。2013年の対日輸出はアルミ地金、鉄鉱石、カカオ豆で492億円、輸入は自動車を含む機械機器などで660億円である。

[乗 浩子]

『P.E.ジェームズ著、山本正三・菅野峰明訳『ラテンアメリカ2』(1979・二宮書店)』『中川文雄・松下洋・遅野井茂雄著『ラテンアメリカ現代史Ⅱ』(1985・山川出版社)』『ギリェルモ・モロン・モンテロ著『ベネズエラ史概説』(1993・ラテンアメリカ協会)』『田辺裕監修『世界の地理5――南アメリカ』(1997・朝倉書店)』『遅野井茂雄・宇佐見耕一編『21世紀ラテンアメリカの左派政権:虚像と実像』(2008・アジア経済研究所)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ベネズエラ」の意味・わかりやすい解説

ベネズエラ
Venezuela

基本情報
正式名称=ベネズエラ・ボリバル共和国República Bolivariana de Venezuela 
面積=91万2050km2 
人口(2010)=2883万人 
首都=カラカスCaracas(日本との時差=-13時間) 
主要言語=スペイン語 
通貨=ボリーバルBolívar

南アメリカ大陸最北端にある共和国。北はカリブ海に面し,東はガイアナ,南はブラジル,西はコロンビアに接している。面積は日本の約2.4倍。スペインの征服者たちが先住民のマラカイボ湖での湖上生活風景を見て,小ベネチアと命名したのが国名の由来である。スペイン語では〈ベネスエラ〉と発音する。1999年12月,国名をベネズエラ共和国からベネズエラ・ボリバル共和国と変更した。

地理的には,ベネズエラ高地,マラカイボ低地,リャノ,ギアナ高地の4地域に区分される。

(1)ベネズエラ高地はアンデス山脈の北端を形成する一支脈で,さらに四つの地域に細分される。(a)中央高地 最も稠密(ちゆうみつ)な農業人口を有し,首都カラカスをはじめ大規模な都市がある。海岸から直ちに標高1000~2000mになる高地部は,温暖多雨で農業に適し,カカオ,コーヒー,綿花,豆類,サトウキビが栽培されている。また工業の中心地域でもあり,繊維,皮革,機械,セメントなどの産業がある。(b)北東部高地 中央高地の東方にあり,東部は標高2000mに達しカカオが栽培され,比較的乾燥した西部では,牧畜,タバコ栽培などが行われている。(c)セゴビア高地 マラカイボ湖の東側でカカオ,コーヒーなどの熱帯農産物を産する。(d)メリダ山脈地帯 コロンビア国境を越えてアンデス山脈に連なり,標高4000~5000m。夏季は多雨だが,冬季は乾燥する。山間盆地では早くから農業が行われ,多くの欧米系住民が居住する。標高1000mまでの低地部はサトウキビ,2000mまでの中間部はコーヒー,3000mまでの高地部では穀類やジャガイモが栽培され,それ以上の地域では牧畜が行われる。

(2)マラカイボ低地は高温多湿で,メリダ山脈付近でのみコーヒー,カカオが栽培されている。湖沼部では漁業が行われ,北部一帯では石油の採掘が行われている。

(3)リャノはオリノコ川の北側に広がる広大な平原で,冬季は極端に乾燥し,夏季は大洪水となるため,牛の放牧が行われるほかは,ほとんど未開発であった。最近,水力資源とオリノコ重質油地帯の開発が始まり,ギアナ高地の鉱物資源とあいまって,近い将来シウダード・グアヤナを中心に新工業地帯を形成するものと期待されている。

(4)ギアナ高地は国土の約半分を占め,台地状をなしていて,雨季と乾季の差もそれほど極端ではない。古くから金,ダイヤモンドなどを産出したが,近年豊富な鉄鉱脈が発見され,採鉱が進んでいる。

人種構成は,欧米系20%,混血70%,アフリカ系8%,先住民2%で,欧米系の比率が高いのは,1936年以来有色人種の移民の入国を禁止し,欧米人のみを受け入れたからである。混血はカリブ地域型で,メスティソ(先住民と白人の混血)よりもパルド(白人とアフリカ人との混血)が若干多い。これは元来,この地域の先住民人口が希薄であったうえに,征服早々に消滅したこと,多くのアフリカ人が労働力として輸入されたことによる。アンデス山系の山間盆地に欧米系,海岸地域や内陸部低地にアフリカ系,ギアナ高地,オリノコ川流域などに先住民が主として居住し,混血系は都市を中心に全国的に分布している。

 社会的には欧米系や一部の混血系が大土地所有者,大資本家,高級官僚として上層部を独占し,圧倒的多数の混血,アフリカ系および先住民が下層部を構成している。しかし,今日では石油産業の顕著な発展により急速に社会の階層分化が進行し,大土地所有者の地位が低下し,人種的要素が必ずしも階層決定の絶対的な基準ではなくなりつつある。第2次大戦後,とくに1960年代,各種の社会経済的改革が遂行される中で,新たな中間層(技術者,管理者,中小商工業者,公務員,教員)が都市に,中小の自営農牧業者が農村部に発生してきた。こうした変化は徐々に下層部に波及し,彼らは従来の社会構造に動揺を与え,その変革を追求するようになっている。

 大規模な労働者組織として,1947年創設のベネズエラ労働者同盟,ベネズエラ農民同盟,石油労働者同盟などがある(政党との関係については後述)。また教育については,60年代にベタンクール大統領のもとに,積極的な教育内容の改革や拡充がなされ,現在は国家予算の約20%を教育関係に充てている。5~15歳の10年間が義務教育で,1987年には成人教育の結果,非識字率が10%まで低下した。国民の大部分はカトリック教徒である。

ベネズエラは,20州,2連邦領,1連邦属領,1連邦区から成る共和国で,三権が分立しており,二院制の議会をもつ。主要な政治組織として,次のものがある。(1)民主行動党(AD) 1930年代後半に結党された国家民主党の民族主義的部分がR.ベタンクールを中心に41年に結成し,農民や金融,建築,運輸,石油などの労働者層,ホワイトカラーに支持基盤をもつ。強力な支持団体としてベネズエラ労働者同盟や農民同盟を有する。キリスト教社会党,民主共和連合とともに第2次大戦後の国政を指導する政党である。(2)キリスト教社会党(COPEI) 1930年代にカトリック系の学生組織で結成された国民行動党(AN)の流れをくむ政党で,46年R.カルデラを中心に結成された。都市の新興ブルジョアジーとカトリック教会勢力を主要支持基盤としているが,58年以降,労働者同盟系の労働組合や農民同盟の青年部の中で勢力を伸張している。62年以降,学生組織の圧倒的な部分をその支配下に置いた。とくに60年代に入り,民主行動党や民主共和連合の急進的部分を吸引している。また未組織労働者層にもその勢力を拡大している。カラカスのほかに,メリダ,タチラ,トルヒーヨに強力な基盤をもつ。(3)民主共和連合(URD) 都市の中小企業家,知識層,報道関係者などを結集して1946年に結成された。60年代前半まで上記2政党に迫る勢力を保持していたが,党内の若年層を他党に侵食され,弱小政党に転落した。(4)ベネズエラ共産党 農民,石油労働者を中心に1941年結成された。前身は1926年にメキシコで結成されたベネズエラ革命党である。46年ごろまで労働者の諸組織を支配していたが,戦後の政治過程で上記3党に支持基盤を崩され,勢力を失った。(5)社会主義運動党(MAS) 労働者や学生,知識人,農民を基盤に1971年に共産党から分裂して結成された。以上の5政党のほかに民主行動党左派が独立して結成した人民選挙運動党(MEP)や革命左派運動(MIR),人民正義運動(MPJ)など多くの左翼政党がある。

 ADおよびCOPEIによる二大政党政治は,93年6月のペレス政権の崩壊により終焉した。とくに経済の自由化により現出した政治経済状況は,既成政党政治のもとでの国民大衆の政治的利害関係を完全に覆した。そこで新たな状況のもとに新たな利害関係と調整を求めて,元COPEIのカルデラは新党〈国民統一党〉を結成し,94年の大統領選で勝利し,政権の座に就いた。

 外交面では,石油を中心とする経済関係に強く規制され,アメリカに対する外交を基軸に展開されるが,OPECにおいてはC.A.ペレス大統領以来きわめて活発にその資源外交をリードしている。非同盟諸国やラテン・アメリカ諸国に対する外交も活発であり,アンデス諸国との近隣外交はとくに積極的である。また〈コンタドーラ・グループ〉の一員として,ニカラグアなど中米紛争の平和的解決に取り組んだ。最近,経済面において,エネルギー資源をカードに,カリブ海地域の諸国との関係の緊密化を進め,この地域のサブ経済圏の主導権の掌握に大いに関心を示している。また,リオ・グループの主要な一員として対米関係における自立的なラテン・アメリカ経済圏の確立にブラジル,アルゼンチンなどとともに努力している。日本との関係は,政治経済の両側面において良好である。

ベネズエラは石油が発見されるまでは農業国であった。植民地時代から,大土地所有制のもとにココア,砂糖,コーヒー,綿花,皮革などの輸出用産物がベネズエラ高地の各地で生産されていた。独立(1830)後の自由主義経済のもとでも,熱帯性農産物は主要な輸出品として位置づけられ,その生産増進のために耕地の大規模な開発が行われた。その過程で公有地,先住民共有地,中小農地は大土地所有者や大資本家の手に渡った。19世紀末から20世紀前半にかけては,アメリカ合衆国市場が拡大したため,ココア,コーヒー,砂糖の生産が増大し,外国資本が流通部門のみならず生産部門にも進出して,新しくバナナ産業が興った。一方,牧畜業は,16世紀半ばにはリャノで牛の放牧が始まり,19世紀末には牛の保有数は1200万頭を数えるほどの重要産業であった。

 ところが,1910年代に欧米系の国際石油資本の手によってマラカイボ湖畔の石油資源が開発されるようになると,ベネズエラの経済構造は一変した。新しい石油産業は農牧業の衰退をもたらす一方で,国家財政を豊かにした。また商業が発達し,農村人口の都市への集中が始まった(人口の84%が都市人口。1989)。1987年の同国労働人口の内訳は農業13.6%,石油などの鉱業1.0%,製造業17.0%,商業19.1%,サービス業26.0%などである。しかし,農業は同年の国内総生産の5.9%を占めるにすぎず,石油は8.8%であった。

 しかし,石油の価格は国際市場の動向に左右されるため,収入も大きく変動する。そのため極端な外部依存の経済構造を是正する必要が叫ばれてきた。自立的な国民経済を創出する試みは,1945年に民主行動党政権が初めて実行した。農地改革によって農牧業を再興し,消費財生産工業を興し,経済の多様化を図ろうとするものであったが,保守派の反対でこの試みは失敗し,60年代にようやくある程度の成果をあげることができた。60年代の経済政策は,まず国家が積極的に産業経済部門に介入して外資を規制し,総合的経済開発計画に即した外資利用を企図するものであった。農業部門においては,1960年の農地改革法によって,土地を分配し,灌漑施設の拡充,農業銀行や農業公社の創設などの近代化を促進し,牧畜産業部門にあっては,防疫体制の確立,冷凍・屠殺施設の整備,融資制度の確立などの政策をとった。工業部門においては勧業公社,グアヤナ公団,石油化学公団などを創設する一方,工業銀行を設立して工業生産の増進と多角化を図った。1948年には工業生産全体の50%を食品,繊維などの伝統的部門が占めていたが,これらの部門は70年には金属,肥料,木材などの部門の発展によって10%弱を占めるのみとなった。

 70年代も,これら国家的諸政策が継承され,鉄鉱,天然ガスが新たに国有化された。開発資金を捻出するため,貿易公社を創設して貿易を拡大・促進する一方,関税制度を改革し,税収入の増加措置をとった。76年8月には石油国有化法が公布され,石油産業のほぼ完全な国家管理と運営が行われるようになった。鉄鉱・水力資源・石炭などの開発,輸送および電気通信網の整備拡張,石油化学・アルミニウム・金属機械などの工業の振興などを中核とする第5次全国開発政策が推進され,経済の〈民族化〉・民主化政策が進展している。

 しかし,依然として克服すべき重大な問題点も残されている。それは国家財政がなお大きく石油産業に依存していること,多額の対外債務(89年末で341億ドル)を抱えていること,国民生活に密着した各種生産財,あるいは消費財生産部門,とくに工業生産部門が外国企業に掌握されていること,また農業部門においては,農業生産の80%を占める大土地所有者が国民の消費生活を無視した投機的生産を行っていることなどである。したがって,政府の積極的な自立化政策にもかかわらず,物価上昇が続いており,1980-87年の消費者物価上昇率は年平均11.4%,89年は約80%を記録した。89年からのペレス政権は国家経済再建のため,従来の経済政策を転換して一気に自由化政策を採り,インフレ抑制,債務問題の解消,国際収支の改善などを図ろうとした。その結果,債務は減少したものの,物価の上昇,公共料金の引上げなどで国民生活に打撃を与えるとともに国内産業,とくに輸入代替産業が自由化により大打撃を受け,失業者が増大した。カルデラ政権になっても,多少自由化政策は修正されたものの,IMF主導の自由化政策は変わらず,国内の深刻な経済状況には変化はない。

ベネズエラは18世紀初めに創設されたヌエバ・グラナダ副王領(現在のコロンビア,エクアドル,パナマにわたるスペインの植民地)に属していたが,18世紀後半にはカルロス3世の改革でベネスエラ総監領となり,熱帯性農産物の輸出によって繁栄する新興の経済発展地であった。貿易の完全自由化を求めるカラカスのクリオーリョ(新大陸生れのスペイン人)たちの中に,ヨーロッパの啓蒙思想の影響を受けた革命家が現れた。南アメリカ最初の独立運動が1806年F.deミランダによって起こされたが,失敗に終わった。08年にナポレオンによってスペイン本国のブルボン王朝は消滅し,ミランダやS.ボリーバルに指導されたカラカス市民は,11年7月5日独立を宣言し,アメリカ合衆国憲法の影響を強く受けた憲法を制定した。しかし,市民権を拒否された黒人やパルドたちの反乱を王党派が利用し,さらに12年の大地震による動揺のため,最初のベネズエラ共和国は崩壊してしまった。17年,ボリーバルはリャネロス(リャノ)を味方につけて,アンゴストゥーラ(現在のシウダード・ボリーバル)を奪取し,独立ベネズエラの主都とした。19年12月同地でボリーバルの提唱するグラン・コロンビア共和国が成立し,ベネズエラはその一部を形成した。しかし,ベネズエラの大半はまだ王党派の手中にあり,21年のカラボボの戦でようやく独立派の勝利が決定的となった。10年に及ぶ独立戦争のため,ベネズエラは人口の4分の1を失い,国土は荒廃した。

1830年1月ベネズエラはグラン・コロンビアから分離独立した。新憲法に基づき,カラカスが首都に定められ,J.A.パエスが初代大統領に任命された。独立戦争で活躍した将兵や,彼らに資金援助をしたカラカスの商人たちは植民地政府側の諸勢力の旧所有地の払下げを受け,さらに公有地や先住民共有地の売却は彼らに土地集中の好機を与えた。彼らは輸出用農畜産物の生産に専念し,経済権力を伸ばした。また,独立戦争は欧米列強からの多額の借款のもとに遂行されたため,列強に対して多くの経済特権が付与され,実質的には国家財政の支配も許すことになった。

 独立後のコーヒー・ブームによって,カラカスの商業資本家は軍事力を握るパエスと結合して保守党寡頭政治と呼ばれる中央集権政治を行い,国家経済は急速に回復した。しかし,コーヒー価格の下落をきっかけに,政府に対する反対勢力が生まれ,大土地所有者を中心に1840年,自由党が結成された。パエスの権力はしだいに弱まり,保守党と自由党の対立が激化した。ついに58年連邦戦争が開始された。自由党は連邦制を主張し,保守党は中央集権を掲げて5年間戦いが続いた。63年連邦主義者が勝利し,ファルコンJuanC.Falcón(1820-70)が大統領に就任した。しかし経済政策の失敗で敗退し,70年グスマン・ブランコAntonio Guzmán Blanco(1829-99)が登場した。88年まで続く彼の時代には,再びカラカスの商業ブルジョアジーと結合した中央集権化と,外資の浸透が強まった。経済的には回復したものの,国民大衆の生活はまったく改善されなかった。この過程をさらに徹底して推進したのは,1908年に大統領になったJ.V.ゴメスであった。彼の在任中に石油採掘が開始されたが,外資は石油などの一部産業を発展させたのみで,全般的な産業発展へと連動せず,国内経済の跛行的発展を促しただけであった。彼は石油によって潤った国庫収入をもって道路,通信を整備し,秘密警察を創設し,反対勢力を圧殺しつつ,35年まで政権を維持し続けた。石油産業の発展は一部支配者層の富裕化と新たな社会階層(石油労働者,技術者,その他の専門職)および高度に訓練された軍部を創出した。

1945年10月,労働者,農民大衆の不満と反感を体した青年将校集団と民主行動党(AD)とによるクーデタで,部分的ではあるが国民大衆の国政参加の道が建国以来初めて開かれ,47年新憲法によってADのR.ガリエゴス政権が発足した。新政権は農地改革法を公布し,各種公団を設立して産業の育成と発展を図り,国民経済の確立を志向する一方,社会の諸制度の民主的改革を推進して民主国家建設を企図した。しかし,特権の喪失を恐れる保守勢力とアメリカ合衆国と意を通じる軍部が48年にクーデタを起こし,ガリエゴス政権は倒れた。その後,52年に誕生したヒメネスMarcos Pérez Jiménez(1914- )の政権下で,再び政治的・経済的側面の対米従属が始まった。各種産業部門へのアメリカ資本の大量流入が相次いだ。外資は物価を高騰させ,インフレを招来し,国民大衆の経済生活を圧迫するとともに国内産業を停滞させ,失業者と社会不安を増大させた。年2.5~3%の割合で増加する人口が社会経済状況の悪化に拍車をかけた。

 58年1月,進歩的将校と民主的諸政党から成る愛国委員会がヒメネス政権を打倒した。59年2月,AD党首R.ベタンクールが大統領に就任し(1964年まで在任),農地改革,農民用住宅の建設,石油の国有化,教育改革,オリノコ地域開発などに着手した。しかし外資に大きく依存する経済開発は一方では物価の高騰を招来し,農民や労働者大衆の生活を圧迫した。AD政権は,この緊迫した政治経済情勢を労働組合運動の弾圧や左翼政党の非合法化などで打開しようとした。そのため全国各地で反政府運動が起こる一方,与党内部でも分裂が生じた。

後継のレオニRaúl Leoni(1906-72)の政権は,主要問題を解決しないまま,69年キリスト教社会党(COPEI)のカルデラRafael Caldera(1916- )に政権を委譲した。選挙による平和裏の政権交代は国政上初めてのことであった。カルデラ政権は農業および鉱業面で,国家介入を強めるなど若干の進歩的政策をとったが,国民経済の育成発展および民生の安定を図る政策は不十分であった。72年彼の消極的政策に対して,人民選挙運動党,共産党,無党派の進歩的な人々が人民戦線を結成し,反政府運動に立ち上がった。

 74年こうした不満分子を取り込んだADのペレスCarlos Andrés Pérez(1922- )の政権が生まれた。前年末に全世界を襲った石油危機によって,ベネズエラは世界有数の産油国として,ラテン・アメリカ随一の豊かな国となった。同政権は特別組織法を公布し,賃金の25%引上げ,物価の統制などの政策をとる一方,石油・鉱物の国有化を推進し,76年には農工業開発五ヵ年計画を発表した。79年に発足したCOPEIのカンピンスLuis Herrera Campins(1925- )政権は前政権の開発計画を若干修正した第6次全国開発政策を策定し,教育の拡充,住宅建設,道路の整備拡張など,国民生活に密着した経済産業部門の開発,発展に努めた。84年に登場したADのルシンチJaime Lusinchi(1924- )政権も,経済拡大と民生安定の政策を打ち出したが,国内産業のほとんど全部門の経済権を掌握する多国籍企業は,政府に価格統制の撤廃や外資優遇政策を要求した。
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百科事典マイペディア 「ベネズエラ」の意味・わかりやすい解説

ベネズエラ

◎正式名称−ベネズエラ・ボリバル共和国Bolivarian Republic of Venezuela(1999年12月ベネズエラ共和国が改称)。◎面積−91万6445km2。◎人口−2723万人(2011)。◎首都−カラカスCaracas(194万人,2011)。◎住民−混血(メスティソ,パルド)70%,白人20%,黒人8%,インディオ2%など。◎宗教−大部分がカトリック。◎言語−スペイン語(公用語)が大部分。◎通貨−ボリーバル。◎元首−大統領,ニコラス・マドゥロ・モロスNicolas Maduro Moros(2013年4月就任,任期6年)。◎憲法−2000年1月施行。◎国会−一院制(167議席,任期5年)。最近の選挙は2010年9月。◎GDP−3138億ドル(2008)。◎1人当りGDP−6070ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−7.2%(2003)。◎平均寿命−男71.7歳,女77.7歳(2013)。◎乳児死亡率−16‰(2010)。◎識字率−95%(2007)。    *    *南米北端の共和国。南東部にギアナ高地が広がり,北部および西部はオリノコ川流域の低地。南西端からアンデス山脈の支脈メリダ山脈が北東に走ってマラカイボ低地(マラカイボ湖)をいだき,カリブ海岸を東西に走る海岸山脈に続く。熱帯にあるが北部の高地は住みやすい。世界有数の石油産出国であり,輸出の大部分を石油が占める。鉄,ボーキサイト,金などの産もある。オリノコ川流域などで小麦,トウモロコシ,バナナ,サトウキビなどを産し,牧牛も盛ん。森林が国土の20%以上を占める。 1498年コロンブスが来航,のちスペイン植民地となった。1811年独立を宣言したがスペイン軍に破れ,1819年ボリーバルの指導下に現在のコロンビア,エクアドル,パナマとともにグラン・コロンビア(コロンビア共和国)として独立した。1830年分離しベネズエラ共和国となった。独立後クーデタが何度も繰り返され,軍人が政権を独占した。1958年ペレス・ヒメネスの独裁政権が打倒されて後,立憲制が確立し,ベタンクールらの民主行動党とキリスト教社会党という穏健二大政党の大統領が交互に就任した。1975年以来鉱山,石油産業を国有化,原油価格の高騰で経済力が強化され,対米自立,第三世界重視の外交を打ち出した。しかし1980年代に入って石油不況の大波に見舞われ,また現行の生産水準を保てば西暦2000年ころには国内の石油が枯渇するとされたため,産業多角化による脱石油政策を進めている。1993年ペレス大統領が公金横領疑惑で失職したあとをうけた大統領選では,二大政党への不信から17の小政党連合のカルデラ候補が当選した。1998年大統領選でチャベスが当選し,1999年12月国名をベネズエラ共和国から現名に変更。反米を掲げた急進的民族主義のチャベス政権は,貧困層を中心に大きな支持基盤を持ち,2006年7月には南米南部共同市場(メルコスール)に加盟した。2006年12月の大統領選では,チャベスが圧倒的な支持を受けて再選。さらに2009年には,大統領を含む公職者の再選制限(大統領は無制限再選)を撤廃する憲法の修正案を国民投票で問い,勝利した。2010年9月の選挙でチャベス政権は,改選前の議席を大幅に減らし,2011年6月には自身の癌を告白したが,2012年10月の大統領選で再び勝利し4選を果たした。同年12月チャベスは癌の再発を公表,キューバで癌治療に専念していたが,2013年2月帰国,3月5日に逝去した。2013年4月の大統領選では,チャベスに後継指名されていたマドゥロと,野党統一候補のカプリレス(ミランダ州知事)が争ったが,接戦の末,僅差でマドゥロが勝利した。マドゥロはチャベスの政策を基本的に引き継ぐと宣言している。2014年2月,深刻な治安状況や,高いインフレ率など経済状況への不満が高まり,与野党間の対立が先鋭化,両勢力による集会,大規模デモ,衝突が頻繁に起こり,多数の死者が出た。
→関連項目コロ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベネズエラ」の意味・わかりやすい解説

ベネズエラ
Venezuela

正式名称 ベネズエラ・ボリバル共和国 República Bolivariana de Venezuela。
面積 91万6445km2
人口 3298万7000(2021推計)。
首都 カラカス

南アメリカ最北部にある国。北はカリブ海大西洋に面し,東はガイアナ,南東はブラジル,南西と西はコロンビアと国境を接する。地形は,北西部から北部へかけて連なるアンデス山脈に属する山地(メリダ山脈,海岸山脈),中部のオリノコ川左岸一帯に広がる熱帯草原(→リャノス),南東部のオリノコ川右岸を占める高原地帯(→ギアナ高地)に大別される。大部分はオリノコ川流域に属し,大西洋岸の河口には広大な三角州が発達。熱帯気候で気温の年較差はほとんどないが,雨季(5~10,11月)と乾季(11月~3,4月)の別がある。降水量は地域差が大きく,概して沿岸部は乾燥,南部などには熱帯雨林が繁茂。過去 4世紀にわたり白人,黒人,ラテンアメリカインディアン(インディオ)などの人種的融合が進み,今日の住民の 60%以上はそれらの混血のメスティーソが占める。白人は約 20%で,純粋なインディオはきわめて少ない。公用語はスペイン語。国教は定められていないが,大多数はキリスト教のカトリック。人口は気候に比較的恵まれた山脈地帯に集中,ここに首都をはじめバレンシアバルキシメトマラカイなどの大都市がある。ギアナ高地は大部分未開発で,人口密度も 1km2あたり 2人以下。20世紀までは後進的な農業国であったが,1917年北西部マラカイボ湖周辺の油田地帯の開発が始まってから急速に発展し,国民経済が大きく変貌。1976年石油産業を国営化し,世界有数の産油国となった。農業はサトウキビ,トウモロコシ,米,バナナやパイナップルなどの果物,コーヒー,カカオなどが栽培され,リャノスでは牧牛,酪農が行なわれる。主要油田はマラカイボ湖周辺のほか,オリノコ川下流部北岸とメリダ山脈南東麓のリャノスにあり,パラグアナ半島プエルトラクルスなどに大規模な製油所が立地。原油および石油製品が輸出の 90%近くを占める。石油に次いでボーキサイトが重要な資源で,その他天然ガス,鉄,金,ダイヤモンド,銅,鉛,亜鉛,石炭,マンガン,ニッケルなど多種の鉱産物がある。石油依存の経済から脱却するべく,政府は工業化を強力に推進中で,首都地域に集中する工業の地方分散化もはかられ,マラカイボに石油精製工場,カラカスの西約 150kmのモロンに大規模な石油化学工場,オリノコ川下流部南岸の計画都市シウダードグアヤナに製鉄所,アルミニウム精錬所などが建設された。鉄道はあまり重要性をもたず,道路が主要交通路で,北部,北西部を中心に発達。道路のない内陸部では河川が重要な交通路をなす。近年空運も発達してきている。(→ベネズエラ史

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旺文社世界史事典 三訂版 「ベネズエラ」の解説

ベネズエラ
Venezuela

南アメリカ大陸北部に位置し,カリブ海に面する共和国。首都カラカス
国名は“小ヴェニス”を意味。1498年コロンブスが第3次航海で到達,翌年スペイン領となる。1811年,同地出身のシモン=ボリバルらの指導で独立を宣言したが失敗。1813年共和国を樹立するが,再び失敗。1819年コロンビア・エクアドルとともに大コロンビア共和国として独立。1830年分離・独立したが,その後,20世紀前半まで軍事独裁支配に終始した。この間,20世紀初め,外債支払い拒否宣言から,イギリス・ドイツ・イタリア諸国による海岸封鎖(ベネズエラ干渉)を受けたが,アメリカ合衆国の介入でこれを乗り切ったのちは,対米従属が強まった。1945年クーデタで改革政権が樹立されたが,48年から軍事独裁支配が復活,58年以降は2大政党制による政治が続いている。また,石油輸出国機構(OPEC)には1960年の結成時から加盟,石油産業は76年から国有化された。しかし,石油価格の低迷で,1980年以来景気が後退し,89年には国際通貨基金(IMF)の指導を受け入れ,緊縮財政を導入した。1993年ペレス大統領に公金流用疑惑が発生し,同年12月の大統領選で国民連合のカルデラが当選し,2大政党制が崩壊。1994年には前大統領の汚職による混乱,銀行倒産続発などによる金融危機とインフレから,社会不安が高まった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベネズエラ」の解説

ベネズエラ
Venezuela

現地音ではベネスエラ。南アメリカ最北部の共和国。スペイン植民地時代サントドミンゴアウディエンシア統治下にあったが,1717年ヌエバ・グラナダ副王領に編入され,42年ベネズエラ総督領となった。カカオその他の熱帯性農産物の生産が経済を支えたが,中南米の独立に際しては,ボリーバルの指導のもとに最も早く反応して,1819年12月大コロンビアとして独立し,のち30年9月にそこから分離してベネズエラ共和国になった。独立後コーヒー・ブームがあり,20世紀からは,マラカイボの石油採掘によって潤った国庫収入で,ゴメスの独裁時代(1908~35年)に公共投資が進んだが,社会的不平等はかえって増大した。石油の価格がたえず国の経済を左右し,第二次世界大戦後の政治は安定していない。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

知恵蔵 「ベネズエラ」の解説

ベネズエラ(2018)

「ベネズエラ問題(2018)」のページをご覧ください。

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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