出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山形県中央部、東村山郡の町。1954年(昭和29)長崎町と豊田(とよだ)村が合併して成立。山形盆地の中西部に位置し、町域の東半部は最上(もがみ)川とその支流須(す)川に挟まれた肥沃(ひよく)な水田地帯、西半部は白鷹(しらたか)丘陵の山間地で、稲作を中心に、リンゴ、スモモなどの果樹栽培や畜産の複合経営の農業地域。JR左沢(あてらざわ)線と国道112号が町の中央部、国道458号が西側を縦貫する。鎌倉時代、承久(じょうきゅう)の乱(1221)で敗れた大江親広(おおえのちかひろ)に従ってこの地に落ち延びた中山忠義が一帯の開発を行い、以後中山一族が長崎楯(たて)と城下の整備を進めたが、1622年(元和8)の最上氏改易後は大部分が幕府領の時代が長かった。中心地長崎は最上川舟運の村山地方屈指の河岸として発達。近年は隣接する山形市のベッドタウン的性格が濃い。中山公園には、県営野球場がある。面積31.15平方キロメートル、人口1万0746(2020)。
[中川 重]
『『中山町史 資料編』全7冊(1970~1984・中山町)』▽『『中山町史』全5冊(1985~2005・中山町)』
中国、広東(カントン)省南部の地級市。珠江(しゅこう)デルタの南端に近く、経済特区の珠海(しゅかい)市に隣接する。人口142万3000(2010)。中山出身の在外華僑(かきょう)は約80万人を数える。孫文(そんぶん)(孫中山)の出生地であるところから、その名を市名としている。市内には孫文の旧居、紀念館、紀念中学などがある。珠海とともに観光開発が進み、温泉、レジャーセンター、ゴルフ場などがある。農業生産も盛んで、パイナップル、レイシ、リュウガンなど熱帯果物の産出で知られ、郷鎮企業(1980年代の改革開放路線に基づいて町や村が経営する企業)の発展により、製糖、電子、家電、食品などの工業も発展している。とりわけ、電子商取引企業の成長が著しい。
[青木千枝子・河野通博・編集部 2017年1月19日]
鳥取県北西部、西伯郡(さいはくぐん)にあった旧町名(中山町(ちょう))。現在は大山町(だいせんちょう)の東部を占める地区。大山の北麓(ほくろく)に位置し、日本海に面する。旧中山町は1957年(昭和32)中山、逢坂(おうさか)の2村が合併して町制施行。2005年(平成17)3月大山町、名和町(なわちょう)と合併。旧町域の海岸部をJR山陰本線、国道9号が通じる。下市(しもいち)は伯耆(ほうき)街道の旧宿場。米作、二十世紀ナシ、ブロッコリー、ネギ栽培、牧畜のほか、ウニやサザエ、ナマコ採取を行う。沿海礫浜帯にはアジサイ自生群落地や、国の天然記念物ハマナス自生南限地帯がある。古来狐憑(きつねつ)きを落とす祈願寺退休(たいきゅう)寺や、幸(さい)の神として男性神を祀(まつ)る木根(きのね)神社がある。米子(よなご)、倉吉(くらよし)両市の商圏や方言圏の漸移地帯。
[岩永 實]
『『中山町史』(1967・中山町)』
千葉県北西部、市川市の一地区。旧中山町。日蓮(にちれん)宗五大本山の一つ中山法華経寺(ほけきょうじ)の門前町として発展した。1253年(建長5)下総(しもうさ)八幡荘(やわたのしょう)若宮の豪族富木常忍(ときじょうにん)(胤継(たねつぐ))が迫害された日蓮を迎えて法華堂を建てたことに始まり、1331年(元弘1)中山の豪族太田氏の創建した本妙寺へ移築、合体して法華経寺となった。国宝の日蓮真筆の『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』や『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』が保存され、五重塔、法華堂をはじめ国指定重要文化財が多い。寺内遠寿院における修行僧の100日間の荒行は有名。近世には市場町の機能も加え、現在は住宅地が広がり、商店街も充実している。
[山村順次]
愛媛県中西部、伊予郡にあった旧町名(中山町(ちょう))。現在は伊予市の南東部を占める地域。旧中山町は、1925年(大正14)町制施行。1955年(昭和30)佐礼谷(されだに)村と合併。2005年(平成17)双海(ふたみ)町とともに伊予市に合併。JR予讃(よさん)線の伊予中山駅がある。南流する中山川沿いに国道56号(大洲(おおず)街道)が通じる。農林業が盛んで、クリの生産は県内有数、葉タバコやミカン栽培も行われる。中心集落の中山は大洲街道の継場として発展し、出淵(いずぶち)は大洲藩の在町であった。犬寄峠(いぬよせとうげ)は大洲街道の難所であったが、トンネル開通などの改修が行われ、県南部との重要な交通路となっている。
[横山昭市]
『『中山町誌』(1996・中山町)』
山形県中央部,山形盆地西部に位置する東村山郡の町。人口1万2015(2010)。東部は最上川と支流の須川にはさまれた平たん地で肥沃な水田地帯が広がり,西部は出羽山地南端の白鷹丘陵に属する山地で,リンゴ,オウトウの果樹園と山林が広がる。中心集落の長崎は,中世には中山氏が城を構え,近世には最上川水運の拠点となり,馬市なども立つ市場町としてにぎわった。米作を中心とする農業地域で,かつては反別収量日本一になったこともあるが,1970年に山形広域都市計画地域に指定されてからは,山形市のベッドタウンとしての色彩が強まり,人口も増加している。73年以降,南隣の山辺町とともに中国式じゅうたんを製造している。JR左沢(あてらざわ)線と国道112号線が南北に縦貫する。
執筆者:松原 宏
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…按司は〈ぐすく(城)〉と称する城塞を築造して抗争し,12世紀末から13世紀には舜天,英祖などの強大な按司が出現し,14世紀に入ると沖縄本島を中心に〈三山(さんざん)〉と呼ばれる小国家が出現した。北部には今帰仁(なきじん)城を拠点とする〈山北(さんほく)(北山)〉が,中部には浦添(うらそえ)城(のちに首里(しゆり)城)を拠点とする〈中山(ちゆうざん)〉が,南部には島尻大里(しまじりおおざと)城(一時は島添(しまそえ)大里城)を拠点とする〈山南(さんなん)(南山)〉が割拠して互いに覇を競った。 1372年中山王察度(さつと)は中国に誕生した明朝の太祖洪武帝の招諭を受け入れて初めて入貢し,その冊封(さくほう)体制の一員となった。…
…子持山,小野子山の北にあり,中央部を吾妻川の支流名久田川が西流する。中心集落の中山は江戸時代,三国街道の宿場町であった。県内の葉タバコ栽培の中心地であったが,1950年以降生産は減少した。…
…人口44万0555(1995)。1934年市川,八幡,中山の3町と国分村が合体して市制を施行し,その後行徳町など周辺の町村を編入した。市域は両総台地の西端から江戸川の三角州にまたがり,江戸川をはさんで東京都江戸川区に接する。…
…例えば〈黒山(くろやま)〉は,古代以来の一種のタブー視された,原始樹海の生い茂った山であり,境界の山であったが,中世になると,そのような山にも開発の斧が入れられた。また〈中山(なかやま)〉というのは峠の地名であり,国境あるいは荘,郷,保,村の境として現れる。交通上の境となっていたのである(坂)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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