1936年2月26日、天皇親政による国家改造を目指す皇道派の陸軍青年将校らが約1400人の兵を率いて首相官邸、警視庁などを襲撃。内大臣、蔵相らを殺害し東京中心部を占拠したが、29日に鎮圧された。首謀者19人が死刑。「妻たちの二・二六事件」は72年刊行。
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陸軍皇道派青年将校によるクーデター事件。1936年(昭和11)2月26日早暁、歩兵第一・第三連隊、近衛(このえ)歩兵第三連隊など約1500人の在京部隊が、首相・蔵相官邸、警視庁はじめ、政府首脳や重臣の官・私邸、朝日新聞社などを襲撃した。指揮にあたったのは栗原安秀(くりはらやすひで)中尉、安藤輝三(てるぞう)大尉、野中四郎大尉、免官となっていた村中孝次(こうじ)、磯部浅一(いそべあさいち)ら皇道派青年将校であった。このとき岡田啓介(けいすけ)首相と誤認された義弟で秘書であった松尾伝蔵海軍大佐が射殺されたのをはじめ、高橋是清(これきよ)蔵相、斎藤実(まこと)内大臣、渡辺錠太郎(じょうたろう)教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。また神奈川県湯河原滞在中の前内大臣牧野伸顕(まきののぶあき)も襲われたが、危うく難を逃れた。
[粟屋憲太郎]
決起部隊には、青年将校の「昭和維新」の思想に共鳴する下士官もいたが、兵士の多くは初年兵で、「上官の命令」で事件に動員された。事件の原因には、前年以来、深刻さを増していた皇道派と統制派の陸軍内抗争があった。両派の対立は1934年11月の士官学校事件、1935年7月の林銑十郎(せんじゅうろう)陸相による皇道派の真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭、同年8月、その更迭の推進者と目された永田鉄山(てつざん)軍務局長が相沢三郎中佐に白昼斬殺(ざんさつ)された相沢事件など、エスカレートの一途をたどっていた。そこに皇道派青年将校の牙城(がじょう)である第一師団の満州派遣が決定されたため、青年将校たちは武力蜂起(ほうき)を早めたのである。蜂起部隊は首相官邸はじめ陸軍省、警視庁などを占拠し、川島義之(よしゆき)陸相に「蹶起(けっき)趣意書」を突きつけ、国家改造の断行を要求した。しかしその内容は、三月事件(1931)に関与した陸軍首脳の検束と統制派将校の追放、真崎大将の推戴(すいたい)、荒木貞夫(さだお)大将の関東軍司令官就任というまったく派閥的なものであった。「股肱(ここう)の重臣」を殺傷された天皇は激怒し、当初から蜂起部隊の鎮圧を求め、3人の大将(斎藤、鈴木、誤認の岡田)を殺傷されたと聞いた海軍は自ら鎮圧の態勢を整えた。しかし蜂起部隊に同情的な陸軍首脳の工作で事態の処理は混乱した。27日、枢密院の審査を経て戒厳令が公布されたが、戒厳司令官には皇道派系の香椎浩平(かしいこうへい)が任命され、反乱部隊も「麹町(こうじまち)地区警備隊」として戒厳部隊に組み入れられた。しかし戒厳令の施行を推進した参謀本部作戦課長の石原莞爾(かんじ)大佐は青年将校の蜂起を逆利用して、軍事独裁体制の樹立を図ろうとし、また陸軍省、参謀本部の幕僚層にも皇道派への反感があったため、陸軍中央もついに鎮圧の方針に踏み切った。28日、反乱鎮定の奉勅命令が香椎戒厳司令官に発せられ、蜂起部隊は占拠撤収を求められた。このとき反乱将校の方針は、帰順と抵抗の間を二転、三転し、一時は自刃の意思を表明したが、結局、抵抗の方針に決まり、「皇軍相撃」が予想される事態となった。29日、戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとった。そしてラジオ放送や飛行機からのビラ、アドバルーンなどで「今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」「抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル」などと、下士官・兵に帰順を呼びかけた。このため大部分の下士官・兵は帰順し、青年将校も野中大尉が自決したほかは、憲兵隊に検挙された。
[粟屋憲太郎]
こうして4日間の反乱は鎮圧されたが、鎮圧後、陸軍首脳は、反乱軍に一時期同調したことを闇(やみ)に葬るため、関係者の処分を急いだ。すなわち、3月4日の緊急勅令により、4月28日から一審制、非公開、弁護人なしの東京陸軍軍法会議が特設され、わずか約2か月の審理で7月5日、主謀者の青年将校ら17名に死刑が言い渡され、北一輝(いっき)、西田税(みつぎ)、真崎らの裁判の証人として1週間後に出廷する磯部、村中を除く15名が同月12日処刑された。また青年将校に大きな思想的影響力を与えた民間人の北・西田を検挙、軍法会議にかけ、事件を、北ら民間人に主導された少数の矯激な青年将校の反乱として印象づけるため、北・西田を、磯部・村中とともに翌年8月19日処刑した。青年将校に同調した真崎大将も起訴されたが、証拠不十分で無罪となった。
他方、事件後、陸軍の政治干与を批判する世論が高まり、事件で殉職した警察官に弔慰金が集中し、また戒厳令下で召集された第69特別議会では、民政党の斎藤隆夫(たかお)が軍部批判の「粛軍演説」を行い、大反響をよんだ。さらに反乱に動員された兵士が「上官の命令」によるものであったため、在郷軍人や地方指導者の間に兵役義務に対する動揺がみられた。しかし陸軍首脳は、この「粛軍」世論を逆手にとり、「粛軍」人事の名のもとに、皇道派将校などを予備役に編入し、陸軍中枢は寺内寿一(ひさいち)、梅津美治郎(よしじろう)、杉山元(はじめ)、東条英機(ひでき)らの「新統制派」で固められた。また1936年5月、予備役となった皇道派将軍の陸相就任を防ぐという名目で、軍部大臣現役武官制を復活し、軍部は内閣の生殺与奪の権を握ることになった。さらに陸軍は、部内の統制を図るには政治の姿勢を正すことが必要であるとして、事件後の広田弘毅(こうき)内閣の組閣に露骨に介入、「庶政一新」と「軍備充実」を強く要求した。陸軍中央は事件以後、クーデター路線を排して、軍中央が軍の全組織を動員して国家改造を実現する方針を推進し、帝国在郷軍人会を勅令団体として中央集権化するとともに、民間ファシズム運動も軍の統制下に置いた。また財界首脳は、以後、統制経済による総力戦体制の構築が不可避であることを認識し、部内の急進分子を抑圧した陸軍中央と積極的に結合、「軍財抱合」体制がもたらされることになった。
[粟屋憲太郎]
『松本清張著『昭和史発掘 第7~13巻』(1968~1971・文芸春秋)』▽『林茂他編『二・二六事件秘録』全4巻(1971~1972・小学館)』▽『江口圭一著『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(1982・小学館)』▽『粟屋憲太郎・小田部雄次編『資料日本現代史9 二・二六事件前後の国民動員』(1984・大月書店)』▽『伊藤隆・北博昭編『新訂二・二六事件 判決と証拠』(1995・朝日新聞社)』▽『池田俊彦編『二・二六事件裁判記録』(1998・原書房)』▽『北博昭著『二・二六事件全検証』(2003・朝日新聞社)』▽『須崎慎一著『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(2003・吉川弘文館)』▽『高橋正衛著『二・二六事件「昭和維新」の思想と行動』増補改版(中公新書)』
1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し,さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満州派遣が決定されると,現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだ。
36年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに麴町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入,さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈麴町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。天皇は重臣殺傷に激怒し,海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。
陸軍首脳部は当初反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下し,12日うち15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を屠(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。
執筆者:江口 圭一
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…編集局長,主筆,常務・専務理事をへて43年副社長となる。この間,二・二六事件の際単身,同社を襲った反乱軍と対決した話は有名。44年小磯国昭内閣の国務相兼情報局総裁,翌年東久邇稔彦内閣の国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任。…
…満州事変期には大川周明,権藤成卿らとともに国家改造をめざす運動の中心的指導者の位置を占めたが,その間,三井財閥から情報料として多額の活動資金を入手していた。二・二六事件には直接関与しなかったが,事件の黒幕とみなされて軍法会議に付され,西田とともに銃殺刑に処された。【江口 圭一】。…
…軍内部の粛正を指すが,日本の近代史においては,二・二六事件前後の時期に陸軍内部の派閥争いをめぐって問題となった。最初に粛軍を唱えたのは,1935年7月,村中孝次,磯部浅一が発表した〈粛軍に関する意見書〉であり,それは士官学校事件をでっちあげて青年将校運動を弾圧した責任を追及するとともに,1931年の三月事件,十月事件が陰ぺいされていることに軍不統制の原因があるとして,関係者の粛正を求めたものであった。…
…北が1919年(大正8)8月に上海において書きあげ謄写版で印刷して配布した〈《国家改造案原理大綱》〉が内務省により発売頒布を禁止され,23年に改造社より〈《日本改造法案大綱》〉の題名で削除と伏字だらけで刊行され,26年に西田税の手により再刊され,28年(昭和3)には同じく西田の手で削除と伏字を復活させた版が刊行された。改革された在郷軍人会を実行主体とし,天皇大権を発動してクーデタを行うというこの〈改造法案〉は,西田税を媒介にして主として陸軍青年将校の支持を得て,二・二六事件を招来したことは有名である。しかし北一輝がここで描く国家社会主義構想は,万世一系の天皇を現人神として絶対視したいわゆる超国家主義とは,大きく相違するものであった。…
…軍事侵略を先行させる形で〈上からのファシズム〉が進行したのである。軍部は二・二六事件で政治的実権をにぎると,ファシズム運動を抑え,支配層を引きずり国家総動員体制の樹立という形でファシズム体制の確立をはかった。戦争政策に批判的な運動が弾圧されたばかりでなく,軍部批判の出口となりうる機構や組織は無力化ないし解体され,国民は翼賛体制のなかに強制的に組織化されたのである。…
※「二二六事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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