天竜寺(京都市)(読み)てんりゅうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「天竜寺(京都市)」の意味・わかりやすい解説

天竜寺(京都市)
てんりゅうじ

京都市右京区嵯峨(さが)天竜寺芒ノ馬場(すすきのばば)町にある臨済(りんざい)宗天竜寺派の大本山。霊亀山(れいきざん)天竜資聖(しせい)禅寺と号する。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐(ごだいご)天皇が吉野行宮(あんぐう)で崩御するや、足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)の兄弟が夢窓疎石(むそうそせき)の勧めによって、後醍醐天皇の冥福(めいふく)を祈るために創建した寺であり、疎石を開山第1世とする。

 この地は、檀林(だんりん)皇后(嵯峨天皇の后(きさき)橘嘉智子(たちばなのかちこ))の創建で京都最初の禅学講演の寺とされる檀林寺(836年ころに完成)の故址(こし)であった。同寺は平安中期の一条(いちじょう)天皇のころには完全に廃亡してしまったが、鎌倉前期の建長(けんちょう)年間(1249~56)に後嵯峨(ごさが)上皇が新たに仙洞(せんとう)御所亀山(かめやま)殿を造営した。この離宮は、そののち亀山天皇(第90代)、後醍醐天皇(第96代)と、とびとびに大覚寺統の天皇に伝領されるに至る。ときに疎石が後醍醐天皇崩御の報を知るや、天皇の菩提(ぼだい)を弔うための禅苑(ぜんえん)創建を尊氏・直義兄弟に勧め、光厳(こうごん)上皇の勅許を得、天皇にゆかりの深い亀山殿に創建の運びとなった。疎石は天竜寺造営の資金を得るため、1341年(興国2・暦応4)直義と諮って元(げん)に貿易船を遣わしたが、これが有名な天竜寺船である。初め暦応(りゃくおう)寺と称したが、41年に光厳上皇が霊亀山天竜資聖禅寺と改称せしめた。翌42年(興国3・康永1)五山十刹(じっさつ)の座位改定に伴い、五山の第二位に列せられた。この五山の位次は、尊氏没後の1358年(正平13・延文3)の改編では第二位、さらに3代将軍義満(よしみつ)の86年(元中3・至徳3)には第一位に列せられて、鎌倉の建長寺と同格とされた。このように足利氏の外護(げご)がすこぶる厚く、足利氏滅亡とともに衰え、またしばしば兵火にかかった。江戸時代にも徳川家康は朱印寺領1720石を与えている。1864年(元治1)には幕末の動乱に巻き込まれて全山を焼亡。76年(明治9)臨済宗各派とともに独立し天竜寺派と公称し、住持を管長とした。現在の堂舎はほとんどが明治以後の造営で、門のみがわずかに江戸初期のおもかげを伝えている。なかでも勅使門はもと伏見(ふしみ)城にあったとされ、細部に桃山様式を伝えている。塔頭(たっちゅう)は境内に慈済(じさい)院・三秀(さんしゅう)院・松巌(しょうがん)寺・妙智(みょうち)院・寿寧(じゅねい)院・弘源(こうげん)寺・宝厳(ほうごん)院・永明(えいみょう)院・等観(とうかん)院、境外に臨川(りんせん)寺・金剛(こんごう)院・宝寿(ほうじゅ)院がある。寺宝には夢窓国師像3幅、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像、木造釈迦如来像など国重要文化財を多く蔵する。また、妙智院には夢窓国師像(国重要文化財)と策彦周良(さくげんしゅうりょう)の入明(にゅうみん)記録類を蔵する。寺域は嵐山(あらしやま)と相対する景勝の地で、庭園(史跡・特別名勝)は疎石のつくった創建当時のものが一部残っている。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[平井俊榮]

『奈良本辰也監修『天竜寺』(1978・東洋文化社)』『『古寺巡礼 京都4 天龍寺』(1976・淡交社)』

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