宝蔵寺(読み)ほうぞうじ

日本歴史地名大系 「宝蔵寺」の解説

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]庄原市本町 宮ノ下

丑寅うしとら神社北方にあり滝尾山密厳院と号する。真言宗御室派。本尊阿弥陀如来。「芸藩通志」に「本堂護摩堂・大師堂・観音堂・鐘楼・閻魔・鎮守社・二王門あり、仏像数躯あり、皆高僧の所作といふ、此寺もとは恵蘇郡勝高山にありしが、後此村に移といふ、開基詳ならず、寺記に曰、此寺弘法大師草創其後、崇徳帝詔して営造せしむ、今に帝尊諡の掛軸後陽成天皇の宸翰といふ等伝る是其証なりと、昔山内氏の祈願所にて寺領もありしといふ、山内氏首藤元通の書翰及び古硯を蔵す、其他古き書画多し」とある。

古くは川北かわぎた村の勝光しようこう山にあったが、大永五年(一五二五)に庄原村内の滝尾たきのお山に移ったという。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]玉川町桂 元村

松生山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音(もとは薬師如来)、別に大通智勝仏を祀る大通堂がある。かつて釈迦しやか山山上にあり、宝林寺・宝蓮寺・宝積寺・極楽寺などとともに七堂の一つであったが、のち山をおり、山上には当寺管理の宝篋印塔が残っている。花崗岩製で総高一四四センチ、鎌倉末の作で、県有形文化財

貞享二年(一六八五)の寺社明細言上書に「宝蔵寺山東西十八町、南北二十余町昔者赦免之書印在」とあり、釈迦山一帯が聖域であった。同書には数多くの小祠小堂が記されている。釈迦堂別当は、古くは当寺であったが、近年は鍋地なべじ村の宝林ほうりん寺と相持になった。

釈迦堂は「法華山旧記」によると推古天皇一四年、越智益躬創建と伝えられ、近傍から平安以前の古瓦も出土している。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]宇都宮市大通り四丁目

川に架かるみやの橋西岸にある。光明山摂取院と号し、天台宗。本尊は釈迦如来。慈覚大師円仁により天安元年(八五七)草創、中興開基は建久五年(一一九四)明達と伝える(下野国誌)。慶安元年(一六四八)徳川家光より朱印地一五石を与えられた(旧県史)。慶安郷帳では塙田はなわだ村のうちに「宝蔵院」領一四石九斗余とある。正徳元年(一七一一)には境内縦一八一間・横五三間の除地、公儀御目見惣礼(宇都宮史)。宇都宮城下寺院年頭拝礼順位(弓削正則文書)に「御詞 天台宗 小袋町 宝蔵寺 御朱印地」とある。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]三和町諸川

長宮ながみや神社の向いに所在。寺域左に薬師堂、右に鐘楼、奥に本堂がある。慈光山大善院と号し真言宗豊山派。本尊不動明王。創建は室町時代で、文明年間(一四六九―八七)に住持惟宥が中興にかかわったと伝える。慶安元年(一六四八)朱印地八石を与えられ、元文四年(一七三九)堂宇を全焼。延享三年(一七四六)に住持深秀が自ら堂宇を造ったといわれる。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]水戸市谷田

鹿島街道から南へ入り町中を通る道路西側の台地上にある。仏国山文殊院と号し、真言宗豊山派。本尊は大日如来。文明二年(一四七〇)賢禅の開基と伝える。もと山本山宝蔵院法界ほうかい寺といい細谷ほそや村にあったが、天和三年(一六八三)徳川光圀の命で谷田やだ村の三千坪の地に移り、現山院号に変え宝蔵寺と改称した。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]八百津町久田見

久田見の大東くたみのおおひがしにあり、光明山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観音。もと宝蔵庵と称し、太雅匡が開創した。大仙だいせん寺の晩英祖英による縁起略記によると、今の寺地の南東一四、五町の所に洞窟と大岩があって、ここが草創の地といい、今なお礎石が残るという。大仙寺五世以安智察の話を記録した以安和尚語録(大仙寺蔵)に「宝蔵庵開基長岳慶公首座百年後予修」とあるので、開創は永禄(一五五八―七〇)の頃と推定され、寛永一二年(一六三五)愚堂を請じて中興とした。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]東吉野村大字木津

木津こつ集落の東部にある。恵日山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。もとは真言宗であったが、荒廃したので寛文七年(一六六七)当地の大庄屋仲六兵衛が檀徒と諮って興聖こうしよう(現京都府宇治市)に請い英種を招いて開山、その末寺となった。その後、文化七年(一八一〇)秀導の尽力で当寺を改築、さらに明治二〇年(一八八七)と同四五年に改修、現在に至る。

宝蔵寺
ほうぞうじ

[現在地名]かつらぎ町柏木

高野山真言宗で、本尊は阿弥陀如来。宝暦二年(一七五二)まで慈尊じそん(現和歌山県九度山町)の末寺であった。大般若経を収める般若蔵から多数の近世・近代文書(柏木区有)とともに、応永三年(一三九六)銘の高野枡が発見された。枡は箱形で各辺に鉄板を打ちつけ、容量が現枡換算約七合弱。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報