小畑村(読み)おばたむら

日本歴史地名大系 「小畑村」の解説

小畑村
おばたむら

[現在地名]徳山市大字小畑

富田とんだ川の支流神代こうしろ川流域の村で、東北は四熊しくまヶ岳を境に四熊村、東南は富田村(現新南陽市)西は夜市やじ村、だけ(三六四メートル)を境に西南は福川ふくがわ(現新南陽市)に接する。嶽山西麓の鼻瓦はながわら(現花河原)も小畑村域に入る。萩藩領で都濃宰判所属。

元文二年(一七三七)下上しもかみ村の神上こうのうえ神社が藩に差し出した「富田神上神祠旧記一件」所収の嘉慶三年(一三八九)正月の年号のある「神上馬上免坪々注文」に「小畑里五坪六(反) 太郎丸」(徳山市史史料)とある。また文明一八年(一四八六)頃と思われる周防国国衙領散在諸郷保注文(東大寺文書)に「富田三ケ畑」の内として「小畑公田分 二十六石、同小正家 二石六斗五升八合田数廿町二反七十歩」また「鼻瓦 公田五石一斗二升、新田二石二斗七合」とある。


小畑村
おばたけむら

[現在地名]山南町小畑

北は片山かたやま村と境を接する。村の中央を西谷にしたに川が東流し、東端近くで坂尻さかじり川と合流して牧山まきやま川となる。正保郷帳小畠村とみえ、田高六七石余・畠高三三石余、林あり、日損・水損少しあり。天和二年(一六八二)までの領主の変遷は片山村に同じ。同年旗本大久保領に代わり、享保一一年(一七二六)には再び幕府領に復する(鶴牧藩大概帳)。この間国立史料館本元禄郷帳では大久保家と旗本杉浦家との入組地となっており、宛行われた時期は不明なものの前掲大概帳にも杉浦領分として高五五石余とある。


小畑村
こばたむら

[現在地名]下津町小畑

加茂かも川の支流みや川最上流に位置する。南は有田郡との郡境をなす長峰ながみね山脈で、村の東南端の郡境に白倉しらくら(四五四・八メートル)がある。村名は宮川の谷にあって段々畑のほか広い畑がないことによるという(続風土記)沓掛くつかけ村からはいノ峠を経て通ずる熊野街道が村の東南部を通り、白倉山の西側中腹をたどる。この道を横午という。街道は郡境を越える所で蕪坂かぶらざか峠を通る。

中世には浜中はまなか庄に含まれたが小畑の地名は史料中にはみえず、村内日吉ひよし神社の慶長五年(一六〇〇)の棟札に「紀州海士郡浜仲之庄畑村」とある。


小畑村
おばたむら

[現在地名]新城市小畑

中宇利なかうり村の東にあたる。山間の谷あいに耕地が広がる。八名やな郡に属した。寛永郷帳の異本には小畠村と記す。村名は、延命えんめい寺蔵の般若経の応永一三年(一四〇六)の奥書に「三河国八名郡宇利新庄内宇利郷小波田村摩地山延命寺」とみえ、小波田村と記す。また同寺蔵永禄一一年(一五六八)一二月一三日付の菅沼定盈判物に、近藤石見守康用に対し遠州攻略に参加した際の恩賞を約して「小波田村」をあげている。

近世における領有関係には不明の点が多く、寛永末年の郷帳には「宇利領」すなわち安部氏領としているが、小畑村のうち六四石余が安部氏領となったのは寛文八年(一六六八)以後との説もある(八名郡誌)


小畑村
こばたむら

[現在地名]加古川市平荘町小畑へいそうちようこばた

神木こうぎ村の西に位置し、中央部を東西に姫路へ至る道が通り、西にし川が南東流する。近世前期までは宿しゆく村と称した(元禄郷帳)。慶長国絵図に宿村とみえる。正保郷帳にも宿村とあり、田方二六三石余・畑方三四石余。「寛文朱印留」では宿村と記されるが、貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)には小畑村とみえる。元文二年(一七三七)の村明細帳(長楽寺文書)によると、承応二年(一六五三)頃より宿村を小畑村と記すようになったという。


小畑村
こばたむら

[現在地名]旭町小畑

矢作川の支流介木けんぎ川の上流に沿い、東は日下部くさかべ村、南は坪崎つぼさき村と現足助あすけ町、西は総田そうだ村・下伊熊しもいぐま村、北は槙本まきもと村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。現県道小渡―明川―足助線が西部を南北に通じる。縄文時代の遺跡が多い。早期・中期・晩期の麦入むぎいり遺跡、晩期の小畑広畑こばたひろばた遺跡・万場まんば遺跡は山麓の傾斜地、全時期にわたる上小畑かみこばた遺跡は山麓の小支丘にそれぞれ立地。平安・鎌倉時代の遺物も出土するところが多い。

小畑城跡が標高六四〇メートル、比高一八〇メートルの急峻な山頂にある。約二〇メートルを隔てて相対する二郭からなる。


小畑村
おばたむら

[現在地名]青谷町小畑

河原かわら村の南、日置ひおき谷の最奥部に位置する。漆原うるしばら水砂みずすな尾原おはら寺谷てらだに勝負谷しようぶだに小林こばやしの枝郷があり、南西方伯州河村かわむら三徳みとく(現三朝町)へ通じる道がある(因幡志)。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「小畑・河原」とみえる。拝領高は一八九石余、本免は六ツ五分。藪役銀二三匁八分八厘が課せられていた(藩史)。「因幡志」では家数八〇。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高二五五石余、竈数八八。


小畑村
おばたけむら

[現在地名]龍野市揖西町小畑いつさいちようおばたけ

尾崎おさき村の西に位置し、揖西郡に属する。集落は丘陵の南裾に帯状に形成される。安養寺貞家譜(鳥取県立博物館蔵)に小畠村とみえ、慶長一一年(一六〇六)安養寺内蔵助は池田輝政から当村の四八一石余など都合二千石を与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四八〇石余、高三九七石余。正保郷帳では田方三五八石余・畑方三八石余。元禄郷帳では高四一三石余。以後村高は幕末までほぼ変わらない。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では反別は田方二二町七反余・畑方四町六反余、本免五ツ二分・池新田三ツ九分・古新二ツ九分、山役米一斗二升余・山札茶役銀二六匁五分、家数五四。


小畑村
おばたむら

[現在地名]河原町小畑

湯谷ゆだに村の西に位置し、集落は東流する曳田ひけた川北岸の山麓にある。北は山越えによって高草たかくさ上砂見かみすなみ(現鳥取市)に通じる。拝領高一〇五石余、本免五ツ。津田氏の給地であった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一三七石余、竈数三一(うち家中住居一)。牛市が立ったとされ、藪役一匁七分・川役五升を課されていた(藩史)。安政五年には紙舟三があり、運上銀二一匁を課されていた(「八上郡藪役杣役紙舟運上根帳」木下家文書)。山間の村のため年貢米の確保に苦労し、明治三年(一八七〇)には年貢米のうち二五石分を切手払いとすることを許された(在方諸事控)


小畑村
おばたむら

[現在地名]緒方町馬背畑ませばた 中馬背畑なかませばた下馬背畑しもませばた

馬背戸ませど村の東、馬背戸川西岸にある。東は泉園いずみぞの(現清川村)。元禄見稲簿の岡領御絵図ニ出分には馬背戸村の内の小畑村とあり、元禄・天保両郷帳では馬背戸村に含まれるとみられる。天保(一八三〇―四四)頃の御案内記(大久保家文書)では高四四〇石余、反別五八町二反余、免八ツの中の村で、物成米二七六石余・大豆一二四石余を上納、家数六〇・人数二三四、牛八六・馬一一、鉄砲一。


小畑村
おばたむら

川述かわのべ郷内の一村。天正七年(一五七九)九月の大宮天神社神事次第(内藤文書)に「西小畑村」と「小畑村」がみえ、大宮天神社(現天満神社)の神事で、東小畑村が田楽踊を、西小畑村が竜音舞などを担当している。小畑村の上に東・西が小さく冠されており、東西の小畑村は一村であったものと思われる。また社務を勤める粟生田左京進は小畑村の領主と考えられる。元禄年間(一六八八―一七〇四)成立の「赤松家播備作城記」に小畑城主粟生田内膳がみえる。粟生田左吉は赤松則房被官人として大河内おおこうち(現大河内町)内に給分地をもっており、宍粟郡長水ちようずい(現山崎町)城主宇野民部大輔(祐清)との大河内表合戦に出陣している(年月日未詳「赤松氏奉行人連署感状押紙」上月文書)


小畑村
しようばたむら

[現在地名]野上町小畑

現野上町の西端、貴志きし川北岸に位置し、中世・近世を通じて野上庄の産土神とされた野上八幡神社が鎮座する。「続風土記」によれば中世には動木とどろき村とともに野上七村のうち寺中てらなか村と称されたという。康暦二年(一三八〇)八月日付の野上庄寺中村夫役免状(「続風土記」所収供僧辻之坊所蔵文書)に「野上庄寺中村内寺家事、依為大菩薩之御敷地、自往古以来臨時之夫役非分公事等、公方私勤仕之条于今無其聞上者、向後事今初又令免除」とある。

慶長一八年(一六一三)の紀州御検地帳(和歌山県立図書館蔵)には「庄畑」と記される。慶長検地高目録によると村高四九二石余、小物成一石四升七合。


小畑村
おばたむら

[現在地名]富津市豊岡とよおか 小畑

御代原みよばら村の北西、みなと川上流域に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三六石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)では小幡村とあり、佐貫藩領。支配領主の変遷は田原たばら村と同様。元禄郷帳では高一四七石余で、幕末も同様。寛政五年(一七九三)の村明細帳(椙山家文書)では家数一六(うち堂一)・人数九九。


小畑村
おばたむら

[現在地名]日田市小山おやま 小山町

石井いしい村の南東方に位置し、二串にくし川が北流する。正保郷帳に村名がみえ、田高四八石余・畑高五一石余で、石井郷に属し、日損所とある。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免四ツ一分五厘で、永荒七石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高九三石余。正徳四年(一七一四)の村明細帳(長家文書)によれば家数三〇(人数の記載なし)、田方は稲・麦、畑方には大豆・粟・綿・蕎・稗など、作間には紙漉のほか葛根・蕨掘などを行った。


小畑村
おばたむら

[現在地名]和知町字小畑

東は北流する高屋たかや川、北は北西流する由良川で限られる。南・西には四〇〇メートルほどの山々が連なり、北側斜面の台地上に人家が東西に並んで点在する。由良川沿いに耕地をもつ山村といえるが、村内を東の升谷ますたに村から高屋川を越え、西の安栖里あせり村へ向かう、当地方では重要な道が通っていた。


小畑村
こばたむら

[現在地名]香々地町小畑

堅来かたく村の南東に位置し、堅来川が北西流する。小畠とも。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、夷忠兵衛手永の御蔵納分として高四八石余で、家数六のうち本百姓・小百姓四、庭屋・牛屋二、男八(うち名子一)・女五、牛二。また給人魚住伝左衛門尉の知行分として高二〇〇石とあり、家数四二のうち本百姓・小百姓一六、隠居・牛屋・庭屋二五、男四五(名子四)・女三六、牛一一。正保郷帳では香々地庄に属し、田高六石余・畑高一七七石余で、茅山有・柴山有、日損所と注記され、新田があった。


小畑村
おばたけむら

[現在地名]植木町富応とみおう

東は西山にしやま村、西は田原たばる村、北は平原ひらばる村・正院しよういん村に接する。もとは西山村のうちで、元禄国絵図や寛永郷帳にはみえず、享保年間(一七一六―三六)の宣紀時代手鑑に村名がみえ、この間に同村の西半の地域が独立したと思われる。文政九年(一八二六)の正院手永手鑑では、田四町四反四畝余・畑六町七反四畝余。


小畑村
こばたむら

[現在地名]藤崎町小畑

東は中島なかじま村、西は矢沢やざわ村、南は川辺かわべ(現田舎館村)、北は柏木堰かしわぎぜき村に接する。村内中央を羽州街道が通る。

寛文九年(一六六九)の松前派兵に際し、小畑村紋十郎が「長柄付小知行之者」として出兵している(津軽一統志)。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田方二四町六反一畝二九歩、畑方五町三反三畝二歩、田畑屋敷合せて二九町九反五畝一歩、村高二九九・二七二石とある。


小畑村
こばたむら

[現在地名]周東町大字川上かわかみ 小畑

川上村の西隣でその属村とされたが、江戸時代を通じて土地台帳には独立して記された。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、村名の初見は慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」。三方を山に囲まれ、平地の少ない山村であったが、村高は川上村より多い。同文書では高一八二石余、うち田高一四五石余、畠高二一石余、楮高一四石余であった。


小畑村
おばたむら

[現在地名]勝田町小畑

大町おおまち村に南接。同村より分村したというが(東作誌)、慶長検地の頃か。正保郷帳に田七八石余・畑二四石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高六七石余・開高八石余で、村位は上。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数一三。元禄二年の鉄砲改帳(弓斎叢書)では用心鉄砲一・猟師鉄砲一。


小畑村
こばたけむら

[現在地名]八尾町小畑

尾畑おばたけ村の南方、仁歩にんぶ谷南部にある。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では尾畑村の南西方に村続きの枝村新田としてみえ、高一八石余。


小畑村
こばたむら

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に田舎いなか郡新田中の一ヵ村として一九・四一石とある。慶安年間(一六四八―五二)の御郡中絵図(市立弘前図書館蔵)、天和三年(一六八三)広須御新田所図には村名がみえる。


小畑村
こばたむら

[現在地名]宇目町小野市おのいち 楢野木ならのき

小野市村の南東、楢野木村の東に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高一一石余・畑高三八石余、宇目郷に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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