永昌寺(読み)えいしようじ

日本歴史地名大系 「永昌寺」の解説

永昌寺
えいしようじ

[現在地名]福井市東郷二ヶ町

東郷町とうごうまち通の南側にあり、江戸時代は福田ふくでん村の地籍にあたる。東松山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来開山徳願とくがん(現静岡市)の三世越渓麟易という。寺名は朝倉孝景の妻(永正一七年没)の法名(桂室永昌)によると思われるが、創建年代は文明(一四六九―八七)頃と考えられる。おそらく永昌の子小太郎教景(以千宗勝)が文明一五年兄の景総に殺され、その菩提を弔うために建立し、さらに永昌の死後その菩提寺に代えたものであろう。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]比和町森脇 山王

山王の御所地さんのうのごしよち山南東麓にある。法鏡山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。天和元年(一六八一)物山泰先の開山と伝える。「芸藩通志」は正徳年間(一七一一―一六)の記録によったとして、「此寺、昔、錦山城主の菩提所にて、錦山より谷川を隔て八町余、南に本堂、厨舎、経堂、山門などの建物ありしが、毛利・尼子会戦の時、兵火に焼かる、其後、慶長元年大門とよぶ地に引て、慶長寺と称す、後又今の地に移して、永昌寺の号に復すと、今田地の名に、施餓鬼免、油免などあり、昔の寺田なりといへり」と記す。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]上宝村田頃家

田頃家たごろけ集落の北麓にあり、富渓山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。開山は不明であるが、正和元年(一三一二)平権守政盛が高原たかはら郷に一寺を建て、父の法諡をとり栄照院と号したが、のちに栄照庵(栄昌庵)となった。その後一時廃絶したが、応永(一三九四―一四二八)末年頃江馬旭四郎が、越中射水いみず国泰こくたい(現富山県高岡市)の凰宿麟芳を招いて中興開山として再興した。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]鰺ヶ沢町漁師町

漁師りようし町の南にあり、新地しんち町と隣合う。

海聚山と号し、日蓮宗。本尊は十界勧請御本尊。「津軽一統志」の日蓮宗の部に「鰺ケ沢海聚山永昌寺 洛陽本国寺末寺領五十石」とある。縁起によれば、寛文元年(一六六一)日護が諸国修行途上、鰺ヶ沢にあった天台宗無住の庵寺に居住、寛文五年永昌寺を創立したという。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]倉吉市岩倉

岩倉いわくら集落の北西部にあり、久宝山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。草創等は不詳であるが、岩倉城主小鴨氏の菩提寺で、天正一〇年(一五八二)の同城落城の際、兵火にかかり縁起・記録類をことごとく焼失したと伝える。寛永五年(一六二八)倉吉大岳だいがく院四世可春が再興開山となり復興された。近世には久米札の第八番札所。境内に岩倉十三重の塔とよばれる石造物(県指定文化財)がある。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]雫石町 雫石 下町

JR雫石駅の東にあり、北を主要地方道横手―盛岡線が通る。石水山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寛永二〇年(一六四三)呑鏡の開山という。境内に生森おもり地蔵堂がある。「御領分社堂」に「大森山 愛宕地蔵堂 別当円蔵坊」とあり、戦国時代の雫石城主手塚左衛門尉が城の鬼門に地蔵を安置したが、左衛門尉没落後絶えた。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]多気町野中

野中のなか集落中央、熊野街道沿いにある。山号白華山。曹洞宗。本尊は室町時代の十一面観音像。寺伝によれば慶長一〇年(一六〇五)創建。本堂の東側にある大日堂内には書写大般若経六〇〇巻が納められている。


永昌寺
えいしようじ

[現在地名]更埴市寂蒔

市内満照寺の末寺。繁久山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺宝に保巌和尚の頂相がある。

寺伝では慶長一六年(一六一一)三月の創建といい、開山は僧聡天。寛永年間(一六二四―四四)松平光長代官長谷川安左衛門が坂木領支配時代高一五石四斗三升の地を除地として寄進したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「永昌寺」の解説

永昌寺

(岐阜県中津川市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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