私小説(わたくししょうせつ)(読み)わたくししょうせつ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

私小説(わたくししょうせつ)
わたくししょうせつ

近代小説展開のなかで生み出された日本独特の小説概念。「私(し)小説」ともいう。とくに大正期後半から頻出、大正以後の純文学の核心とみなされるようになった。ヨーロッパでいう「イッヒ・ロマン」にあたり、「一人称小説」「自伝的小説」とほぼ同質。虚構を中軸とするヨーロッパの客観小説とは異なり、日常の瑣事(さじ)のなかから作者の人生観がにじみ出る随想的な要素をも含みつつ、三人称を用いても、主として主人公は作者という観点が作品の基底に存在する。

紅野敏郎

源流と分類

宇野浩二(こうじ)の「私小説私見」(『新潮』1925.10)によれば、私小説の源流は田山花袋(かたい)の『蒲団(ふとん)』より始まるとされている。それが平野謙(けん)によって補強され、『白樺(しらかば)』の人々の「自己」「自分」を中心に据え、真情を吐露した作品群も『蒲団』とともにその源流と考えるべきだと主張されてきた。大正末期に久米正雄(くめまさお)が『私小説と心境小説』というエッセイを書き、本格小説を作り物の通俗小説とみなし、心境小説は私小説と重なりつつ、作家が自己を直接的にさらけ出した、腰の据わった東洋的な禅に通ずる最高の境地という考えを主張した。小林秀雄(ひでお)は1935年(昭和10)に『私小説論』を書き、閉鎖的な心境小説を退け、「社会化」した私の必要性を論じた。第二次世界大戦後は平野謙や伊藤整(せい)によって、自然主義系と白樺派、破滅型と調和型というような分類が私小説に巧みに付与され、さらに私小説を書く動機として、日常生活の緊迫した危機意識との対決、それが積み重なることによって生ずる生活演技説などが説かれたりした。

[紅野敏郎]

作家と作品

私小説を強く退けた作家でも、その生涯に1作や2作の私小説を書いている。田山花袋、近松秋江(しゅうこう)から葛西善蔵(かさいぜんぞう)、嘉村礒多(かむらいそた)、川崎長太郎、また武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、志賀直哉(なおや)から滝井孝作(こうさく)、上林暁(かんばやしあかつき)、尾崎一雄外村繁(とのむらしげる)らの作品には、赤裸々な私意識、澄明な心境を獲得した私意識が顕著にみられる。昭和の時代には、変形された私小説観念のもとに、梶井基次郎(かじいもとじろう)や牧野信一、また太宰治(だざいおさむ)や田中英光(ひでみつ)などの作家が生まれ、プロレタリア文学運動を推進した小林多喜二(たきじ)、中野重治(しげはる)、佐多稲子(さたいねこ)らの意識のなかにも私小説観念は生き続けた。戦後も、理論のうえでは否定しつつも、庄野潤三(しょうのじゅんぞう)、安岡章太郎(しょうたろう)、吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)らいわゆる「第三の新人」のなかには、かつての私小説そのままではないが、文壇の変質を見据えながら、私意識を根底とした作家の私生活を描いた作品がみられる。家庭生活の危機と調和の状況を新たな手法で描き出した島尾敏雄(としお)のような作家までもそのなかに含まれる。私小説について論ずる場合、私小説の展開に寄り添い、私小説と私小説論、純文学と大衆文学、文壇の変質などとの関連を凝視する必要がある。

[紅野敏郎]

展開と変質

私小説は近代の日本文学を貧弱に変形させたとして繰り返し批判されてきたが、その後も旧来の作家だけでなく新しい作家によっても私小説は書かれ続けた。そのなかから藤枝静男『空気頭(あたま)』『田紳有楽(でんしんゆうらく)』など、私小説のスタイルを取りながらその枠を越える作品も書かれている。また、先述の島尾敏雄は『死の棘(とげ)』(1960~1976)で作中の「私」と作家とが無媒介につながるのではない新しい「私」を創造している。その後の世代の作家、たとえば三浦哲郎(てつお)、阿部昭(あきら)(1934―1989)、古山高麗雄(ふるやまこまお)、高井有一、黒井千次らにも私小説的なものが内包されており、1980年ごろから新しく登場した作家のなかには自ら私小説作家を標榜(ひょうぼう)するものや、それまで私小説と一線を画していた作家のなかにも、実名小説や私小説風の作品を書き出すものが出てきた。しかしこれらの作家も、虚実のくふうなどその創作態度に、かつての心境小説・私小説作家の意識とは異なるものがあり、このような私小説の変質を受けて、私小説論も高橋英夫(1930―2019)、饗庭(あえば)孝男(1930― )などによる新たな評価へと展開している。また、私小説を日本特有の文学形式とする海外からの研究も多くなり、その場合、「私小説」の英訳語として「I-novel」が用いられるか、またはそのまま「shishôsetsu」と表記されることがある。

[田中夏美]

『日本文学研究資料刊行会編『私小説――広津和郎・宇野浩二・葛西善蔵・嘉村礒多』(1983・有精堂出版)』『饗庭孝男著『喚起する織物――私小説と日本の心性』(1985・小沢書店)』『伊藤整著『小説の方法』(1989・筑摩書房)』『イルメラ・日地谷・キルシュネライト著、三島憲一他訳『私小説――自己暴露の儀式』(1992・平凡社)』『鈴木登美著、大内和子・雲和子訳『語られた自己――日本近代の私小説言説』(原書英文、2000・岩波書店)』『『小林秀雄全集 第3巻 私小説論』(2001・新潮社)』『中村光夫著『私小説名作選』(集英社文庫)』『中村光夫著『風俗小説論』(新潮文庫)』『山本健吉著『私小説作家論』(講談社文芸文庫)』『平野謙著『芸術と実生活』(岩波現代文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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