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中国の軍人政治家。河南省項城県の人。字は慰庭(亭),号は容庵。大地主の家に育ち,科挙になんどか失敗して軍伍に身を投じた。祖父の代に淮軍(わいぐん)の将(袁甲三)を出した縁もあり,朝鮮で甲申事変を鎮圧して李鴻章にみとめられた。日清戦争に敗北した清朝は近代兵制の採用にふみきるが,その新軍の監督に任ぜられた袁世凱は,義兄弟の徐世昌をはじめ息のかかった若手将校を各部門の責任者に抜擢配置し,強力な私的人脈を形成する。李鴻章没後,袁世凱はその後継者として直隷総督兼北洋大臣となり,さらに政界の各方面に勢力を扶植した。趙秉釣(ちようへいきん)に警察,梁士詒(りようしい)に鉄道・銀行,楊士琦に汽船・電報,周学煕に炭鉱をやらせる,といったぐあいである。もちろん,満州貴族にもぬけめなく取りいったのであって,戊戌(ぼじゆつ)政変のさいには維新派を裏切って最高権力者西太后の寵を得た。〈内ニ親貴ト結ビ,外ニ党援ヲ樹(た)ツ〉と評されるゆえんである。義和団事変では列強の利益を最優先して帝国主義者の信用を獲得した。彼のおさえる北洋新軍は1905年(光緒31)には6鎮(鎮は師団)にまで拡大されたし,内外のバックの力はきわめて強力だったから,天津の袁世凱の役所は〈第二中国政府〉とよばれた。しかし08年に西太后が死ぬと,袁世凱はすべての役職を奪われた。光緒帝の弟の摂政王が戊戌の袁世凱の裏切りに報復したのである。辛亥革命の勃発が失意の彼に再起の機会をあたえ,袁世凱は内閣総理大臣となって北京政府の大権を掌握した。北洋新軍は全国的に蜂起した革命軍を鎮圧できず,革命軍は精鋭の北洋軍を打倒できないという対峙状況のもとで,講和会議がはじまり,12年2月,袁世凱は清帝退位とひきかえに中華民国臨時大総統となった。孫文らの革命派は,王朝制度をたおし,民主的な憲法(臨時約法)をつくっておけば,袁世凱と協調して富強の共和国を建設できると考えたのである。権力をにぎった袁世凱はまず各地の革命軍を解散した。しかし,国会選挙では袁世凱の与党が敗北し,国民党が多数派となった。そこで袁世凱は国民党が国務総理に擬した宋教仁を暗殺し,あれこれと国民党を挑発した。孫文,黄興らは反袁の武装蜂起(第二革命)に決起したが,簡単に鎮圧された。13年10月,初代正式大総統に就任した袁世凱は,その独裁支配をさらに強固にすべく帝制復活に乗り出した。辛亥革命の産物である民主的法制はつぎつぎと廃止され,〈祭天祀孔令〉(天と孔子をまつる儀式)の公布に象徴される旧制度の復活があいついだ。二十一ヵ条をのむことにより日本の支持もとりつけ,籌安会(ちゆうあんかい)などが世論の喚起につとめた。15年12月,袁世凱は国民代表によって満票で皇帝に推戴された。しかしこれは茶番劇だった。蔡鍔のひきいる雲南の護国軍が蜂起(第三革命)すると反袁の動きが一挙に表面化した。翌年元旦を期として洪憲元年と改元されたが,即位できぬまま83日間で帝制は取り消され,6月,四面楚歌のうちに袁世凱は病没した。彼の死ほど人々に歓迎された死はない,と当時の新聞に報道された。
執筆者:狭間 直樹
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中華民国の初代大総統。河南省項城県の生まれ。日清(にっしん)戦争前は、朝鮮で政治、軍事に手腕を発揮し、李鴻章(りこうしょう)の信任を得て、総理交渉通商事宜(じぎ)としてソウルに駐在し、朝鮮の内治、外交に干渉して属国化した。日清戦争の敗北後、軍制、軍隊の近代的改革を断行し「新建陸軍」を組織した。これが後の北洋軍閥および袁の政界進出の礎石となった。このとき、袁の養成した部将が民国後の北洋軍閥の首脳となる。李鴻章の没(1901)後、直隷(ちょくれい)総督兼北洋大臣となり、自己の勢力を強化拡大していった。日露戦争後、袁の伸張に対する満州人官僚の巻き返しによって、一時下野を余儀なくさせられるが、辛亥(しんがい)革命の勃発(ぼっぱつ)によってふたたび軍事の全権をゆだねられ、1911年11月に内閣総理大臣となり、清朝政府の実権を掌握した。1912年2月、南方政府の譲歩を引き出し、清帝退位と引き換えに臨時大総統の地位につき、中華民国が成立する。その後、袁は、帝国主義列強の支持を背景に革命の成果を骨抜きにしていった。大総統の権限を制約しようとする議会の動きを、国民党首脳宋教仁(そうきょうじん)の暗殺によって抑制し、さらにそれを契機に起こった「第二革命」を武力鎮圧した。1913年10月には正式に大総統となって、国民党の解散を命じるとともに新約法を公布して独裁を強化し、1915年には帝制運動を開始した。袁の政府には、自国の利権の扶植を図る多くの外国人「顧問」がおり、帝制運動の画策に大きな役割を果たした。しかし、日本の二十一か条要求に対する中国のナショナリズムの高揚、1915年末の雲南蜂起(ほうき)を契機に各地で起こった反袁運動の拡大により、列強も帝制取消しを勧告、ついに1916年3月、袁は帝制取消しを宣言した。その直後、討袁の続くなかで没した。
[南里知樹]
1859~1916
清末から民国初期の政治家,軍人。河南省項城県の人。早くから朝鮮で活躍し,日本の朝鮮への進出を抑えて李鴻章(りこうしょう)の信任を得た。日清戦争後,新陸軍(新軍)の建設にあたった。1898年に山東巡撫(じゅんぶ)となり,義和団事件が起こるとこれを弾圧する一方,地盤の安全,兵力の温存に努めた。李鴻章の没後,直隷総督,北洋大臣に昇進,張之洞(ちょうしどう)とともに清朝再建運動の両翼となり,軍政の統一,実業の振興を図り,中央政界を支配した。日露戦争後,清朝の漢人抑制策のため力を弱めたが,辛亥(しんがい)革命が起こると朝廷から全権を受けて革命派と折衝,みずから臨時大総統(1912年)となり,皇帝を退位させた。1913年には彼に反対する第二革命を鎮圧,正式大総統となって独裁的権力をますます強め,ついに帝政運動をすすめた。さらに第三革命が起こると,帝政を取り消し,悶死(もんし)した。
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1859.9.16~1916.6.6
中国近代の軍人。河南省出身。1884年の甲申(こうしん)事変で朝鮮の親日派を鎮圧,清国勢力の拡大につとめる。日清戦争後は新式陸軍を編成し,清国軍隊の中核となる。戊戌(ぼじゅつ)政変で西太后の信任を得,直隷総督などの清国要職を歴任。西太后の死により一時失脚したが,1911年辛亥(しんがい)革命が勃発すると復権,内閣総理大臣となり,12年清朝皇帝の退位と引換えに中華民国臨時大総統に就任。13年に第2革命を鎮圧し正式に大総統となる。15年には対華二十一カ条の要求を承認。12月に帝政を復活しみずから帝位に就くが,第3革命が発生。翌年3月には帝政を取り消し,6月6日失意のうちに死亡。
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…義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であった。 99年秋,山東省の平原で義和団は弾圧にきた清軍を破り,以後勢力は急激に増大するが,99年末山東巡撫となった袁世凱の徹底した弾圧を受け,1900年春には河北省の義和団の立ちあがりと山東義和団の移動で運動の中心は河北に移った。6月,義和団は北京に入城して全北京を掌握,公使館区域を包囲,また租界を抱える天津をも占領した。…
…金玉均,洪英植,朴泳孝らは,士官学生や壮士を指揮して国王高宗と王妃の閔妃(びんひ)を守旧派から隔離させ,日本軍の出動を求めて護衛した。5日には開化派を軸とする新政府をつくり,6日には新しい政綱を発表したが,袁世凱が1500名の清軍を率いて武力介入すると日本軍は引き揚げ,孤立無援の開化派は,金玉均,朴泳孝,徐光範ら9名が日本,アメリカに亡命したほか,殺害または処刑された。甲申政変は,開化思想がまだ大衆を把握するまえの,開明的な少数エリートによる突出したクーデタに終わり,日本軍の出動を求めて国王を護衛したため,むしろ大衆の反日感情を爆発させた。…
…革命の勢いはそれくらい猛烈だったのである。清朝は袁世凱を再起用して第2代内閣総理大臣に任じ,もてる力のほとんどを武漢戦線に投入して漢口,漢陽を奪回したが,それとひきかえるように12月初め,南京が革命軍に攻略された。清軍は局部的優勢をたもちえても全国に広がる革命の勢いをおしつぶすことはできなかった。…
…中国の近代,袁世凱の帝政運動に奉仕する目的で,国体研究を名目に,1915年8月から10月にかけて組織された団体。発起者の楊度(1874‐1931),孫毓筠(そんいくいん),厳復,李燮和(りしようわ),胡瑛,劉師培を六君子と呼ぶこともある。…
…しかし彼らの力はそこまでであった。孫文は臨時大総統位を袁世凱(えんせいがい)に譲らざるをえず,軍閥の親玉である袁世凱は首都を北京に移して,独裁支配への道を歩みはじめる。中国に多くの権益をもつ列強は,革命家孫文を支持することはなく,軍閥袁世凱を後押しし,国内の有産階級もやはり袁世凱に政権をまかすことをえらんだ。…
…中華民国初期,1915年から16年にかけて大総統袁世凱が,民国を廃して帝政を復活させようとし,83日で失敗に帰した事件。袁世凱は,民国5年(1916)を洪憲元年と改元し,実質的には皇帝としてふるまったが,正式即位には至らなかった。…
…中国近代の袁世凱系軍事集団の総称。北洋とは南洋にたいする語で,江蘇,山東,直隷(河北),遼寧の北方沿海諸省を包括する,清末に設けられた歴史地理区画である。…
…汝ら適宜に速かに密かにはかり,法を設けて相救うべし〉という密詔を康有為および楊鋭らに発した。一方,光緒帝は直隷按察使袁世凱(えんせいがい)を召見して,その率いる新建軍を利用して栄禄を殺させようとはかり,譚嗣同も袁世凱に光緒帝保護のために決起を促そうとしたが,いずれも失敗に終わった。光緒帝は瀛台(えいだい)に幽閉され,西太后の訓政が復活して,戊戌変法は瓦解した。…
…中華民国臨時約法(旧約法),中華民国約法(新約法),中華民国訓政時期約法の三つがある。〈中華民国臨時約法〉は辛亥革命時期に臨時参議院の約法起草会議で起草され,1912年3月11日臨時大総統袁世凱の名で公布された。7章56条から成り,正式憲法制定まで憲法と同等の効力を持つとされ,おもな内容は,(1)主権は国民全体に属す,(2)人民は居住・移転・財産・言論・出版・集会・結社・信教などの自由権と選挙権・被選挙権を有する,(3)一院制としての参議院に,臨時大総統・国務員に対する弾劾権,臨時大総統の権限の一部に対する同意権を与える,(4)臨時大総統は参議院により選挙される,など。…
…二高を経て東京大学法科に進み,在学中よりキリスト教を信じ海老名弾正の影響を受ける。1906年袁世凱家の家庭教師として渡清,09年東大助教授,翌年から13年までヨーロッパに学び,14年教授に昇任し政治史を担当。この年から《中央公論》に毎号のように政論を執筆。…
※「袁世凱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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