鎮守府(読み)チンジュフ

デジタル大辞泉 「鎮守府」の意味・読み・例文・類語

ちんじゅ‐ふ【鎮守府】

奈良・平安時代陸奥むつ出羽でわ蝦夷えぞ鎮圧のために置かれた軍政官庁。初め多賀城に置かれ、のちに胆沢いさわ、さらに平泉に移った。
旧日本海軍で、所管海軍区の警備・防御に関することをつかさどり、所属部隊を監督した機関。横須賀佐世保舞鶴の各軍港に置かれた。

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精選版 日本国語大辞典 「鎮守府」の意味・読み・例文・類語

ちんじゅ‐ふ【鎮守府】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ( 「ちんじゅぶ」とも ) 奈良・平安時代、陸奥国蝦夷地経営に当たった軍政機関。養老六年(七二二)頃には鎮・鎮所などと称されたが天平年間(七二九‐七四九)頃に改称。当初多賀城に設けられ、のち胆沢城(岩手県水沢市辺)・平泉などに移り、鎌倉幕府開設に及んで廃止、建武中興の際一時復活した。鎮守。
    1. [初出の実例]「定鎮守府官員事 将軍一員 軍監一員 軍曹二員 医師弩師各一員」(出典:類聚三代格‐五・弘仁三年(812)四月二日)
  3. ちんじゅふしょうぐん(鎮守府将軍)」の略。
    1. [初出の実例]「請大将軍号状〈略〉爰顕家官昇八座。位至二品。依別勅当州。剰以勲功賞鎮守府」(出典:建武年間記(南北朝頃))
  4. 旧日本海軍で、各海軍区の警備や所属部隊の監督などを担当した機関。明治九年(一八七六)横浜・長崎に置かれた東海・西海両鎮守府に始まり、昭和二〇年(一九四五)の敗戦時には横須賀・呉・佐世保・舞鶴の四鎮守府があった。
    1. [初出の実例]「佐世保鎮守府建築起工式を行ひ」(出典:東京日日新聞‐明治二一年(1888)一月五日)

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百科事典マイペディア 「鎮守府」の意味・わかりやすい解説

鎮守府【ちんじゅふ】

(1)古代,陸奥(むつ)国におかれた軍事機関。8世紀初め,多賀城に置き,802年胆沢(いさわ)城に移された。将軍(鎮守府将軍鎮守将軍)・副将軍・軍監(ぐんげん)・軍曹の四等官(しとうかん)を任。陸奥国司と協力して蝦夷(えみし)経営にあたった。のち奥州藤原氏に鎮守府行政の実権が移り,鎮守府機能は平泉館(ひらいずみのたち)に吸収された。平安中期以後は鎮守府将軍の位のみが武門の誉(ほま)れとして継承された。(2)近代の海軍軍衙(ぐんが)。所管海軍区の防衛・警備,出兵準備などを行った。1876年横浜(1884年横須賀に移転)に東海鎮守府を設置したのが初め。1901年までに横須賀,佐世保,呉,舞鶴の4鎮守府を開設。一時,旅順(りょじゅん)にも設置。1939年以後4鎮守府。第2次大戦後廃止。
→関連項目赤松則良蝦夷地大野東人清原武則斎藤氏坂上田村麻呂平国香平貞盛平忠常平将門源義家源頼義陸奥将軍府陸奥国

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改訂新版 世界大百科事典 「鎮守府」の意味・わかりやすい解説

鎮守府 (ちんじゅふ)

古代の陸奥国に置かれた軍政をつかさどる役所。その長官である将軍の名が729年(天平1)に初めて見えることから,奈良時代前半には鎮守府が設置されたと思われる。鎮守府の前身を《続日本紀》に見える〈鎮所(ちんじよ)〉とする考え方が根強い。しかし〈鎮所〉は鎮守府の存在と密接に関連した呼称であるが,本来正式な機関名としての鎮守府とは同列に置いて比較すべき用語ではない。鎮守府ははじめ,多賀城に置かれた。759年(天平宝字3)には将軍以下の俸料(ほうりよう)と付人の給付が陸奥の国司と同じと決められた。このころより,鎮守将軍はほぼ4年ごとに任命された。この時期の将軍は按察使(あぜち)または陸奥守を兼任するのが通例で,なかには3官兼任する場合もあった。一般的に,征夷の際には,征夷大将軍が任命され,征夷軍が編成される。したがって鎮守府は通常の守備と城柵(じようさく)の造営,維持など陸奥国内の軍政を主たる任務としていたのであろう。802年(延暦21)坂上田村麻呂によって胆沢城(いさわじよう)が造営されると,多賀城から鎮守府が移された。この移転後の鎮守将軍の位階は,だいたい以前の四位から五位相当に下がり,陸奥介を兼務する例も見られた。また機構整備も積極的に進められた。例えば,812年(弘仁3)には,鎮守府の定員が将軍1名,軍監(ぐんげん)1名,軍曹2名,医師・弩師(どし)各1名と定められた。834年(承和1)には,もとは国印を使っていたのが,新たに鎮守府の印一面を賜っている。このように胆沢城への遷置後の鎮守府は,多賀城にある陸奥国府と併存した形で,いわば〈第二国府〉のような役割をにない,胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めた。このように鎮守府の本来の性格はまさにこの平常時での統治であり,非常時の征討ではない。

 平安時代中期以後になると,鎮守府本来の役割は失われ,鎮守府将軍の位のみが武門の誉れとして受け継がれた。
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鎮守府 (ちんじゅふ)

旧海軍の機関で,海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した。その前身は1871年(明治4)兵部省内に設置された海軍提督府である。75年日本周辺を東西の2海面に分け,東西両指揮官の指揮下に置くことになり,76年東海,西海の両鎮守府を設置することになった。東海鎮守府はまず横浜に仮設され(西海鎮守府は開設されず),84年には横須賀に移転され,横須賀鎮守府と改称された。86年海軍条例の制定により,日本の沿岸,海面を5海軍区に分け,各海軍区に鎮守府と軍港が設置されることになり,横須賀のほかに,89年には呉と佐世保に,1901年に舞鶴に鎮守府が開庁した。しかし,当初予定されていた室蘭への設置は03年に取止めとなった。05年には旅順口鎮守府が設置された(1906年旅順鎮守府と改称,14年廃止)。また舞鶴は23年に一時廃止されたが,39年に復活した。各鎮守府は,所轄海軍区の防備,所属艦船の統率・補給・出動準備,兵員の徴募・訓練,施政の運営・監督にあたった。鎮守府司令長官(大・中将)は軍政に関しては海軍大臣の,作戦計画に関しては海軍軍令部長(軍令部総長)の指示をうけた。鎮守府は第2次大戦後の1945年11月に廃止された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎮守府」の意味・わかりやすい解説

鎮守府(古代)
ちんじゅふ

古代奥羽における蝦夷(えぞ)経営のための軍政府。奈良時代には多賀(たが)城(宮城県多賀城市)に置かれ、802年(延暦21)の胆沢(いさわ)城築城後の平安時代には胆沢城(岩手県奥州(おうしゅう)市)に移された。初め多賀城も軍政の基地として置かれたと考えられる。「陸奥(むつ)鎮所」もその意味であろう。それが国府と区別された軍政府として整備され、鎮守府とよばれるようになったものであろう。鎮守将軍を長官に、諸事国府に準じた。国府級の地方軍政府としては、鎮西府(ちんぜいふ)に改組されたときの大宰府(だざいふ)が、ほぼこれと同性格のものであった。

 鎮守府の呼称がいつからおこったかは明らかでない。724年(神亀1)には「陸奥鎮守の軍卒」のことばがあり、729年(天平1)には「鎮守将軍」の名もみえるから、このあたりをもって鎮守府の成立期と考えることができよう。鎮守府には、将軍のほかに副将軍、権(ごん)副将軍なども置かれることがあったが、これは必要に応じた措置であった。この制度のよく整ったときの常態は、将軍―軍監―軍曹の構成で、759年(天平宝字3)の規定では、それらはそれぞれ国の守(かみ)―掾(じょう)―目(さかん)に準ずるものとされた。843年(承和10)府掌(ふしょう)という文官を置き、国の介(すけ)相当に扱った。鎮守府にはそのほか医師、弩師(どし)などがあった。多賀城時代には実務は国府と共通だったが、胆沢城に移ってすべて独立した政庁となった。平泉時代から名目化し、鎌倉幕府の成立とともにまったく廃した。

高橋富雄

『高橋富雄著『胆沢城』(1971・学生社)』



鎮守府(帝国海軍)
ちんじゅふ

帝国海軍時代の陸上各庁の一つ。各軍港に置かれ、その所在地の名を冠してよばれた。所管海軍区の防御および警備をつかさどり、海軍策源地の機能を統轄した。鎮守府司令長官は天皇に直隷し、部下の艦船部隊を統率、軍政面では海軍大臣の命に服し、また作戦計画に関しては海軍軍令部長(1933年、軍令部総長と改称)の指示を受けた。

 その沿革は1871年(明治4)兵部(ひょうぶ)省内に設置された海軍提督府より発している。1876年、海軍省内に東海・西海の両鎮守府を置くこととなり、9月、東海鎮守府を横浜に仮設。初代司令長官に海軍少将伊東祐麿(すけまろ)が任命された。東海鎮守府(西海鎮守府は設けられず)は1884年横須賀(よこすか)へ移転、横須賀鎮守府と改称された。1886年の海軍条例制定に伴って日本の海岸・海面を5海軍区に分かち、それぞれに軍港と鎮守府を設置する方針が出された結果、1889年7月、呉(くれ)(第二海軍区)、佐世保(させぼ)(第三海軍区)に鎮守府の開庁をみた。日露戦争前夜の1901年(明治34)には舞鶴(まいづる)鎮守府(初代長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう)中将)、また戦勝後の1905年に旅順口鎮守府(翌年旅順鎮守府と改称)を加えた。ワシントン軍縮会議によって舞鶴鎮守府は1923年(大正12)要港部に縮小(1939復活)、旅順は1922年廃止されたので、帝国海軍と終始命運をともにした鎮守府は横須賀、呉、佐世保の3か所となる。鎮守府に準ずる機関として要港部(1941年以降は警備府)がある。いずれも1945年(昭和20)11月廃止された。

前田哲男


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鎮守府」の解説

鎮守府
ちんじゅふ

1奈良・平安時代に陸奥国におかれた軍事機構。蝦夷(えみし)と軍事的緊張をはらむ陸奥国では,720年(養老4)の征夷戦後に現地軍事力の整備が図られ,724年(神亀元)頃までには陸奥国に常駐して軍事指導を担当する鎮守将軍がおかれ,その下の機構が整備されて鎮守府となった。官員は鎮守将軍の下に判官(のち将監(しょうげん),さらに軍監(ぐんげん))・主典(さかん)(のち将曹,さらに軍曹)がおり,しばしば副将軍もおかれた。陰陽師(おんみょうじ)・医師・弩師(どし)もおかれた。所在地ははじめは陸奥国府の地である多賀城であったが,802年(延暦21)に胆沢(いさわ)城が築かれると国府と離れて移転した。

2明治~昭和期に海岸と近海の防衛などを担当した海軍官庁。各軍港におかれ,所管海軍区の防御・警備・出師準備をつかさどり,司令長官は天皇に直属して部下の艦船部隊を統率した。1876年(明治9)東海鎮守府が横浜に仮設され,84年横須賀に移転して横須賀鎮守府となり,89年呉(くれ)・佐世保,1901年舞鶴の順に設置。日露戦争にともない旅順に一時期設置される。ワシントン海軍軍縮条約にともない,舞鶴は23~39年(大正12~昭和14)の間廃止。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鎮守府」の意味・わかりやすい解説

鎮守府
ちんじゅふ

(1) 奈良,平安時代に,蝦夷鎮圧のため,朝廷が陸奥国に設置した軍事機関をいう。初め陸奥国鎮所といい,のち鎮守府と改称されて多賀城 (→多賀城跡 ) ,次いで延暦 21 (802) 年胆沢城 (→胆沢城跡 ) を本拠とした。将軍,軍監,軍曹などの職がおかれた。鎌倉幕府のとき廃止され,建武中興で一時復活,足利尊氏,北畠顕家らが将軍に任じられた。 (2) 明治以後はもっぱら海軍の用兵機関をさし,初め明治4 (1871) 年7月兵部省に設置された海軍提督府がその前身。諸港の防備を司り,1876年8月 31日東海・西海鎮守府と改名された。 84年 12月 15日鎮守府条例に基づき横須賀に中枢が移され,のち呉,佐世保,日露戦争後は旅順にもおかれた。所轄機構には参謀造船,屯営,軍医,兵器,監獄,武庫,軍法会議などの各部があり,軍港司令部を管下においた。第2次世界大戦終戦に伴って廃止。

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旺文社日本史事典 三訂版 「鎮守府」の解説

鎮守府
ちんじゅふ

①古代,東北地方の蝦夷 (えみし) 征討のため陸奥国に置かれた軍政府
②明治時代以後の海軍根拠地
初め多賀城,のち胆沢城 (いさわじよう) ,さらに平泉に移された。鎮守府将軍としては大野東人 (あずまひと) を最初とし,源頼義・清原武則 (たけのり) ・藤原秀衡らが有名。平安中期以後衰え消滅したが,建武の新政で一時復活した。
1876年,横浜と長崎に置かれたのが最初。'89年,横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4鎮守府となった。各管区を定めて海上警備を分担した。第二次世界大戦後廃止。

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世界大百科事典(旧版)内の鎮守府の言及

【鎮守府将軍】より

…古代・中世の陸奥国におかれた軍政府たる鎮守府の長官。もともとは鎮守将軍といった。…

※「鎮守府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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