アフリカ東部の赤道直下にある国。正称はケニア共和国Jamhuri ya Kenya。北はエチオピアと南スーダン、東はソマリア、南はタンザニア、西はウガンダと接し、南東はインド洋に面する。国名はアフリカ大陸第二の高峰ケニア山(5199メートル)にちなむ。面積59万1958平方キロメートル、人口3861万(2009センサス)、4756万2772(2019センサス)。首都はナイロビで人口は310万(2009)。野生動物の楽園として多数の観光客が訪れるが、アフリカでもっとも産業の発達した国の一つでもある。イギリス連邦加盟国。
[赤阪 賢・楠 和樹]
しばしば地形の博物館とも例えられるように多彩な地形がみられる。首都ナイロビの標高は1700メートル前後あり、国の中央部は標高1000~3000メートルの高原からなる。北から南にアフリカ大地溝帯が走り、その底部にトゥルカナ湖(ルドルフ湖)、ナクル湖、ナイバシャ湖などが並ぶ。その西に西部高地が広がり、ビクトリア湖へと続く。高原上にはケニア山、エルゴン山(4321メートル)などの火山がそびえる。
インド洋沿岸から、4000~5000メートルの高山まで植生も多彩である。北部は年降水量が250ミリメートル以下であり、ソマリアに近い東部も500ミリメートル以下で、ともに乾燥しきった半砂漠の景観を示している。西部のアフリカ大地溝帯の低部も乾燥し、希薄な植生となっている。中央高原と西部高地は、3~5月および10~12月の年2回の雨期に1000ミリメートル前後の降水量があり、サバナとなっている。国内には国立公園、国立保護区、野生生物保護区が59か所もあり、それぞれ豊富な動物相を誇っている。なかでも最大の規模のツァボ国立公園は、東西の2公園をあわせると、四国よりも広い2万0782平方キロメートルの面積をもつ。これらの国立公園に生息するのは、ゾウ、キリン、シマウマ、サイ、バッファロー、ヌー(ウシカモシカ)などの大形動物のほか、インパラ、トムソンガゼル、イランド(エランド)など小形から大形のレイヨウ類、ライオン、ヒョウ、チーター、ハイエナ、ジャッカルなどの肉食動物、カバ、ワニなどがおり、さらにフラミンゴなど鳥類も多様である。1997、2013年には「ケニア山国立公園:自然林」、1997、2001年にはシビロイ、中央島、南島をあわせた「トゥルカナ湖国立公園群」が、2011年には「ケニアグレート・リフト・バレー(大地溝帯)の湖群の生態系」がユネスコ世界遺産の自然遺産に登録された(「トゥルカナ湖国立公園群」は2018年に危機遺産リストに登録)。文化遺産としては「ラム旧市街」(2001)、「ミジケンダの聖なるカヤの森林」(2008)、「モンバサのジーザス要塞(ようさい)」(2011)、「ティムリカ・オヒンガ考古遺跡」(2018)が登録されている。
[赤阪 賢・楠 和樹]
古代ギリシア・ローマ時代、東アフリカの海岸地方はアザニアとして知られていた。また、アラブ人は今日のソマリアとケニアの海岸一帯を、ゼンジの地すなわち「黒い人々の土地」とよんでいた。10世紀末にはアラブ人の影響を受けてゼンジ王国が形成された。ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマは、インド航路発見の旅の途中、1498年にモンバサやマリンディの港を訪問したが、当時はオマーンから多数のアラブ人が海を渡り交易基地を建設していた。ポルトガルは東海岸に根拠地(フォート・ジーザス)を築き、この地域の植民地化をねらったが、オマーンのアラブ勢力の強固な抵抗にあい不成功に終わった。アラブ人はラム、モンバサ、タカウングなどに都市を建設したが、その活動は海岸部の狭い地域に限られ、内陸には象牙(ぞうげ)や奴隷の交易ルートを確保するにとどまった。
1823年、イギリスが初めてこの地に進出を開始したが、1884年にマッキノンSir William Mackinnon(1823―1893)がザンジバルのスルタンから貿易特許を取得した。彼は、おもに内陸のウガンダとの取引をもくろみ、イギリス東アフリカ協会British East Africa Associationを設立した。当時、東アフリカではドイツ、イギリス両帝国が植民地争奪をめぐって激しく対立していた。1888年、イギリス東アフリカ協会は帝国イギリス東アフリカ会社Imperial British East Africa Companyに名称を変更し、イギリスの保護下に入った。1895年にはイギリス政府によって東アフリカ保護領の設立が宣言され、現在のケニアの国土の大半がそこに組み込まれた。ただちに、モンバサからウガンダへと通じるウガンダ鉄道の建設が開始され、植民地経営が本格化した。鉄道建設は住民の抵抗を受けたものの、多数のスワヒリ人傭兵(ようへい)とインド人労働者を動員することによって、1901年にはビクトリア湖岸のキスムまでの線路が敷設された。
1907年、保護領の行政中心地はモンバサからナイロビに移転された。1899年に鉄道の駅が設置されるまで、マサイ語で「冷たい水Enkare Neerobi」とよばれるキャンプ地にすぎなかったナイロビは、以後急速に都市として発展していった。同じ時期、ウガンダ鉄道沿いの土地へのヨーロッパ人移住者の数が増加した。植民地政府は「ホワイト・ハイランド」という白人専用の大プランテーション地域を指定し、ヨーロッパからの移民を受け入れるとともに、そこに居住していたアフリカ人を排除し保護地区を設けて囲い込んだ。さらにホワイト・ハイランドを拡大するために、1902年にはウガンダ保護領東部州が東アフリカ保護領に組み込まれた。
1920年、東アフリカ保護領は直轄植民地となり、ケニア植民地と命名された。植民地政府は先住民登録条令(キパンデ制度)を施行し、アフリカ人の移動を制限するとともに、その労働力を確保することを試みた。このころになるとアフリカ人住民の危機意識も高まってきて、土地を奪われたキクユ人によって東アフリカ協会(EAA:East African Association)が結成された。1921年には、キパンデ制度の撤回、家屋税、人頭税の引下げ、賃金切下げの阻止、土地返還などを要求し、反植民地運動を開始した。その後、キクユ人、ルオ人、ルイヤ人などの大民族集団の間に、ナショナリズム的な政治運動が芽生えた。1924年に東アフリカ協会の後身として結成されたキクユ中央協会(KCA:Kikuyu Central Association)は、書記長ジョモ・ケニヤッタを中心として活発な活動を開始した。
第二次世界大戦中、アフリカ人の政治活動は全面的に非合法化されたが、戦後の1946年にイギリスから帰国したケニヤッタを党首に迎えたケニア・アフリカ人同盟(KAU:Kenya African Union。1944年結成)は活動を再開し、党勢を伸長させた。1950年ごろ、KAUの勢力拡大を恐れた植民地政府は、マウマウ団と称する反英武装結社の禁止を布告した。しかし、急進派の一部が蜂起(ほうき)し、親イギリス派のアフリカ人首長を襲撃しはじめると、植民地政府は1952年、非常事態を宣言してKAUに対する武力弾圧を開始した。この弾圧は、アフリカ人の死者1万人以上、ケニヤッタなど政治指導者を含めて逮捕者30万人以上を出す過酷なものであったが、同時にイギリスの植民地政策に転換を強いることにもなった。1954年、政府は土地問題と自治問題に関する変革に着手し、1957年の初めての選挙では、8名のアフリカ人議員が選出された。1959年、アフリカ人による即時独立を主張するケニア独立運動(KIM:Kenya Independent Movement)がオギンガ・オディンガJaramoji Oginga Odinga(1911―1994)を党首として結成された。1960年にはロンドンでケニア憲法会議が開催され、イギリスはアフリカ人の多数支配による政府樹立に踏み切った。ケニア・アフリカ人全国同盟(KANU:Kenya African National Union)やケニア・アフリカ人民主主義同盟(KADU:Kenya African Democratic Union)が結成され、1961年の総選挙ではKANUが第一党を占めた。1961年8月に釈放されたケニヤッタが総裁に就任、KANUによる内閣が組閣され、1963年12月12日にイギリス連邦内の自治国として独立を達成した。
[赤阪 賢・楠 和樹]
独立1年後の1964年12月、ケニアは共和制を宣言、建国の父ケニヤッタが初代大統領に就任した。対立していたKADUも全員がKANUに入党し、実質的な一党制となったが、KANU内部で親英米派と親ソ連中国派との対立が激化した。1966年、後者の側についていた副大統領のオディンガが辞職し、ケニア人民連合(KPU:Kenya People's Union)を結成した。1969年の総選挙で、KPUは中央政府の激しい選挙干渉にもかかわらずルオ人やルイヤ人の支持を得て9議席を確保した。しかし、同年に施行された公共治安維持法により、オディンガを含むKPU幹部は投獄された。1969年にはKPUも非合法化され、強権政治によりケニアの一党制が維持された。1978年8月にケニヤッタが86歳の高齢で死去すると、同年10月、リフト・バレー地方の少数民族トゥゲン出身で副大統領であったダニエル・アラップ・モイDaniel Toroitich Arap Moi(1924―2020)が第2代大統領に就任した。
モイは当初、ケニヤッタの強権的家父長的政治と一線を画したポピュリズム的(大衆重視あるいは大衆迎合的)政治を進めたが、左右両陣営からの不満が増大していった。1982年8月、ケニア空軍将校とナイロビ大学の学生など左翼陣営の急進派がクーデターを起こそうとしたが、陸軍や警察の支持を得たモイによって短期間で鎮圧された。以降、モイは憲法を改正して一党制を絶対化するなど、急速に強権的で家父長的な独裁政治体制を整えていった。モイの独裁政治に反対する勢力は、1990年代に入ると民主主義回復フォーラム(FORD:Forum for the Restauration of Democracy)を結成して政治と社会の民主化を強く要求しはじめた。これと呼応して国際社会からも人権抑圧を理由にした援助停止の要請が高まった。その結果、1991年12月にモイは憲法を改正し、複数政党制をふたたび導入することを決定した。1992年12月の大統領選挙では野党陣営の分裂に助けられ、モイが36%の得票率にもかかわらずかろうじて当選した(4選目)。その後、1997年に行われた大統領選挙においても野党陣営が分裂し、モイが当選した(5選目。モイは5選、24年間大統領職についた)。
モイの引退が決まった後の2002年12月末に実施された大統領選挙では、ついに野党が大同団結して選挙協力組織である全国虹(にじ)の連合(NARC:National Rainbow Coalition)を結成し、その統一候補に推された民主党(DP:Democratic Party)党首のムワイ・キバキMwai Kibaki(1931―2022)が当選した(DPは1991年の複数政党制導入に伴いKANUから離党したキバキが結成)。それにより、独立以降初めての選挙による大統領の交代が実現し、KANU政権が終焉(しゅうえん)することになった。
2007年の大統領選挙では、DPと複数政党で結成した国民統一党(PNU:Party of National Unity)候補で現職のキバキと、野党オレンジ民主運動(ODM:Orange Democratic Movement)から出馬したライラ・オディンガRaila Amolo Odinga(1945― )が全国を二分して争い、接戦の結果キバキが再選を果たした。しかしながら、中央選挙管理委員会の開票速報の中断やリードしていたオディンガが突然逆転されたりするなどのトラブルがあり、不正選挙の疑惑が生じた。その疑惑のさなか、キバキ勝利の最終結果報告を受けて深夜に異例の大統領就任式が強行されたが、それと同時に全国規模の暴動が発生し、ケニアは未曽有(みぞう)の混乱に陥った。与野党支持者の衝突や野党支持者と警察との衝突のほか、独立後の土地の不公平配分などに起因する民族間紛争が頻発した。
一連の選挙後暴動の死者は、全国で1000人を超え、国内避難民の数は60万人以上とされる。しかしアフリカ連合(AU:African Union)をはじめとする国際社会の調停努力により、アナン(前国連事務総長。在任1997~2006)を立会人として、2008年2月に与野党の間で連立政権発足に関する合意が成立し、同年4月にキバキを大統領、オディンガを首相とする連立政権が発足した。連立政権は選挙制度改革、憲法の見直し、選挙後暴動の処理などの課題に取り組んだ。2010年8月には大統領権限の制限、地方分権、女性の政治進出などの画期的改革を盛り込んだケニアの新憲法が発布され、ケニアは新しい時代を迎えることになった。
元首は大統領で任期は5年。議会は一院制で議員数(議席数)は222、議員の任期は5年である。
[赤阪 賢・楠 和樹]
独立後10年間の経済成長率は実質で平均6.7%に達し、ブラック・アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ地域)では最高であった。しかし石油危機やその後のコーヒー価格の低迷、干ばつ、人口の急増などの要因が影響して、1970年代後半以後、経済成長率は大幅に鈍化した。その後、政府が推進する構造改革のもと、観光業や建設業に支えられて、着実な経済成長を遂げてきた。2007年の選挙後の混乱、干ばつ被害、世界的な燃油(燃料油)や食料価格の高騰などにより、経済成長は一時後退したが、建設業や観光業が回復し、2010年の成長率は5.6%と持ち直している。
産業の中心は、紅茶、切り花、園芸作物、コーヒーを主要な産物とする農業である。ケニアの農業は、従来大農場と小農(小規模農業)の両者で成り立っていたが、独立以後ホワイト・ハイランドの300万ヘクタールもの広大な土地を、アフリカ人に分割する「100万エーカー計画」や「スクオッター計画」で、小農の育成に努めた。農産物はケニアの輸出の70%を占めるが、なかでも紅茶は2011年の全輸出額の23.8%を占め、農産物の輸出第1位の座を守っている。紅茶に続くのはバラの切り花など欧米、日本向けの園芸作物で、その割合は全輸出額の18.7%にも達している。輸出額第3位のコーヒーが占める割合が4.2%であることから、紅茶と切り花が今日のケニアの経済を支えているといえる。これら以外にも、ヨーロッパ向けの果物や野菜の輸出額も増大しつつあり、無公害の防虫剤としてジョチュウギク(除虫菊)の需要も高い。そのほか、サイザル麻、ワタ、サトウキビなどの商品作物、トウモロコシ、キャッサバ、サツマイモ、マメ類などが自給作物として栽培されている。牧畜も盛んで、ウシ1747万頭、ヤギ1712万頭、ヒツジ2774万頭、ラクダ297万頭(2009)が飼育されており、肉製品、皮革類の輸出も多い。
ケニアは軽工業も発達している。食料、飲料、タバコ部門のほか、自動車部品・修理、化学、石油、繊維、靴、布などの工業が盛んである。モンバサに立地する石油精製工業地帯で生産された製品は近隣アフリカ諸国に輸出されている。ケニアの工業は、アフリカ東部、中央部全体をマーケットとして発達している。
サービス部門では観光収入の比重が高く、2010年には161万人の観光客を迎えている。
貿易は、輸出が年間48億6700万ドル、輸入が119億5700万ドル(2010)で、大幅な輸入超過となっている。輸入品目では、産業用機械、石油製品、原油、自動車などが大半を占めている。おもな輸入相手国は中国、アラブ首長国連邦、インドで、日本は第5位である。輸出品目としては紅茶、園芸作物、コーヒーなどが上位を占めている。おもな輸出相手国はウガンダ、イギリス、タンザニア、オランダである。通貨はケニア・シリング(KES)。ケニアはタンザニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジとともに域内協定を推進する東アフリカ共同体を構成している。
[赤阪 賢・楠 和樹]
ケニア国民は40以上の民族集団によって構成されている。もっとも人口が大きいのがキクユ人で、全人口の17%(2009)を占めている。以下、ルイヤ人(14%)、カレンジン人(13%)、ルオ人(10%)、カンバ人(10%)が続いている。これらの民族は政治勢力として競い合ってきた。多民族社会であるケニアの独立に際して、初代大統領ケニヤッタは「ハランベー」(力をあわせて働こう)というスローガンによって、民族対立を捨て国民的統合を求めた。2代目大統領のモイは、「ニャヨ」(あとに続こう)のスローガンで次のステップを踏み出し、自助による発展のため、愛、統一、平和の精神で各民族の共働を呼びかけた。一方、民族のそれぞれの文化に固有な伝統的生活様式もなお強く残っており、マサイ人やトゥルカナ人は自然に依存した牧畜文化を強く保持している。
公用語は英語で、スワヒリ語が国語となっている。スワヒリ語はモンバサなどのインド洋岸のコースト・スワヒリと、ナイロビなどの高原地域のアップ・カントリー・スワヒリとが、それぞれ共通語として普及している。
8年制(6~14歳)の初等教育は2003年から原則として無償化されている。大学は、ナイロビ大学などの公立総合大学が7校、公立総合大学を構成する単科大学が15校ある。公立校のなかには、1981年に日本の援助によって開校したジョモ・ケニヤッタ農工大学が含まれる。そのほかにも、私立大学が31校ある。
宗教は、キリスト教の独立教会など多くの宗派が活発に活動しており、人口の83%(2009)がキリスト教徒である。イスラム教徒は人口の11%で、イスラム教は海岸地域や北部の乾燥地域に普及しているが、ナイロビなどの都市でも多い。
[赤阪 賢・楠 和樹]
日本とケニアは良好な関係を保っており、日本人旅行者も多い。1963年(昭和38)のケニア独立と同時に日本は国家承認し、翌1964年に駐ケニア大使館を設置した。1979年にはケニアが駐日ケニア大使館を開設している。2010年(平成22)のケニアから日本への輸出額は2600万ドルであった。おもな輸出品目はバラ、紅茶、コーヒーなどである。また、2010年の日本からの輸入額は7億3500万ドルで、おもな輸入品目は自動車、鉄鋼、電気製品などである。ナイロビなどケニアに在住の日本人は649人(2011)に及び、日本人学校もある。また、日本には549人のケニア人が在留している(2009)。
日本は、ケニアにとって主要な協力・経済援助のパートナーの一つでもある。ケニアに対する政府開発援助(ODA)は1963年のケニア人研修生受入れに始まり、1964年には日本人専門家が、1966年には青年海外協力隊員がケニアに派遣されている。2009年の日本からの経済協力ODAは約3366万ドルで、同年までのODAの累計額は22億9068億ドルに達している。2009年までに、日本は3500人以上の技術専門家や青年海外協力隊をケニアに派遣し、ケニアから受け入れた研究員の累計者数は6647人にのぼる。
日本とかかわりの深い人物としては、2004年にアフリカ人女性として初めてノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイがあげられる。彼女は2005年に来日した際に日本語の「もったいない」ということばを知って感銘を受け、環境保護や平和運動の実践理念としてこのことばを世界中に広めた。
[赤阪 賢・楠 和樹]
『吉田昌夫著『世界現代史14アフリカ現代史2 東アフリカ』(2000・山川出版社)』▽『武内進一編『現代アフリカの紛争――歴史と主体』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』▽『ARC国別情勢研究会編・刊『ARCレポート ケニア2010/2011年版』(2010)』▽『松田素二・津田みわ編『ケニアを知るための55章』(2012・明石書店)』▽『宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』(講談社)』
基本情報
正式名称=ケニア共和国Republic of Kenya
面積=58万1313km2
人口(2010)=4040万人
首都=ナイロビNairobi(日本との時差=-6時間)
主要言語=スワヒリ語,英語
通貨=ケニア・シリングKenya Shilling
アフリカ大陸東部にある共和国。国土は赤道をはさんで北緯4°40′~南緯4°40′,東経34°~42°に位置し,南東部でインド洋に面する。
基本的な地形はアフリカの多くの国々と同じく,先カンブリア紀の古い基盤が浸食されてできた,ゆるやかな波状を呈する高原である。しかしケニアには第三紀以降に噴出した溶岩台地や火山が多く,またインド洋に注ぐタナ川とエワソ・ヌギロ川の下流部に第四紀堆積物が広く分布するなど,比較的新しい地質がある点で特徴的である。標高900mの等高線を境にして,低地ケニアと高地ケニアとに国を二分することができる。低地ケニアはインド洋岸の狭い海岸平野と,その背後の広い高原のほか,北部国境付近一帯を含む。この地域は相対的に低地というだけでなく,海岸地帯を除けば雨が少なく,人口も希薄な地域である。これに対して高地ケニアは国の南西部を占め,温和で降水に恵まれた山地と,ビクトリア湖岸地方を含んでおり,人口の集中する地域である。インド洋岸の海岸平野は,急崖で画される何段かの隆起サンゴ礁からなっている。港湾都市モンバサは深い水路で本土と分かれた島に立地するが,この水路は氷河時代の海面低下期に下刻された谷が沈水してできたものと解されている。
ケニアの最も顕著な地形は,国の中央部や西寄りを南北に貫く東リフト・バレー(アフリカ大地溝帯の一部)である。この地溝底にはトゥルカナ(ルドルフ湖)をはじめ,ナクル,ナイバシャなどの内陸湖と,メネンガイ,ロンゴノットなどの火山があり,リフトの縁辺部にもアーバーデア山脈やマウ山地のような火山がある。リフト・バレーからやや離れた所には,ケニア山とエルゴン山が噴出している。
赤道地方としては珍しく降水量が少ない。11~3月に北東モンスーン,5~9月に南東モンスーンと呼ばれる風が卓越し,この交替期に当たる4~5月と10~11月ころが一般に雨季になる。1~3月と7~8月は乾季である。年2回ずつの明瞭な雨季と乾季をもつ気候に対応して,イネ科の草本が優占するサバンナや,傘のような形をしたアカシアの木が疎生するサバンナが広く分布し,多くの野生動物が生息する。北東部の低地ケニアは年降水量が250mmにもならない半砂漠である。高地ケニアのケニア山やアバデア山地の東斜面,ケリチョ・キシイ地方は年1500mm以上の安定した降水量がある。海岸のモンバサでの年平均気温は26.4℃であるが,標高1600mのナイロビでは18.3℃で,7月には最低気温が10℃以下にまで下がることがある。
執筆者:中村 和郎
人口分布は均等ではなく,4分の3が農業に適した約10%の地域に集中している。住民構成は大部分がアフリカ人である。そのほかアジア人(インド系,パキスタン系がほとんど)や白人が主として都市部に,アラブ人が海岸地域に居住し,ケニアの市民権を取得している場合も多い。またタンザニア,ウガンダ,ルワンダ,ソマリア,スーダン,エチオピア,コンゴ民主共和国など近隣の国々から流入しているアフリカ人もいる。都市人口は20%(1995)にすぎないが,第2の都市モンバサ(46万。1989年。以下同じ)や,マリンディ,ラム,キリフィなどインド洋岸の諸都市は,アラブとの通商航海で繁栄した港町に起源をもつ。内陸の大部分の都市は植民地時代に行政中心として建設されたもので,代表的なものに首都ナイロビ(134万),ナクル(16万),エルドレット(10万),キタレ(5万),ニエリ(8万)がある。マガディはソーダ工業,ティカやアティ・リバーはセメント工業および食肉加工業などにより発達した。キスム(18万)はビクトリア湖に面し,内陸交通の中心となっている。
ケニアには30~40の部族が居住するといわれてきた。これらの部族の文化的背景は複雑である。バントゥー語系の農耕民のなかではケニアで最大の人口(445万)のキクユ(ギクユ)族がケニア山の南の高原に居住し,その東にカンバ族(244万),メルー族(108万),エンブ族(25万)などが居住している。西部の肥沃な土地にはルヒヤ族(ルイヤ。308万),キシイ族(131万)などの農耕民が住んでいる。ナイル語系部族の代表は西部のルオ族Luo(265万)で,キクユ族と並ぶ人口をかかえ,政治的にも鋭く対立してきた。パラ・ナイル語系の牧畜民は中央の乾燥地帯に居住するが,その代表は伝統的な文化を保持するマサイ族(37万)である。ほかにリフト・バレー近くの高原地帯にはキプシギス族,ナンディ族,ポコット族,マラクウェット族,トゥゲン族などがいるが,彼らは〈カレンジンKalenjin〉という比較的新しい集合的アイデンティティを持つにいたり,国勢調査でも同一カテゴリーに含められる。カレンジンの人口は246万である。ほかに北部の半砂漠地帯にはパラ・ナイル語系のトゥルカナ族(28万),や,クシ語系のソマリ系住民(42万),レンディーレ族,ボラナ族,ガブラ族,ガラ族などのラクダ,羊,ヤギなどを飼養する牧畜民が分布する。
キクユとルオの対立にみるような部族対立の解消のため,初代のケニヤッタ大統領は〈ハランベー(力を合わせて働こう)〉のスローガンを掲げて国民としての統合を求めた。有力部族のキクユ族から出たケニヤッタが亡くなったあと,後継にはキクユ,ルオ,カンバなどの有力部族を避け少数部族のトゥゲン(カレンジンに含まれる)出身のモイ大統領が選出された。今日のケニアでは,公式文書などから部族tribeの語句の使用が控えられているのも,部族意識からの脱却のひとつの努力であろう。ケニアの宗教はキリスト教のカトリックやプロテスタントの各派が浸透しているが,アフリカ独立教会諸派の伸長も著しい。海岸地域や都市にはイスラム教徒も多い。村落部には伝統的な宗教も残っている。スワヒリ語が1974年に公用語と定められ,英語とともに共通語として広く話されている。人口の多いキクユ,ルオ,カンバなどの言語も,ラジオやテレビなどに用いられる。
執筆者:赤阪 賢+編集部
海岸部は海上交易の要衝として,古くはローマ帝国時代の文献にも言及されている。7世紀以降アラブが沿岸部に進出し,のちにモンバサ,マリンディ,ラムなどの港町が交易の拠点としてにぎわった。内陸部が外部世界と頻繁に接触するようになるのは,18世紀末からのアラブによる奴隷・象牙貿易を通じてである。19世紀中葉からヨーロッパ人宣教師,探検家が来訪し,イギリス・ドイツ間の領土争いの末,同世紀末にイギリスの勢力下に入った。1888年帝国イギリス東アフリカ会社が勅許を得て通商,統治を開始し,95年にはイギリス政府が自ら統治に乗り出し,東アフリカ保護領が形成された。さらに1920年にはザンジバルの首長の権益が残っていた海岸部を合わせて,ケニア植民地および保護領となった。この間,01年にウガンダ鉄道(インド洋岸のモンバサからビクトリア湖岸のキスムまで)が完成し,02年にはウガンダ保護領東部高地が東アフリカ保護領へ編入され,また原住民占有地以外の土地譲渡に関する法令が公布されるなどして,白人入植者がしだいに増大した。さらに06年に中央高地を白人のみへ譲渡することが決定され,その法的承認(1915)により,コーヒー,トウモロコシ,小麦栽培や酪農経営の白人入植者混合農場と,会社組織のサイザル麻,紅茶大規模プランテーションとからなるホワイト・ハイランドWhite Highlandが形成されていった。白人入植者は保護領立法審議会設立(1907)当初からそれに代表を送り込み,政治的にも経済的にも主導権を握る植民地体制が確立されていった。
少数白人支配にまず異議を唱えたのは,技術者,商人,中級公務員として植民地体制に組み込まれていったインド人移民である。彼らは参政権と土地譲渡における人種差別撤廃を要求して20世紀初頭から運動を行ったが,1920年代を最盛期として沈滞していった。白人に土地を取り上げられ狭い原住民保護区に押し込められたアフリカ人は,植民地政府の徴税制度と労働力調達措置によって,しだいに白人入植者農場あるいはプランテーションの農業労働者となっていった。彼らの民族運動は20年代に失地回復,租税軽減等の経済面から起こり,30年代には伝統文化擁護と教会を離れた教育施設設立という文化面がこれに加わる。そして44年立法審議会に初めて1人の代表を送り,同年ケニア・アフリカ人同盟(KAU)が結成され,47年ケニヤッタがKAU党首に就任して,民族運動は活発となった。50年代初期に各地でテロ事件が相次ぎ(マウマウの反乱と呼ばれた蜂起がその最大のもの),植民地政府は52年戒厳令をしいてケニヤッタを含む200名のKAU指導者をマウマウ団関係者の名目で逮捕した。マウマウの蜂起は54年に一応鎮静化するが,植民地支配の大きな転機となった。
50年代後半になって,アフリカ人小農に換金作物栽培を奨励する計画やアフリカ人保有地を調整,登記してアフリカ人の私有権を確立する政策が打ち出される一方,ホワイト・ハイランドや教育施設での人種差別撤廃が発表された。また立法審議会のアフリカ人議員数も大幅に増員された。この時期,白人入植者側もアフリカ人側も政治勢力は分裂状態にあったが,60年1月の第1回ケニア制憲会議(ロンドン)で共通選挙名簿による選挙を行い,多数支配の政府を樹立することでアフリカ人側統一代表と白人穏健派が合意した。制憲会議後,アフリカ人側にはケニア・アフリカ人民族同盟(KANU)とケニア・アフリカ人民主同盟(KADU)の2政党が結成された。そして翌61年2月の総選挙後,アフリカ人少数派KADUと白人穏健派の連立内閣が成立した。62年2月からの第2回制憲会議(ロンドン)で独立が討議され,63年5月,全議席に対し1人1票による総選挙が行われ,KANUが大勝利した。翌月党首ケニヤッタを首相とする内閣が成立,同年12月12日独立を達成した。64年12月中央集権的な新憲法発布と同時に共和制に移行し,ケニヤッタが初代大統領に就任した。
立法は選出議員(任期5年)188名,大統領任命議員12名,法務長官および報道官の計202名より構成される一院制の国民議会が担当している。行政は直接選挙による任期5年の大統領が国民議会議員の中から副大統領と各省大臣を任命して担当している。64年に諸政党がKANUに合流したが,主として経済発展路線をめぐる内部対立から66年にKANU副党首オディンガOginga Odingaが新党ケニア人民連合(KPU)を結成した。政府は同年制定した公共治安維持法によりKPU幹部を逮捕し,69年のKANU有力指導者ムボヤTom Mboya暗殺事件後KPUを非合法化して,事実上一党制となった。ケニヤッタ政権は71年クーデタ未遂事件,75年に所得の不平等分配や汚職を与党内から批判していたカリウキJ.M.Kariuki議員の暗殺事件などの政治的危機を経験したが,比較的安定していた。78年にケニヤッタが死去し,モイDaniel Arap Moi(1924- )副大統領が第2代大統領に就任した。82年8月にクーデタ未遂事件が発生したが,モイは83年,88年,92年の選挙で再選された。1982年に憲法を改正し,それまでの事実上のKANU一党制を憲法で明文化した。しかしながら,モイが次第に強権的な政治手法を用いるようになったことに国内外からの反発が強まり,91年に複数政党制に復帰した。92年の大統領選挙と国民議会議員選挙は,KANUと複数の対立政党で争われたが,モイと彼の率いるKANUがかろうじて勝利した。複数政党制復帰前後から,海岸部や中西部において,土地問題をめぐるエスニックな対立が深刻化している。
対外関係では,イギリス連邦,国連,アフリカ統一機構に加盟している。タンザニア,ウガンダと結成(1967)していた東アフリカ共同体は77年に崩壊したが,94年に再び両国と経済協力機構の設置で合意している。また,東南部アフリカ共同市場(COMESA)の加盟国でもある。
教育制度は,小学校(8年制),中学校(4年制),大学(4年制)のほか各種職業訓練学校があり,学齢期児童の就学率は高い。
ホワイト・ハイランドのアフリカ人への土地再分割が独立直前から開始され,百万エーカー入植計画などの諸計画のもとで,1970年までにホワイト・ハイランドの1/5にあたる60万haにアフリカ人3万5000家族が入植した。これらの計画では,白人入植者から農場を市場価格で買い取りアフリカ人に売却する方式を採用したため,残留白人農場の生産の大幅な減少を免れたものの,アフリカ人富農層を中心に土地を再配分する結果となった。また公務員や民間企業管理職を白人やアジア人からアフリカ人に替えていくアフリカ化政策により,アフリカ人の高給ホワイト・カラー層が出現した。これらの過程によって,植民地期の人種別の不平等な所得分配構造は,独立以後アフリカ人内部での不平等として温存され,しばしば政治問題化している。
独立以降1970年代末まで,ケニアはアフリカ諸国で有数の経済発展を達成してきた。しかし,財政赤字,累積債務,貿易赤字が次第に大きな負担となって,82年に構造調整政策を導入して,経済全般の再建を図っている。基幹産業はGDPの1/3を占める農業で,労働人口の3/4が従事し,輸出額の1/2以上が農産物である。おもな輸出作物はコーヒー,紅茶で,近年は花,野菜,果実などの園芸作物の増産もめざましい。これら以外に,除虫菊,サイザル麻,食肉,皮革も輸出されている。国内食糧はほぼ自給体制にあるが,70年代末,80年代半ば,90年代初めには干ばつのため主食のトウモロコシを輸入した。農業生産は増大傾向にあるが,厳しい気候条件の下で生産量が安定せず,また国際価格の変動に左右されやすいため,農業に基盤を置くケニア経済は脆弱であるといえよう。他の産業では,製造業が独立当初の輸入代替工業化から外資導入政策による輸出指向工業化へと広がり,東アフリカ随一の工業国である。主要な製造業部門は,石油精製,農産物加工,自動車組立て,化学,繊維,金属加工,ゴム,材木加工,皮革加工であり,輸入原油を原料とする石油精製業は近年まで最大の外貨収入源であった。
野生動物の豊富な国立公園,年間を通じて気候温和なナイロビ,海水浴に適した海岸部など,多様な自然環境を生かして欧米を中心に多くの旅行客を集めている観光業も,ケニアの重要な産業の一つとなっている。
独立以来親欧米的な経済開発路線を採用してきたため,順調に経済援助を受けてきたが,90年代に入って人権抑圧問題等をめぐって援助側とケニア政府が対立し,援助凍結の事態も発生している。
執筆者:池野 旬
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赤道直下の東アフリカに位置し,海岸部はインド洋交易の要衝としてスワヒリ文化を育んだ。15世紀末同交易にポルトガルが進出,さらに18世紀末以降オマーンの影響下で象牙,奴隷を扱う内陸部との長距離交易が進展した。1888年帝国イギリス東アフリカ会社が統治通商を開始,95年イギリスの東アフリカ保護領となり,1901年港市モンバサと内陸を結ぶウガンダ鉄道が開通,20年ケニア植民地(内陸部)および保護領(海岸部)が成立。ホワイト・ハイランドの形成に代表される白人入植者優遇策に対し,20年代インド系移民が差別撤廃運動を,50年代キクユ人が民族独立運動マウマウ戦争を展開し63年に独立。90年代には一党独裁から多党制に移行し,2002年12月初の政権交代が実現。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…植民地時代のケニア,ウガンダ,タンガニーカ,ザンジバルの4地域の総称。場合によってはインド洋上のセーシェル諸島も含める。…
※「ケニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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