中国,古代の時代名。周の平王が洛陽の成周に東遷即位した前770年から秦始皇帝が中国を統一した前221年まで。この間の大部分に周王室は東の成周に存続したので東周時代ともよぶ。また前453年で前後に二分し,前半を春秋時代,後半を戦国時代とよぶ。前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国である晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。このうち燕は,北方から南下した蛮族に包囲され,春秋時代にはその歴史が不明であり,戦国になって急激に強大となる。春秋初期に活躍したのは鄭で,周王室の東遷を助け,北方からの圧力に斉のために出兵した。しかし前7世紀初になると鄭は衰え,かわって斉が力を持ち,その桓公(在位,前685-前643)は,北方の蛮族のために国を奪われた邢(河北省邢台市)と衛の2国を再興させ,また南方から蔡,鄭などに侵入した楚を撃退し,前651年に諸侯を葵丘(河南省考城県)に会し,周王を中心として団結し,秩序維持に努めることを誓った。諸侯が集って誓いをすることを会盟という。諸侯の再興や会盟は本来は周王の任務であり権利であったが,この時期の周王にはその力がなく,有力な諸侯が王にかわって行った。この有力諸侯を覇者とよぶ。桓公は第一の覇者であり,以後歴史は覇者を中心として動く。
桓公の没後,かわって登場するのが晋で,その文公(在位,前636-前628)は周王室の内乱を鎮め,前633年には北上する楚を城濮(山東省濮県)で破り,践土(河南省滎陽県)に周王を迎えて,楚の捕虜などを献ずるとともに,諸侯に王室への忠誠を誓わせた。こののち華北では晋が覇者の地位を保っていたが,南の楚が勢力を増し,北上の力を強め,鄭などをその傘下に入れるに至った。前606年には楚の荘王(在位,前613-前591)は洛陽の南の蛮族を討ち,周の国境近くで観兵式を行って力を誇示し,周王の使者に対して,王位の象徴として王室に伝えられた九鼎の軽重を問い,これを楚に移して王位を譲ることを暗に求めたといわれる。これ以後,歴史は楚を中心とする南と,晋を中心とする北との対立の形勢となり,両強国の間にあった諸国は,2国の抗争に巻き込まれ,戦いに明け暮れた。しかも諸国の内部では身分制が崩れて内乱が頻発したため,しだいに平和を求める声があり,前546年に宋の都で晋・楚など10ヵ国の大夫が集まり和平の誓いがなされ,10余年の平和が保たれた。この間,2国はそれぞれ諸国を集めて会盟を行い,しだいに国家連合が形成され,統一国家への気運が出はじめた。
一方,その後江南に呉と越の2国が勃興し,影響を与えることになった。まず呉が前6世紀末には連年楚を攻め,前506年には一時楚都の郢(えい)(湖北省江陵県)を占領するにいたった。このとき呉王闔閭(こうりよ)(在位,前514-前496)の出陣のすきをついて,南の越の王允常(在位,前510-前497)が呉を攻め,以後呉・越の間に臥薪嘗胆で有名な死闘が繰り返された。その間にも呉は北上して魯,斉を屈服させ,前482年黄池(河南省封丘県)で諸侯と会盟し,盟主となったが,そのすきに越は呉都を攻め,前475年に呉都を包囲,前473年に呉を併合した。のち越も北上し,河南南東部,山東南部の諸侯を勢力下に置き,一時都を会稽(浙江省紹興)から北の瑯琊(山東省膠南)にうつしたが,前5世紀中ごろには急速に衰退した。この間上記の春秋の大国のうち曹が前487年宋に,陳が前478年楚に併合された。一方諸国内では大夫が諸侯を抑え,さらに士が大夫を制するといった下剋上の気風が強まり,魯では孟孫・叔孫・季孫の三大夫の家が国政を左右し,一時は季孫氏の臣であった陽虎が政権を握った。北方の大国晋でも,韓,魏,趙,知,范,中行の6氏が強大となり,晋侯の力は失われ,前453年に,韓,魏,趙の3氏が晋を分割し,前403年に周王より正式に諸侯と承認され,また斉では陳からの亡命大夫田氏が斉侯を凌駕し,前386年には完全に国を奪い,斉侯として周王に認められた。
しかし,韓,魏,趙は,周王の承認以前から独立の諸侯として行動し,とくに魏は戦国初期の強国として台頭し,文侯(在位,前445-前396)は,従来の身分制を打破して,実務政治家を官吏として登用し,後述のごとく富国強兵に努め,陝西北東部まで領土を拡大した。しかし西方の秦が魏の進出を阻止したので,東に力を向け,都も安邑(山西省解県)から大梁(河南省開封)にうつし,前354年に趙の都邯鄲(河北省邯鄲)を攻め,前343年には南の韓に侵攻したが,いずれも救援の斉に敗れ,以後勢を失うにいたった。魏を抑えた斉は前4世紀の後半に極盛期を迎え,威王(在位,前356-前320),宣王(在位,前319-前301)のときには,都の臨淄は最も繁栄した都市となり,諸国から多数の学者が招かれ,自由な討論研究が許された。外へは,当時北に勢力を拡大していた燕を攻め,前314年には燕の基幹である河北地方の全域を一時占領するに至った。しかし,この後の斉は対外的に進出を行うことは少なく,その力は下降した。一方,燕は前284年には韓,魏,趙,楚,秦を誘って斉に侵入し,都の臨淄を一時占領したが,まもなく連合軍は瓦解して兵を引きあげた。以後燕は東北地方から朝鮮北部に勢力を伸ばした。
山西にあった趙は,初め晋陽(山西省太原)を都としていたが,前386年に邯鄲にうつり,中央への進出を図ったが,魏などに抑えられ,北方に転じた。武霊王(在位,前325-前299)は北方遊牧民の騎馬戦術を採用して兵制を改革し,河北にあった中山(河北省平山)を併合し,陝西北部から内モンゴル南部まで領土を拡大した。しかし燕,趙ともに中央の情勢に大きな影響を与えるに至らなかった。また南の楚は,旧来の貴族の力が強く,新しい富国強兵策が十分でなく,つねに西北から秦の圧力を受け,かえって東の浙江,江蘇あるいは南の湖南に勢力を進めたため,中央に進出することはあまりなかった。当時中央を占め,その勢力範囲に周王室をも包摂していた韓(河南省宜陽,のち河南省禹県,河南省新鄭)は,四方を強国に囲まれ,強大になることはなかった。
このような状況に対し,西方にあった秦は前4世紀前半には魏に奪われた陝西東部の回復に着手し,孝公(在位,前361-前338)は衛から亡命してきた商鞅を登用し,法治主義の政治体制を整え,農民を再編成し,軍功による爵位の制度を設け,地方の行政組織として県を置き,官吏を派遣して治めるなどの改革を行い,さらに都を雍(陝西省鳳翔)から東の咸陽(陝西省咸陽)にうつして東進の態勢を整え,魏の領内に侵攻した。さらに韓の西部を攻めるとともに,漢江を下って楚に攻撃を繰り返した。この秦の攻撃を恐れた韓,魏,趙,斉,楚,燕の東の6国は連合して秦に対抗しようとしたり,あるいは秦と同盟して他国を攻め,自国への秦の攻撃を避けようとした。前者を合従策,後者を連衡(連横)策という。蘇秦は合従策を主張し,前333年に趙を中心とする6国の同盟に成功したが,秦は各国の利害の対立を利用して,同盟を瓦解させ,張儀を派遣して連衡を説かせ,外交面でも6国をかく乱する方策をとった。しかも前4世紀末には現在の四川地方から甘粛東部を領有し,豊富な物資と後背地を確保して,東進を強めた。その主要な矛先は魏と楚に向けられ,魏は本来の基盤であった山西地方,楚は湖北西部を失った。さらに前3世紀に入ると,中央の韓を攻めて洛陽に迫り,北では趙を攻めて山西北部を奪い,南では河南中部の楚領を攻めた。以後,一時趙が秦の進攻を阻止するかにみえたが,ほとんど秦の一方的な攻撃が行われ,とくに前262年趙との間で行われた長平(山西省高平)の戦で,降服した40万の趙兵を一夜で坑(あな)埋めして殺したことは,各国の兵に秦に対する恐怖心を惹起し,抵抗を弱めさせた。秦は前256年に周王室を滅ぼし,前246年に秦王政(のちの始皇帝)が即位し,蒙恬(もうてん)らの名将を派遣し,前230年に韓を滅ぼしてより,趙,魏,楚,燕と順次打倒し,前221年に最後の斉を滅ぼして,中国を統一するにいたった。
この時代初期には,社会的に王侯,卿・大夫,士,庶人の4級の身分があり,その下に奴隷があったとされる。卿・大夫は身分としては一つであるが,王侯の下で政治上の重要な相の地位についた大夫を卿とよぶ。大夫は王侯の同族の有力者や異族の重臣,土着豪族の族長に土地,民を与えて領主としたものである。彼らは国政にかなりの発言力をもつ一方で,官職,軍事などで王侯に奉仕する義務を負った。士は大夫一族の下層のもの,あるいは農村の邑長や族長などであったと考えられ,支配機構の末端に位置した。庶人の大部分は農民であった。商人,手工業者の身分は明白でないが,その利益によって土地を入手し,ときにその生産品を王侯に納めて,士以上の力をもつものがあった。その労働者の多くは奴隷であった。《礼記(らいき)》という書物に,〈礼は庶人に下さず,刑は大夫に上(のぼ)さず〉という。礼は,各身分間の関係を規定した制度で,当時黄河流域の諸国のあいだでは共通した社会的規範として認められていたが,庶人はその規範の埒外(らちがい)におかれていたことを意味し,士までが一応支配階層として考えられていたことを示している。
刑(主として肉体刑)は大夫や王侯には適用されず,士,庶人がその対象であった。これは士が本来は被支配階層に属するものであったことを意味する。士は政治の必要から,被支配階層から登用されて支配階層の末端に加えられたといえる。この士は,王侯の直轄領にも,大夫の領内にも多数存在し,農民からの租税の徴収や力役への徴発などは,彼らを利用して行われた。したがって士は農民などの実情をつねに掌握していたので,春秋後半になるとしだいに政治上の発言力を強めた。とくに農民のあいだに貧富の差があらわれると,従来村落を単位として徴収されていた租税を,個々の農民の耕作実態に応じて徴収するようになり,いっそう重視された。ときに国都に定住して不在領主となった大夫に代わって,実際に領地を掌握するものもあらわれた。一方,大夫のあいだでは,王侯と同族のものが政治に強い力をもっていたが,しだいに異族出身の大夫がこれに代わった。異族大夫は国都より遠隔の地に領地を与えられていたが,かえって領地の周囲を積極的に開拓して力を蓄え,春秋後半には同族大夫を凌駕したのである。晋の韓,魏,趙,智などがその例である。
かくして諸侯よりも大夫が実権を握り,会盟などの外交すら大夫によって行われた。また大夫の族内では,家長である大夫が分家などを抑え,士を利用して領内を一手に掌握する傾向が強くなる。韓,魏,趙などはその典型で,戦国時代の国君はその延長上にあり,国君が士を官僚として直接政治を行い,農民を把握する。地方を貴族に与え領地として支配させる封建制に代わり,郡県として地方官を派遣して支配するようになる。これを郡県制とよび,秦・漢以後の地方行政の基本となるものであり,春秋後半には開始される。戦国初期の魏の文侯が政治改革に登用した李悝や西門豹などは官僚の先駆である。この魏の改革の基本は,農民をはじめ国の構成員をすべて一つの法体系のもとに掌握し,個々の人民から直接租税を徴収して国家財政の基礎とし,貴族の政治への介入を排除しようとするものであった。この傾向はすでに春秋後半にあらわれ,前594年に魯では農民の耕地面積に応じた徴税が行われ,やや遅れて,鄭では宰相子産が,農民を什伍制によって再編成し,隠田(かくしだ)の調査をしたり,新たに軍事費を負担させたり,慣習法に代わって成文法を発布している。これは上述の身分制が崩れ,農村の分解が生じてきたために,従来の慣習法では社会秩序が保てなくなったからであり,また春秋後半から鉄製農具が盛行し,私的な開墾なども行われて,生産が増大し貧富差が拡大してきたことによるものであった。このような改革を徹底させたのが,上述の秦の商鞅の政策であり,農民をも大量に動員して歩兵を主力とする軍制をも発展させた。
また鉄器の盛行は,鉱工業でも生産を増大させ,銅鉱山での採鉱も大規模となり青銅器が兵器や貴族の間での日常の実用器や装飾品として大量に使用されるようになった。そのほか漆器や陶器製造にも分業と大量生産が行われ,これに応じて商業も盛んになった。各国の国都などの大都市には大商人が多数おり,貨幣を発行し(のちには国が発行する),国境を越えて遠隔地とも大規模な取引きが行われた。戦国初期にはすでに農村にまで貨幣経済が浸透し,穀物が投機の対象とされ,土地を失う農民があらわれた。彼らは都市に流入し,大商人や手工業者の奴隷労働者となった。このため諸国で重農抑商政策が採られ,この点でも秦が強い政策を行った。しかし戦国時代を通じて,商人の力は衰えず,秦王政を補佐して宰相となった呂不韋(りよふい)も衛の大商人であった。商品は各国の国境や,国内の関所や渡し場で通行税を課せられた。この関税や,山林などに課す税は王侯の私的な収入となり,功労に対する恩賞や私的家臣の禄として使用された。これに対して農民からの租税は国家の公的収入として国政や官吏の俸禄などに充当された。また軍事費は人頭税(賦とよぶ)によってまかなわれた。大規模化する公私の財政を運営するためにも有能な官吏が必要とされ,官吏は本人一代限りのものとして君主によって任命され,またその成績に応じる信賞必罰が説かれ,最近湖北省雲夢県で《官吏心得》も発見された。
この《官吏心得》は,戦国末の秦で公布されたものであるが,その内容は上述の商鞅の著書とされる《商君書》(成立は戦国末)と共通する思想がみられ,また荀子の思想の影響がみられる。荀子は儒家といわれ,商鞅は法家といわれる。このように戦国末には異なった思想がいくつもみられるが,その源流は春秋末に出た孔子である。西周王朝滅亡後,春秋時代を通じて,天を中心とする宗教意識が衰え,代わって人間が生得にもつ徳=仁(人間相互の親愛観念であり,その根本は親や上長に対する孝悌であるとされた)を完成するために修養が大切であると説いたのが孔子である。彼は個人で多くの弟子を教育した最初の人物であり,その流れをくむ思想家を儒家とよぶ。孔子の死後,儒家は,個人的な修養を第一とする曾子,子思の派と,仁を実現するために社会的規範である礼を重視する卜子夏の派に分かれた。前者から孟子があらわれた。孟子は,人間の本性は善であり,その本性を開発して徳を完成させるための修養を重視し,すぐれた君主の徳によって世界を安定させる必要を説いた。後者からは戦国中期に法家が派生した。
法家は,礼を守るために法を重視する立場で,魏で政治改革を行った李悝は中国で初めて法律を体系化した人物であり,商鞅はその影響を受けた人物であるが,彼らは実際の政治家として法を現実に適用することに努め,法思想としての体系化はあまり意識しなかった。思想的に体系化をしたのは,儒家とされる荀子である。彼は礼を守るために必要とされた法そのものを礼であるとし,人間の本性は欲望に支配された悪であるから,すぐれた王がそれを規制するために定めるのが礼=法であるとした。この荀子の影響を強く受けた韓非子は,王によって定められた法を励行するのが官吏の任であり,そのために官吏の才能を把握し,成績を監督し,信賞必罰を行うのが王の任務であるとし,王を頂点とする法による支配を理念化した。一方,戦国中期には,儒家,法家とは別に,都市下層民を中心に墨家が形成された。刑余者あるいは手工業奴隷の出といわれる墨子は,初め儒家に学んだが,その煩瑣な礼を不満とし,また儒家が仁愛を説きながら,親疎によって愛に段階を設けるのを嫌って,無差別な愛と倹約を説き,他人を侵すことを否定した。これは戦争をはじめ,つねに社会の犠牲にされるのが都市下層民であったからである。しかも都市が攻撃されるのを防ぐため,指導者を中心とした強固な戦闘集団をつくって活動する必要を説き実行した。この墨子の思想は,戦国時代には儒家とともに盛行したが,末期にはその戦闘性を嫌った秦によって強い弾圧を受け,ほとんど消滅してしまった。
以上の思想家はいずれも,弱肉強食の時代にあって,積極的に政治に影響を与えようとしたが,この態度を否定して,自然のなりゆきにまかせ,人為を排し無為を重視したのが老子である。彼は現実に存在する大国を否定し,自給自足の村落のごとき国を理想としたが,その根底には,有も無もともに一つの道(原理)によって成立し,つねに相通じ,有から無へ,無から有へと自然に変化するから,人為を必要としないのを最高とする考えがあった。この道を根本とする考えをさらに発展させ,大小,善悪,賢愚,生死などすべての差別は,同じ道のあらわれ方のちがいにすぎず,差別にとらわれずに自由に生活を楽しむべきであると説いたのが荘子である。老子や荘子の考えは,道を根本として構成されるので,道家とよぶ。このほか論理学を説く名家,陰陽論を説く陰陽家,上述の蘇秦・張儀のごとく外交術を説く縦横家,農業技術や農民思想を説く農家など多くの流派の思想家が活躍し,互いに影響しあい,中国史上最も自由に思想が説かれた時代であり,これらを諸子百家と総称するが,後世に大きな影響を与えたのは儒家と道家であり,法家は思想として表面にあらわれなかったが,儒家の徳をたてまえとする政治を支える技術としてつねに利用された。
このように多様な思想が自由に展開したのは,人間精神の躍動を示すものであり,これは芸術にもあらわれた。春秋前半の青銅器は西周を受け継ぎ,末期的な鈍重さをもち,身分的な象徴として造られたが,後半になり,身分制が崩壊すると,装飾性の強い青銅器が造られるようになり,戦国中期になると一転して洗練された機能的な美しさをもった形態となる。一方,春秋後半に青銅器に金,銀,古ガラスなどを象嵌する技術が開発され,華麗な幾何学文や,狩猟,戦争,饗宴など人間活動を描いた文様が表現されるようになり,装飾的なものとなる。また青銅製の8ないし13個の大小の鐘を一組(編鐘という)として,現在の七音階に近い音階を構成し,さらに幾組もの編鐘によって数オクターブにわたる音楽が演奏された。また多弦の琴や竽(う),笙などの管弦楽器は盛んに使用され,華やかな音楽が饗宴の席などで演奏され,音楽に合わせて歌われる歌謡にも,男女の愛を歌った抒情詩や,天界の霊との交渉を主題としながら濃厚なエロティシズムをもった賦がつくられ,また音楽に合わせた舞踊も盛んであった。西周から春秋前半の音楽が宗教性の強いものであったのに対し,むしろ享楽性の強いものになったのである。また赤や黒で華麗な文様を描いた漆器や彩色をした陶器なども大量に使用されているし,琴などの楽器にも赤と黒の漆で歌唱する精霊が描かれた。当時の絵画としては戦国末の帛画(はくが)があり,天界に旅立つ死者の霊(人間の形をした)を描いたものなど数点残るにすぎないが,宮殿には壁画などもあったと推定されている。宮殿建築の柱や桁などには青銅製の飾り金具が使用され,瓦葺きで,床には塼(せん)を敷いた3層・4層の高楼(台榭建築という)なども盛んに造られ,その周囲には池をともなった庭園も造られ,現実の享楽が追求されたのである。思想,芸術とも多様な人間性を躍動させていたのである。
執筆者:伊藤 道治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
紀元前8世紀から前3世紀にかけての古代中国の変動期。春秋時代とは、『春秋』と名づけられる魯(ろ)国の史官の編年体の記録が扱っている前722年から前481年までをいう。そのあと戦国時代になるわけだが、普通には、晋(しん)国の有力貴族だった韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)3氏が実権を握った前453年、あるいはこの3氏が正式に諸侯として承認された前403年をもって画期としている。その戦国時代は前221年の秦(しん)の始皇帝による天下統一とともに終わる。春秋戦国時代は、周の王室によって封建された諸侯の都市国家体制が、しだいに動揺、解体して、秦・漢の皇帝のもとでの中央集権体制へと移行してゆく時期にあたる。
[小倉芳彦]
前770年に周の王室は犬戎(けんじゅう)の侵入を避けて、都を関中(かんちゅう)地方から東方の洛邑(らくゆう)に移した。このいわゆる東周時代に入ってから、諸侯は王室の統制を離れて、各自の思惑しだいで同盟や戦争を繰り返すようになり、弱小の都市国家を併合した有力諸侯が出現した。山東省の斉(せい)や魯、山西省の晋、陝西(せんせい)省の秦などが華北地域での代表だが、それに対して南方から楚(そ)(のちには呉(ご)、越(えつ)も)が北進してきたために、強国の間に挟まれた宋(そう)、鄭(てい)、衛(えい)などの諸国は外交上の苦心を迫られた。しかしこうした戦争や外交による接触を通じて、これら諸侯国の間には、自分たちは共通の中華諸侯(諸夏、華夏)であるという意識が生じ、その連帯意識のもとで、斉の桓公(かんこう)などの「覇者(はしゃ)」が諸侯のリーダーとして、夷狄(いてき)を排する「尊王攘夷(そんのうじょうい)」行動を起こしたりした。
春秋時代にはすでにこのような強国が出現していたが、その国家の内部には依然として氏族的な血縁主義が生きており、国君(公(きみ))の地位と権力は同族の卿(けい)、大夫(たいふ)に制約されていた。弱小国を滅ぼして「県(けん)」とした場合でも、その県の支配は有力な大夫にゆだねられるのが普通であった。
戦国時代になると、強国による弱小国併呑(へいどん)の趨勢(すうせい)はいっそう激化し、そればかりでなく、一国内での「下剋上(げこくじょう)」の風潮も高まってきた。晋の卿だった韓、魏、趙3氏が、主君の晋公を倒して諸侯となり、斉の卿の田(でん)氏が主君にかわって斉の国君となったのはその例である。こうして以上の4国に、西方の秦、南方の楚、北東方の燕(えん)を加えた「戦国の七雄」が、存亡をかけて互いにしのぎを削り合うようになった。
戦国時代の国君はやがてそれぞれ「王」と称するようになり、富国強兵策を求めて、しばしば他国出身者や庶民のなかからも人材を登用し、彼らを高官や武将に任命した。隣国との国境には長城を築き、奪取した地域には郡(ぐん)を置いて統治したが、これが秦・漢時代に完成される郡県制度の母体である。
そのなかでも、陝西省の関中平野を本拠とする秦は、函谷関(かんこくかん)で東方諸国から遮られて天然の要害をなしており、黄土地帯で農業生産にも恵まれていた。さらに前4世紀なかばには、衛からやってきた商鞅(しょうおう)による変法があって、土地制度や家族制度を切り替え、戦功に応じて爵を与えるといった思いきった改革が行われた。このような秦国の軍隊は戦意が高く、外交作戦も巧妙だったので、前3世紀には着々と函谷関以東に進出して郡を増設し、ついに同世紀末に至って東方諸国をすべて滅ぼしてしまった。
[小倉芳彦]
鉄が使われだしたのは春秋時代の末ごろだが、戦国時代に入ると刃先に鉄をはめ込んだ農具が使われるようになり、ウシに犂(すき)を引かせる耕法も始まって、農業生産力が向上した。そのうえ、治水や灌漑(かんがい)の工事も各国で行われ、耕地面積が増大した。
春秋時代から発達した国内交通は、戦国時代に入ると、各地域で農業、手工業の特産品が増えるとともにいっそう盛んになり、黄河と揚子江(ようすこう)をつなぐ運河も掘られて、商品の集散する大都市が現れた。斉の臨淄(りんし)、趙の邯鄲(かんたん)、秦の咸陽(かんよう)などの国都は、そういう商業都市の性格をも帯びていた。春秋時代の末ごろからは、越から亡命した、范蠡(はんれい)の変身とされる陶朱公(とうしゅこう)や、孔子の高弟の子貢(しこう)のような、遠距離間の取引を行う大商人が登場したが、戦国時代に入ると、塩や鉄を製造、販売する業者が巨富を蓄えるようになった。
交換経済の発達とともに、都市や国家がそれぞれ鋳貨を発行するようになった。農具をかたどった布銭(ふせん)、小刀の形をした刀銭、穴あきの円銭などは青銅製だが、金製の鋳貨も楚で用いられた。
戦国時代の国家は、国内産の物資や他国から流入する物資に課税して、財政の強化に役だてようとしたが、一方商人の側は、こうした国境の壁をしだいにじゃまと考えるようになった。秦の始皇帝が天下統一と同時に行った文字、度量衡、車の幅などの統一は、戦国時代の国内商業発達の趨勢(すうせい)をさらに一歩進めるものであった。
こういう経済発展は家族や村落のあり方にも変化を引き起こした。春秋時代まではまだ氏族的な結び付きが強かったが、戦国時代になると5人平均の小家族が独立した家計を営むようになった。彼らのなかからは、広大な土地を取得し、有力な家族を中心に同族が寄って権勢を振るう「豪族」も出現したが、一方、土地家屋を失って奴隷や小作人に転落する者も多数出てきた。中国の現在の学界では、この春秋から戦国へかけての変化を、奴隷制から封建制への社会発展と位置づけている。
[小倉芳彦]
春秋時代には、斉の晏子(あんし)や鄭の子産(しさん)のような学識のある貴族が国政にあたったが、下級の士身分の人たちも六芸(りくげい)(礼、楽、射、御、書、数)の教養を身につけて官吏となった。孔子が主宰した学園は、そういう教養を実習、伝授し「君子」となるための訓練を受けた弟子たちを各諸侯に推薦した。
戦国時代になると社会の変動が激しくなって、没落した貴族の子弟が他国に亡命する一方では、商工業者や農民のなかからも才能によって立身出世する者が現れた。彼らは、富国強兵策のために人材を求めている戦国君主に向かって遊説し、法律、軍事、外交など各自の得意とする分野で頭角を現した。斉の都臨淄の稷門(しょくもん)のそばには、諸国から集まった学者たちが住む一角があって自由な討論が行われ、「稷下の学」とよばれた。
この時代の「諸子百家」の活発な思想活動は、政治的、社会的な動揺のなかで、どうしたら中国の統一と秩序が形成されるかを、各人が各人の所信に従って積極的に発言したことによっておこった。孔子は、家族内の「孝悌(こうてい)」の徳を社会にまで広め、周代の「礼」の精神を回復しようとしたが、それを継承した戦国中期の孟子(もうし)は、「仁義」の心で政治を行い、農民の生活を安定させることを王道政治の基礎とし、戦国末の荀子(じゅんし)は、君主の定めた「礼」による秩序確立を説いた。
以上の儒家(じゅか)に対して、墨子(ぼくし)は自国と他国、自家と他家の区別をたてることに反対し、君主の利害本位の戦争やぜいたくにも反対して墨家の祖となった。また商鞅や韓非(かんぴ)らの法家は、君主が法令によって官僚や人民を思うままに操縦し、富国強兵の目的に到達させることに専念した。
一方、そうした儒家や法家の人為的な努力自体が乱世の原因であると批判し、道徳や知識を捨てて「自然」(道)に復帰することを説く老子(ろうし)、荘子(そうし)などの道家(どうか)も現れた。
こうした「百家争鳴」の思想活動も、秦・漢の統一帝国の成立とともに思想統制の枠が厳しくはめられるようになり、正統思想としては孔子を尊崇する儒教だけが生き残ることになった。しかし春秋戦国時代に発達した天文学、地理学、農学、医学、数学などの学問は、現実の必要に応じてその後も充実を続けた。
[小倉芳彦]
『小倉芳彦他著『教養人の東洋史 上』(社会思想社・現代教養文庫)』▽『小倉芳彦著『中国古代政治思想研究』(1970・青木書店)』▽『貝塚茂樹他著『中国の歴史1 原始から春秋戦国』(1974・講談社)』
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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