デジタル大辞泉 「グリーン」の意味・読み・例文・類語
グリーン(green)
2 草地。緑地。芝生。(観葉)植物。
3
㋐ゴルフ場で、ホール(穴)の周囲の、芝を短く刈って整備した区域。
㋑ゴルフコース。「
4 他の語の上に付いて複合語をつくる。
㋐環境保全の。自然保護の。また、自然保護運動の、の意を表す。「
㋑若々しい、の意を表す。「
[類語](1)緑・エメラルドグリーン・黄緑・深緑・浅緑・
アメリカのプロ野球選手(左投左打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のトロント・ブルージェイズ、ロサンゼルス・ドジャース、アリゾナ・ダイヤモンドバックス、ニューヨーク・メッツで外野手、一塁手としてプレー。打撃に波があるものの、強力なパワーをもち、1998年から2001年まで4年連続20本塁打以上、20盗塁以上を記録した。
11月10日、イリノイ州デスプレインズで生まれる。タスティン高から1991年、ドラフト1巡目(全体16番目)指名を受けてブルージェイズに入団、2年目の1993年には大リーグへデビューした。その後、1994年は打率3割4分4厘でマイナー・リーグのAAA級で首位打者となり、翌年からブルージェイズでレギュラー、右翼に定着、強肩で鳴らし、守備面で高い評価を受けた。1998年には、ホームラン35本、打点100、盗塁35をマークして、「30本30盗塁」を達成した。1999年にはホームラン42本、打点123で、打率は3割9厘と3割を超え、初のゴールドグラブ賞も受賞した。FA(フリーエージェント)で2000年にドジャースに加入、01年は自己最多のホームラン49本と打点125を記録した。また2002年5月23日のミルウォーキー・ブリュワーズ戦では史上14人目の1試合ホームラン4本を含む19塁打の新記録を樹立、6月14日と15日のアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)戦では大リーグタイ記録となる4打席連続ホームランの離れ技(わざ)も演じた。2004年オフに交換トレードでダイヤモンドバックスに移籍した。2005年は中軸打者としての活躍を期待されたが、ホームラン22本に終わり、06年8月にはパワーの衰えもあってニューヨーク・メッツにマイナー・リーグ投手との交換で移籍。打撃では目だつ活躍はできなかったが、堅い守備でチームのプレーオフ進出に貢献した。
[出村義和]
2007年は130試合に出場。130安打を放ち、通算2000本安打を達成した。しかし、打率こそ2割9分1厘で前年を上回ったものの、ホームランは10本、打点も46にとどまった。
2007年までの通算成績は、出場試合1951、安打2003、打率2割8分3厘、本塁打328、打点1070。獲得したおもなタイトルは、ゴールドグラブ賞1回。
[編集部]
イギリスの小説家。ロンドン北西バーカムステッドの生まれ。オックスフォード大学卒業後新聞記者となる。カトリック教徒の婚約者の影響を受けてカトリックに改宗。1929年、密輸業者の世界を背景に暴力と良心の問題を追究する『もう1人の自分』でデビュー、作家生活に入る。彼は現代の政治的動乱の中心地を次々に舞台にしながら、映画やスリラー小説の手法を取り入れた。ベストセラーの『スタンブール特急』(1932)のほか、『ここは戦場だ』(1934)、『英国が私を作った』(1935)、『拳銃(けんじゅう)売ります』(1936)、『恐怖省』(1943)などがこの系列の初期作品。次に38年の野心作『ブライトン・ロック』によって世俗的倫理と宗教的倫理の鋭い対立を描き、現代でもっとも注目されるカトリック作家の一人となる。『権力と栄光』(1940)、『事件の核心』(1948)、『情事の終り』(1951)、『燃えつきた人間』(1960)などが彼の代表作で、罪人こそが真の信仰者であるという宗教的逆説を徹底して展開したため、教会当局との間にしばしば問題を起こした。その後のグリーンはカトリック教義を正面から扱うことがまれになり、世界中の内乱、革命、戦争の地域を舞台に独自の皮肉でペシミスティックな人間観を核にした作品を書くようになった。『おとなしいアメリカ人』(1955)、『ハバナの男』(1958)、『喜劇役者』(1966)、『名誉領事』(1973)、喜劇的な『叔母との旅』(1969)、スパイものの『ヒューマン・ファクター』(1978)、核競争を風刺した『ジュネーブのフィッシャー博士あるいは爆弾パーティー』(1980)など。短編作家としても優れ、ほかに5編の戯曲、自伝的断編『ある種の生涯』(1971)がある。
[海老根宏]
『野崎孝・田中西二郎訳『グレアム・グリーン選集』全15巻(1955・早川書房)』
イギリスの数学者。ノッティンガムの製粉屋に生まれ、独学で数学を勉強し、ケンブリッジ大学に入学を許され、1837年学位を授けられた。1839年以降、ケンブリッジのケイウス・カレッジのメンバーとなった。ラプラスの大著『天体力学』を愛読し、これを模範として「数学解析の電磁気学への応用の試論」を発表した。そこで導入した「ポテンシャル関数」は、ガウスがラプラス方程式の解をポテンシャルとよんだことに対比される。また「面積分と線積分との関係」として得た「グリーンの定理」と同じ結果はガウスも得ていたものであった。ところがグリーンの研究成果は、1846年にケルビンがグリーンの試論を『クレレ誌』Crelle's Journalに再録するまで、ガウスを含むドイツ学派に伝わらなかったという。なお、「微分方程式の境界値問題」で基本的な「グリーン関数」はグリーンの業績を顕彰する呼称である。
[吉田耕作]
フランスの小説家。パリで生まれ育つが、両親はアメリカ南部の出身で、そのアングロ・サクソンの血統が彼をフランス文学においては異色の幻想的な作家にし、また、母親譲りのピューリタニズムは彼の人生と文学に決定的な影響を与えた。霊・肉の相克と信仰の苦悶(くもん)、それが日記12巻、自伝4巻を含む彼の全作品に貫通する主題である。1916年カトリックに改宗。修道士を夢みるが、断念。リセ卒業後、軍務につく。19年、渡米しバージニア大学に留学。3年後パリに戻り、初めは短編および評論を書く。『フランスのカトリック信者に対するパンフレット』(1924)で、微温なカトリシズムを激しく攻撃。処女長編『モン・シネール』(1926)に次ぐ『アドリエンヌ・ムジュラ』(1927)でその地位を固める。以後、77年の『悪所』に至るまで12冊の長編、2冊の中・短編を書くが、すべての小説が日記と同じく作者内面の鏡である。『レビアタン』(1929)を頂点とするリアリズムに徹した作品群も、幻想への傾斜を強める中期の傑作『幻を追う人』(1934)や『真夜中』(1936)なども、みな悪夢のように作風は暗い。何度かの宗教的危機を乗り越えた後期の作品も絶望や狂気を描きながら、しかし文体は明澄になり、『モイラ』(1950)や『他者』(1971)のように、救いへのかすかな希望を暗示している。劇作3編もある。ほかにもエッセイ、紀行文など多彩な活動で知られ、83年聖人伝『アシジの聖フランチェスコ』も有名。
[小佐井伸二]
『福永武彦他訳『ジュリアン・グリーン全集』全14巻(1979~83・人文書院)』
ロシア・ソ連の作家。本名はグリネフスキーГриневский/Grinevskiy。幼少のころから職を転々とし流浪の生活を送り、のち社会革命党に入党、三度の流刑を体験する。1906年『兵士パンテレーエフの手柄』で文壇に登場、ポー、ホフマンらの影響を濃く受けたロマンチックな冒険・幻想小説によって革命前にすでに文名を確立する。架空の国「グリンランド」を舞台に繰り広げられるエキゾチックでファンタスチックな作品は、ソビエト文学史に特異な位置を占め、ときには強い批判にさらされたこともあった。代表作『深紅の帆』(1923)、『輝く世界』(1923)、『荒野の心』(1924)、『波の上を駆ける女』(1928)は、いずれも愛と美、人間性の理想的な姿を深く追求している。ことに『深紅の帆』はオペラや映画にもなり広く知られている。
[安井侑子]
『原卓也訳『深紅の帆』(『少年少女世界の文学22』所収・1967・河出書房)』▽『安井侑子訳『波の上を駆ける女』(『文学のおくりもの7』1972・晶文社)』▽『沼野充義訳『輝く世界』(1972・月刊ペン社・妖精文庫)』
イギリス・ヘーゲル学派の哲学者。オックスフォード大学教授。経験論、進化論、自然主義の倫理学を批判して、カントとヘーゲルの影響のもとに、認識の根源として普遍的絶対意識を想定する。批判的自由主義者の立場から、人間の行為が善を志向する「動機」に根ざしていることを強調し、自我実現説を唱えた。また、国家は共同意志に基づく道徳的共同体であると考えることによって、スピノザの克服を目ざした。主著は『倫理学序説』。
[宮下治子 2015年7月21日]
アメリカの劇作家。ノース・カロライナ州立大学卒業。母校で哲学、劇作を教え、演劇団体「カロライナ・プレイメイカーズ」にも協力。民俗劇推進者コーク教授門下で、南部の黒人や貧しい白人を題材に、写実から幻想に至る多様な様式のなかに社会的関心と詩情を盛り込む作品を発表。混血の教育者の悲劇『エイブラハムの胸に』(1926。ピュリッツァー賞受賞)、没落豪農一家をめぐる南部の新旧両世代のドラマ『コネリー家』(1931)、反戦悲喜劇『ジョニー・ジョンソン』(1936)などのほか、『失われた移住者たち』(1937)をはじめとするトータル・シアター風の国民的大叙事劇「交響劇」の野外上演を夏ごとに主宰し、地域演劇発展に貢献した。
[森 康尚]
イギリスの物語作家、劇作家。ケンブリッジ、オックスフォードの両大学に学んだのち、文筆だけを頼りに生き、放蕩三昧(ほうとうざんまい)の一生を送った。初めおもに伝奇的散文物語を書き、そのなかにはシェークスピアの『冬物語』に原話を堤供した『パンドストー』(1588)などが含まれる。戯曲ではロマンチックな喜劇を得意とし、『僧ベーコンと僧バンゲイ』(1589)など5編がある。彼はまた自伝的文章や世相観察の文章を小冊子で数多く発表している。そのなかの一つ、遺作となった『後悔万両知恵一文』(1592)には、シェークスピアを「他人の羽根毛で飾り立てた成り上がり者のからす」とののしっている箇所がある。
[冨原芳彰]
イギリスの歴史家。オックスフォード大学卒業後牧師になったが、肺疾のため辞任し、1869年ランベス宮(カンタベリー大司教邸)図書室司書となり、以後歴史研究に専念した。主著『イギリス国民小史』(1874)は、小史とはいえ1000ページに及ぶ大作で、その生彩に富む叙述により名声を博した。著書はそのほかに『イギリスの成立』(1882)、『イギリス征服』(1883)などがある。
[松村 赳]
『中村祐吉訳『イギリス国民史』(1968・鹿島出版会)』
イギリスの小説家。本名はヘンリー・ビンセント・ヨークHenry Vincent Yorke。イートン校からオックスフォード大学を経て、家業のバーミンガム機械工場に勤め、のちに同社の専務取締役となる。イートン在学中に処女作『盲目』(1926出版)を書く。ほかに、労働者階級の生活を描く『生きる』(1929)、象徴的手法の『集団旅行』(1939)、『捕らえられて』(1943)、『愛する』(1945)など。象徴的、印象派的文体は一般にはなじみにくいが、死後なお高い評価を得ている。
[佐野 晃]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イギリスの小説家。オックスフォード大学時代は一時共産主義に共鳴したが,まもなく幻滅し,1926年カトリックに改宗した。初めはジャーナリストの道に進んだが,密輸団を逃げ出した男を主人公にして,一種スリラー仕立てながら,近代心理小説の手法も十分に活用して倫理的宗教的問題を提示した小説《内なる私》(1929)で認められた。この後《ここは戦場だ》(1934),《英国が私をつくった》(1935)のような本格的な小説や,もっとスリラー性の濃い,グリーン自身が〈娯楽物〉と名づける《スタンブール特急》(1932),《拳銃売ります》(1936),《密使》(1939),《恐怖省》(1943)などを次々と発表し,一種痛烈な文明批判を見せた。しかし彼が本格的にカトリック的主題と取り組み出したのは,すさまじい少年ギャングを描いた《ブライトン・ロック》(1938)からで,政治権力に対する信仰の超越性を示した《力と栄光》(1940),純粋な信仰のゆえにかえって破滅するカトリック信者の悲劇《事件の核心》(1948),情欲の苦悩の中から神の存在を発見する《情事の終り》(1951)などを次々と発表した。その後も旺盛な筆力を示し,50年代からは戯曲にも手を染めている。
彼のカトリシズムはE.ウォーなどのカトリック作家同様,人間の悪の意識に強く結びついているが,ウォーと比べると,罪,信仰,慈悲といったテーマが,はっきりと描かれている。また,キャロル・リード監督《落ちた偶像》(1948),《第三の男》(1949),エドワード・ドミトリック監督《情事の終り》(1954)など,映画化された作品が多い。なおグリーンの主要作品はほとんど邦訳されている。
執筆者:鈴木 建三
ルネサンス期のイギリスの作家。ケンブリッジ大学を出てイタリア,スペインを旅行したのち文筆生活に入ったが,無頼放蕩の生活を続け,そのもようと間欠的に彼を襲う改悛の衝動とを自伝風に書き綴った小説やパンフレットを数多く残した。初期に属するいく編かのボッカッチョ風の奇想をこらした散文物語は,ほとんどが教訓的内容をもち,J.リリーの《ユーフュイーズ》の文体を模している。それ以外にも《パンドストー》(1588)や《メナフォン》(1589)など抒情的な小曲をちりばめた牧歌的ロマンスを書き,また窃盗・詐欺百般の手口を克明に描いた風刺譚や対話編のシリーズをものして人気を博した。その一つ《三文の知恵》(1592)は〈成り上がり者〉シェークスピアに関する言及で有名。晩年に筆を執った数編の劇作品のうち,魔術を主題とする幻想的な恋愛喜劇《修道士ベーコンと修道士バンゲー》(1589ころ),および道徳劇的史劇とロマンスをないまぜにした劇中劇仕立ての悲喜劇《ジェームズ4世》(1591ころ)は,構成の弱さにもかかわらず,その甘美な抒情性と魅力的な女性像によって,シェークスピアのロマンティック・コメディにも影響を与えたと考えられる。
執筆者:笹山 隆
フランスの作家。両親ともアメリカ南部の出身で,生粋のアメリカ人であるが,パリに生まれ,厳格な新教徒である母の教育,アイルランド系の人種的要素,フランス的教育,鋭い感受性と夢想性が複雑な資質をつくりあげた。14歳で母を失い,宗教的不安のなかでカトリックに改宗,第1次大戦後,バージニア大学に学び,帰国後文筆活動に入る。《アドリエンヌ・ムジュラ》(1927),《レビアタン》(1929)などの小説で,孤独な人間の不安,苦悶,狂気を描いて文壇に地歩を固め,ついで,《幻を追う人》(1934),《真夜中》(1936)などで幻想的かつ神秘的な作風を確立する。第2次大戦中はアメリカに亡命したが,帰国後,《バルーナ》(1940)などの宗教的模索のあと,カトリックの信仰を深め,《モイラ》(1950),《他者》(1971)などを発表した。ほかに,戯曲,自伝,克明な日記がある。
執筆者:山崎 庸一郎
ロシア・ソビエトの作家。グリーンは筆名で,本名はグリネフスキーGrinevskii。父は政治犯としてシベリアに流刑になったポーランド人である。幼いころから欧米の冒険小説を耽読した彼は冒険に憧れ,10代の半ばから放浪の旅に出て,船乗り,漁師,金鉱探し,志願兵などの職を転々とし,軍隊ではエス・エル党の感化を受けてその活動家となり,3度投獄された。ソビエト文学にはまれな幻想的でロマンティックな作風が,作者自身の特異な経歴とあいまって一世を風靡した。《真紅の帆》《輝く世界》(以上1923),《波の上を駆ける女》(1928)などの代表的中・長編のほかに,数多くの短編がある。スターリン時代には現実離れした幻想作家として批判され,いまだに正統的な文学史で大きく扱われることはまれだが,自由を求めてやまなかった幻想・冒険小説は現代でもロシアの若者の強い支持を得ている。
執筆者:沼野 充義
イギリス新理想主義学派の哲学者。オックスフォード大学に学び,同大学道徳哲学教授となって生涯を過ごした。プラトンをはじめギリシア哲学を研究するとともに,ドイツ観念論哲学に深く学び,主著《倫理学序説》(1883)などで自我実現を核心とする人格的自由主義の哲学を説いた。それは,当代の経験主義的自然主義,実証主義的現実主義の思潮を批判して,精神的価値の積極的実現を求める自我の完成を,個人の人格形成の目的とするとともに,これを促進するのが社会の義務と考える哲学であった。そこから彼は,この目的実現のための国家の積極的干渉を認め,放任的自由主義に代わる社会改良主義的な新しい自由主義の政治哲学を説いた。彼の哲学は,日本でも西田幾多郎や河合栄治郎などによって学びとられ,日本の自由主義の思想的基盤の形成に影響した。
執筆者:荒川 幾男
イギリスの小説家。実業家ヘンリー・ビンセント・ヨークHenry Vincent Yorkeの筆名。オックスフォード大学を出て家業を継ぎながらひそかに文筆に従事。バーミンガムの労働者の生活を描いた《生きること》(1929),ロンドンの中産階級の恋愛を描いた《溺愛》(1952)などのほか《パーティ行》(1939),《愛すること》(1945)などがある。題材の範囲は広く,V.ウルフの流れを汲む心理小説的なものに風俗喜劇的な要素をもちこみ,凝った文章で〈生(せい)の状態〉そのものを伝える。
執筆者:鈴木 建三
アメリカの宣教師。マサチューセッツ州生れ。シカゴ神学校,アンドーバー神学校に学び,アメリカ外国伝道委員会(アメリカン・ボード)の日本最初の宣教師として1869年来日。神戸で伝道し,74年神戸公会を設立,同年より横浜で新約聖書の翻訳に従事,81年より同志社で神学を教え,その赤煉瓦建築を設計した。90年より東京で伝道,社会事業に携わり,日本宣教師同盟の活動を推進し,アジア協会,平和協会の会長などを歴任した。
執筆者:土肥 昭夫
イギリスの歴史家。1860年オックスフォード大学卒業後,国教会の聖職についたが,病弱のため辞任し,69年以降ランベス宮(カンタベリー大主教のロンドン邸)の図書室司書となり,歴史の研究・叙述に専念した。主著《イギリス国民小史》(1874)は小史と称しながら1000ページを超す大著で,代表的なイギリス通史として,日本でも愛読された。ほかに《イングランドの形成》(1882),《イングランドの征服》(1883)などの著書がある。
執筆者:今井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…オーストラリアの代表的な観光地で,年間30万人以上の観光客が訪れる。とくにグリーン島(ケアンズ沖合)やヘロン島(グラッドストン沖合)などが知られ,本土側の主要都市を基地とするヘリコプター,小型飛行機,船の便がある。【谷内 達】。…
…国内では福島晃子のような大型選手も生まれ,日本ツアーをリードしている。
【ゴルフコース】
各ホールの構造(図1)は,ティーグラウンド(ボールの打出し場所),フェアウェー(芝を刈り込んだ正しい順路),ラフ(雑草の生えた地域),ウォーターハザード(海,池,川などの障害物),バンカー(砂をしいたくぼ地の障害物),グリーン(直径10.79cmの穴をそなえ,ボールがころがりやすいように芝を刈り込んだ場所)からなり,これを1区画とし,原則的には18ホール(1ラウンド)を一単位としている。各ホールには距離に応じて基準となる打数(パーpar)が定められている。…
…戦時中沈黙を強いられたまま病気で急死した。イギリス留学中T.H.グリーンを研究し,理想主義哲学の上に独自の社会思想を樹立した。すなわち,カント的認識論の上に人格成長を最高善とする道徳哲学を説き,人格成長の条件として政治的には自由民主主義,経済的には社会主義を主張した。…
…ヘーゲル的立場は,工業化の進展に伴う社会問題の拡大と帝国主義の成立に伴う国際緊張の増大に伴って,国家権力の積極的意義が評価されはじめるとともに,ドイツ以外の国でも注目されるようになった。たとえば,イギリスでもT.H.グリーン,F.H.ブラッドリー,B.ボーザンケトらが,ヘーゲルの影響の下に,国家の倫理性を強調しつつ,国家が社会問題に積極的に介入することを正当化したのである。ヘーゲル的立場は,のちに著しくゆがめられた形で,ナチズムやファシズムの国家観に現れたが,しかしそこでは少なくともヘーゲル哲学の合理性は完全に排除され,国家一元論は著しく非合理的かつ神話的な形をとることになったといえよう。…
…このような条件の変化に応じて自由主義を再解釈する試みを新自由主義という場合がある。T.H.グリーンは資本主義の生む不平等の下に真の契約の自由はありえないとして,労働者の立場を強化するために国家の積極的な政策が不可欠であると説いた。ルソーやヘーゲルを援用する彼の新理想主義は,自由の実現のために国家の果たすべき積極的役割を示して,イギリス自由主義に新たな展開をもたらした。…
…しかし世紀末から再び生まれてきた〈精神〉を重視する立場が強くヘーゲルの影響を受けていたために〈新ヘーゲル学派〉と総称され,ファシズム期の終りまで影響を残した。イギリスのT.H.グリーン,F.H.ブラッドリーは,ヘーゲル以上に〈精神〉を超越的なものと解していたために,G.E.ムーアの経験主義の反発を招き,B.A.W.ラッセルの経験主義的原子論の成立を促す結果となった。イタリアのクローチェ,ジェンティーレは,ラブリオーラを経由して,人間の能動性の再評価を促して,マルクス主義に影響を与えた。…
…1810年にマサチューセッツとコネティカットの会衆派の牧師たちによって設立され,アジアの各地に宣教師を派遣した。日本には69年D.C.グリーンがボード最初の宣教師として訪れたが,ボードがとくに援助したのは同志社と神戸女学院の設立である。会衆派と福音改革派の合同で,現在はUnited Church Board for World Ministriesと呼ばれている。…
…アントン・カラスのチターの演奏だけによる哀感あふれる音楽と,オーソン・ウェルズが演じたハリー・ライムという強烈な人物像によって世界中のファンを魅惑し,キャロル・リード監督の名を一躍高からしめたスリラー映画の名作。〈冷戦〉をテーマに作家のグレアム・グリーンが敗戦直後(1947)の米英仏ソ4ヵ国管理下のウィーンの闇市(ブラック・マーケット)を描いたオリジナルストーリーから,グリーン自身が脚色。後半の見せ場になる下水道の追跡シーンは,リード監督の証言によれば,ウェルズがカメラマンのロバート・クラスカーと話し合ってみずから演出したものという。…
…彼らは挫折を経験し,正義とは何かという懐疑に襲われて悩み,ときには抹殺されることさえあるから,読者はただの熱狂や興奮ではなく人間対社会の非情な関係に対する関心や絶望も与えられる。ダシール・ハメット,グレアム・グリーンの作品などがその典型例である。未知なるものの探究・征服は,例えばかつてのアメリカ西部開拓物語やアフリカ探検物語の場合には,文明の名による未開人の教化であるとして素朴に是認されていたが,今日ではインディアンを悪者として安易に処理する西部劇は,だれからも信用されない。…
※「グリーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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