ダービー(読み)だーびー(英語表記)14th Earl of Derby, Edward George Geoffrey Smith Stanley

デジタル大辞泉 「ダービー」の意味・読み・例文・類語

ダービー(Derby)

英国の名家の一。競馬のオークスやダービーは第12代のダービー卿が創設した。

英国、ロンドン郊外のエプソムで毎年6月上旬に行われる、サラブレッド3歳馬による競馬。距離1.5マイル(約2400メートル)。クラシックレースの一つで、1780年創始。現在、世界各地でこの名をつけた類似のレースが行われている。
日本で、1にならって毎年5月に行われる「東京優駿」の通称。五大クラシックレースの一。日本ダービー。
derby)首位をめざして何人もが競いあうこと。「ハーラーダービー」「ホームランダービー
(derby)⇒ダービーマッチ

ダービー【Derby】[地名]

英国イングランド中部の都市。バーミンガムの北北東に位置する。18世紀より絹紡績と製陶業で発展、産業革命の中心地の一つとなった。現在は鉄道車両や航空機エンジンなどを生産する。哲学者ハーバート=スペンサーの生地。
オーストラリア、西オーストラリア州北部、キンバリー地方の町。インド洋のキング湾に面し、10メートル以上もの干満の差が生じる。第二次大戦時に日本軍による空襲を受けた。

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精選版 日本国語大辞典 「ダービー」の意味・読み・例文・類語

ダービー

  1. ( Derby )
  2. [ 1 ] イギリスの名家の一つ。特に一二代のダービー卿は、競馬のオークス(一七七九)およびダービー(一七八〇)の創設者として知られる。
  3. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. サラブレッド三歳馬によるクラシックレースの一つ。競走馬にとって最も名誉あるレースとされ、日本では、日本ダービー(東京優駿)として、毎年初夏の頃行なわれる。《 季語・夏 》 〔アルス新語辞典(1930)〕
    2. 黒フェルトの丸形の山高帽。ダービーハット
    3. 競争。特にプロ野球などで、タイトルをかけた争い。「ホームランダービー
    4. サッカーなどで、同じ都市や地域の二チームによる対戦。ダービーマッチ。

ダービー

  1. ( Derby ) イギリス、イングランド中部、バーミンガムの北北東にある都市。一三世紀に自治都市となり、一八世紀にイタリアから絹紡績が導入され、製陶業の製品に王冠模様をつけることをジョージ三世から許されて以来、工業都市として発達した。鉄道車両などの工業も行なわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダービー」の意味・わかりやすい解説

ダービー(Abraham Darby)
だーびー
Abraham Darby
(1677―1717)

イギリスの製鉄発明家。木炭を燃料とするそれまでの高炉にかわり、初めてコークスを燃料とすることに成功した。オランダから鉄の砂型鋳造の技術を導入し、1707年、ブリストルで薄壁の鋳鉄の鍋(なべ)・壺(つぼ)の製造に成功した。翌1708年セバーン川上流コールブルックデールの放棄されていた高炉を買い、1709年コークスによる高炉操業を開始した。1717年没したとき息子は6歳であったので娘婿(むすめむこ)たちが経営を担当し、鋳鉄の料理鍋、フライパン、シチュー鍋、火格子類をつくり、ニューコメン蒸気機関の部品、鋳鉄管、トロッコ用車輪、鋳鉄軌道、その他さまざまに販路を広げた。1728年から事業に加わったダービー2世(1711―1763)の時代には、送風の改善によって高炉内温度が上昇し、石灰の大量添加による高温高塩基操業による脱硫が可能になり、錬鉄に精錬するのに適した材質の銑鉄をも製造するようになり、コークス銑は鋳造用だけでなく、錬鉄用にも進出した。1768年から経営に参加したダービー3世(1750―1791)の時代にはコールブルックデール製鉄所はイギリス最大の製鉄所となり、ことに彼が中心となって建設された総重量400トンの鋳鉄を使用した鋳鉄橋は、構造材としての鉄の新しい用途を開いた。同製鉄所はコークス高炉のメッカとなり、この技術は全世界へ広がっていった。コークス高炉はH・コートのパドル法とともに製鉄法を木炭製鉄から石炭製鉄の時代に移行させた。この変革にはJ・ワットの蒸気機関が大きな役割を果たした。

中沢護人


ダービー(競馬)
だーびー
Derby

競馬のレース名。ダービー・ステークスthe Derby stakesの略称。1780年ロンドン郊外エプソン高原に住む第12代ダービー卿(きょう)エドワード・スミス・スタンレー12th Earl of Derby, Edward Smith Stanley(1752―1834)が創設した。この前年、ダービー卿はエリザベス・ハミルトンと結婚したが、そのとき新夫人の願いによって3歳牝馬(ひんば)のみによるレースを行った(これがオークスの始まり)。この催しが当時の競馬界に好評で迎えられたことから、ダービー卿は自分の名を冠した3歳牝牡(ひんぼ)馬の混合レースを思い立ち、1780年5月4日にエプソン高原で距離1マイル(約1600メートル)のレースを行った。これがダービーの始まりである。1784年、有名なタッテナム・コーナーTattenham Cornerのあるダービー・コース(2440メートル)ができた。1920年、タッテナム・コーナーの一部を削って2414メートルになり、以後今日まで毎年6月の第一水曜日に行われ、この日をダービー・デーとよんでいる。競馬場は100万人近い人で埋まり、お祭り騒ぎとなる。

 現在、ダービーの名を冠したレースは世界各国で行われている。アメリカのケンタッキー・ダービー(1875年3月17日、第1回開催)は有名であり、フランスではプリ・デュ・ジョッキークラブ・カップをフランスダービーといい、日本では東京優駿(ゆうしゅん)競走を日本ダービーとよんでいる。しかし同じ3歳馬のレースでも、距離、負担重量などは開催国によって同一ではない。元祖イギリスの距離は1.5マイル1ヤード(2414メートル)、ケンタッキー・ダービーは2000メートル、日本では2400メートルである。

 日本ダービーは、日本競馬界の父といわれる安田伊左衛門(やすだいざえもん)が創設した。1932年(昭和7)4月24日、東京の目黒競馬場で第1回が行われ、ワカタカが優勝、第3回から、現在の東京競馬場(東京都府中市)に移った。開催日は第6回まで4月下旬、第7回からは5月中旬以降と不定期であったが、1957年(昭和32)以降5月の最終日曜日を原則とした。負担重量は第1回が別定重量、第2~8回が牡55キログラム、牝53キログラムであったが、第9回(1940)以降現在の牡57キログラム、牝55キログラムに定められた。牝馬の優勝は第6回のヒサトモ、第12回のクリフジ、第74回のウオッカのみ。1着賞金(本賞)は第1回が1万円、第76回(2009)は1億5000万円である。

[大島輝久・日本中央競馬会


ダービー(14th Earl of Derby, Edward George Geoffrey Smith Stanley)
だーびー
14th Earl of Derby, Edward George Geoffrey Smith Stanley
(1799―1869)

イギリスの政治家。14代ダービー伯。E・H・S・ダービーの父。イートン校、オックスフォード大学で学んだのち、下院議員(1822~1844年、1844年以降上院議員)となり、1830年にはホイッグ党グレー内閣のアイルランド担当相に任じられた。1833年には植民相に転じて帝国内の奴隷制を全廃したが、1835年下野して保守党に移った。1841年にはピール内閣の植民相に就任したが、穀物法撤廃に反対し、党の分裂後、反自由貿易の立場をとる保守党の指導者となった。以後、1852年、1858~1859年、1866~1868年の三度首相を務め、1867年には第二次選挙法改正を実現した。自由党が優位にあった時代に保守党を守り、ディズレーリを政治の表舞台に登場させた功績は大きい。

[青木 康]


ダービー(15th Earl of Derby, Edward Henry Stanley)
だーびー
15th Earl of Derby, Edward Henry Stanley
(1826―1893)

イギリスの政治家。15代ダービー伯。ケンブリッジ大学卒業後、1848年保守党下院議員となり、2年後には処女演説で早くも頭角を現す。1852年父14代ダービー伯の率いる内閣(第一次)の外務次官となり、以後、植民相、初代インド相、外相を歴任。1869年父の死後爵位を継ぎ上院議員となる。1874年第二次ディズレーリ内閣の外相となったが、首相の対露強硬政策に反対して辞職。1880年には自由党に移った。1882年から1885年までグラッドストーン内閣の植民相として、熱帯植民地拡大に反対の立場を守った。しかし、1886年、アイルランド自治に反対して自由党を離れ、J・チェンバレンの自由統一党に参加し、1891年まで同党の上院での代表者を務めた。

[石井摩耶子]


ダービー(イギリス)
だーびー
Derby

イギリス、イングランド中部にあるユニタリー・オーソリティーUnitary Authority(一層制地方自治体)の都市。人口22万1716(2001)。バーミンガムの北北東約60キロメートルに位置し、トレント川の支流ダーウェント川に臨む。商工業、行政の中心地。航空機エンジン、陶器、合成繊維、鉄道車両、化学などの工業も発達する。町の前身は七王国時代から知られるが、現在の市の起源はノルマン時代の市場町に始まり、近代に入って毛織物やビールの産地として知られるようになった。イギリス絹織物工業発祥の地で、1719年にイタリアから技術が伝わった。1750年ウィリアム・デューズベリーにより陶器産業が創始され、以後製陶業で有名になった。また1907年にはロールス・ロイス社の本社が置かれた。創立者ヘンリー・ロイス卿(きょう)の像が市内にある。市の美術館は、当地出身の画家ジョセフ・ライトJoseph Wright(1734―97)の作品で知られる。

[久保田武]

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改訂新版 世界大百科事典 「ダービー」の意味・わかりやすい解説

ダービー
Abraham Darby

コークス高炉による製銑にはじめて工業的に成功した,3代にわたる同姓同名のイギリスの製鉄業者一家。

(1)ダービー1世(1678-1717) ブラックカントリーの錠前工兼農民(クエーカー教徒)の子に生まれ,バーミンガムの麦芽(モルト)装置製造者の徒弟となり,1699年独立。1702年同教徒らと黄銅工場を設立した。黄銅製で高価であった深なべ(鍋)を鋳鉄製にすることを考え,乾燥砂型鋳造法を開発して07年特許を得た。08年単独でシュロップシャー,コールブルックデールの小鉄工所を賃借し,翌年1月4日から高炉を稼働した。このとき燃料として木炭でなく,同地産の石炭をコークスに焼いて使用した。製品銑鉄はすべて,やかん,深なべ等の鋳物として販売し,営業的にも成功した。15年には第2高炉を建て,錬鉄鍛造場2ヵ所を入手するなど事業を拡大した。

(2)ダービー2世(1711-63) 38年から製鉄所の経営に加わり,42-43年ころ,高炉送風機駆動用水車の用水池への揚水ポンプを,従来の馬力駆動からニューコメン式蒸気機関に代えた。50年ころ,原料鉱石の選択や高炉操業法の改良でコークス高炉による錬鉄用原料銑鉄の製造に成功し,高炉を増設した。それらの高炉の送風には蒸気機関駆動のシリンダー送風機を用いた。こうしてアブラハム・ダービー一家がコークスと蒸気による製鉄の時代,石炭製鉄の時代をもたらした。

(3)ダービー3世(1750-89) 68年から経営に参加し,さかんに事業を拡張してコールブルックデール製鉄所をイギリス最大の製鉄企業とした。79年,セバーン川に世界最初の鋳鉄橋コールブルックデール橋(総重量400t)を建造した。
執筆者:


ダービー
Derby

競馬の競走名。近代競馬発祥の地イギリスのエプソムEpsom競馬場(ロンドン郊外)で1780年に始まったもので,創設者の第12代ダービー卿スタンリーEdward Smith Stanleyの名をとって命名された。明け4歳馬(満3歳)のナンバーワンを競うこのレースの優勝はイギリス競馬界最高の栄誉とされ,第1,第2次世界大戦中は場所をニューマーケット競馬場に移したが,創設以来一度も欠かさず,例年5月最終週,または6月第1週の水曜日(この日をダービー・デーDerby dayという)に開催されている。このレースを範として世界各国の競馬でも〈ダービー〉の名で,4歳馬最大のレースが行われるようになり,日本でも1932年に東京優駿(ゆうしゆん)大競走(現在の東京優駿競走,いわゆる日本ダービー)が創設された。距離はイギリスと同様2400mで,5月の最終日曜日に開催。第1回優勝はワカタカで,第3回からは府中の東京競馬場で行われている。負担重量は第9回以降,現在の牡馬(ぼば)57kg,牝馬(ひんば)55kgになった。近年は競馬以外にも,例えば〈競輪ダービー〉など,他のギャンブル競技で,それぞれの最大のレースに〈ダービー〉の名が使用されている。
競馬
執筆者:


ダービー
Derby

イギリス,イングランド中部,ダービーシャーにある工業都市で行政中心地。地名は,古ノルウェー語で〈鹿猟園のある農場〉の意。人口23万6738(2001)。イングランドの中央部,ミッドランド低地の北縁に位置し,古来ダーウェント川に沿う交通中心として,また産業革命以後は鉄道の結節点として発展,現在は車両,自動車,航空機エンジン,化学繊維などの工業が立地する。市の北部にはローマ時代の集落跡デルベンティオがあり,9世紀にはデーン人の〈五都市〉の一つとなった。工業化の端緒は18世紀初期に設立されたイギリス最初の生糸工場にあり,1750年ごろには,のちに王室御用達となる陶磁器生産も開始された。ゴシック式尖塔のあるオール・センツ教会やローマ・カトリックのセント・メアリー教会,1160年創立のグラマー・スクールなど歴史的建築物が多い。哲学者H.スペンサーや画家J.ライトの生地。
執筆者:


ダービー
Edward Geoffrey Smith Stanley, 14th Earl of Derby
生没年:1799-1869

イギリスの政治家。オックスフォード大学を卒業して下院議員となり(1822),はじめホイッグ党に属した。アイルランド事務相(1830-33)を経て植民相となり,奴隷制廃止法案の成立に尽力したが,1835年から保守党に移り,第2次ピール内閣の植民相となり(1841-44),44年には上院議員となった。しかし,穀物法廃止問題で党首ピールと衝突し党は分裂,46年以降,ディズレーリとともに停滞期の保守党を指導した。52年,58-59年,66-68年の3回にわたり,議会の安定多数が得られぬまま内閣を組織し,1867年には第2次選挙法改正を実現した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダービー」の意味・わかりやすい解説

ダービー(伯家)
ダービー[はくけ]
Derby, Earls of

イギリスの貴族の家柄。フェラーズ家とスタンレー家の2系統がある。 (1) フェラーズ家の系統は,1138年ロバート・ド・フェラーズ (1139没) がスティーブン王から伯爵を授けられて創始。8代伯ロバート (1240頃~79頃) のとき,シモン・ド・モンフォールの反乱に加わって国王ヘンリー3世に抗したため,1266年爵位を没収された。その後,1337年ジョン・オブ・ゴーントの義父ヘンリーが一時復活したが,ほどなく絶えた。 (2) スタンレー家の系統は,1485年 T.スタンレーが伯爵に叙せられたのに始る。3代伯エドワード (1508~72) は,旧教徒ながら北部反乱に加担せず,チューダー朝に忠節を尽した。5代伯ファーディナンド (59~94) もイエズス会士からエリザベス1世排撃の陰謀に誘われたが拒否し,ために毒殺された。7代伯ジェームズ (1607~51) は清教徒革命で忠実な国王派として活躍し,ウースターの戦いで議会軍に捕えられ,処刑された。 1736年 10代伯ジェームズの死をもって直系は絶えたが,2代伯の弟の子孫エドワードが 11代伯を継いだ。 14,15代ダービー (伯)はその子孫。 17代伯エドワード・ジョージ・ビリアーズ (1865~1948) は,1915年志願兵徴募のための「ダービー計画」を立案し,16~18,22~23年の2度陸相をつとめた。

ダービー
Darby, Abraham

[生]1678?. ダッドリー近郊
[没]1717.3.8. マデレーコート
コークスを燃料に用いる製鉄法を開発したイギリスの製鉄業者。ブリストルでコークスを用いた銅精錬業に従事したのち,1708年製鉄会社を設立。低硫黄炭の産地に近いセバーン川沿いのコールブルックデールに製造拠点を設けた。1709年コークスを燃料にした高炉により商品価値の高い鉄を生産することに成功。石炭を用いる溶鉱炉よりはるかに大きい炉を建設することにより,コークスの使用がコストと生産性の両面において優れていることを実証した。ダービーの製造した鉄は質が高く,薄い鋳物にも適していたため,真鍮製にひけをとらない,鉄製鍋など底の深い容器の製造も可能になった。1712年にトーマス・ニューコメンが蒸気機関を発明すると,鉄製シリンダの生産という新たな市場を開拓。長男のエブラハム・ダービー(1711~63)に事業継承後の 1758年までに,100個以上のシリンダがコールブルックデールで製造された。1779年,孫のエブラハム・ダービー3世(1750~91)が世界初の鉄橋(コールブルックデール近郊に現存。→アイアンブリッジ峡谷)を完成。1802年にイギリスの技術者で発明家のリチャード・トレビシックが設計した世界初の鉄道用の高圧蒸気機関もコールブルックデールの製鉄所で製造された。(→産業革命

ダービー
Derby

イギリスイングランド中部の都市。単一自治体(ユニタリー unitary authority)。1997年にダービーシャー県から分離して単一自治体となった。ロンドンの北北西約 180km,ペナイン山脈の南端麓にあり,トレント川支流ダーウェント川の下流部に臨む。古代ローマの要塞の近くにできた古い町で,9世紀にここを占領したデーン人が Deorabyと呼んだことに由来。1750年頃から陶磁器の生産が始まり「ダービー焼」で有名。18世紀初めにイタリアから絹紡績が導入されて以来,織物工業が発展,絹のほか,レース,綿織物などの生産が盛んとなった。19世紀に鉄道の要地となってから,鉄道車両製造,機関車修理などの工業が発達。ほかに,航空機エンジン,機械,化学,印刷などの工業がある。16世紀建築の塔をもつ大聖堂,聖ピーター聖堂など由緒ある建築物が多い。哲学者ハーバート・スペンサーの生地。面積 78km2。人口 23万3700(2005推計)。

ダービー(伯)
ダービー[はく]
Derby, Edward Henry Stanley, 15th Earl of

[生]1826.7.21. ランカシャー
[没]1893.4.21. ランカシャー
イギリスの政治家。 14代ダービー伯の長男。 1848~69年保守党の下院議員。 52年父の第1次内閣の外務次官。保守党にあっても自由主義的でパーマストン (子)から入閣を求められたが拒否。 58年父の第2次内閣の植民相,次いでインド監督局総裁。同年インド法成立に伴い最初のインド相に就任。 66~68年父の第3次内閣の外相。 67年フランスとプロシアの間を仲介,ルクセンブルクの中立に関する集団保障を立案した。 69年上院に移り,74年 B.ディズレーリ内閣の外相。中近東地域についての帝国主義政策に反対し,78年辞職して 80年自由党に入党。 82~85年 W.グラッドストン内閣の植民相。アイルランド自治法に反対し自由党から分離し,86年自由統一派に参加,91年まで同派の上院における指導者であった。

ダービー(伯)
ダービー[はく]
Derby, Edward Geoffrey Smith Stanley, 14th Earl of

[生]1799.3.29. ノーズリー
[没]1869.10.23. ロンドン
イギリスの政治家。首相(在任 1852,1858~59,1866~68)。1820年ホイッグ党に属して議会に入る。1830~33年アイルランド担当大臣。この間 1832年の選挙法改正法(第1次)の成立に尽力。1833~34年陸軍および植民大臣。1834年保守党に移る。1841~44年再び陸軍および植民大臣として西インド諸島の奴隷制廃止を実施した。1852年第1次内閣を組織。1858~59年第2次内閣を組織,インド統治権をイギリス東インド会社からイギリス政府直轄に移管した。1866~68年ベンジャミン・ディズレーリとともに第3次内閣を組織。1867年議会改革法(第2次選挙法改正法)を成立させ,1869年以後保守党党首の地位をディズレーリに譲った。

ダービー
Derby

イギリスで行なわれる競馬クラシック競走の一つ。イギリスの競馬のうち最も賞金が高く,また最大の人気を集めている。1780年に第12代ダービー伯爵らによって創設され,以後第1次・第2次世界大戦中ニューマーケット競馬場で代行されたのを除き,一度も中止されることなく毎年 6月上旬にエプソム・ユーエルエプソム競馬場で開催されている。距離・負担重量など各種条件はこの間数度にわたり変更され,今日は距離 1.5マイル(約 2400m),負担重量牡馬 9ストン(約 57.2kg),牝馬 8ストン 9ポンド(約 54.9kg)。ダービーに範をとったレースは多くの国で行なわれているが,各種条件は必ずしも同一とはかぎらない。日本では東京優駿(日本ダービー)が,アメリカ合衆国ではケンタッキー・ダービーが開催されている。

ダービー
Darby, John Nelson

[生]1800.11.18. ロンドン
[没]1882.4.29. ボーンマス
イギリスの神学者。アイルランド教会の聖職者であったが,国家からの宗教の独立を主張して,国教会を退き (1827) ,初期キリスト教会の簡素を求めて,同志たちと 1830年頃プリマス兄弟団を結成 (→プリマス・ブレズレン ) 。 47年には兄弟団のなかにダービー派と呼ばれる非開放的なセクトをつくり,その指導者となる。著書多数で,賛美歌集を編んだ。

ダービー
Darby, Abraham III

[生]1750
[没]1791
同名の祖父 (1677~1717) ,父 (11~63) と3代続いたイギリスの製鉄業者。 1779年工場のあったシュロップシャーのコールブルックデールでセバーン川に最初の鉄橋を建設した。

ダービー
Derby

アメリカ合衆国,コネティカット州南西部,ニューヘーブンの西約 10kmにある町。かつては造船や漁業で栄えたが,19世紀中頃に衰微。現在は金属,機械など多様な工業が発達している。人口1万 2199 (1990) 。

ダービー
Derby

オーストラリア,ウェスタンオーストラリア州北東部,フィツロイ川河口の港町。キンバリー高原西部の牧牛業の集散地。近くに灌漑地区があり米作が試みられている。人口 3258 (1986) 。

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百科事典マイペディア 「ダービー」の意味・わかりやすい解説

ダービー

英国の著名な競馬レース。1780年,第12代ダービー伯が創設。毎年6月の第1水曜日にロンドン郊外エプソムEpsom競馬場で行われるサラブレッド明け4歳馬(満3歳馬)の1.5マイル1ヤード(約2415m)の平地競走。このレースでの優勝はイギリス競馬界でも最高の栄誉とされる。競走当日はダービー・デーといって官庁,会社も休みとなり,ダービー・ハットにダービー・タイなどで着飾って見物する。米国のケンタッキー・ダービー(1875年創始。チャーチルダウンズ競馬場で開催)や日本ダービーはこれにならったもの。

ダービー

英国,シュロップシャーのコールブルックデールの製鉄業者一族。1世のアブラハム・ダービー〔1677-1717〕は枯渇し始めていた木炭に代えてコークスによる鉄鉱石製錬に成功。2世アブラハム〔1711-1763〕はコークス製鉄を企業化,英国製鉄業の隆盛を導いた。3世アブラハム〔1750-1791〕も世界最初の鋳鉄橋コールブルックデール橋の架設で知名。
→関連項目産業革命鉄鋼

ダービー

英国の政治家。名門の出身で,襲爵まではスタンリー卿と呼ばれた。初めホイッグ党に属しアイルランド担当相(1830年―1833年),第1次選挙法改正にあずかる。1835年保守党に転じて保護関税政策を主張,1846年党首となり,1852年以降3度組閣,第2次選挙法改正を断行。1869年党首をディズレーリに譲った。その長男15代ダービー〔1826-1893〕も政治家。初め保守党に属し,植民相・外相としてインド支配確立等に活躍。のち自由党,自由統一党に転じ,指導者の一員となる。

ダービー

英国,イングランド中部ダービーシャー州の工業都市。ダーウェント川に臨み,1717年イングランドで最初の絹織物工場が建てられたが,現在では運河,道路,鉄道交通の要地。鉄道車両,自動車,航空機エンジン,陶器,繊維などの工業が行われる。24万8752人(2011)。
→関連項目トレント[川]

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367日誕生日大事典 「ダービー」の解説

ダービー

生年月日:1826年7月21日
イギリスの政治家
1893年没

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世界大百科事典(旧版)内のダービーの言及

【石炭鉱業】より

…しかし,石炭に対する需要が圧倒的に高まり,石炭鉱業が工業国の基幹産業となっていったのは,製鉄業および蒸気機関との結合によってである。18世紀初頭にA.ダービーが発明したコークス製鉄法や同世紀後半のH.コートによるかくはん式精錬法(パドル法)などによって,あらゆる種類の鉄が石炭を燃料として生産されるようになった。18世紀後半以来の産業革命が〈鉄と石炭の革命〉と呼ばれるひとつの理由がここにある。…

【鉄】より

…こうして生きた燃料から化石燃料へ,木炭から石炭への移行が焦眉の急となった。これを解決したのが18世紀初頭,セバーン川上流でコールブルックデール製鉄所を経営したA.ダービー1世であった。彼は1709年に石炭を高炉の燃料とすることに成功し,この事業は息子のA.ダービー2世に受け継がれて軌道に乗った。…

【ディズレーリ】より

…ディズレーリは,彼の代表的な政治小説《コニングズビー》(1844)を著してピールを非難・攻撃する一方,党内に〈青年イングランド党〉という小会派をおこした。そしてこの対立は,46年の穀物法廃止の実現を契機に保守党を分裂に追い込み,以後ディズレーリは,ピール派が脱党して弱体化した保守党をE.G.S.S.ダービーとともに指導することとなった。だが,46年から60年代にかけての時期は,イギリス自由主義の黄金時代として知られる時代であり,保守党にはほとんど利がなかった。…

【エプソム】より

…競馬の方は,ジェームズ1世時代に始められ,1730年ころから恒例となった。現在は,町の南部にあるエプソム・ダウンズの競馬場で,6月第1水曜日に開催されるダービー競馬,また同一週の土曜日にあるオークス競馬が世界的に知られる。ジュース類の生産や土曜市も行われている。…

【競馬】より

…これがマッチレースに代わりしだいに競馬の本流を占めるようになった。そしてこのスイープ・ステークスの代表としてセントレジャー(1776,ドンカスター競馬場),オークス(1779,エプソム競馬場),ダービー(1780,エプソム競馬場)の各レースが創設された。セントレジャーはアンソニー・セントレジャー中将,ダービーは第12代ダービー卿エドワード・スミス・スタンリーとそれぞれ創始者の名をとり,オークスは創始者ダービー卿の別荘地の名から名付けられた。…

※「ダービー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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配属ガチャ

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