翻訳|Thebes
ギリシアのボイオティア地方南東部の都市。古代名テーバイThēbai,現代ギリシア語ではティーベThívai。伝説によれば,フェニキア王の子でギリシアに文字をもたらしたと伝えられているカドモスが,ゼウスに誘拐された姉妹エウロペを探し求めてギリシアにやって来て,デルフォイの神託に従って建設したという。これによりテーベのアクロポリスはカドメイアKadmeiaと呼ばれた。ミュケナイ時代にこのカドメイアには大宮殿があり,発掘の結果,これは前14世紀に火災で崩壊し,まもなくより小規模の新宮殿が再建されたが,これも100年足らずで破壊されたことが知られている。出土品の中には壁画,線文字B文書,36個のバビロニアの円筒印章などがある。ミュケナイ世界におけるテーベの重要性は,ディオニュソス神生誕,あるいはオイディプスとその末裔をめぐる神話伝説からもうかがえる。ただし,この時代のボイオティア地方ではオルコメノスの方がより強力であったらしい。《イーリアス》の中ですでに言及されているテーベの七つの門の位置は,発掘によって確認されている。ミュケナイ時代以後の都市はカドメイアの南方まで拡張された。
ボイオティアにおけるテーベの主導的位置は,前6世紀の間の長い闘争によって獲得された。ペイシストラトスのアテナイ帰還のために高額の資金を提供し,僭主政倒壊後のアテナイに対するボイオティアの戦いでも指導的役割を果たした。ボイオティア同盟成立の時期は不明であるが,前5世紀には同盟の11人の行政長官中2人がテーベから,他の都市からは1人ずつが選出された。ペルシア戦争ではペルシアに荷担し,プラタイアイの戦の前にはペルシア軍司令官マルドニオスの基地となった。戦後ギリシア同盟軍によって報復として10日間攻囲されて屈服し,その後民主政が樹立されるが,ボイオティアにおけるテーベの位置は動揺し,スパルタの援助で主導権を回復した。ペロポネソス戦争中はスパルタの同盟国としてアテナイ打倒に貢献したが,戦果をめぐりスパルタと不和になり,コリントス戦争では反スパルタ連合側に加わった。いわゆる〈大王の和約〉成立(前386)後の前382年にスパルタはカドメイアを占領したが,3年後テーベの亡命者たちはその奪還に成功し,ペロピダス指揮のもとスパルタとの対立を深め,前371年のレウクトラの戦でエパメイノンダスの作戦によってスパルタ軍に勝利し,以後9年間テーベはギリシア世界の覇権を握ることとなった。エパメイノンダスは,メッセニアを数世紀にわたるスパルタ支配から解放して,メガロポリス建設を援助し,またアルカディア同盟を組織することによってスパルタの勢力失墜を決定的にした。さらに,テッサリア,マケドニアへも干渉し,アテナイ第二海上同盟の妨害も企てるが,エパメイノンダス,ペロピダス両者の死により,覇権政策は挫折し,以後テーベは苦難の歴史をたどることになる。
北方より進出してきたフィリッポス2世指揮下のマケドニア軍に対抗し,アテナイと同盟を結んでボイオティア北部のカイロネイアで交戦し,敗北した(前338)。フィリッポス2世の死後反乱を企てるが,アレクサンドロス大王によって鎮圧され,都市は徹底的に破壊された。住民6000人が殺害され,3万人が奴隷にされたという。このときアレクサンドロスの指示で,詩人ピンダロスの居住した家は神殿とともに破壊を免れた。都市は前316年カッサンドロスKassandrosによって再建された。ミトリダテス戦争ではミトリダテス6世に荷担し,ローマと戦ったが,スラによってついにローマに降服させられた。ストラボンの見たテーベは村としての規模をとどめておらず,2世紀の旅行家パウサニアスの時代にはカドメイアのみに居住者がいた。ローマ帝政後期から中世初期に復興し,9世紀よりビザンティン帝国のテラ・ヘラスの長官(ストラテゴス)の座所となった。1040年には激しい抵抗の末ブルガリアに降服し,さらに1146年にシチリア王国のノルマン人によって攻略された。当時テーベはギリシア最良の絹織物生産で名高かったが,ノルマン人が多数の絹織物工をシチリアに連れ去った結果,絹織物業は衰退し,都市テーベの繁栄も終わった。1205年よりラテン人に支配され,トルコ治下では寒村となった。
現在は人口2万4000(2001)の地方都市で,レバディアとともにボイオティア地方の主要都市。1853年と93年の2度の地震で破壊され,そのつど再建された。遺跡の発掘は1906年から21年まで部分的に行われたが,注目すべき遺物は,63年以降ギリシアの考古学者による,おもに緊急発掘として行われた作業によって出土しており,市内の博物館に所蔵されている。
→テーベ伝説
執筆者:桜井 万里子
上エジプトにある古代エジプト王朝時代を代表する都市。現在のルクソルの町を中心にナイル両岸にひろがる。古代エジプト名はウアセトWaset,旧約聖書ではノ・アモンNo Amon(〈アメン神の市〉の意)と記されたが,ギリシア人がボイオティアの同名の都市にちなんでテーベ(テーバイ)と呼んだ理由は不明である。都市としての発達は比較的遅く,古王国時代末期に始まり,ここを拠点とする第11王朝の成立とメンチュヘテプ2世(在位,前2061ころ-前2010ころ)の王国再統一により,政治および宗教(アメン信仰)の中心地としての地位を確立した。繁栄の頂点は新王国時代,とくに異民族ヒクソスを追放して,北はシリアから南はヌビアを支配する大帝国を建設した第18王朝時代で,帝国の首都として諸国の富が集中する国際都市に成長し,国家神アメンの神殿はじめ王宮,王墓など壮麗な建造物がさかんにつくられた。第19王朝期に王都がデルタに移ってからしだいに政治的重要性を失うが,アメン信仰の総本山として宗教都市の性格を強め,王朝末期の相次ぐ異民族支配下では伝統的なエジプト宗教の中心地としてしばしば抵抗の拠点となり,神殿建築はローマ時代まで続いた。
ナイル東岸が都市の中心で,王宮,神殿,行政官庁,住居が密集していたが,石造のカルナック,ルクソル両神殿を除けば日乾煉瓦造りで,現在の町と重なるため調査はほとんどされていない。西岸は〈死者の町〉で,王墓(第11・第17王朝,新王国時代),王の葬祭殿(新王国時代),貴族の墓(古王国末~末期王朝時代)が集中している。葬祭殿はハトシェプスト葬祭殿を除いて砂漠が耕地と接する位置に並び,セティ1世,ハトシェプスト,ラメセス2世,ラメセス3世の各葬祭殿は比較的よく保存され,最大のアメンヘテプ3世葬祭殿は塔門前の2体の巨座像(〈メムノンの巨像〉)のみ残る。墓地は葬祭殿列の背後(北西),リビア砂漠の東縁の丘陵傾斜面に北西から南東へ約3kmにわたり,7墓地からなる。一部に第11・第17王朝の王墓を含むが,あとはいずれも貴族の墓地で,形式は王墓と同じく岩窟羨道墳,時代は大半が新王国時代(年代の確かな371基中326基)である。砂漠台地中のワジ(涸れ川)には新王国時代の王墓地(〈王家の谷〉)および王妃・王子の墓地(〈王妃の谷〉)がある。墓地群の南,マルカタには第18王朝アメンヘテプ3世の王宮址が発見され,その南のローマ時代のイシス神殿を含む地域では,1971年以来早稲田大学による発掘調査が行われている。
執筆者:屋形 禎亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ギリシア中部ボイオティア地方の都市。テバイともいう。ギリシア現代名はシーバThivaまたはシーベThive。ディルケーの泉をはじめとして幾多の泉と森に富むこの市は、伝えによると、フェニキアから渡来しギリシアにアルファベットをもたらしたカドモスKadmosによって建設された。ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』で知られるオイディプス伝説など数々の神話の舞台の地としても、詩人ピンダロスの生地としても古来有名であった。この地には、初期青銅器時代からの居住の跡があり、ミケーネ時代の宮殿跡も発見されている。これまでの遺跡の発掘調査により、壁画、線状文字B、紀元前14世紀ごろのメソポタミアの円筒印章などが出土している。とくに、印章はカドモス伝説と絡んでオリエントとの交流を推測させるものとして注目に値する。
テーベが歴史の舞台にはっきりと登場するのは、前6世紀、ペイシストラトス治下のアテネと友好関係を維持したころからである。しかし、その後、両国は前519年ごろプラタイアイをめぐって対立し、長期にわたる敵対関係に入った。ペルシア戦争に際してはペルシア側にくみしたため、一時ボイオティア同盟の盟主の地位を失った。ペロポネソス戦争ではスパルタ側にたったが、戦後、スパルタの支配に反対してスパルタと交戦した。前386年アンタルキダスの条約が締結されたのち、一時スパルタの守備隊が駐留したが、エパミノンダス、ペロピダスの両雄が活躍するに至って前371年のレウクトラの戦いでスパルタを撃破し、一時はギリシアの一大勢力になった。だが、この覇権も永続せず、前338年にはマケドニアに征服され、さらに反乱を企てると、前335年アレクサンドロス大王により、神殿とピンダロスの生家を除いて全市が破壊された。
その後、カッサンドロスにより再建され(前316)、ローマが侵攻するとミトリダテスにくみして戦ったが、結局スラの率いるローマ軍に敗れて服従するに至り(前86)、往古の繁栄は夢となり、歴史家ストラボンStrabon(前64―後21ころ)の時代には一寒村にすぎなかった。しかし、中世初頭には再興し、9世紀にはビザンティン帝国のギリシア支配の長官の居住地となり、10世紀には絹貿易の集散地として栄えた。1146年シチリア王国に攻略されてふたたび衰退の道をたどった。中世末期にはアテネ公国(1204~1388)領、1460年からはオスマン・トルコ帝国の支配下に入った。1829年ギリシア人がトルコからの独立を達成したとき、テーベは新興ギリシアの版図下にあった。
現在は人口1万9100(2001推計)。郊外には穀倉地帯が広がり、国道、鉄道の便もよく、ボイオティア地方の中心的都市となっている。市内には、当地方で発掘された遺物を展示する博物館がある。
[真下英信]
古代エジプトの都市。上エジプトの今日のルクソールにあたる地域を占め、ナイルの東西両岸にまたがっていた。エジプト名はワセトWasetといい、テーベというのはギリシア人のつけた名称。東岸都市をさすタ・アペトという名称の発音が、ギリシアの都市テーベに似ているため、この名称をエジプト都市に与えたものらしい。『旧約聖書』ではノアメン(アメンの都)とよばれている。中王国時代にアメン神を奉ずる王朝の首都として登場し、新王国時代にアメン神の本山および首都として大発展を遂げ、古代オリエントの中心都市となった。東岸ではカルナック神殿とルクソール神殿が壮大な多柱ホール、塔門、彫像、オベリスクをもって築造され、西岸では諸王の葬祭殿が建てられた。いまもセティ1世、ハトシェプスト女王、ラムセス2世・3世の葬祭殿が当時の偉容をとどめている。また西岸の谷には豪華な壁画を備えた地下墳墓が造営された。1979年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[酒井傳六]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
①〔エジプト〕Thebes ナイル川上流に位置するエジプト中王国・新王国時代の首都。特にヒクソス撃攘戦に主役を演じて以来,守神アメンが帝国の主神としておおいに繁栄した。ナイル右岸北方にカルナク神殿,南方にルクソール神殿,左岸に王家の谷,ラメセス2世やハトシェプスト女王の葬祭殿,メムノンの巨像などがあり,古代以来エジプト観光の中心でもあった。
②〔ギリシア〕Thebai[ギリシア],Thebes[英] ギリシアのボイオティア地方東南部の有力ポリス。ミケーネ時代には中部ギリシアの中心地をなし,『オイディプス王』関係その他の伝説をもって名高い。ペルシア戦争の際には,ペルシア側に協力。のちボイオティア同盟の主導権を握り,アテネと厳しい敵対関係に立ち,ペロポネソス戦争ではアテネ攻撃の旗頭となる。戦後スパルタと対立したが,前4世紀前半ペロピダスとエパメイノンダスの指導のもとに国力を充実させ,スパルタを圧し覇権を握った。さらに余勢を駆って北方に進出したが,エパメイノンダスの死後,有能な指導者を欠き,没落に向かっていった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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