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リソルジメント リソルジメント Risorgimento

翻訳|Risorgimento

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

リソルジメント
リソルジメント
Risorgimento

1861年イタリアに新王国(→イタリア王国)が形成されるにいたる過程をさす。イタリア語で「再興」の意。イタリア統一運動とも呼ばれる。18世紀末にフランス革命の影響を受けて,イタリア各地で統一共和制国家の樹立を目指す運動が生じたが,ナポレオン体制が成立したため失敗に終わった。

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デジタル大辞泉の解説

リソルジメント(〈イタリア〉Risorgimento)

18世紀末から1870年に至る、イタリアの統一と解放を目ざす運動。ナポリピエモンテが運動の中心で、カブール・マッチーニ・ガリバルディらの指導の下に知識層と中産階級によって推進された。

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百科事典マイペディアの解説

リソルジメント

19世紀イタリアに起きた自由と独立と統一を求めた運動をさす。risorgimentoは一般には〈再興〉の意。イタリアは中世以来,小国家に分裂した状態で,しかもそれらの多くは外国の支配下にあったが,フランス革命の影響を受けて,自由主義民族主義の運動が起こった。
→関連項目イタリアカブールサボイア[家]ジョベルティ青年イタリアピエモンテ[州]ビットリオ・エマヌエレ[2世]ビラフランカの和約フォスコロベルディマッツィーニ

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世界大百科事典 第2版の解説

リソルジメント【Risorgimento】

イタリアでは1861年に国家統一が実現してイタリア王国が成立するが,この新国家の形成に至る歴史過程を総称してリソルジメントと呼ぶ。日本では〈イタリア統一〉ともいう。リソルジメントとはもともと〈再興〉〈復興〉の意味で,18~19世紀の思想家や運動家によって諸改革の課題が,沈滞しているイタリアに再び過去の繁栄をよみがえらせる課題,つまりリソルジメントとして自覚され,その名において運動が進められたことに由来する。

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大辞林 第三版の解説

リソルジメント【Risorgimento】

〔再興の意〕
一九世紀イタリアの国家統一運動。カルボナリ党・青年イタリア党の活動、イタリア統一戦争、ガリバルディの両シチリア王国占領などを経て、サルデーニャ王国首相カブールの指導下に1861年イタリア王国が成立、70年に教皇領の併合が行われ統一が達成された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

リソルジメント
りそるじめんと
Risorgimentoイタリア語

18世紀末から1870年に至るイタリア統一国家の形成過程をさす。イタリア統一運動あるいは「イタリアの統一」ともいう。リソルジメントとは、イタリア語で「復興」を意味するが、この運動の最大の功労者カブール伯爵が1847年にトリノで発刊した新聞名『イル・リソルジメント』に由来する。すでに1世紀を超える研究史をもつリソルジメントの評価は、問題が多様であるだけに複雑多岐に分かれるが、その本質については、絶対主義教権主義に対する自由主義の勝利とみるクローチェの見解と、大衆の参加を欠いた受動的ブルジョア革命とするグラムシの見解とが影響力のある二つの解釈である。[重岡保郎]

起源の問題

リソルジメントの起源については、18世紀後半のイタリア啓蒙(けいもう)改革にあるという自生的見地と、他方フランス革命の影響のもとにあるという外来的見地とがある。しかし政治的民族意識の目覚めは、前者のうちにはみられない。運動の出発点は、フランス革命とナポレオン体制によって提供されたとみるべきである。なぜなら、フランス軍の占領下(1796~99)に、イタリアのジャコバン主義者の一部は統一共和国の樹立を運動目標に掲げた。さらに19世紀初めのナポレオンによる支配は、イタリアに三つの統合された国家を与え、関税障壁の撤去によって経済の発達をもたらし、ナポレオン法典をはじめフランス流の近代的諸制度の導入により、民族的自覚と中産階級の成長を促したからである。[重岡保郎]

王政復古と秘密結社

ナポレオン体制の崩壊後のウィーン体制のもとで、イタリアは次の諸国家から構成された。すなわち、オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国、トスカナ大公国、教会国家、パルマ公国、モデナ公国、ルッカ公国、スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国、そしてサルデーニャ王国である。ナポレオンにかわってイタリアの主人となったオーストリア宰相メッテルニヒは、「イタリア人の統一精神と立憲思想を根絶し」「イタリアのジャコバン主義を抹殺」しようともくろんだが、復帰したイタリアの諸君主はみなこれを受け入れた。これに対して、立憲自由主義の運動が、フリーメーソンから派生した秘密結社(南部では「カルボナリ」党、北部では「アデルフィア」党)を通じて非合法に展開され、1820~21年にナポリとピエモンテで、31年には中部各地で革命的反乱を引き起こしたが、いずれもオーストリア軍の介入で鎮圧された。[重岡保郎]

青年イタリア党と穏健自由主義運動

秘密結社の運動の反省から、二つの運動が生じる。第一の運動は、1831年にマッツィーニが結成した青年イタリア党である。彼は、カルボナリ党のあいまいな目標に、民族の独立と統一共和政の樹立という明確な目標を対置し、その目標達成のために、エリートを結集した秘密結社によってではなく、教育を通じて民族意識に目覚めた人民の蜂起(ほうき)によらねばならないとした。青年イタリア党は、北イタリアを中心に主要都市に支部を広げ、マッツィーニの国外からの指導で30年代何度か蜂起を試みたが、いずれも失敗に終わった。この党は48年に解散された。
 青年イタリア党と異なる第二の運動は、1840年代の穏健自由主義運動である。これは政党ではなく、世論に基づく漸進的改革運動である。この世論の背景には、30年代以降の北部の経済的発展があった。そのなかでイタリアの近代化が独立と統一に不可欠であるという世論が新聞・雑誌を通じて形成されていった。この動きのなかで注目されたのが、43年に出版されたジョベルティの『イタリア人の倫理的、市民的優位について』である。それは、教皇を盟主とする諸邦の連合こそ民族を復興するというネオグェルフ主義の構想である。その後、バルボとダゼリオによって政治的穏健主義が仕上げられた。[重岡保郎]

1848~49年の革命

1848年初めシチリアで分離と憲法を求める反乱が起こり、両シチリア国王がその要求に屈すると、反乱はしだいに他のイタリア諸地方に波及し、3月ついにオーストリア支配下のベネチアとミラノで反乱が起こり、オーストリア守備隊を駆逐した。これを機にサルデーニャ王カルロ・アルベルトをはじめ、全イタリアが対オーストリア戦争に立ち上がり、各地から義勇兵が北上した。しかし、この民族戦線は成立と同時に破綻(はたん)する。ピウス9世、ついで両シチリア国王が戦線から脱落した。カルロ・アルベルトは戦線にとどまったものの、義勇兵の共和主義を恐れ、正規軍だけの戦いを続け、サラスコの休戦を強いられた。この休戦以後、急進主義の道が開かれる。48年夏から1年にわたり、ベネチア、ローマ、フィレンツェで急進派が順次権力を握り、49年ローマ共和国が樹立された。マッツィーニやガリバルディが参加した共和国は「人民のローマ」建設を目ざして注目すべき諸政策を行ったが、ルイ・ナポレオンのフランスの軍事介入により倒された。他の2共和国もオーストリア軍の介入で崩壊した。この間、49年春サルデーニャ軍は対オーストリア戦を再開するが、たちまち敗北し、同年カルロ・アルベルトは退位した。[重岡保郎]

サルデーニャ王国の発展

その後、イタリア諸国には旧体制が復活した。しかしそのなかで新たに即位したビットリオ・エマヌエレ2世のサルデーニャ王国だけは、1848年憲法を保持し、議会政治を発展させていった。右派が支配的であった52年の議会において、カブールは中道左派の支持を得て新しい議会内多数派を形成し、この中道左派と中道右派の政治同盟をきたるべき彼の内閣の基礎に据えた。これは開明貴族とブルジョアジーの同盟を意味するとともに、政治過程から民衆を排除した穏健主義が反動に堕さない保証でもある。同年秋彼は首相になると、教会・保守勢力の打破に努める一方、産業育成、鉄道・通信などの基礎構造の整備および軍制改革により国力の強化を図るとともに亡命者を優遇したので、イタリア各地から亡命者がピエモンテに集まった。マニンのように「一八四八年の革命」の主役を演じた共和主義者もしだいにサルデーニャ王国によるイタリア統一を支持する動きをみせ、カブールのひそかな援助のもとに「イタリア国民協会」を結成した。ガリバルディも参加したこの組織は、中部やシチリアに広がり、急進派に対するカブールのヘゲモニー装置となった。[重岡保郎]

統一国家の成立

カブールは、「一八四八年の革命」以来、私有制度にとり危険な民衆革命を伴わずに独立と統一を達成する道を模索し、結論として革命の外交化を目標に掲げた。すなわち、イタリアの民族的問題を全ヨーロッパの前に提出し、サルデーニャ王国がヨーロッパ諸国の支持を得ること、とくにイギリス、フランスの支持のもとに王国正規軍だけで対オーストリア戦争を遂行することがその内容であった。54年のクリミア戦争への参加は、このための深慮遠謀である。カブールは、プロンビエールの密約(1858)によってナポレオン3世と同盟を結び、59年4月対オーストリア独立戦争を開始した。同年7月、オーストリア軍を破ってロンバルディアを併合し、さらにナポレオンとの取引で中部の併合をかちとった。当面の課題として北イタリアの統一のみ考えていたカブールにとって、60年3月の住民投票による中部併合は第一段階の終了だった。翌4月以後に始まる第二段階は、カブールの構想を超えたところから生じた。中部併合の代償としてフランスに割譲されたニースの出身だったガリバルディは、カブールの政策に激しく抗議し、外国に頼らないイタリア独自の解放を目ざして、義勇軍によるシチリア遠征を敢行した。当時シチリアには農民反乱が起こっていたが、ガリバルディはこの勢力と結び付いて同島の両シチリア王国軍を撃破し、さらに半島南部を席捲(せっけん)した。この征服は、農民や共和主義者の蜂起に支えられていた点で、第一段階の路線とはまったく異なるものであった。しかし、カブールはこの動きを、穏健派や国民協会の組織を利用してひそかに牽制(けんせい)しながら、機をみてサルデーニャ正規軍を南部に投入、両シチリア王国軍に対し最後の勝利を収めた。
 こうしてイタリアの統一はサルデーニャ王国が他の諸国を併合する形で行われ、1861年春イタリア王国が発足した。未回収の領土ベネトは66年のプロイセン・オーストリア戦争の際に、同じくローマは70年のプロイセン・フランス戦争の際に王国に併合され、ここにイタリアの統一が完成した。[重岡保郎]
『北原敦著『リソルジメントと統一国家の成立』(『岩波講座 世界歴史20』所収・1971・岩波書店) ▽森田鉄郎著『イタリア民族革命』(1976・近藤出版社) ▽クローチェ著、坂井直芳訳『十九世紀ヨーロッパ史』(1982・創文社) ▽藤澤房俊著『赤シャツの英雄ガリバルディ』(1987・洋泉社)』

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世界大百科事典内のリソルジメントの言及

【イタリア】より

…郷党割拠主義,地方主義,そして強固なナショナリズムの併存,そこにイタリア人の地縁的帰属意識の特色がある。【竹内 啓一】
【歴史】

[イタリア史の時代区分と特徴(古代~近代)]
 ベネデット・クローチェは,リソルジメント(1861)以前については厳密な意味におけるイタリア史は存在しないと述べている。たしかに単一の政治機構に組織された国家がイタリア半島全域を統治するという事態は,ローマ帝国の時代を除いては見られなかった。…

【イタリア語】より

…イタリア語を〈死語〉とさえ評したミラノ生れの作家A.マンゾーニ(1785‐1873)は,自作の小説《いいなずけ》を書き改めるに際し,同時代の教養あるフィレンツェ人の日常語を用いることにより,文学イタリア語に新たな息吹を与える試みに成功した。 イタリア語が話し言葉として全土に普及するのは国家統一(リソルジメント)以後のことである。言語学者デ・マウロの推定によれば,1861年の統一時に標準語を話すことのできたのは60万人余り(うちトスカナ人40万人,ローマ人7万人),全人口のわずか2.5%にすぎなかったという。…

【ファシズム】より

…この立場は30年代の〈正義と自由〉グループ,40年代の〈行動党〉に受け継がれていく。 第2はクローチェに代表される見方で,ゴベッティと違って,イタリアに統一をもたらしたリソルジメントから20世紀初頭のジョリッティ時代に至る過程を自由主義的発展の歴史として肯定的に評価し,ファシズムはこの発展からの断絶であり逸脱であるととらえた。クローチェの解釈の奥には,大衆の政治への登場が伝統的な自由主義社会の秩序を崩したとする認識があり,ファシズムに対してファシズム以前の自由主義社会への復帰が対置された。…

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