神田村(読み)こうだむら

日本歴史地名大系 「神田村」の解説

神田村
こうだむら

[現在地名]須崎市神田・妙見みようけん町・土崎つちざき

須崎湾奥東部に位置し、ほとけ坂から西流する神田川と、さくら川の下流に開けた平坦な村。「土佐州郡志」は「東限浦之内、西限土崎、南限押岡、北限吾井郷、東西四拾町南北二拾町」と記す。

京都下鴨神社領津野つの本庄に含まれ神田郷といわれたが、康暦二年(一三八〇)三月一七日付の津野浄高所領宛行状(蠧簡集拾遺)によれば「津野本庄神田郷依包名」の一部が浄高によって方田四郎五郎に宛行われており、応安五年(一三七二)津野繁高の津野本庄の地頭請以後、事実上津野氏の支配下に入ったと思われる。字行清いつきよには賀茂かも神社が鎮座していたと伝え、天正一六年(一五八八)の津野神田郷地検帳によれば、神田郷内におおごう村の賀茂神社の神主ヤシキがあった。同地検帳には五三の名がみえ、うち行清・清次きよつぐ清重きよしげ国永くになが末延すえのぶ末正すえまさ末石すえいし武久たけひさ為国ためくに延包のぶかの宗利むねとし守時もりとき貞光さだみつ末久すえひさ吉末よしすえなどが現在地名として残る。


神田村
かみだむら

[現在地名]寝屋川市上神田かみかみだ一―二丁目・下神田しもかみだ町・中神田なかかみだ町・東神田ひがしかみだ町・御幸西みゆきにし町・御幸東みゆきひがし町・木田元宮きだもとみや二丁目

大利おおとし村・高柳たかやなぎ村の南、寝屋川右岸沿いに位置し、茨田まんだ郡に属する。寝屋川と並行して二十箇にじゆうか用水路と友呂岐ともろぎ悪水路が南流する。西部にはふる川が南流し、周囲に囲い堤防がある輪中の平坦地。輪中内の微高地に北からかみ村・ほん郷・しも村、東部に出在家でざいけ村の四集落がある(正徳四年「神田村絵図」丸山家蔵)。東端には一部分寝屋川を隔てて外島田がある。

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高七一五石余、小物成として蓮葭年貢米一二石一斗。


神田村
こうだむら

[現在地名]唐津市神田・あさひおか

唐津城下の西南、東松浦半島上場うわば台地の山麓にある。かつて松浦まつら潟はここまで入江となっていた。

歴代鎮西要略」は鎌倉時代の松浦党にふれて「松浦の族党繁衍し、分れて数十家となる。松浦・波多・石志・神田・佐志」という。また「太平記」によれば足利尊氏の建武三年(一三三六)の多々良浜合戦で「松浦・神田の者共将軍の小勢を大勢と見て降人に答たり」と記している。神田氏は「松浦家世伝」によれば、松浦党の始祖松浦久の五男広が神田氏を名乗り、以来神田に居を構え、上松浦の松浦党の一員として鎌倉時代から戦国末期まで活躍している。


神田村
こうだむら

[現在地名]桃山町神田

最初さいしよ峰の西南麓、柘榴ざくろ川東北側を村域とする。集落は村の西の山際にあって、高野山に通じる街道が通る。北は賀和かわ、西から南にかけての柘榴川対岸は上野うえの脇谷わきたにの各村に接する。「続風土記」は「此村御船明神の神地なるを以て神田村と名つくなるへし」とあるが、仁治元年(一二四〇)一二月二八日付の僧上得田地売券(又続宝簡集)に「在荒川御庄香田村字於那村垣内」とみえる。この荒川あらかわ香田こうだ村が当村をさすと思われる。また弘安八年(一二八五)一二月八日付の御影堂陀羅尼田寄進置文(続宝簡集)には「荒河庄上田村」とみえるが、これも神田村のことと思われる。なお中世には村名は「上田村」が一般的に使用されているが、ほかに「高田村」(嘉元四年五月日付「御影堂陀羅尼田不見帳面坪々注文」又続宝簡集)、「コウ田村」(応永三二年五月二六日付「天野社一切経会段米納日記」同集)などともみえる。


神田村
かんだむら

[現在地名]秋田市外旭川 神田

久保田くぼた城下の北西約一里。東は濁川にごりかわ村、西は八柳やつやなぎ村。地名は寺内てらうち古四王こしおう神社の神田に由来するといわれる(外旭川村史)。「梅津政景日記」寛永元年(一六二四)五月二六日条によれば神田・八柳・寺内・川尻かわしりに通ずるあな堰が計画され、穴堰の水利により水田化が進み、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四四五石とある(→穴堰

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には「神田村 十五軒」とあり、支郷に家数一〇軒の沖神田おきかんだ村、三軒の三月田さかた村、六軒の八百苅はつぴやくかり村、二軒の屋敷田やしきた村、三軒の荒屋敷あらやしき村、三〇軒の鍛冶目かじめ村、四軒の曲田まがた村があった。


神田村
こうだむら

[現在地名]山本町神田

財田さいた川支流の神田川流域に沿って、財田西さいたにし村の北東に細長く延びる村。川沿いに平地が開け周囲は大部分が山地。金刀比羅宮への伊予・土佐街道が通る。大水上おおみなかみ神社(現高瀬町)の神田があったところから村名がついたと伝える(西讃府志)。寛永国絵図に村名がみえ、二宮にのみや郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一千三一一石余、うち新田一〇〇石三斗余(神田宮領四石七斗などを含む)。同一八年の小物成は綿三〇四匁、炭一二〇石(一石につき銀二匁)、大麦一石(山手夏成)、米一石(山手秋成)であった(山崎領小物成帳)


神田村
じんでんむら

[現在地名]八日市市神田町

との村の東にあり、北東を流れる愛知えち川の対岸(北東岸)にも集落を含む村域が広がる。集落は愛知川南西岸北部の本村神田、同南部の駒寺こまでらと対岸の小神田こじんでんからなる。村名は河桁御河辺かわけたみかべ神社の神田に由来するなどとされ、また駒寺は同地の古寺高麗こうらい寺にちなむといわれる。長享元年(一四八七)一〇月五日、足利義尚の第一次六角征伐に伴うかき御園など近江国内の近衛家領回復により、神田郷からも公文・百姓らより礼銭各一〇〇疋が近衛家に進上され、その前月には下司職安堵の礼銭一〇〇疋も納められていた(「後法興院記」同年一〇月五日条)。また「雑事要録」には、長享から延徳(一四八九―九二)期の神田郷からの年貢代銭や公事収納の記事が散見され、芋・粽・瓜・茄子なども納められていた。


神田村
こうだむら

[現在地名]北区淡河町神田おうごちようこうだ

美嚢みなぎ郡に属する。淡河川右岸の山間に位置し、南は野瀬のせ村、東は摂津国有馬ありま西畑にしばた村。建武二年(一三三五)閏一〇月二八日の大炊助政高奉書(「微考録」石峯寺文書)石峯しやくぶ寺領「神田谷」がみえ、安元年間(一一七五―七七)に同寺に寄進されたが、位田慶三郎に押領されたと同寺衆徒が訴えている。興国二年(一三四一)一一月二五日同寺領神田谷が衆徒中に安堵されている(「後村上天皇綸旨」同文書)


神田村
じんだむら

[現在地名]藤岡市神田

三名さんな川が南境を東流し、東は牛田うした村、西は矢場やば村、北は本郷ほんごう村と藤岡町に接する。村名は高山たかやま御厨に祀られた神明宮の神田にちなむという。十石じつこく街道が二筋に分れ東部と西部を抜ける。文和二年(一三五三)三月一九日の長楽ちようらく(現新田郡尾島町)普光庵に宛てた足利尊氏寄進状(長楽寺文書)に「高山庄南神田」とある。天文一九年(一五五〇)三月一九日、用土佐衛門尉に「高山知行内神田川よけ(除)の郷」が与えられ(北条氏康判物写「管窺武鑑」所収)、永禄六年(一五六三)五月一〇日に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「神田村」がある(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)


神田村
かんだむら

[現在地名]松本市神田

中山丘陵の突端部と、はやし村の千鹿頭ちかとう山を東南部にもち、北西に筑摩つかまの平地をもつ小村。天正検地では四一一石八斗七升三合と高付けされている。寛文九年(一六六九)の高島藩の検地の時は水田の開発によって五〇六石五斗二升八合一勺と増している。

村内の千鹿頭山は高遠たかとお山の麓の独立丘で、その上に千鹿頭神社があった。元和三年(一六一七)松本領から五千石が割かれ諏訪因幡守頼水に分けられた時、林村分・神田村分の村境がこの山の尾根を通ったため、その後、神社も二つ並べて建てられるようになった。


神田村
こうだむら

[現在地名]高知市神田

高知城下南西方にあり、潮江うしおえ村の西、石立いしたて村の南にあたる。村の東から西は低い山に囲まれ、平地は中央より北方に広がる。北端をかがみ川の支流神田川が北東流する。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「去府城西南十町余、其土黒」と記す。当地には船岡山ふなおかやま古墳がある。また「続日本紀」神護景雲二年(七六八)一一月一八日条に「土左国土左郡人神依田公名代等一人賜姓賀茂」とみえる神依田公らは当地辺りに居住したとも推定されている。


神田村
じんでんむら

[現在地名]上市町神田

白岩しらいわ川と支流大岩おおいわ川の合流地点下流の扇状地に位置し、東は大尾川原だいおがわら村、西は若宮新わかみやしん村、南はつじ(現立山町)。正保郷帳では高四一一石余、田方二七町二反余・畑方二反、新田高七八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高四六五石、免四ツ二歩、小物成は鮎川役三匁・鮭役三匁(三箇国高物成帳)。その後貞享元年(一六八四)に検地引高が一二四石発生、一方、享保八年(一七二三)・同一七年、延享元年(一七四四)・天明五年(一七八五)・享和三年(一八〇三)・文化一四年(一八一七)・天保九年(一八三八)の手上高が計三〇石あって都合高三七一石となる(天保一一年「高免帳」杉木家文書)


神田村
こうだむら

[現在地名]八木町字神田

大堰おおい川と園部そのべ川の合流地点北部一帯を占める村で、東は広垣内ひろがいち村、西と南を室河原むろがわら村に囲まれ、北は大戸おおど(現園部町)に続く。北に山を負い、南方は両河川合流部の平坦地を形成する。

室町時代北野きたの(現京都市上京区)領船井庄の一村で、観応三年(一三五二)足利義詮御判御教書(北野神社文書)に「興田村」とみえる。

<資料は省略されています>

熊崎くまざき村は現園部町熊崎。「北野社家日記」長享三年(一四八九)五月二六日条に載る舟井庄十一村闕所分目録のなかに「興田村内掃部おとろ一類」とある。


神田村
こうだむら

[現在地名]山陽町神田

東は野間のま(現熊山町)、西は東窪田ひがしくぼた(現赤坂町)、北は大苅田おおかんだ(現同上)。当地に古代赤坂あかさか郡の郡衙があったという。貞治三年(一三六四)二月三日の葛木氏子孫掟書(黄薇古簡集)鳥取ととり庄中村の東境に「神田山」がみえる。

慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)葛木かつらぎ庄に神田村とある。寛永備前国絵図では高三一三石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高三五二石余、寛文一三年(一六七三)火鉢ひばち新田が開発され高五九石余。貞享元年までに二口高は四三五石余になり、荒などを引いた残高四〇六石余。元禄一三年(一七〇〇)には枝村に赤坂があり(備前記)、享保六年(一七二一)の田畠二六町六反余、家数四二・人数二六九、池一四(備陽記)


神田村
じんでんむら

[現在地名]戸沢村神田

名高なだか村の北に位置し、さけ川支流濁沢にごりさわ川と田沢たざわ川に挟まれた低台地の狭隘部湧水地帯に本郷の神田、濁沢川流域山麓に濁沢・杉沢すぎさわ鹿さわなどの枝郷集落がある(新田本村鑑)。本郷は鮭川の沖積地を見下ろす段丘上にあり、本城ほんじよう館・なし館などの中世城館跡がある。鹿ノ沢から庄内地方へ抜ける間道が通じるため、同所に口留番人一人がおかれた(新田本村鑑)。元和八年(一六二二)の御前帳写では高八五二石余、寛文四年(一六六四)には高一千五八九石余、うち改出四五〇石余・新田二八六石余、元禄一三年(一七〇〇)には六一一石余を津谷村に分ち、高九七七石余(新田本村鑑)、明和三年(一七六六)には高六五六石余、うち田方五二四石余、反別五七町四反余、うち田方三六町五反余(吉村本村鑑)


神田村
こうだむら

[現在地名]池田市神田町一―四丁目・ダイハツ町・豊島北とよしまきた一丁目・八王寺はちおうじ一―二丁目・桃園ももぞの二丁目など

池田村の南にある大村。村の西側を猪名いな川が南流する。古くは神田郷とよばれたこともあったという(大阪府全志)天保郷帳北神田きたこうだ村五六〇石余、南神田村四八八石余と、南神田村の枝郷で古くは脇塚わきづか村といった神田村一〇一石余の三村を記すが、以下すべてを含む神田村で記す。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には上畠村・宮原村・神田村・ツカイ村・脇塚村の五村がみえ、一括して一千三八石余。また元和初年の摂津一国高御改帳には神田・脇基(脇塚か)・宮原・中島・上畠・小神田(北神田か)の六村が記され、石高は変わらず、幕府領で長谷川忠兵衛預。


神田村
かんだむら

[現在地名]北条市神田

立岩たていわ川下流の南岸にある村で、山地と平野の接点に位置する。東は才之原さいのはら村・滝本たきもと村、南は寺谷てらだに村、西は波田はだ村、北はしよう村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「神田村 林少有、小川有」とみえ、村高は一五六石五斗九升六合、うち田方一四〇石六斗二升五合、畑方一五石九斗七升一合とある。天保郷帳では一五七石二斗九升六合となっている。

八反地はつたんじ村に物部阿佐利が国津比古命くにつひこのみこと神社を創建してのち、この村は波田村とともに神戸に設定された。


神田村
こうだむら

[現在地名]菰野町神森かもり

三滝みたき川右岸、吉沢よしざわ村の南東に位置する。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳では家臣津田三四郎が当地を知行している。江戸時代を通じて菰野藩領。文化七年(一八一〇)より一〇ヵ年勤高一一石、また文政五年(一八二二)より一〇ヵ年間二二石で四日市宿の代助郷。さらに元治二年(一八六五)四月より当分の間同宿の助郷を命ぜられたが、翌慶応二年(一八六六)正月免除された(旧版「四日市市史」)

弘化三年(一八四六)の戸数二二、人口一一六、うち男五四・女六二(「菰野雑記」野呂家蔵)、また明治二年(一八六九)には二三戸、一一九人(男五八・女六一)、牛一四であった(菰野町史)


神田村
かんたむら

[現在地名]矢吹町神田西かんたにし白山はくさん神田東かんたひがし沢尻さわじり谷中やなか奉行塚ぶぎようづか神田南かんたみなみつつみ

阿武隈川西側にあり、北は三城目さんじようめ村、南は中野目なかのめ村。石川郡に属した。会津領から寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保二年(一七四二)越後高田藩領、文化六年(一八〇九)幕府領、天保八年(一八三七)旗本松平領、元治元年(一八六四)以降幕府領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二八七石余。


神田村
じんでむら

[現在地名]浦和市神田

五関ごせき村の東、古い荒川の自然堤防地帯に立地する。北は白鍬しらくわ村と上峰うえみね(現与野市)八貫野はちかんのに持添新田がある。西をかも川が流れる。古く伊勢神宮の神領であったため村名となったという。田園簿では高一九九石余、うち草銭永二五〇文、反別田一一町三反余・畑一六町六反余で、旗本打越領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、以後幕末まで幕府領であったとみられる(「風土記稿」・改革組合取調書など)。検地は元禄三年(一六九〇)の実施を伝え、享保一七年(一七三二)には新田検地が行われたという。


神田村
こうだむら

[現在地名]英田町真神まがみ

矢野原やのはら村の東に位置し、村内を河会かわい川が流れる。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家林家長の檀那村書(肥塚家文書)に神田とある。正保郷帳に村名がみえ、田五四石・畑六二石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高二九石余・開高二二石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は福本ふくもと村と同様。


神田村
かだむら

[現在地名]設楽町神田

御殿ごてん川の上流、神田川流域の村。現東栄とうえい町との境にある花丸はなまる峠を経て粟代あわしろ(現東栄町)へ通じる海老えび道が通る。明和元年(一七六四)の新田検地で四石余を検出。幕末の戸口は五八戸・三三〇人(北設楽郡史)。村域内に六部屋敷りくぶやしき木地屋原きじやばら・ロクロ小屋ごやなど木地屋にかかわる地名が残る。


神田村
しんたむら

[現在地名]鹿角市十和田末広とわだすえひろ 神田

北流する米代川が西に向きを変える所に位置し、近くで大湯おおゆ川が合流する。集落南側台地の現上ノ野うえののに縄文期の遺跡が数ヵ所、土師器・弥生土器を伴う遺跡が二、三ヵ所ある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「神田村 神田十郎領知 本名成田 居館碁石館有」とあり、中世後期には開村していた。集落南西部の土筆森つくしもり東端に中世館跡があり、単郭状平坦面と空堀を残す。北側の平野部、合流する米代川・大湯川・小坂川、比内ひないに通ずる街道を眼下に見下ろし、軍事的な要地である。


神田村
かんだむら

[現在地名]海南市日方ひかた

日方浦の東側に位置する村で、近世初期までは日方村に含まれたが、その後分村、日方村の内陸部が神田村、海岸部の熊野街道沿いに発達した地域が日方浦となった。名草なくさ郡に属する。「続風土記」は神田村を元村、日方を出村とし、「田畑は今に入組なり」と記す。神田村の村高は六七石余を記すが戸口は両村を一括して記載。現大字日方の東部に小字神田・神田前が残り、その地域が村域と考えられる。

なお「紀伊名所図会」は「潟村は今の神田村なるべし」と記しているが、このかた村は応永七年(一四〇〇)の三上庄大野郷御年貢帳(禅林寺文書)のうちに「加田村分一町二反三百歩」「加田惣村分二反六十歩」とある地のことであろう。


神田村
かんだむら

[現在地名]三和村神田

西方を桑曾根くわぞね川が北流し、南はとう村に接する。古代は東大寺領吉田よしだ庄に属したと伝え、庄司場・イカリ・コンヤ・七丁刈・吉田の地名がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「至徳寺分此外拾四方分かん田村 中」とみえ、本納四四石二斗八升六合九勺・縄高一一二石一斗七升、家五軒・三一人とある。正保国絵図では高五一九石余。天和三年郷帳によれば高五八六石二斗余、うち山高五石六斗六升八合で、新田として高七八石四斗余が記される。


神田村
かんだむら

[現在地名]下関市大字神田・王司観音おうじかんのん

現下関市の東部にあたり、村内東部を神田川が南東に流れる。南は宇部うべ、北と東は清末きよすえ、西は員光かずみつの各村と接する小村。長府藩領で、東豊浦郡奥支配に属した。

「正任記」文明一〇年(一四七八)一〇月二七日条所収の杉彦六重治本領御還補御判案文に「豊田郡神田内拾八石地」とみえる。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳に「神田村」とみえ、宇部村・才川さいがわ村と合石で記される(→才川村


神田村
かんだむら

[現在地名]東庄町神田

和田わだ村の西に位置する。上代かじろ村枝郷で、明和七年(一七七〇)頃に分村したというが(「上代三ヶ村明細記」上代家文書)、天保郷帳に記載がない。寛永一九年(一六四二)旗本筒井領となったという(文化五年「桜井村明細帳」桜井区有文書)。安永三年(一七七四)当村は筒井氏用人の非法を和田村などとともに訴え、追放させている(上代家文書)。寛政二年(一七九〇)当村と和田村の名主役任命をめぐり筒井氏がもとの名主を任命しようとしたところ、惣百姓が入札を要求して江戸屋敷に門訴する事件が起きている(同文書)


神田村
かみたむら

[現在地名]浜松市協和町きようわちよう

白須しらす村の西、庄内しようない半島の中ほどに位置。上田村とも表す。天文一三年(一五四四)二月九日の今川義元判物(大沢文書)に「従大沢殿割分村櫛庄内上田壱村」とあり、上田村は前年に今川氏の検地を受け増分があったが、大沢治部少輔は本増ともに安堵されている。永禄一二年(一五六九)四月、大沢基胤が徳川家康方に属した際、安堵された本知行のうちに「上田」がみえる(同月一二日「徳川家康判物写」譜牒余録後編)


神田村
こうだむら

[現在地名]安濃町神田

穴倉あなくら川の左岸、神山こうやま村の東にあり、東は北大谷きたおおたに川で連部つらべ村に接する。集落は村域の中央部の平地にある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「神田」と現れ、江戸時代を通じて津藩領。「宗国史」には当村の寺社に関しての記載はなく、戸数二四、人口一一六、牛九とある。


神田村
こうだむら

[現在地名]伊勢市神田久志本こうだくしもと

勢田せた川中流東岸、久志本村の東にある。応永一〇年(一四〇三)一二月七日の元氏畠地寄進状(光明寺古文書)に「冨貴上光明寺屋敷畑□、合壱杖ニ中在所神田村」と記されている。長禄四年(一四六〇)八月一二日の神田姫右田地売券写(同文書)にも「継橋郷字神田村社垣内」とある。川崎かわさき村の枝郷で、伊勢神宮領であった。


神田村
こうだむら

[現在地名]佐々町神田免こうだめん

市瀬いちのせ村の北東に位置し、佐々川東岸にあたる。江戸時代は平戸藩領で、正保国絵図に「神田村」とあり、高三七一石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では佐佐一ノ瀬村内に神田免と記される。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では佐々村枝村として村名がみえ、高三七一石余でカウタの訓を付す。


神田村
こうだむら

[現在地名]かつらぎ町神田

上天野かみあまの村の南に位置し、村内を町石ちよういし道が通る。中世は高野山領六箇七ろつかしち郷のうち天野郷に属した。「続風土記」には「旧上天野村の枝郷なり、当村昔より天野の御供田の地なり、故に神田といふ、今も社家の領なり」と記す。


神田村
こうだむら

[現在地名]竹田市福原ふくはら

久住くじゆう川沿いにある。正保郷帳では家中かちゆう郷に属し、田方三三石余・畑方二〇石余。元禄郷帳では同高で、カウダと読みを付している。弘化物成帳では北尾鶴組のうち、村位は中、免七ツ八分、田四二石余(四町四反余)・畑四六石余(七町七反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田三斗余(一反余)・開畑二石余(四町六反余)がある。


神田村
じんでむら

[現在地名]津和野町高峯たかみね

高田たかた村の北、高峯山西麓の雲井くもい峰南麓段丘と山地に立地。明治四年(一八七一)の万手鑑によれば古高三〇石余、寛永一四年(一六三七)の検地高三二石余、明治四年の総高四一石余・反別七町九反余、家数八(うち本百姓七)・人数三八(うち本百姓三二)、牛七、米蔵一、紙漉舟六、鉄砲三。


神田村
かんだむら

[現在地名]瑞浪市大湫町おおくてちよう 神田

大湫村の北東、木曾川支流神田川沿いにある。北は西流する木曾川の渓谷。大湫村枝郷で神田組ともよばれた。元禄郷帳に村名がみえ高一九石余、尾張藩領。「濃州徇行記」では家数一四。


神田村
じんだむら

[現在地名]宇目町河内かわち

上河内村の北東、市園いちぞの川の上流域に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高一九石余・畑高二一石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高一一六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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