日本大百科全書(ニッポニカ)「恐れ」の解説
恐れ
おそれ
生命維持、個体保全に密接に関連しているもっとも基本的・原始的な感情である。ブリッジスK. M. B. Bridges(1897―?)は、新生児における情動は興奮だけであるが、乳児期になると、快や不快が分化し、不快から怒りや恐れが現れてくるという有名な分化のシステムを発表している。スルーフL. Alan Sroufeは乳児期の初期にはすでに恐れが発現していることを発表している。このような研究はすべて自然的行動観察に近いものなので研究者の主観によってさまざまに異なってくる。そこでどちらが正当であるかはわからないが、恐れという情動は、生命維持、個体保存に密接に関連しているために早期に出現していることは確実であろう。
乳児期の恐れの対象は、大きな音、強い光、イヌやネコのような動物、トカゲやカエルのような変わった形態の小動物、見知らない人、突発的なできごと(急に身辺に変化がおきる)、暗闇(くらやみ)などのような具体的な刺激に限られているが、幼児期に入ってくると、空想的な対象、たとえばお化けや宇宙人などに対する恐れが現れ、さらに予期的な危険に対する恐れがわいてくる。母親がそばにいないというような場面である。現実の危険に遭遇しなくてもきたるべき危険を予期して恐れを感じるのである。このような恐れを不安という。不安は生後6か月ごろ「人見知り」として現れてくる。これはフロイトの弟子の精神分析医スピッツR. A. Spitz(1887―1974)の意見である。しかし、ブリッジスは5歳ぐらいのときに不安の発現を認めている。不安は恐れよりも観察できない情動であるからその発現の時期を判定するのは実に困難である、このように大きなずれが生じているのは、スピッツが精神分析学のほうからの観察、ブリッジスが発達心理学のほうからの観察だからかもしれない。どちらの見方にせよ、不安は小学校入学とともに急速に分化してくる。勉強における失敗の恐れ、友人関係における葛藤(かっとう)と仲間割れの恐れなどであり、このような不安の種がどんどん発芽してくるのである。
アメリカの心理学者ワトソンは、乳児が白ウサギをかわいがっているのに目をつけ、その子が白ウサギに触れるたびに強烈な音響を出して驚かせた。その結果その子は白いウサギを見ると後ずさりをするようになり、白いシーツやおじいさんの白いひげにまで恐れを抱くようになってしまったという。ヒューマニティーに反する実験であるが、恐れという情動が周囲の人々の条件づけによって生じてくることを証明している。子供の養育上重要な問題といえよう。
神経症のなかに恐怖症という疾患が含まれている。ある特定の対象に対して他の人々が容易に理解できそうもない恐れを抱き、日常生活にさまざまな支障が生ずる神経症である。赤面恐怖(対人恐怖の一種で人に会ったときに赤面してしまうのではないかという恐れ)、広場恐怖(広場が突っ切れないので端に沿って歩かなければならない)、先端恐怖(先が尖んがった錐(きり)や鉛筆を恐れる)、涜神(とくしん)恐怖(だれかが神聖な場面を打ち壊すようなことをするのではないかという恐れ)などさまざまな症状がみられる。原因がわからないものが多いが、父親に対する恐れが、ある動物に対する恐れになって夢のなかに現れてきたケースをフロイトが報告している。
[大村政男]