日本人(読み)にほんじん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日本人(人類学)
にほんじん

日本人の起源

 一般に日本文化を担っている人々をさす。日本国籍をもつ「日本国民」をさすこともある。日本列島には日本人のみが居住していると広く考えられているが、この日本列島にはアイヌをはじめとする北方少数民族やその他の少数民族も居住し、それぞれ独自の歴史と伝統文化を維持してきている。
 文化人類学的観点からいえば、伝統的な日本文化は水稲耕作とそれに関連する一連の文化要素に特徴づけられると考えられてきた。歴史的にこのような日本文化を担う日本人の集団が成立したのは、日本列島に水稲耕作とそれに伴う諸文化要素が導入され、人々により受容されたときであると理論的にはいえる。この日本人の形成過程は古人類学、考古学的資料に基づき復原できる。
 この観点から日本列島の住民とその文化について、(1)更新世(洪積世)、(2)縄文時代、(3)弥生(やよい)時代への移行期とそれ以降の日本人、に分けて説明したい。[小谷凱宣]
更新世の日本人
人類が亜寒帯・寒帯地域に本格的に居住するようになったのは、人類進化の段階でいえば旧人・新人の段階、地質年代からいえば上部更新世中期のことであった。旧人(ネアンデルタール人)は最後の氷河期前期に北西ヨーロッパ各地に居住し、寒冷地に生息する動物を狩猟対象とする生業に基礎を置いていたが、その居住範囲はユーラシア大陸北部のごく一部に限られていた。
 人類が本格的に寒冷地に進出し始めたのは、次の新人(現生人類)の段階になってからで、その時期は約3万5000年前以降の上部更新世中期末のことであった。文化的には石刃(せきじん)技法による効率のよい石器製作技法を身につけ、樹木の乏しい寒冷ステップ地帯で絶滅種のマンモスやトナカイなどの寒冷地特有の動物を狩猟対象とし、獣骨、動物の毛皮などの材料を加工して衣類、住居を製作した。
 日本列島に日本人の祖先が最初に渡来してきたのは、このような大きな人類史の動きを背景にしていたと考えられる。現代の知見によると、確実に更新世の人骨と認められているのは沖縄の港川(みなとがわ)人、浜名湖周辺の牛川(うしかわ)人・浜北(はまきた)人などである。このうち港川人骨は完全な骨格3体からなり、放射性炭素による年代測定で約1万8000年前に位置づけられている。そのほかの人骨標本は細片からなるにすぎない。
 この時期の北半球における大規模な氷河・氷床の発達に伴い世界的に海水面が低下し、日本列島は一時的に樺太(からふと)(サハリン)や朝鮮半島を通してユーラシア大陸の一部となっていた。この古環境条件を反映して、日本各地で発見されている後期旧石器文化と細石器文化にはシベリア、中国北部の旧石器文化に共通する特徴が認められ、狩猟対象の動物にも共通の絶滅動物が含まれている。このように、更新世時代の日本人はユーラシア大陸から渡来してきたと考えられ、その文化にも著しい北方的要素が含まれている。なお、1970~1980年代には、東北地方の馬場壇(ばばだん)A、座散乱木(ざざらぎ)、中峯Cなどの諸遺跡から、いわゆる「前期旧石器文化」の存在が報告され、理化学的方法で10万年以上の古さといわれていたが、その存否については発掘当時から賛否両論があった。2000年(平成12)これらの石器発掘にかかわった東北旧石器文化研究所元副理事長藤村新一が当該石器を自ら埋めたとの疑惑が発生。2002年日本考古学協会が検証した結果、馬場壇A、中峯Cの各遺跡の発掘はねつ造と判断された。また、座散乱木遺跡についても同じく2002年には再発掘調査が行われ、1981年に出土し前期旧石器時代のものとされていた石器についてはすべて「意識的に埋め込まれたと判断される」と発表、遺跡自体は後期旧石器時代もしくは縄文から古墳時代のものとされた。[小谷凱宣]
縄文時代の日本人
いまから約1万年前以降を完新世(沖積世)とよぶ。気候は更新世末の寒冷期から温暖化し、5000~6000年前に現在よりもやや温暖な時期を経て、現在の気候になった。それに伴い海水面も上昇し、日本列島はユーラシア大陸から分離し、5000~6000年前の温暖期の海水面上昇期(縄文海進期)を経て、現在の形になった。植生も北方系のツンドラ、針葉樹林の北上と、混合林と常緑広葉樹林の進出がみられ、気候温暖期以降、現在のそれに近づいてきた。
 このような完新世の環境条件を背景に日本列島各地には堅果類・クルミなどの植物性食料の採集、貝類や海藻類の採集、シカ・イノシシなどの陸獣と鳥類の狩猟、海獣の狩猟、海や淡水の漁労などに生業の基盤を置き、竪穴(たてあな)式住居からなる定着集落、打製石器、磨製石器、土器などに特徴づけられる縄文文化が発展した。縄文文化は主として土器の形態的特徴に基づいて草創・早・前・中・後・晩期に分けられる。そして、各地の植生、地形、気候などの自然条件の変異に応じて、きわめて強い地域的特徴を発展させている。
 この文化の担い手である縄文人の骨格標本はおもに貝塚遺跡から発掘されてきた。その人骨は、現在では、北海道から九州まで広く分布する多数の遺跡から報告され、各地の大学や博物館、資料館などに保存されている。
 縄文人の系譜については、E・S・モースによる大森貝塚の発掘調査(1877=明治10)以来、多数の人類学者により研究されてきた。学説史的には、縄文人は「石器時代人」「貝塚人」など種々の名称でよばれ、縄文人が北海道や樺太に現存する少数民族アイヌと現在の日本人とにどのように関連するかが、明治以来の人類学界の大きな関心であった。初期の考え方は、幕末から明治にかけて日本で活躍した外国人学者の考えに大きな影響を受けているが、縄文人の系譜に関する諸仮説は次のようにまとめられる。
(1)異民族説 大森貝塚の調査者モースの「プレ・アイヌ説」や坪井正五郎の「コロポックル説」に代表され、縄文人をアイヌとまったく無関係の民族とみるもの。その根拠として、貝塚出土人骨から推測される食人風習の有無やアイヌの伝説上の人物などがあげられた。
(2)アイヌ説 ハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト)や小金井良精(こがねいよしきよ)に代表される考えで、縄文文化の担い手はアイヌで、水稲耕作を持ち込んだ弥生時代人(日本人の祖先)に北方に追いやられたとする仮説。
(3)原日本人説 これに対し清野謙次(きよのけんじ)らは、縄文人骨の形態的特徴を現存のアイヌや現代日本人と関連させて比較研究し、縄文人骨の特徴は現在のアイヌよりも現代日本人に近いと解釈するのが合理的との結論に達した。また、北海道においても縄文人骨の研究が進められ、現存するアイヌの特徴と共通する特徴が縄文人骨に認められ、アイヌの祖先も縄文時代以来長く北海道に居住していたとする仮説を山口敏(びん)らは発表している。[小谷凱宣]
弥生時代への移行期とそれ以降の日本人
現在の考古学的知見によると、水稲耕作の技術は中国大陸から朝鮮半島南部を経由して北九州に伝えられた。水田跡とそれに伴う土器などの遺物によると、その時期は縄文時代晩期であったと考えられる。水稲耕作は急速に日本列島に広がり、弥生時代の中ごろまでに本州北部まで伝播(でんぱ)し、北海道と琉球(りゅうきゅう)列島を除く日本列島各地に普及した。
 急速に水稲耕作を受け入れた縄文社会は、季節に応じて狭い複雑な生態条件のなかで多様な生業活動を実施し、安定した居住形態を示し、さらに、縄文時代後晩期の遺跡から出土する栽培植物の遺存体が示唆するように、水稲耕作以外の植物栽培活動をすでに実施していた蓋然(がいぜん)性がある。換言すれば、水稲耕作は定着的な縄文社会に受容されたのであり、伝統的な日本文化の成立という意味で、縄文時代晩期から弥生時代にかけてはその形成期といえる。
 かくして水稲耕作を主とする食料生産に基盤を置き、鉄器・青銅器の金属器や紡織技術、階級制の成立などに特徴づけられる日本の伝統的な社会の原型が成立し、古代国家の成立に向かうことになった。そして、次の古墳時代を経て、歴史時代へと展開することになる。
 弥生人骨の研究は第二次世界大戦後になって活発に行われ、弥生時代の遺跡、なかでも甕棺(かめかん)からなる墓地が広く調査された。弥生人の系譜については、二つの有力な仮説が提出された。第一は、おもに西日本の弥生人骨を分析した金関丈夫(かなせきたけお)らの提唱したもので、復原した推定身長に縄文後晩期人と弥生前期人との間に差異のあることに注目し、弥生時代の初めに朝鮮半島から集団の移住があったが、時代の推移とともに土着の日本人に吸収されたと推定する。第二は、おもに関東地方の弥生人骨を調査した鈴木尚(ひさし)らによるもので、その差異は栄養状態の向上を含む生活環境の変化に起因するとみなし、集団の移動を伴わない小進化現象と説明できるとする。
 いずれにしても、日本人も、その日本人の担う日本文化も、歴史的な所産であり、古くから固定した不変のものではなく、時間の経過とともにつねに変化している。[小谷凱宣]

日本語の系統

 日本語はどんな外国語と親類なのか、どんな外国語と共通の親言語をもつのか、日本語単語と似た外国語を集めてそこから音対応の規則(音則)をたてても問題の解決にならない。古記録、方言資料を調べて日本語の歴史を明らかにし、さらに諸資料の比較によって記録前の語形を復原・再構し(内部再構)、他方、比較すべき外国語も内部再構を行い、両方の再構形から共通の親言語の語形を推定し、さらに文法形態の細部が一致することを証明できたとき、日本語の系統は究明されたことになる。これまで日本語と朝鮮語、ウラル・アルタイ諸語、アルタイ諸語、南洋語(マライ・ポリネシア語=オーストロネシア語)、チベット・ビルマ語、タミル語(南インド)などとの同系説が提出されたが、前述の方法によるものは少ない。日本語系統問題はようやく究明に向かって第一歩を力強く踏み出した状況なのである。
 類型論上、日本語はアルタイ系言語(トルコ語、モンゴル語、ツングース・満州語。朝鮮語を加える説もある)と共通する次のような特徴をもっている。
〔1〕音韻の面で (1)語頭に子音連続(英語のstrike, plantのような)がない。ただし、中期朝鮮語には語頭にpc, ps, psk, pst, pt, sk, sp, ss, stがあるが、それは第一音節母音脱落の結果生じたと考えられる。(2)語頭にrがこない(ウラル系言語では語頭のrがある)。(3)アルタイ型母音調和の名残(なごり)が古代日本語にみられ、同一語根では乙類オ列音は甲類オ列音と共存せず、またア列音、ウ列音と共存することが少ない。
〔2〕形態論の面で (1)名詞に接尾辞をつけて格を表す(山木、山行ク、山見ル、山下ルのノ、ニ、ヲ、ヨリなど)。(2)動詞幹に接尾辞をつけて時制(行カ、行キなど)、使役(行カ)、受身(打タ)などを表す。(3)ドラビダ系言語と異なって動詞の活用に性の区別(男性形、女性形、中性形)がない。
〔3〕シンタックスの面で (1)修飾語は被修飾語の前にくる(美シキ・花)。(2)主語(subjectS)・目的語(objectO)・動詞(verbV)=SOVの語順。たとえば「二柱(ふたはしら)の神(S)小豆(しょうど)島を(O)生(う)みき(V)」(古事記)。(3)前置詞(たとえば英語on the mountain山の)のかわりに後置詞を用いる(山の。モンゴル語agula山yinのdegere上に)。形態論細部でもアルタイ系言語、とくにツングース・満州語と共通する点がある。たとえば、花見ル、天神、雲ノ上鳴キユク鶴(たず)、雲間渡ラフ月、高山、曲(まが)(未然形)、曲(連用形)のヲ、ツ、ユ、ヨリ、キ、ラ、リがそれである。
 日本語のアルタイ系語彙(ごい)には次のものがある。空(そら) 山(やま) 森(もり) 波(なみ) 雪(ゆき) 霜(しも) 夏(なつ) 涅(くり)(水中の黒い土)、犬(いぬ) 鶴(つる) 熊(くま) 雁(かり)、母(おも)、面(おも) 頬(つら) 尻(しり) 腸(わた) 肩(かた)、吾(われ) 汝(なれ)、四(よ) 七(なな) 八(や)、黒(くろ) 古(ふる) 茂(しげ) 弱(よわ) 安(やす) 異(け)、入(いる) 居(をり) 輝(かかやく) 織(おる) 晒(さらす) 脱(ぬく) 装(よそふ) 喜(よろこぶ)、矢(や) 沓(くつ)などである。
 日本語の基礎語彙には南洋語(台湾、フィリピン、インドネシア、オセアニアの言語)系のものが少なくない。次のようなものがそれである。天(あめ)(雨(あめ))海(わた) 火(ひ) 川(かは) 木(き) 葉(は) 花(はな) 実(み)、人男(ひとを) 女(め) 夫(せ) 妻(つま)(夫(つま))伴(とも) 仇(あた) 名(な)、身(み) 目(め) 歯(は) 牙(き) 舌(した) 爪(つめ) 指(および) 糞(くそ)、食魚(けいを) 烏(い) 賊(か)、吾(あ) 何(なに)、一(ひと) 二(ふた) 三(み) 五(い) 六(む)、大(おほ) 太(ふと) 高(たか) 新(にひ) 短(みじか) 浅(あさ) 重暗(おもくら) 臭(くさ)、飲(のむ) 吸(すふ) 成(なる) 当(あたる) 与(あたふ) 穿(うく) 拾(ひりふ) 萎(なゆ) 果(はつ)、布(ぬの) 箱(はこ) 栲(たへ)などである。これらは日本語の南洋語系下層言語(サブストレータム、縄文時代の言語か)を反映する。これに対してアルタイ系言語は上層言語(スーパーストレータム)を形成したとみられる。日本語は南洋語系下層とアルタイ語系上層よりなる重層言語であることがしだいに証明されてきた。[村山七郎]

日本人の形質的特徴

 ここでいう日本人とは、日本列島に定住し、文化、言語、社会組織などを共有するばかりでなく、身体的にも基本的に類似した特徴をもつ人類集団をいう。しかし、形質からみると、日本人は中国人や朝鮮人などの東アジア人との共通点が多く、とくに他と区別しうるような特異点はほとんどみられない。したがって人種的に独立した集団とみることはできないので、「日本人種」という概念は成立しがたく、文化的に他の集団とはかなり明瞭(めいりょう)に区別できるという点から、「日本民族」として一集団を形成していると考えるべきである。しかし日本人の身体形質を詳しく分析すると、やはり東アジアの周辺集団とは異なる点もあり、さらに日本人のなかにもかなり明瞭な地域性(地方差)が存在する。[埴原和郎]
古代日本人の形質
日本人の起源については前半部でも触れているが、身体形質の観点から簡単に述べる。現在、日本で発見されている最古の人骨は牛川(うしかわ)人で、更新世(洪積世)のものと考えられている。しかし、これは左上腕骨骨幹の一部と、左大腿(だいたい)骨の骨頭部しか発見されていないため、詳細な点は不明であるが、上腕骨の大きさからみて、この個体はおそらく女性で、身長はわずかに135センチメートルほどであったと考えられている。いずれにしても、日本列島に中期洪積世から人類が住んでいたことは、考古学的事実のみならず、この人骨からも証明される。また、いわゆる日本原人として有名な明石(あかし)原人(兵庫県明石市)の寛骨(骨盤の一部)は、遠藤萬里(ばんり)および馬場悠男(ひさお)の研究によれば、形態学的にはきわめて現代人に類似し、その出土地層がかならずしも明確でない点とあわせて、洪積世のものとするには重大な疑問がある。このほか、浜北(はまきた)人などが発見されているが、とくに港川(みなとがわ)人のなかには、ほぼ全身骨格が保存されている個体があり、その特徴はやはり低身長(男性で約155センチメートル)であること、四肢骨が比較的細いこと、および頭骨形態などの分析の結果、中国南部の柳江人に似ているといえる。したがって日本の洪積世人類は華南に起源をもつ可能性が高いが、華北の上洞人(山頂洞人)系統の集団との関係も否定できない。また、これらの人骨は早期縄文人に共通する特徴をもっているので、鈴木尚(ひさし)らは縄文人との連続性を強調している。なお、洪積世の人骨と推定されていた三ヶ日(みっかび)人は、その後の調べで9500~7500年前の縄文時代のものと判明した。
 新石器時代の縄文人は現代日本人とはかなり異なる形質を示すが、これは人種的な差よりは時代による差と考えられ、時代的連続性が認められる。しかし縄文人がそのまま現代日本人に変化したとする長谷部言人(はせべことんど)、鈴木尚らの説は、かならずしも日本全体についていえるとは限らず、とくに西日本では弥生(やよい)・古墳時代に、朝鮮半島を経由して渡来した大陸系の人たちとの混血を考えざるをえない。これらの渡来者は、おそらくアジア大陸の北方民族と関係あるものと思われる。
 日本人のなかで特殊な位置を占めるアイヌについては、古くからその起源や類縁性に関してさまざまな説が提出された。しかし山口敏(びん)、尾本恵市、埴原和郎(はにはらかずろう)らの研究を総合すると、アイヌはモンゴロイド起源で、しかも一般の日本人(和人)と同様に縄文人を祖先とするという可能性が強い。また琉球(りゅうきゅう)人についても同様のことがいえる。したがって、アイヌ、琉球人を含めて日本人は、縄文人を基盤とし、大陸からの渡来者との混血と、時代的変化(小進化)の影響によって現在に至ったと考えられる。このような考え方は、かつて日本人の起源を研究した小金井良精(こがねいよしきよ)、清野謙次(きよのけんじ)、長谷部言人、鈴木尚、小浜基次らの説を一部修正したうえで総合したものといえるであろう。[埴原和郎]
現代日本人の形質
現代日本人の一般的特徴は、身長が世界の中位の上(男子平均約170センチメートル)、頭示数(頭長に対する頭幅の百分率)は約84で短頭群に属し、皮膚は黄色、頭髪は黒く直毛で体毛やひげは少ない。眼瞼(がんけん)に蒙古(もうこ)ヒダがあり、耳垢(じこう)は乾型が多い。血液型はA型がもっとも多く、O、B、AB型の順に少なくなる。しかし前述のようにかなり大きい地方差があり、ある特定の地域の集団をもって日本人全体の代表とすることはできない。とくに目だつことは、近畿、山陽地方を中心とする西日本型あるいは中心型と、関東、東北、北陸、山陰、および九州、四国の一部に及ぶ東日本型あるいは周辺型との差である。前者は一般に身長が高く、より短頭、高頭であり、後者はこれと対照的な傾向を示す。昭和20年代に行われた上田常吉、小浜基次を中心とする全国的な生体計測の結果によれば、頭示数は前者が83~86、後者が75~77で、この差は相当に大きいといえる。また血液型については、A型遺伝子の頻度が西日本で高く(約29%)、東北で低く(約24%)、明瞭な勾配(こうばい)を示す。さらに指紋においても、西日本では渦状紋が多く、東日本では少なくなる傾向がある。このような地方差からみると、現代日本人は完全に同質集団であるとはいいがたい。そして全体としてみると、西日本人(中心型)は朝鮮人あるいは北方アジア人に近いが、東日本人(周辺型)は多少とも縄文人的で、いわば古代型モンゴロイドの特徴をより多く残しているように考えられる。このことは、大陸からの渡来人との混血の影響が、主として西日本から近畿地方に強く現れていることを示唆する。青木健一らはA型遺伝子頻度の勾配に基づいてシミュレーションを行ったところ、弥生時代以後の渡来者の影響は、岐阜県あたりまでかなり明瞭に認められるという結果を得た。これは理論計算に基づくものであるが、他の諸形質の分布傾向とよく一致していることは興味深い。また河内真紀子が生体計測値を分析した結果によると、基本的には小浜と同様の傾向を認めたが、1910年代と1940年代のデータを比較すると、中心型の特徴が徐々に東日本にも及んできていることがわかった。これは、日本国内における住民の移動、通婚圏の拡大、および都市化現象などが複合したためと思われるが、日本人の身体形質を考える場合には、地域性とともに時代的変化を考慮に入れる必要があることを示している。さらに埴原和郎は多くの研究者の協力を得て、現代日本人の頭骨に関する総合調査を行い、種々の分析を行った。その結果によれば、頭骨でも生体調査と同様な地域性が認められるが、これらのデータに古代人および周辺民族のデータを加えて分析すると、日本人の成立に関してかなり明瞭な示唆が得られた。
 そのおもな点は次のように要約できる。(1)現代日本人は縄文人を基盤とし、時代的変化ならびに大陸よりの渡来者との混血によって成立した。(2)この混血の影響は主として西日本に強く、東日本には弱い。(3)弥生時代以後に渡来した集団は北方民族の要素を強くもち、これは寒冷気候に適応した、いわゆる新モンゴロイドであろうと思われる。(4)アイヌも和人と同様に縄文人を祖先とするが、おそらく続縄文期(本州の弥生時代から奈良時代に相当)以後、気候や文化の相違によって和人とはやや異なる小進化を遂げ、現在に至ったと考えられる。(5)琉球人もおそらくアイヌと同様な理由で、本州などの日本人とは多少形質を異にしてきたものであるが、日本人の一地方型と考えられる。(6)日本人の起源は洪積世の旧石器時代人に求められ、その多くは中国南部と関係があると思われるが、北方アジア人との関係も否定しえない。
 日本人の起源と成立については、まだ不明の点が多く、結論を出す段階ではないが、以上の仮説に基づいて、今後、文化的側面を含めた総合的研究が必要である。[埴原和郎]

社会・文化の特色


日本社会の形成
日本人が社会・文化的単位としての民族を形成するに至ったのは、水稲栽培(定住農業)を営みだした弥生期だと考えられる。その民族的性格は、基本的には農耕民のそれである。ここでいう農耕民的性格とは、定住型の地域社会を構築し、他地域と競合しつつも、内部では互いに依存しあって、一定の生産水準を維持しようとする傾向をさしている。その場合、家族ごとに勤勉に働くとともに、灌漑(かんがい)水利、農作業の協同を通じて、各人が生活共同体(集団)と深くかかわることはいうまでもない。
 このような農耕民的性格を宿しつつ、日本人は自らの社会を形成し、それ独自の展開を図ってきた。日本社会の歴史的発展のなかには、二つの流れ(サイクル)があるとされている。村上泰亮(やすすけ)、公文俊平(くもんしゅんぺい)、佐藤誠三郎の見解に従えば、その一つはウジ社会の流れ、もう一つはイエ社会の流れである。前者は氏族(クラン)型の社会であって、弥生期に始まり、7世紀の律令(りつりょう)国家でピークに達し、16世紀の荘園(しょうえん)・公領体制の解消とともに終わるサイクルである。後者は、日本独自の家族的集団であるイエを母体とする社会の生成発展の過程をいう。イエはウジ型集団からの変異体として生まれたとされ、その萌芽(ほうが)形態は11世紀の開発(かいほつ)領主とよばれる東国武士のイエや同族団にみいだされる。イエ社会は、鎌倉幕府体制、室町・戦国時代の大名のイエ、徳川幕藩体制を経て、近代国家としての体裁を整えた明治期に頂点に達し、現在に及んでいる。この社会の派生体であるイエ型の企業・行政機構が、日本の近代化過程で果たした役割は大きかった。
 日本の歴史のなかで部分的には重なりながら(11~16世紀)連続的に継起したこれら二つの波動サイクルは、社会の組織化に関して相異なる原則にたっていた。ウジ社会のそれは、明らかに「血縁原則」であるが、イエ社会では、中国などの古代高度文明の影響を受けて、もはやそれは効力をもたなかった。しかしその集団形成の母型となったのは、成層クラン(同質的でありながら階統的な自立的集団)であって、そこでは、「血縁なき血縁原則」による「氏族なき氏族社会」が形成されたのである。今日、日本的組織といわれているものは、この疑似血縁的な組織化原理にのっとっている。この点は、村上らが指摘する以前に、すでに中国生まれの心理人類学者であるF・L・K・シューによって、「縁約(えんやく)の原理kin-tract principle」として抽出された。[濱口恵俊]
縁約の原理
「縁約の原理」というのは、中国の原組織(社会的組織の原型)「族(ツウ)」を成り立たせる「親族の原理kinship principle」と、欧米の原組織としてのクラブ(自発結社)をつくりだす「契約の原理contract principle」との折衷形態であり、選択的な意思に基づき契約を交わして加入した人為的な組織において、親族組織でのように、身分が長く自動的に保証されることをいう。成員自身の立場からいえば、「親族の原理」が、親族形態のまま構成されたクラン組織に、自発的に、どこまでも同調してゆくことであり、他方、「契約の原理」は、事前のアレンジメント、約定、および開始・終了の日時の指定に基づいて、組織に対して、限られた範囲で、しかも義務づけられた形で貢献することをさしている。したがって「縁約の原理」というのは、「事前のアレンジメント、約定、期間の指定などが、自己の属する組織体の側で遵守されるか否かにかかわらず、あるいは、組織体に対する自己の期待が十分に実現されるかどうかを問わず、疑似親族の形態をとって形成された組織に、無限定的に、しかも自発的に忠誠を尽くすこと」だということになる。疑似血縁的組織では、成員性が失われることが少ないために、その成員は、加入時の契約(形式的な場合が多い)にこだわらず、組織に対してつねに親近感を抱き、自発的に組織活動に従事することになる。
 シューは、このような「縁約の原理」が働く日本の原組織を「イエモト」と名づけている。それは、芸道の家元制度に典型的にみいだされるような組織形態であって、日本のあらゆる集団組織――官公庁・企業体・労働組合およびその連合組織・政党・大学・大病院・宗教団体・スポーツ組織などは、すべて家元に類した形につくられ、そして家元ふうに運営されている、とする。京都の本願寺のような宗派、茶道・華道などの流派を考えればすぐわかるように、「イエモト」では、中心に血縁に基づく人脈が連綿と続き、その血統を象徴的にいただきながら、自由に加入する非血縁者によって組織が構築されている。日本の天皇制国家も一種の「イエモト」とみなしうる。そうした巨大なピラミッド形をした「イエモト」は、人為的集団でありながら、あたかも血縁によるかのように運営される。たとえば芸道の家元は、師匠と入門した弟子との上下関係の一大連鎖としてヒエラルヒーをなしている。この意味で「イエモト」は、中根千枝のいう「タテ社会」の基体だとみなせないこともない。だが、その師匠―門弟の関係は、弟子が師の芸名の1字をもらうことによって親子に擬せられ、組織の統括象徴としての宗家(そうけ)から末端弟子に至るまでが、疑似血縁的な協同団体を構築し、あたかも1軒の家のように運営されるところに大きな特色がある。シューの見解どおり、この「イエモト」は、日本にのみ発達した、制度化された家族団体である「家」と、その主従的結合としての「同族」(本家―分家からなる家連合)に模して、おもに都市で形成された二次的な構成集団として理解するのが妥当であろう。
 日本の社会が家父長に統率された「家」をモデルにして構築されていることについては、法社会学者の川島武宜(たけよし)が、シューに先んじて「日本社会の家族的構成」として論じている。武士・民衆にみられる家族制度の生活原理が、家族外に反射され、親子に擬制化された間柄(親方―子方、親分―子分、大家―店子(たなこ)など)が世間一般に広がっている、とする。川島は、こうした家族的に構成された社会が民主化に抗する封建遺制の現れだとみなしたが、シューは逆に、「家」的な存在が団体としての機能を発揮し、日本の近代化を促進する要因になったとする。すなわち、日本人は、明治以降における社会の近代化過程で、柔軟性・機能性に富む自らの伝統的な親族体系を放棄することなく、むしろそれを西洋から導入された近代的組織(官僚制機構)のなかに転写し、「イエモト」という日本的原組織を生み出して、「縁約の原理」でもって巧みに運営してきたのだと主張する。「イエモト」といった日本独自の組織を特徴づけるのは、集団主義だとよくいわれる。確かにその成員の行動は、自分自身ではなく、自らの属する集団組織を志向している。だが注意すべきことは、だからといって、当人が集団のためにすべてを犠牲にして粉骨砕身し、自己の主体性を失って集団のなかに埋没してしまっている、と解してはならないことである。日本人が欧米人やアラブ人のような個人主義者ではないからといって、その対立項たる集団主義者に、論理的に仕立て上げられてはならないのである。日本人の心情としては、わが身がかわいいからこそまず皆と協力しようとするだけであって、観察された行動面では集団志向性が顕著だとしても、動機面で集団優先主義が作用しているとは限らない。日本人の集団主義は、各人が互いに職分を超えて協力しあい、組織目標の協同達成を図るとともに、集団レベルで自己の福祉を確保しようとする生活の姿勢である。それは「協同団体主義corporativism」といいかえたほうがよい。[濱口恵俊]
「間人」性
文化人類学者のベネディクトは、その著『菊と刀』で、日本文化のパターンを、欧米の「罪の文化guilt culture」との対比において「恥の文化shame culture」だと規定した。日本人は、人前で嘲笑(ちょうしょう)されたり、世間の噂(うわさ)の種になることを恐れて行動する。つまり、恥をかくことを避けるのであり、したがってまた、他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める傾向をもつ、と指摘した。それは、自己の内面に植え付けられた良心や宗教上の掟(おきて)(罪の意識)を基準にする行動とは対照的であり、「恥の文化」というのは、外側からの強制に従う行動形態をさしている。しかし、こうした行為基準の内在性・外在性は、文化の型の決め手とはならない。なぜなら、罪も外罰によって心に定着するものであるし、また作田啓一が批判したように、日本人は、ベネディクトのいう恥辱感とは別に、自己制御機能をもつ羞恥(しゅうち)心を強く抱くからである。
 日本人が世評を重んずるのは、非自律的な態度を示すものではなく、つねに他者の側に自らの行為基準を自主的に設定しようとすることの現れだと解すべきであろう。土居健郎(どいたけお)もまた、他者への依存ないし他者との一体化を求める欲求としての「甘え」が日本人に特徴的だとしたが、日本人が一方的に相手に頼って自立性を失っているわけではなかろう。自他間の相互的な依存においてこそ「甘え」は有効なのであり、その場合、それぞれに節度をもって対処することが必要である。「甘え」は、日本人が対人的連関のなかで自律的にふるまうための戦略の一つとして理解される。日本人は、元来、対人的連関のなかでしか自分を意識しえない。個体的自律性の強い「個人」であるよりも、人と人との間、すなわち身近な人や既知の人との間柄そのものを自分自身だと考える、いわば「間人(かんじん)」存在だといえよう。日本の組織で「人の和」が尊重されるのもこの「間人」性のゆえである。[濱口恵俊]
『服部四郎著『日本語の系統』(1959・岩波書店) ▽村山七郎著『日本語の誕生』(1979・筑摩書房) ▽R・A・ミラー著、村山七郎他訳『日本語の起源』(1982・筑摩書房) ▽小片保編『人類学講座5 日本人』(1981・雄山閣出版) ▽池田次郎編『人類学講座6 日本人』(1978・雄山閣出版) ▽梅原猛・埴原和郎著『アイヌは原日本人か』(1982・小学館) ▽埴原和郎編『日本人の起源』(1984・朝日新聞社) ▽村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎著『文明としてのイエ社会』(1979・中央公論社) ▽F・L・K・シュー著、作田啓一・濱口恵俊訳『比較文明社会論』(1971・培風館) ▽川島武宜著『日本社会の家族的構成』(1950・日本評論新社) ▽R・ベネディクト著、長谷川松治訳『菊と刀』(社会思想社・現代教養文庫) ▽濱口恵俊著『「日本らしさ」の再発見』(1977・日本経済新聞社) ▽濱口恵俊・公文俊平編『日本的集団主義』(1982・有斐閣)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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