神明町(読み)しんめいまち

日本歴史地名大系 「神明町」の解説

神明町
しんめいまち

[現在地名]福井市松本まつもと四丁目・田原たわら一―二丁目・春山はるやま一―二丁目

福井城の北西方にあり、東西に走る北陸街道に沿う。中世以来北庄きたのしよう神明社の南側に門前町として発達し、天正一三年(一五八五)七月二五日付一乗町紺屋十七人定書(橘家文書)に「一乗町通井上一介、三階屋理右衛門、町東へ神明之町板橋を堺、(下略)」と町名がみえる。慶長六年(一六〇一)北庄城拡張工事によって、北陸街道とともに神明社の北裏、福井城外堀外の地へ移されたが、同一六年ここに江戸えど町の屋敷割が行われると、さらにその北側の現在地に移された。

初め神明かみ・中・下町と西から東に並ぶ長い町であったが、宝永五年(一七〇八)神明上町をいわい町・小田原おだわら町に、神明下町を三好みよし町・寺崎てらさき町に、神明中町を改めて神明上・中・下町に分け、全部で七ヵ町に細分した(「御家老中御用留抜集」松平文庫蔵)


神明町
しんめいちよう

下京区綾小路通東洞院東入

東西に通る綾小路あやこうじ(旧綾小路)に面する両側町。綾小路通より北へ辻子ずしが伸びる。

平安京の条坊では、町の北側が左京五条四坊一保一町の南、南側は同二町の北にあたる。平安時代中期以降は綾小路高倉小路西の地。

「祇園社記」には嘉元二年(一三〇四)

<資料は省略されています>

という比丘尼妙円の譲渡状が残され、その場所が「つしの屋地……」であるということは、この当時より当町には東洞院大路と高倉小路の間に辻子が存在したことになる。また、同書によれば、嘉慶二年(一三八八)の「祇園社御燈所京都敷地事」に「綾小路高倉西南頬、東西五丈、南北一七丈五尺」の土地が記載されており、当町内のほぼ一戸主強の土地が祇園社の御灯料であった。


神明町
しんめいまち

[現在地名]高山市神明町

しろ山の西側山麓、みや川右岸の平坦地に位置する。二之町にのまち村に所属し、北は一之町・二之町・三之町、南は片野かたの村、西は宮川を挟んで川原かわら町・上川原町東川原町。町名の由来は町内の神明神社によるという。金森氏時代はなか橋の橋詰にわずかな町屋と貸長屋があるのみで、ほかは侍屋敷地で家老の金森将監をはじめ、大塚権右衛門・野村十郎兵衛・石川伝之丞など多くの武家屋敷が並んでいた(「高山城下図」高山市立郷土館蔵)。町名がみえるのは寛政元年(一七八九)高山三町村覚帳(同館蔵)が早いほうであるが、町の長さなどの記述はない。町内には宮川から引いた三町の用水路が通り、また火災による家屋焼失に備えて建築用材を保存する木倉があったという。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]前橋市平和町へいわまち一―二丁目・千代田町ちよだまち一丁目・同三丁目・大手町おおてまち三丁目・岩神町いわがみまち一丁目

旧城内の北東部から北側にあり、武家居住区域のやなぎ小路・神明小路・むかい小路を併せ、神明社にちなんで明治七年(一八七四)命名された。群馬郡と勢多せた郡の境界をなす広瀬ひろせ川の両岸にあるため、同一一年制定の郡区町村編制法施行時には、広瀬川以南の神明町は東群馬郡前橋町に、以北の神明町は南勢多郡前橋町に属することになった。南は北曲輪きたくるわ町、東はたつ町、北はむかい町に接する。広瀬川左岸の向町の南側の細長い地域に主として御旗の者(御旗中間)が住み、御旗おはた町と俗称された。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]堺市神明しんめいひがし一丁・神明しんめい西にし一丁

宿屋しゆくや町の北にあり、大道を挟む両側町。町名について「堺鑑」に「神明宮、此神前ニ町造故、神明町ト云伝リ」とあり、明治四一年(一九〇八)まで東隣の神明山口しんめいやまのくち町に神明神社が鎮座。「松屋会記」永禄二年(一五五九)四月二〇日条に「堺神明丁住吉屋宗左衛門」とみえ、同一〇年一二月二一日条に記される当町の笠原宗全とともに邸内に茶席をもっていた。

元禄二年(一六八九)堺大絵図によると「神明町」は東頬を神明社の参道で南北に二分され、町並は東頬北側九筆・東頬南側九筆・西頬一五筆の宅地からなり、町会所は西頬に所在。


神明町
しんめいまち

[現在地名]魚津市中央通りちゆうおうどおり一丁目

神明川右岸にあり、北陸街道の両側町で通り町八町の一つ。同街道は真成寺しんじようじ町から神明川を神明橋で渡って当町南端に入り、北東に向きを変えて金屋かなや町に続く。北は下村木しもむらき村、西は餌指えさし町・新下猟師しんしもりようし町、南は川原かわら町。元和(一六一五―二四)頃から家があったが、慶安二年(一六四九)に町立てされ、神明社が鎮座していたのが町名の由来という(宝暦二年「町立由来書上」加越能文庫)。新町役として毎年一二九匁を魚津町に上納(天明六年「魚津町宿鑑帳」越中古文書)。魚津町方の万雑を二分五厘負担している(魚津町誌)。天明五年(一七八五)魚津町惣絵図に「神明町壱丁五拾九間」とみえ、神明橋の北に神明社が描かれる。


神明町
しんめいまち

[現在地名]松前郡松前町字神明・字福山ふくやま

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川の奥まった地域にあり、南はくら町。同川は神明川ともよばれた(「蝦夷日誌」一編)。町名は北西方にある神明社(現徳山大神宮)による。天明元年(一七八一)の松前広長「松前志」に町名がみえる。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると、川沿いに神明宮を囲むように武家屋敷が描かれている。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]兵庫区神明町・西仲町にしなかまち

小広こびろ町の西、山陽道に面した岡方の町。元禄九年(一六九六)の兵庫津絵図井家蔵)には通りに面して神明社、家並の南背後には慈光じこう寺と法蓮ほうれん(現日蓮宗)が描かれている。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に神明町はみえないが、「慈向寺町」として屋敷地八筆が記されている。慈向寺じこうじ町は以後の記録に現れず、天和元年(一六八一)の兵庫津検地帳(同文書)に神明町がみえることから、この間に改称があったと考えられる。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]函館市弁天町べんてんちよう入舟町いりふねちよう弥生町やよいちよう

なか町の通りの上手(山手)を並行して走る通りに沿った町で、東は神明坂の通りに限られ、西はたなごま町。「箱館夜話草」によれば、「神明宮の坂の通りにある」ことが町名の由来という。「東蝦夷地道中記」に載る箱館の八町のうちに「神明町」とあり、「蝦夷島奇観」があげる箱館の一〇町のうちにも町名がみえる。享和元年(一八〇一)の分間箱館全図では神明坂は「神明境内通」とあり、この通りを挟んで東は高龍こうりゆう寺の境内。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]港区浜松町はままつちよう一丁目・芝大門しばだいもん一丁目

芝神明(飯倉神明宮)の東、東海道沿いに位置する両側町の町屋。北は宇田川うだがわ町、東は播磨赤穂藩森家上屋敷、西は芝三島しばみしま町・神明門前、南は芝浜松しばはままつ町一丁目。町起立の年代や草創人などは不明(文政町方書上)。なお寛永江戸図に町名がみえる。古町で、寛永一六年(一六三九)沽券状(前掲書上)によると当町東側表五間・裏行町並が江戸小判一八〇両で売渡されている。町内間数は京間で往還を除き南北東側表六〇間余・西側表六一間余。東西は両側とも裏行三八間余。沽券地の坪数は京間で二千三六三坪余、町内持の往還は田舎間で一千二六九坪余。


神明町
しんめいちよう

中京区新町通御池下ル

南北に通る新町しんまち(旧町尻小路)を挟む両側町。北を現御池おいけ通、南を姉小路あねやこうじ(旧姉小路)が通る。

平安京の条坊では、町の西側が左京三条三坊二保三町東、東側が同六町西。平安中期以降は三条坊門町尻小路の南にあたる。平安時代の末には、当町西側は、後白河院の御所であった高松殿の敷地であった(拾芥抄)

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)には「三条坊門町南西頬、国久」とみえる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「新町神明町」とあり、以降、変化はなく、元禄末期洛中絵図で「神明町」となる。


神明町
しんめいまち

[現在地名]滑川市神明町

北は富山湾に面し、東西に北陸街道が通る。西はなか町。慶長一〇年(一六〇五)頃から神明宮(櫟原神社)の社地に近村の百姓が入込み、請地をして家建てがなされたという。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)に神明町とあり、街道北側町並の東端に神明社が記される。天和二年(一六八二)には五人組の存在が確認され、町の経営は連帯責任制と合議を基本としていた(「神明町五人組請帳」旦尾家文書)。寛文一二年(一六七二)には櫟原いちはら神社の門前を請地とする請合証文(同文書)が同社神主旦尾家に提出されており、享保八年(一七二三)までは請地町として膨張したらしい。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]結城市結城 神明町

こく町と鍛冶かじ町の北、結城城下の北端に位置。町の北東を川が流れる。御朱印ごしゆいん堀の外にあり、文禄年間(一五九二―九六)以降に追加建設された町とみられる。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によると町中間数は二町。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば店借り三・寺門前六を含む四一軒の家があり、他に行人の家一と番屋一があった。


神明町
しんめいちよう

延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図によると、東はひがし町、西は採養院さいよういん川を隔てて西にし町、南は採養院川の板橋を境にきた町、北はしん町に接する。町の西南に採養院があり、境内には薬師堂がある。町の東側には神明社がある(七州城沿革小史)。「挙母記」に「神明の社往古より今の地に鎮座あり、前なる町を神明町と唱ふ」とある。延宝期の家数五三、うち萱屋四三軒・板屋六軒・明家のみ三軒・不明一軒で、座敷のある家が一軒ある。


神明町
しんめいちよう

[現在地名]新潟市古町通ふるまちどおり一―四番町西堀前通にしぼりまえどおり一―四番町

鍛冶かじ小路を隔てて古町通寺町てらまち通の南部に位置し、各各古町通神明町・寺町通神明町ともいう(慶応二年新潟分間絵図「新潟市史」所載)。町名は当地に鎮座する神明宮に由来すると思われ、町の開発は寛永一一年(一六三四)頃から同一五年にかけて、佐藤理右衛門により手がけられたといわれ、当町肝煎を命じられた。


神明町
しんめいちよう

上京区松屋町通中立売下ル

南北に通る松屋町まつやまち通の両側町。

平安京大内裏の「内教坊」の地(「拾芥抄」宮城指図)。応永三二年(一四二五)一一月一〇日の酒屋交名(北野天満宮史料)によれば、この辺りに酒屋があった。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「神明丁」、寛文後期洛中洛外之絵図には「しみつ上ル二丁目」、元禄末期洛中絵図には「神明丁」と記され、「坊目誌」には聚楽第じゆらくだい内にあった神明社の跡地とある。


神明町
しんめいまち

[現在地名]浜松市神明町

浜松城の南、西進してきた東海道が大手門前で南に折れる所に位置。東西に延び、東は町、西は紺屋こうや町、南は連尺れんじやく(井上氏時代城下絵図など)。神明宮が鎮座した(三組町に移転)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ一町一間、家数二六。浜松各町書上によると町並は南側四九間一尺・北側五一間二尺、町幅四間一尺余。横町は西側一五間一尺・東側一五間五尺。


神明町
しんめいちよう

上京区御前通今出川上ル三丁目

町の東を御前おんまえ通が南北に、北側を寺之内てらのうち通が通る。

当町辺りは「北山殿行幸記」(応永一五年)に「御道は左衛門のぢん代より北へ、一条を西へ、大宮を北へ、北小路よりたかはしを西へ、北山どのの総門にいたる」とある高橋とよばれる地にあたる。「延喜式」神名帳にみえる愛宕郡の「高橋神社」の祀られていた地で、中古京師内外地図には「高橋神明祠」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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