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中国、三国時代の王朝(221~263)。正式には漢というが、蜀、つまり四川(しせん)省を中心とする地域を版図としたので蜀、蜀漢と通称される。後漢(ごかん)末の混乱期に劉焉(りゅうえん)が益州牧(えきしゅうぼく)として半独立の勢いを示したが、劉備(りゅうび)は焉の子劉璋(りゅうしょう)に迎えられて、211年荊州(けいしゅう)から益州に入り、ついで璋を攻めて成都を占領した。220年後漢の献帝が魏(ぎ)に禅譲すると、自ら漢室の後を継ぐものとして、221年成都で帝位につき、諸葛亮(しょかつりょう)を丞相(じょうしょう)に任じた。蜀は、劉備が荊州から連れてきた人々と土着の人士との連合の政権であった。
劉備は、その将関羽(かんう)を殺して荊州を奪った呉(ご)に対して報復の軍を出したが、白帝城で病没し(223)、子の劉禅(りゅうぜん)が即位した。これを後主(こうしゅ)という。これに対して劉備を先主という。諸葛亮が引き続き丞相となり、呉と同盟を結び、南中(雲南)遠征を行い、227年より数次にわたって魏との戦争に出陣した。234年、五丈原(ごじょうげん)で亮が病死したのち、蒋琬(しょうえん)、費褘(ひき)が相次いで内政を担当し、姜維(きょうい)が軍事面を指導したが、物資も少なく、人材も欠乏し、内紛が相次いだ。そのうえ宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が専横であったため国力はしだいに衰亡し、263年、魏の攻撃を受けて劉禅は降服、蜀は三国のなかでいちばん早くに滅んだ。
蜀は三国のなかでは領土も小さく、滅亡したときには戸28万、口94万、帯甲将士10万2000、吏4万であったという。しかし天府の国とよばれる国土と、おそらく南中を通じての、いわゆるビルマ・ルートによる交易を財政的基礎とし、漢の正統な後継者として、中原(ちゅうげん)回復を国の方針として、他の2国と鼎立(ていりつ)していた。
[狩野直禎]
『森鹿三他著『東洋の歴史4 分裂の時代』(1966・人物往来社)』▽『宮川尚志著『諸葛亮』(1940・冨山房)』▽『狩野直禎著『諸葛孔明』(1966・人物往来社)』
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中国の三国時代に魏,呉と鼎立した国。221-263年。正式の国号は漢であるが,蜀すなわち四川省を中心版図とするので,普通に蜀漢とよんで他の漢国と区別する。前漢景帝の末裔と自称する涿郡(たくぐん)(河北省)出身の劉備は,後漢末黄巾の乱につづく群雄割拠の中で各地に転戦したのち,三顧の礼をもって諸葛孔明(しよかつこうめい)を幕下に迎え,その献策に従って208年(建安13),呉の孫権と同盟し,南下する曹操を赤壁に破って荆州(湖北,湖南)を確保し(赤壁の戦),天下三分の計の実現に着手する。やがて益州(四川省)に入った劉備は,その地の長官劉璋を追い,成都を占領して独立態勢を整えた。かくて220年(黄初1)曹操の子の曹丕(そうひ)が漢の禅譲を受けて魏の帝位につくと,劉備はこれを不当とし,みずから漢の正統をつぐと称して,221年(章武1),成都で漢の帝位についた。昭烈帝と追尊される。223年,荆州を奪った呉との戦いに敗れた劉備が白帝城(四川省奉節県)で病死したあと,丞相の諸葛孔明はその遺志をつぎ,後主劉禅(在位223-263)を補佐して,南は雲南地方を経営し,北は陝西地方に進出して魏を悩ませたが,234年(建興12)に諸葛孔明が死ぬと,あとは国勢が衰退して,263年,司馬昭に実権を握られた魏の軍隊の侵入を受けて滅ぼされた。
→三国時代
執筆者:川勝 義雄
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①〔三国〕221~263 蜀漢ともいう。中国の三国時代の王朝。漢朝の遠縁という劉備(りゅうび)が蜀(四川)に建てた国。後漢末に劉備は群雄の間を放浪した末,荊州(けいしゅう)の劉表の客となったが,表の死後曹操(そうそう)が荊州を攻めたとき赤壁の戦いでこれを破り,みずから荊州を領有した。四川は後漢末赴任した劉焉(りゅうえん)の子劉璋(りゅうしょう)の領土であったが,劉備はその招きで入蜀し,璋に代わって益州牧(えきしゅうぼく)となり,魏が建国すると,漢の正統を継ぐと称して帝位についた。その死後子の後主劉禅(りゅうぜん)は無能であったが,丞相(じょうしょう)諸葛亮(しょかつりょう)が国政をとり,雲南を開拓し魏と戦った。亮の死後魏に滅ぼされた。
②〔五代十国〕前蜀907~925,後蜀934~965 五代十国の王朝。四川に拠った地方政権。891年に王建が独立。907年帝位についてから925年に後唐の荘宗(そうそう)に滅ぼされるまでを前蜀,934年荘宗の部下孟知祥(もうちしょう)が帝位についてから965年に宋に滅ぼされるまでを後蜀という。五代の産業,文化の一中心であった。
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魏(ぎ)・呉(ご)とともに中国の三国時代の王朝の一つ(221~263)。漢の正統と称して漢・蜀漢(しょくかん)ともよぶ。前漢の景帝の後裔という劉備(りゅうび)は,後漢末の黄巾(こうきん)の乱の平定に功をあげ,蜀(現,四川省)に勢力を築く。関羽(かんう)・諸葛亮(しょかつりょう)(孔明)らを得て,呉の孫権(そんけん)と結び,華北の曹操(そうそう)を赤壁(せきへき)に破り,中国を三分。曹操の子曹丕(そうひ)が後漢の禅譲をうけ魏の王朝を開くと,劉備は成都で帝位につき,章武の年号をたて,蜀を開いた。その死後,国勢は振るわず,魏軍に降る。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…中華人民共和国南西部にある省。略称は川,蜀(しよく)。面積48万8000km2,人口8323万(1995)。…
…中国,四川省をさしていう語。巴とは現在の重慶を中心として,嘉陵江流域を含む四川省東部をさし,蜀とは成都盆地を主地域とし,岷(みん)江流域に広がる西部をさす。元来はいわゆる西南夷系統に属する異民族の住地であったが,その中で巴と蜀はさらに民族・文化系統を異にした。…
…しかしやがて州牧の地位は軍閥勢力に奪われる。このような経過によって,魏・呉・蜀の三国政権が生まれた(三国時代)。 曹操の子曹丕(そうひ)が漢帝の禅譲を受けて魏王朝を建てると(文帝),呉・蜀もそれぞれ帝国を称し,ここに漢帝国は完全に崩壊した。…
※「蜀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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