広く教育についての学、すなわち、科学的理論も非科学的理論をも含めた、もっとも広い意味での、教育に関する研究や理論の名称。
[小笠原道雄]
教育学を意味する英語のペダゴジクス、ドイツ語のペダゴーギク、フランス語のペダゴジーは、いずれもギリシア語のパイダゴーギケーpaidagōgikêに由来し、「子供を導く術」を意味していた。つまり「子供」(パイースpais)と、「私は導く、指導する、しつける」(アゴーago)の複合語で「子供を導くところの」という形容詞の名詞的用法であるという。一説によれば、ギリシア語のパイダゴーギケー・テクネーpaidagōgikê technêからテクネーの省略によって成立した名詞的用法と考えるべきで、それゆえ、パイダゴーギケーはパイース(子供)とアゲイン(導く)とテクネー(技術)との3語を要素として成立しており、子供を導く技術と学問を意味する。したがって、このような語源に由来する「教育学」は広く教育についての技術、教育について研究する学問と考えられ、広い意味での教育理論の名称となっている。
[小笠原道雄]
語源から教育学は、あらゆる時代のまた社会のあらゆる段階にみられる「子供をどう教育するか」という実際的な教育することの技術として出発した(技術論としての教育学)。
[小笠原道雄]
こうした教育学は、日常的な教育の実践的知恵としての教育論や教育説として、ヨーロッパではギリシア以来、基調となっているものである。たとえば、ルネサンス時代には、王侯、貴族や豪商の子供たちのための教育論が、その家庭教師であった人々の手によって数多く書かれているが、とくに、彼らによるラテン語(当時、上層階級の人々にとって必須(ひっす)の教養であった)教授方法論から「子供を導く技術」としての教育学は出発しているのである。
このような家庭教師によるラテン語教授中心の教育論を集大成し、包括的な教授学の体系にまでまとめあげたものとして、17世紀、ボヘミア(いまのチェコ)のコメニウスによる『大教授学』Didactica Magna(ラテン語、1657)があげられる。
[小笠原道雄]
さらに、18世紀社会の激動に直面して、とくに、啓蒙(けいもう)期の後半にかけて、フランスのルソーやスイスのペスタロッチは、真の人間性を育成する問題、とくに、その方法上の問題と取り組み、教育論(教授論)、教育思想を展開した。なかでもペスタロッチは人間性の調和的発展を目ざす基礎陶冶(とうや)論を中心とした教育論を展開し、また社会と教育の関係に言及するなど、近代教育学成立の基礎を提示した。
ところが19世紀に入り、技術と科学の新しい関係が発展してくるにつれて、技術論としての教育学に対して、理論の学としての教育学(科学理論としての教育学)のあり方の可能性も探究され、ここに二つの教育学のあり方の関係が大きな問題となった。全体的に述べれば、「教育」という事象に対して、直接的事実としての教育と、学的認識・反省においてとらえられた教育とが相互に複雑な関係をもって分節する。大まかにいえば、英語圏における教育学は、前者の立場にたって、とりわけ学校制度に関心をもち、教育学の哲学的(理論的)な発展にはあまり関心がもたれなかった。これに対して、ドイツにおいては後者の立場から、教育学の哲学的関心が強くもたれ、実践的な経験の事実についてはあまり関心が払われず、大学において学問として教授される教育学もせいぜい教師養成のための理論へと狭められていた。このような状況のなかで、科学としての教育学を最初に体系化し、成立させたのがヘルバルトである。
[小笠原道雄]
ヘルバルトはケーニヒスベルク大学(現、イマヌエル・カント・バルト連邦大学)におけるカント講座の継承者で、当然カント哲学の影響が大であるが、教育学へ関心を寄せたのは、若いころの家庭教師の経験からであった。これがやがて彼の『一般教育学』Allgemeine Pädagogik(1806)として体系化されるのである。そこには、教育は単に経験や慣習によって行われるべきではなく、科学的基礎をもたねばならないことが主張されている。かくてヘルバルトは教育の独自性を見つめ、教育学を固有の対象領域、固有の研究方法をもった自律学として構築しようと企てた。後期の著作『教育学講義綱要』Umriß Pädagogischer Vorlesungen(1835)において、「科学としての教育学は実践哲学と心理学に依存し、前者は陶冶の目標を示し、後者は道、手段ならびに障害を示す」と述べ、教育学の基礎科学として実践哲学(倫理学)と心理学を取り入れることによってその体系化を試みたのである。
ヘルバルトによる体系化された教育学は、その後、思弁的な倫理学と実証的な心理学への分離・分裂を導くことになる。しかしながら、この教育学はいわゆるヘルバルト派としてドイツ国内はもとより、広く世界(当然日本も)の教育界に宣布された。その後の教育学は、ヘルバルト教育学の継承ないし批判によって発展していくといっても過言ではない。
[小笠原道雄]
20世紀の教育学は二つの系列に分類され展開する。すなわち、(1)経験によって基礎づけられた教育の理論を構成しようとするものと、(2)哲学に方向づけられた教育の理論を構成しようとするもの、である。このことは「科学的」ということが二つの意味において理解されていることを示すものである。(1)では実証科学の立場をとることが科学的であるとされるのに対して、(2)では原理科学的な反省、すなわち哲学的反省に基づくことが科学的であるとみなされるのである。
[小笠原道雄]
(1)の系譜として次の二つがあげられる。
(a)W・ブントの実験心理学に影響を受け、従来の思弁的・観念的教育学に反対して、観察、実験、統計を手段とする「実験教育学」experimentelle Pädagogik(ドイツ語)の立場がライWilhelm August Lay(1862―1926)、モイマンErnst Meumann(1862―1915)によって創始された。さらにこの実験教育学の弱点を克服しようとしたのがペーターゼンPeter Petersen(1884―1952)の「教育的事実研究」である。その後、ドイツの実証主義的研究はとくに現象学的方法に依拠したフィッシャーAloys Fischer(1880―1937)によって「記述的教育学」deskriptive Pädagogik(ドイツ語)の構想に展開し、ロホナーRudolf Lochner(1895―1978)によって体系化が進められ、経験的教育学としての教育科学が構築された。しかしながらこれらの教育(科)学は、以後、ドイツよりもむしろアメリカで発達し、ソーンダイク、J・デューイらによって教育の原理、教育の科学science of educationとして組織され、有力になる。
(b)他方、フランスの実証主義の社会学者であるデュルケームは教育を一つの社会的事実としてとらえ、これを客観的、実証的に研究しようとし、従来の教育学に対して「教育科学」science de l'éducation(フランス語)を提唱し、教育の科学的研究に新しい方向を示した。ドイツではクリークがデュルケーム同様、教育を社会の根源的機能として理解し、教育の目的を規定する価値や当為から出発する従来の教育学に対して、徹頭徹尾、教育の事実に立脚して教育の本質を探究しようとし「純粋教育科学」reine Erziehungswissenschaft(ドイツ語)を標榜(ひょうぼう)した。
[小笠原道雄]
(2)の系譜の発展としては次の二つがある。
(a)一般に「新カント学派」と呼称され、とくに教育学の分野ではマールブルク学派のナトルプ、ヘーニヒスワルトRichard Hönigswald(1875―1947)らがあげられる。彼らは新しい規範的教育学の樹立に努めた。
(b)経験科学的教育学、教育科学等の自然科学的方法の立場、さらには普遍妥当性を主張する規範的教育学の両者を批判するものとして「精神科学的教育学」geisteswissenschaftliche Pädagogik(ドイツ語)の立場が1920年代ドイツ教育学の主流を形成する。ノール、シュプランガー、リット、フリットナーWilhelm Flitner(1889―1989)、さらにこれらの人物の弟子であるボルノー、オランダのランゲフェルトMartinus J. Langeveld(1905―1989)らがあげられる。
この教育学はそれぞれの人物によって強調点は異なるが、人間精神の客観的表現である「文化」に教育の基礎を求め、歴史的文化とそれを受容する個人との関連で教育理論を展開するところに特徴がある。科学的方法としては、ディルタイに依拠する解釈学的方法によって研究を行う。具体的には、教育や教育学にかかわる既存の文献を資料として、それを「解釈」し、その教育学的内実を抽出しつつ、歴史的に考察し、教育学的に新たに意味づけをし、定式化しようとする。
[小笠原道雄]
「明治・大正・昭和にわたる60年間のわが国教育学(説)は、欧米近代の教育学(説)と密接な関係を保ちつつ発展してきている」(海後宗臣(かいごときおみ))との指摘は、日本の教育学の性格を端的に物語っている。1882年(明治15)、のちに東京高等師範学校長になった伊沢修二による『教育学』が、日本で「教育学」という名をもって公刊された最初の著書である。この書物は1875年、伊沢が師範学校教科取調べのためアメリカに留学し、マサチューセッツ州でブリッジウォーター師範学校の校長ボイデンAlbert Gardner Boyden(1827―1915)の講義を聴講した際の講義ノートをもとに、帰国後、一般読者を対象に著述したものである。その内容は大部分が心理学であって、それに若干教育論が付け加えられている。著者は心理学によって教育の学問体系をたて、これを日本最初の教育学にする考えであったと推察される。
一方、東京帝国大学で「教育学」の講義を初めて行ったのは、1887年、明治政府が招聘(しょうへい)したドイツのギムナジウム教師ハウスクネヒトであった。この教育学はヘルバルト派のそれであった。このように、日本の教育学は欧米教育学の移植として始まり、とくにドイツ教育学の潮流と密接な関係をもって発展し、後年日本の教育学のあり方に深い影響を与えた。
無論、明治末期から大正期にかけて、従来の教育学に対する批判として、日本の教育の現実を直視し、そこから実践的諸課題にこたえうる教育学の構築を企図するもの、また大正末期から昭和初期にかけて、(1)教育学アカデミズムともいうべき教育学の体系的構築を意図する著作も出版された。(2)他方、これらアカデミズムに対して、1930年代には、「教育科学」の探究が、とくに民間教育運動として展開されている。そこでは、教育の現実や教育実践に対する科学的な究明が意図されたのであった。
[小笠原道雄]
戦後は、まず、アメリカの教育科学、とくにデューイの実験主義の教育(哲)学および教育の実証的研究に大きな影響を受け、教育の心理学的・社会学的研究が著しく推進された。1950年代から、戦前の観念的な教育学に対する批判として、教育学を社会過程に位置づけ、その社会的機能を考察する教育科学が日本の教育危機と呼応して主張された。いわゆる1950年代後半の「教育科学論争」は教育諸問題を社会科学的に分析し、そこから教育の危機を克服する方途をみいだそうとする新たな展開を示すものであった。同時に、ソビエト教育学の紹介とともに社会主義社会における教育と教育の理論が教育学研究の視野に取り入れられ、以後、1991年のソ連崩壊に至るまで盛んとなり、多様な教育学理論の展開に影響を与えた。
[小笠原道雄]
子供を導く技術として出発した教育学は、今日、単に子供のみならず、大人の教育を意味するアンドラゴジーandragogy(ギリシア語の成人androsと指導agogosの合成語)をも包摂し、研究の領域も対象も拡大し発展を遂げている。
教育学は一方では諸分野に深化の傾向を示し、(1)教育の本質や究極目標に迫ろうとする教育哲学や、(2)教育思想、教育事実の歴史的発展を解明しようとする教育史の領域、他方では、(3)教育と社会との関係を究明しようとする教育社会学、(4)教育の制度や学校という組織を分析しようとする教育制度学や教育行政学、(5)諸外国の教育を比較研究する比較教育学の領域、(6)授業、指導の方法や管理のあり方に関心をもち、実践的、技術的な傾向のある教育心理学、教育方法学、教育工学、教育経営学などに分化している。さらにその後は、乳幼児教育、障害者教育、治療教育、大学教育等も包摂する一大学問領域を形成するようになった。しかしながら、このように多様化した研究領域は、一方で、各研究領域でのそれぞれの個別研究の方法論(たとえば、教育社会学であれば社会学の方法論)に立脚して研究が遂行されるために、おのおのが孤立化し教育学研究における著しい細分化現象を生み出しているのも事実である。
このような教育諸科学の細分化現象は、一方で科学の発達の過程で必然的にみられるものであるが、同時に、教育学という科学が人間の形成といった視点を基底に専門分化した諸研究の成果を統合し、固有な研究の対象と方法論的基礎をもった自立的な科学でなければならない、といった自覚もなされてきた。1960年代に入って、総合的な人間形成の学としての教育学の理論の探究が「教育人間学」研究として開始された。
[小笠原道雄]
1960年代からの世界的規模での社会の変化は、教育改革の必要性を生み出し、必然的に教育学(研究)のありようを再考させ、その変容を促した。だが1970年代の中ごろまでは、従前の学問上の慣習による科学理解(たとえば旧西ドイツの場合の解釈学的教育学、経験科学的教育学、批判的教育学など)に依拠した研究、あるいはそれらを相互に補完するような教育学によって研究が継続されたが、具体的な教育制度の改革等に対してはそのような従来の教育学の枠組みでは限界点に達し、逆に教育学の無力化を引き起こす結果となった。
[小笠原道雄]
全体的には、何々であるべきであるという、いわゆる「当為」によって、事態を客観的に解釈するよりも、逆に、具体的で日常的な実際の事態に即して事柄を問うほうが、事態にかなったものを獲得できる、として新たな立場・方法が求められた。その結果として生じたのが、アクション・リサーチという概念、つまり「日常的オリエンテーション」という概念である。ここでは、人間形成の日常的側面に注意を払うこと、あるいは日々の教育現実における問題解決に関心を払うこと、総じて(教育の)実践的な問題に注意を向けることが求められた。この傾向は1970年代から1980年代にかけて台頭してきた時代の知的状況と符合する。客観的な理論より感性や個人の要求に基づく経験を最重要視する傾向である。しかしこの傾向を教育学の理論として押し進めると、それも多くの流派の一つに過ぎないものになってしまう。事実、「日常性」に対しては、伝統的な経験的=分析的教育学と、規範的=実践的教育学を統合するパラダイム(思想の枠組み)転換としての教育学(研究)を主張する立場も存在した。
[小笠原道雄]
1980年代の中ごろまでの教育学(研究)は、雑多性ないし諸概念の複数性によって特徴づけられる。1960年代の教育対象(領域)の細分化に対して、教育理論(教育学研究)は理論の急速な細分化をもたらし、独自の教育学の伝統に立ち戻ることは困難となった。1980年代以降の教育に関する多くの概念は、人間諸科学に関するほかの学問分野の借り物のような様相を呈した。たとえばドイツ語圏での唯物論的教育学(1990年代に入って衰退するが)、精神分析的教育学、現象学的教育学、そして実践学的教育学等々である。これらは唯物論(マルクス主義)、精神分析、現象学あるいは実践学の思想、理論ないし手法を教育研究の方法論とするものである。
[小笠原道雄]
一方、教育学を新しい理論的基盤に位置づけようとする試みもあった。つまり、イギリス、アメリカないしフランスの伝統から生まれた理論によって培われた構想を含む、相互行為主義、構造主義、システム論などである。以下、これらの立場を概観する。
[小笠原道雄]
相互行為主義教育学はコミュニケーション的教育学にきわめて近いものである。つまり相互行為という概念は、コミュニケーションという概念を拡張したものと考えられるからである。この構想の特徴は、「自我同一性(自分はだれかという認識)」の存在を想定していることである。その点では相互行為主義は精神分析(学)と親近関係にある。他方、相互行為主義は行為理論を基礎としたプログラムをもっている。究極的には、「あらゆる社会的現象は人間の意図的活動に帰因する」ということを前提とする。人間が意味の理解を基礎として行動する限り、相互行為主義教育学の課題はそのような意味の理解にあるとみる。この理論は日常的な問題を主題として、しかも日常言語を使用して理論を進めるという意味において自己関係的であり、かつ「自我同一性」を基本的な目標カテゴリーとする限りにおいて規範的である。教育課程の課題は「自我同一性」の発達を可能とし、個人の生活における同一性のバランスの保持を推進しようとすることである。この構想は、G・H・ミードに依拠する1933年以前の精神分析(学)の伝統をアメリカ的に改造したものといわれている。
[小笠原道雄]
システム論的教育学は、1970年代初期の教育学を超えた批判的社会理論とシステム論の論争、つまりハバーマスとルーマンの論争(1971)に起源し、教育学者の関心をよび、理論化された。この立場によると、「システム」は対象とその属性の間の関係をひっくるめた一組の対象物と定義されるので、教育学も一つのシステムとして理解される。したがって、教育学のある属性は意図によって主体に属するようなものではなく、システムそれ自体のダイナミズムが生み出すものであると解釈される。たとえば、教育者が自立性を獲得しようとしてなす努力は「社会的細分化の末にもたらされた問題」と理解される。このような態度は、システム論的教育学が、ある意味で教育学と同列に位置しながら、同時に教育学のシステム的特徴を分析するものであることを明示している。当然この立場に対しては、批判的社会理論の立場から、行為者の意図、行為の意味、自由を相対化し、否定さえしているという批判もある。
[小笠原道雄]
構造主義的教育学は文化人類学や言語学などの研究において注目されている構造主義の理論的応用と考えられる。構造主義のポイントは、われわれの目の前に現れる現象、あるいは表面的な構造の基盤を形成すると考えられる深層構造を再構成することである。表面上の多様性を深層における基礎的な構造に還元することであるが、この教育学では、教育行為の複雑な現象を構造主義的方法によって深層構造へと還元することになる。この構想の利点は、主体を想定しなくても機能する点にある。つまり「行為者(教育者あるいは被教育者)」の意図ではなく、より深層の構造が効力のあるものとみなされるからである。
[小笠原道雄]
このような諸教育学の論議は、1980年代中ごろレンツェンDieter Lenzen(1947― )の「主体の危機」の名の下に、いわゆるポスト・モダニズムに関する論議として展開された。つまり文化のあらゆる領域においてあらゆる可能な行為を十分に正当化できる大理論、J・F・リオタールのいう「大きな物語」がもはや存在しえないということを人々が納得してきたのである。20世紀に生起した惨事の主要原因が、18世紀に始まる「啓蒙(けいもう)」の弁証法(人間理性による人類歴史の進歩)の「物語」であったことに人々は気づいたのである。このことは、今日、理論を産出していく方法に対する本質的な批判を含んでいる。結論として、理論的な諸原理の欠如もしくはその結果としての方向性の欠如が受け入れられるということ、あるいは、あるグループの人々が一つの方向へと進み、別の人々は別の方向へと進むことが許されるような理論的多様性が存在するということである。
このことは、その究極的な形式において、教育学とは相いれない帰結をもつことになる。すでにみてきたように、教育学はそれ自体が啓蒙の子供なのである。教育学はその存在を「大きな物語」に負うているだけでなく、ほとんどこの物語そのものである。もし教育学が、進歩を生み出す「より高次な人間性への教育」への要請にあるとするならば、この目的、行動に参与しない人々を区別する(認める)哲学を想定することはできるであろうか。基本的に教育学はすべてが進みゆく方向を見て取らなくてはならない。だが今日、教育学が拘束力をもってそのような方向づけを行うことを正当化することはできない。もちろん、ここからただちに、教育学は破棄されるべきだという結論を導くこともできる。だがこの帰結は、レンツェンの指摘のように非現実的であるといえよう。「非現実的である」というのは、研究対象の教育実践が社会的機能として依然として存在し続け、その実践的応用としても教育学は破棄されないということである。教育を破棄することでは、教育のもつ全体性や非寛容さを、人種差別主義や宗教的原理主義の、あるいはマルクス主義やナチズムの起源である全体主義と区別することすらできなくなるのである。それゆえ、ひたすら民主主義のために、それを導く力としての教育が、そしてその教育制度が、教育理論(学)とともに存在し続けることが前提とされねばならないであろう。
その際、求められる教育学は、ポスト・モダンの状況下にあって、(1)教育の介入を正当化できる範囲内で(教育による犠牲を縮減できる範囲内で)、教育課程に携わる者に対する、その行為の方向性や教育の不履行まで含意された指導手引き書としての教育学であり、(2)教育の帰結に反省的に関与する教育学である。
[小笠原道雄]
『稲垣忠彦編『近代日本教育論集8 教育学説の系譜』(1972・国土社)』▽『海後宗臣他編『増補版 教育学全集1 教育学の理論』(1975・小学館)』▽『小笠原道雄著『教育学における理論=実践問題』(1985・学文社)』▽『H・E・テノルト著、小笠原道雄・坂越正樹監訳『教育学における「近代」問題』(1998・玉川大学出版部)』▽『小笠原道雄編著『精神科学的教育学の研究』(1999・玉川大学出版部)』▽『教育思想史学会編『教育思想事典』(2000・勁草書房)』▽『Dieter LenzenErziehungswissenshaft Ein Grundkurs(1995, Rowohlt Verlag, Reinbek)』▽『Frieda Heyting, Jan Koppen, Dieter Lenzen and Felicitas ThielEducatinal Studies in Europe(1997, Berghahn Books, Providence Oxford)』
教育の本質,目的,内容,方法,さらに制度,行政など,教育現象のさまざまな分野,問題についての個別研究をふくみ,教育現象の全体的構造を統一的に把握しようとする学問。
〈教育学〉の語は中国から渡来したのではなく,ヨーロッパ語系のペダゴジー(ドイツ語ではPädagogik,フランス語ではpédagogie)の訳語として,1880年代から使用され始めた。この語を使用した最初の著作は伊沢修二著《教育学》(1882)である。この語はギリシア語起源で,子どもを導く人=パイダゴゴスpaidagōgosに由来しており,ペダゴジーは子どもの導き方を意味していた。このように,この語は最初から教育学理論を意味していたのではない。教育についての学問的反省をこめた語にディダクティクDidaktik(教授学)がある。これは,17世紀にヨーロッパで使用され始めた。まずW.ラトケが,F.ベーコンの事物観察,実験にもとづく帰納的方法の影響を受け,直観教授を重視し,教授の方法の確立を目ざした。ついでJ.A.コメニウスが汎知主義に立って人類共通の知識を万人に教授する方法を探求し《大教授学Didactica magna》(1657)を著した。ヨーロッパではこの時代に生産方法の合理化がすすみ,教育においても合理的な教授の方法の確立が意識された。
これに対し〈教育学〉の語は,18世紀後半,とくにカントが講義題目に使用することによって定着した。カントはルソーの《エミール》に刺激され,人間は教育によって初めて人間になるとし,人間性の可能性の実現を探究した。ここでは教授の方法を意識しながらも,実現すべき価値の追求に力点がおかれた。こうして,日本にも影響をあたえるドイツの思弁的教育学が発足する。その一つの頂点がJ.F.ヘルバルトの《一般教育学》(1806)である。彼は,教育の目的は倫理学によって,方法は心理学によって導かれるとした。その倫理学により内的自由,正義,公平など道徳性を形成することが目的として重視され,一方,心理学により統制,教授,訓練という三つの方法が提唱された。ヘルバルトの影響により教育学は第1に規範の学としての性格をもち,第2に教授技術についての知識の組織化としての性格をもって成立すると考えられるようになった。彼の後継者たちは19世紀中葉からヘルバルト学派を形成し,教授方法,教育管理などの研究をすすめ,1880年代末(明治20年代前半)から十数年間,日本の教育にも強い影響をあたえた。
このように教育学(ペダゴジー)は発展してきたが,社会科学の一つとしての教育科学という自覚が起こってきたのは遅れ,19世紀から20世紀にかけてである。大著《歴史における科学》(1954)で人類の科学の歴史をたどってきたJ.D.バナールはその最終章を〈第1次大戦後の社会科学〉とし,その一節として〈教育の科学〉をあげ,〈他の社会科学からやや離れて立ち科学的立場がさらに不確かな所に教育学がある〉とし,経済学,政治学,社会学などについで,教育学が社会科学として登場したと見たのである。その教育学では,理想的にいえば,誕生から死までの社会適応のための訓練過程と,人間がその社会を最善に利用または変革することを学びとる過程との総体が扱われるべきだとされた。なぜ科学としての教育学が求められたか。これについてバナールは,〈学校制度が急速に増大してきた教育の必要をまるで不適当な手段によって処理しようとしているという実地の困難から生まれた〉としている。さかのぼると17~18世紀を通じて,牧師,法律家,医師などの専門家の養成とは別に大衆のための普通教育を担う学校を求める声が強くなり,その学校の普及とともに,このような教育学も必要とされたのである。コメニウス,ルソー,ペスタロッチらも教育改革を志向して教育のあり方に学的反省を重ねてきた人たちであった。
教育の科学を教育学(ペダゴジー)から区別し,その確立を目ざしたのは社会学者のデュルケームである。彼は教育学を科学と技術の中間のものとし,教育的行為を導く理論の全体とみなした。これと区別された教育の科学science de l'éducationは,社会的事実faits sociauxとしての教育を,他の社会的諸事実との構造的連関の下でそれがいかにあるかを実証的にとらえる科学とされた。この教育の科学は社会学的方法により変化の法則性を認識しようとするものであり,明らかに旧来の教育学とは違う。ドイツの教育学者E.クリークも,〈教育科学は教育とは何であるか,教育はいかにして行われるかを問うところから始まるのに対し,教育学は私は教育者として何を為さなければならぬかを問う〉とした。このように19世紀から20世紀にかけて教育科学が提唱されたが,それによって旧来の教育学が志向していたものを無視してよいということにはならない。むしろ教育学を教育の科学から区別するのではなく,教育の科学としての教育学の確立を求める動きが強い。それは複雑な教育現象を多面的に追求し,困難を克服して統一的構造をもった科学の一組織としての教育学の確立を図るものにほかならない。
日本の場合,江戸時代に子育てのための書物が多数刊行されたことには,伝統的な子育て,教育について批判を加えながらも,継承すべき知識・技術を整理しておこうとの意図があったとみられる。そこには,一つのまとまった反省と組織立った子育ての知識を求める動きがあった。すべての母親が直面する子育てについての知識の体系化への努力もまた,広い意味での教育学への胎動であった。しかし,普通教育としての学校教育の普及は,19世紀後半をまたなければならなかった。日本でも教育学は,やはりバナールのいうとおり,この普通教育の普及と,その中での困難に直面したときに求められた。前記の伊沢修二の著作は,学制公布後1875年,教員養成のための師範学科のあり方を研究・調査するため,伊沢と高嶺秀夫がアメリカへ派遣され,そこで学んだ成果の一部である。教員養成課程に教育学が位置づけられたほか,帝国大学では1887年,ヘルバルト学派のW.ラインの弟子であるドイツ人E.ハウスクネヒトを招いて教育学の講義を開いた。以後,彼の門下生たちの手で,ヘルバルトの教育学説そのものの積極的な検討・継承よりも,ヘルバルト学派の5段階教授法(予備,提示,比較,総括,応用)の普及がすすめられた。
20世紀とくに1910年代に入ってからは,欧米の新教育運動に刺激され,ヘルバルトは時代遅れとされ,デューイをはじめ,パーカーFrancis Wayland Parker(1837-1902),E.ケイ,モイマンErnst Meumann(1862-1915)らの新教育を支えた理論の紹介がさかんに行われ,これが日本の新教育運動を促進するという役割を果たした。この欧米の教育学説の紹介を繰り返す教育学のあり方に対し,沢柳政太郎は《実際的教育学》(1909)で,教育の事実を対象とした研究の必要を提唱した。さらに1930年代に入り,阿部重孝,城戸幡太郎らの編集になる岩波講座《教育科学》(1931-33)が刊行され,観念的教育学を批判し,教育の事実を実証的に把握し解明する方針がとられた。阿部,城戸に佐々木秀一,篠原助市が加わった4人を編者とする《教育学辞典》(1936,岩波書店)は,社会の革新が教育を度外視して画策できぬ現代,教育についての知識は教師だけでなく,国民一般の教養であるとの考えに立って編集されており,戦前の教育学の到達点を示している。
このように第2次大戦前にも教育学建設へのさまざまな努力があった。しかし,教育実践に即した本来の教育学研究には強い制限があった。教育目的が教育勅語によって示され,内容がこの目的の下で,とくに小学校の場合は国定教科書で拘束されているとき,教育学研究もこれを逸脱することは許されず,極端な場合,勅語,勅令にしたがう教育のあり方を示すことが教育学の任務であり,それを〈日本教育学〉と称する者もあった。戦後,学問研究の自由が憲法によって保障され,また1949年に発足した新制度の大学のなかには,教育学研究を専門とする教育学部を設ける大学も多く,教育学研究は質量ともに飛躍的に進展した。研究対象の中心部分が政府の手でおしかくされていた近代日本の教育の歴史的研究は,とくにめざましい成果をあげた。また教育学が他の諸科学から孤立した状態におちいる傾向を克服し,隣接諸科学との共同研究もすすみ,教育心理学,教育社会学,教育行政学,教育法学(教育法)などという研究領域も開拓され,また教育というと学校教育だけを思い浮かべがちだが,社会教育も研究対象として浮かび上がってきた。さらに教育内容研究では,たとえば国語,数学など学校教科の場合でも,その基礎にある諸科学,諸芸術の専門家との協力が要請されている。このように教育学は広範な諸領域の研究者の協力をえながら,教育の本質を探究し,教育の実践,制度,行政などのあり方を解明することが期待されている。
→教育哲学 →民間教育研究運動
執筆者:山住 正己
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…心理学も自然科学と社会科学にまたがる広大な学問で,前者に属する部門のほうが後者に属する部門よりもずっと大きく,そして後者は社会心理学になるからこれを社会学に含めて考えることができる。経営学,行政学,教育学などは,それぞれ企業,官庁,教育組織という特定領域の問題を専攻する領域学で,学問分野としては経済学や政治学や社会学や心理学に還元される(経営経済学,経営社会学,経営心理学等々)。宗教学や言語学や芸術学などは,社会学,心理学に還元される部分(宗教社会学,宗教心理学等々)以外は,人文学に属するものと考えておきたい。…
※「教育学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新