正福寺(読み)しようふくじ

日本歴史地名大系 「正福寺」の解説

正福寺
しようふくじ

[現在地名]甲西町正福寺

丁子ちようこにある。大乗山と号し、浄土宗。大日如来阿弥陀如来の二仏を本尊とする。木造大日如来坐像は平安時代の作とされ、国指定重要文化財。「興福寺官務牒疏」に寺名がみえ、花園はなぞの里にあって法華大乗峰山と号し、僧坊一八宇、交衆一二人の金蕭菩薩の霊地とされる。また開基は良弁、中興は願安で、貞観一〇年(八六八)八月一〇日官符宣を受けて伽藍を再建、文治元年(一一八五)一二月に再興、本尊は丈六の大日如来、鎮守は白山権現と記している。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]東村山市野口町四丁目

金剛山と号し、臨済宗建長寺派。本尊は正観音。鎌倉建長寺の住職石渓心月の開山と伝える。地蔵堂は堂内に一〇―三〇センチの地蔵立像を多数安置していることから千体地蔵堂と称される。地蔵堂は弘安元年(一二七八)北条時宗の開基と伝えられてきたが、昭和九年(一九三四)の解体修理の際、応永一四年(一四〇七)銘の尾垂木尻持送墨書が発見され、この時期の建立であることがわかった。その墨書銘には「大日本国武州金剛山正福禅寺」などとみえ、「武州多東郡宅部郷」に所在したとされている。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]中村市山手通

地方裁判所中村支所の南隣にある。竜珠山光照院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「南路志」に「寺記曰、当寺ハ元祖法然上人配流之地也、中興開山一空賢坡和尚慶長九甲辰八月八日寂」とあるように、創建のきっかけは法然の配流にあった。「法然上人行状画図」に「流人藤井の元彦」とあるように、建永二年(一二〇七)法然は藤井元彦の俗名となって土佐に流されることになり、幡多はた郡の信徒は中村に一宇を建てて迎えようとしたが、途中九条兼実の配慮で配流地は讃岐へ変更された。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]貝塚市地蔵堂

地蔵堂じぞうどうの旧集落内にある真言宗御室派の寺院で、宝幢山と号し、本尊は地蔵菩薩・大日如来。もと勝軍しようぐん寺と称し、勝軍地蔵堂とよばれた。開基不明。寺伝によると淳和天皇の時代に山城愛宕あたご山を模して創建したといい、宝塔・涅槃堂・鐘楼などや坊舎六坊を具備した大寺院であったという。正嘉元年(一二五七)三月上旬、南都西大寺の叡尊は近木こぎ郷を訪れ、地蔵堂で菩薩十重戒を講じている(感身学正記)。しかし永禄年間(一五五八―七〇)に三好氏と根来衆・畠山氏との合戦の際、三好軍の兵火によって灰燼に帰したという(天保一四年「日根郡寺社覚」鬼洞文庫蔵)

正福寺
しようふくじ

[現在地名]熊本市坪井二丁目

もとの新坪井しんつぼい二丁目筋の東側にあり、八幡山と号し、高野山真言宗、本尊聖観音立像。「国誌」によれば、細川忠利入国の時、宥山(「寺記」では宥専)が豊前から随伴し、寛文年間(一六六一―七三)に建立したという。寺地は口六間・入一七間。寺内に、廃寺となった蓮華院の本尊といわれる荒神を安置した荒神堂があったという。当寺は「仁王さん」「聖天さん」の名で知られるが、前者は仁王門の巨大な仁王像により、後者は秘仏として歓喜天を祀ることに由来する。明治一〇年(一八七七)西南戦争の際当寺は焼失し、のち再建された。本堂の護摩壇奥の内陣に本尊が奉祀され、脇に観音坐像・不動明王立像が置かれる。これらの仏像の前に、護摩堂跡より出土したという素焼の小仏像三六体が置かれている。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]鳥羽市松尾町

鳥羽市と志摩郡磯部いそべ町の境界にある青峰あおみね(三三六メートル)北側の平坦面にある。青峰山と号し、高野山真言宗、本尊は十一面観音。行基の開山と伝える。一時衰退したが貞享年中(一六八四―八八)弁意によって再興された(志陽略誌)。志摩地方で相差おうさすの海中から鯨の背に乗って示現したと伝える本尊に対する信仰は厚く、また、青峰山は志摩半島第一の高峰で沖を航行する船のよい目標になり、航行安全の観音として船人や海女の崇敬が厚く参詣するものが多い。毎月一八日の縁日と、とくに初午・二の午や正月一八日のお舟祭には賑う。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]豊明市沓掛町

白子山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。東本郷ひがしほんごうにあり、沓掛くつかけ城跡に近い。草創は明応九年(一五〇〇)、沓掛城主近藤右京之進が建立。右京之進の弟慶順は禅僧として伊勢国白子しらこ(現三重県鈴鹿市)に在住していた。右京之進は白子村斉東さいとう院を当地に移し慶順を呼び住職とした。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]久留米市国分町

桃太郎ももたろう川中流右岸、日渡ひわたしにある。天台宗。山号は鎮護山。本尊阿弥陀如来。御井寺由緒記并座主歴代記(御井寺蔵)によれば、天長年間(八二四―八三四)草部鶴見麿が勅命を受け三韓に出兵、暴風で難船しそうになったとき高良大菩薩を念じて難を免れた。そこで毘沙門天(高良神の本地)と高良大菩薩の像を安置して当寺を創建、高良山座主照鏡の高弟了信を請うて別当としたという。往時は寺域方六町・領田数十町・僧舎一五区があったと伝えるが、のち衰微、天正年間(一五七三―九二)に廃絶した。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]岩出町曾屋

曾屋そうや集落東端にある。多門山と号し、日蓮宗。本尊は一塔両尊宗祖像。正福寺由緒書(桃井家蔵)によると、もと真言宗で充満じゆうまん堂と称し、毘沙門天を本尊としていた。寛永年中(一六二四―四四)和歌山藩主徳川頼宣の母養珠院日心がこの毘沙門天を信仰したが、養珠院は日蓮宗の信者であったことから自身の観経仏を寄進、本尊として曾屋一村を改宗させ、日遠を開基としたという。寛永九年には田畑三反余(高七石)を供料として寄進、以後代々藩主の信仰を受け、享保六年(一七二一)には境内殺生禁止の命が下された。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]甲南町杉谷

南出みなみで垣内の南側、丘陵突端部にある。寿亀山と号し、臨済宗妙心寺派。寺伝によると聖徳太子の開基で、もと天台宗であった。元亀―天正(一五七〇―九二)の頃戦火にかかり、本尊などを除いて灰燼に帰した。天和元年(一六八一)本堂を再建、実堂が臨済宗に改めた。本尊は木造十一面観音立像(国指定重要文化財)で、世継観音ともよばれ、聖徳太子の作と伝える。像高一三〇センチ、檜の一木造で、平安時代末の作とされる。本堂には客仏として木造釈迦如来坐像(国指定重要文化財)も安置される。

正福寺
しようふくじ

[現在地名]波崎町矢田部

神崎山と号し、真言宗智山派。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、天和二年(一六八二)聖恵の開山。堂宇は本堂・薬師堂・庫裏・客殿・山門などを備え、寺宝として古木像や書画を数多く所蔵する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正福寺」の意味・わかりやすい解説

正福寺
しょうふくじ

東京都東村山(ひがしむらやま)市野口(のぐち)町にある臨済(りんざい)宗建長寺派に属する禅寺。山号は金剛山(こんごうさん)。開山は文永(ぶんえい)年間(1264~75)没の心月禅師(しんげつぜんじ)、開基は北条時頼(ときより)。本堂には本尊の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)像が安置されている。境内にある地蔵堂(国宝)は、禅宗様建築の代表とされている鎌倉円覚寺(えんがくじ)の舎利殿室町時代)とよく似た建築であり、千体地蔵が安置されている。

[菅沼 晃]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正福寺」の意味・わかりやすい解説

正福寺
しょうふくじ

東京都東村山市にある寺。開山は無象静照,弘安1 (1278) 年の創立と伝えられる。地蔵堂 (仏殿) は応永 14 (1407) 年の造立で,鎌倉の円覚寺舎利殿とよく似ており,中級禅宗仏殿の代表例。建立年代の明らかな点が特に貴重であり,国宝。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「正福寺」の解説

正福寺
しょうふくじ

東京都東村山市野口町にある臨済宗建長寺派の寺。北条時宗を開基とし,開山は無象静照(じょうしょう)。さらにその師の石渓心月(しっけいしんげつ)を請じて勧請開山とする。1278年(弘安元)の創建という。

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デジタル大辞泉プラス 「正福寺」の解説

正福寺〔茨城県〕

茨城県笠間市にある寺院。普門宗(真言宗系単立)。山号は佐白(さしろ)山。7世紀半ば、粒浦氏によりこの地に千手観音像が安置されたことが寺建立の起源と伝わる。通称「佐白観音」。

正福寺〔三重県〕

三重県鳥羽市、青峯山山頂に位置する寺院。高野山真言宗。行基による開山と伝わる。本尊は十一面観音菩薩。航行安全の守り神として漁業・船舶関係者の信仰が厚い。

正福寺〔東京都〕

東京都東村山市にある寺院。臨済宗建長寺派。山号は金剛山。文永年間の開山。1407年に建立された地蔵堂は国宝に指定。

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事典・日本の観光資源 「正福寺」の解説

正福寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

正福寺

(滋賀県湖南市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の正福寺の言及

【東村山[市]】より

…西武池袋線・新宿線・多摩湖線,JR武蔵野線が通じる。臨済宗徳蔵寺には新田義貞の鎌倉攻めの際の供養碑〈元弘の板碑〉(重文)が残り,また臨済宗正福寺には1407年(応永14)建立の唐様建築地蔵堂(国宝)がある。市域西端には多摩湖がある。…

※「正福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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