アメリカの映画音楽作曲家、指揮者、ピアニスト。ニューヨーク生まれ。スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなどハリウッドきっての大物監督とコンビを組み、親しみやすい旋律と演奏効果の高い管弦楽法でクラシック音楽全般にも多大なる影響を及ぼす。ジャズ・ミュージシャンの息子で、8歳よりピアノを習う。16歳のときロサンゼルスに移住し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で作曲を専攻、マリオ・カステルヌオーボ・テデスコに作曲の個人指導を受ける。1951年から3年間兵役に服した後、コンサート・ピアニストになるべくジュリアード音楽院に進学、ロジーナ・レビンRosina Lhevinne(1880―1976)にピアノを師事。在学中にジャズ・バンドを結成するなど、ジャズへの興味も深めていった。同音楽院卒業後は生計を立てるためにコンサート・ピアニストへの道を断念、ジャズ・ピアニスト、アレンジャーとして活動を開始。コロンビア映画音楽部長モリス・ストロフMorris Stoloff(1898―1990)に認められてスタジオ・オーケストラのピアニストの職を得た後、オーケストラの編曲者として次第に頭角を現していった。
1960年代はもっぱらジャズ・イディオムをベースにしたテレビ音楽の作曲家として活躍、「宇宙家族ロビンソン」(1965~1967)、「タイム・マシン」(1966~1967)などを担当した。いくつかのコメディ映画を手がけた後、『華麗なる週末』(1969)で初のアカデミー作曲賞候補となり、『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)でアカデミー最優秀編曲賞を受賞。ウィリアムズのテレビ作品を制作したプロデューサー、アーウィン・アレンIrwin Allen(1916―1991)の要請で『ポセイドン・アドベンチャー』(1972)、『タワーリング・インフェルノ』(1974)を担当、ハリウッド第一級の作曲家としての評価を得る。一方、ウィリアムズのファンだったスピルバーグの希望で『続・激突! カージャック』(1973)の音楽を作曲、続くコンビ第二作『ジョーズ』(1975)で初のアカデミー最優秀作曲賞を受賞した。スピルバーグの仲介でルーカスと出会ったことから『スター・ウォーズ』(1977)への参加が決まったが、後期ロマン派風のオーケストラでライトモチーフを印象深く響かせながら、劇内容を音楽的に跡づけるオペラ的な手法が一大センセーションを巻き起こし、二度目のアカデミー最優秀作曲賞受賞や400万枚にものぼるサントラ盤セールスといった栄誉をウィリアムズにもたらした。久しく忘れ去られていたフル・オーケストラの伝統的な映画音楽を再認識させた『スター・ウォーズ』は、多くの若手映画音楽作曲家にも衝撃を与え、多くの追随者を生み出した。1970年代後半以降、ハリウッドでフル・オーケストラの使用が日常化したのは、『スター・ウォーズ』の音楽の影響力の大きさを物語る一例である。
『スター・ウォーズ』以後、全米各地のオーケストラから客演指揮依頼が相次いだが、ボストン・ポップス・オーケストラ音楽監督アーサー・フィードラーの死を受け、1980年に同楽団の第19代音楽監督に就任。1993年の勇退後も桂冠指揮者として同楽団の指揮台に上がっている。1984年のロサンゼルス・オリンピックにおいて「オリンピック・ファンファーレ」を発表、名実ともにアメリカを代表する作曲家であることを深く印象づけた。
一般にウィリアムズの音楽の特徴とみなされているのは、『スター・ウォーズ』や「オリンピック・ファンファーレ」に典型的な、5度音程を多用した軍楽隊調のファンファーレである。しかしスピルバーグ監督とのコンビ作を子細に見れば、カントリー&ウェスタン調の素朴な味わいを見せた『続・激突! カージャック』、無調音楽に迫る前衛性と管楽アンサンブルの斬新な使用法が効果を上げた『未知との遭遇』(1977)、室内楽風の細やかな書法でメルヘン的な世界を描いた『E.T.』(1982、アカデミー最優秀作曲賞)など、ドラマの内容に合わせ、多様な音楽スタイルを駆使していることがわかる。イツァーク・パールマンをバイオリン独奏に招いた『シンドラーのリスト』(1993、アカデミー最優秀作曲賞)でウィリアムズの内省的な側面が大きな注目を浴びたのは、ながらく彼に「ファンファーレ専門の作曲家」のイメージが植えつけられていた反動である。また1980年代後半からは、得意とするファンファーレのスタイル自体も大きな変化を見せ、『7月4日に生まれて』(1989)、『JFK』(1991)、『プライベート・ライアン』(1998)などでアーロン・コープランド風のアメリカニズムを濃厚に打ち出しながら、次第に愛国主義的音楽の様相を帯びてきた。これはウィリアムズの作風そのものが変化したというより、むしろハリウッドの映画制作全般に大きな影響を及ぼすアメリカの政治的風潮に、ウィリアムズが敏感にならざるを得なかったからである。演奏会指揮者としては自作とともに、コープランド、ジョージ・ガーシュイン、レナード・バーンスタインの作品を好んで指揮し、ウィリアムズ自身の映画音楽が20世紀のアメリカ音楽史全体に深い影響を受けていることを示している。
映画音楽作品とは別に、「交響曲第1番」(1966)、「バイオリン協奏曲」(1974)、「フルート協奏曲」(1980)、「チューバ協奏曲」(1985)、「チェロ協奏曲」(1994)などの演奏会用作品を作曲。ウィリアムズの演奏会用音楽には十二音技法(1オクターブに含まれる12の半音階をすべて均等に使う作曲技法)などの前衛的な音楽語法が用いられることが多く、ボストン交響楽団やロンドン交響楽団をはじめとする欧米のオーケストラや、ヨーヨー・マ、ギル・シャハム Gil Shaham (1971― 、バイオリン)などの器楽演奏者によって盛んに演奏、紹介が行われている。1987年(昭和62)にはボストン・ポップス・エスプラネード・オーケストラを率いて初来日、1990年(平成2)と1993年にはボストン・ポップス・オーケストラと来日を果たしている。
[前島秀国]
『神尾保行著『ジョン・ウィリアムズ――スター・ウォーズを鳴らした巨匠』(2000・音楽之友社)』
アメリカの劇作家。3月26日、ミシシッピ州コロンバスに生まれる。不況時代のセントルイスで不安定な青春時代を送り、アイオワ大学で劇作を専攻、以後は雑多な職業を転々、各地を放浪しながら戯曲、詩、短編小説を書いた。初期の作品の多くは、生地南部のよどんだ風土を背景に、人間の赤裸々な闘争の様相を象徴技法により甘美な詩情で包み、独特の美の世界をつくりあげた。『ガラスの動物園』(1945)は、彼自身の青春時代をモデルに、家出した青年の母と姉に対する思いを叙情的に描いたもの、また『欲望という名の電車』(1947)は、南部の没落農園の娘が教養と欲情の板挟みのために精神が崩壊していく過程を描いたもので、この2作の成功で劇作家としての地位を築いた。その後、理想と現実のはざまに置かれた人物の内面心理のゆがみを掘り起こす『夏と煙』(1948)や『バラのいれずみ』(1951)、幻想劇『カミノ・レアル』(1953)を経て、『やけたトタン屋根の猫』(1955)では、遺産相続をめぐる家族間の醜い駆け引きをもとに、虚偽で固めた人間の外衣をはぎとり、執念と執念のぶつかり合う強烈な戦いぶりを描いた。以後は、世俗的暴力と妥協せず孤独の殻に閉じ込もる芸術家気質(かたぎ)の人物の敗北の物語に終始し、『地獄のオルフェウス』(1957)、『この夏突然に』(1958)などでは、愛の価値の否定、弱肉強食の社会構造などを通じて人生に疑問を投げかける暗い思想を展開させたが、『イグアナの夜』(1961)からあとは寛容と忍従の精神を訴えて、『牛乳列車はもう止まらない』(1963)、『東京のホテルのバーにて』(1969)などでは死を甘受する人間像を描き出した。
1960年代は孤独感と罪悪感にさいなまれて酒と麻薬に入り浸って健康を害し、69年には精神科病院の暴力的な患者を収容する病棟に入れられるなどの経験をした。その後は立ち直って、人生の敗残者の心境を描く『小舟注意報』(1972)や、孤独の底で狂気と正気の境を生きる恐怖と諦観(ていかん)を語る『二人芝居』(1975)など、いわば自分自身の絶望の美学の展開ともいうべき作品を書き続けた。また自己の同性愛体験を告白する『回想録』(1975)の発表は大きな話題を巻き起こした。83年2月25日、ニューヨークのホテルの一室で薬瓶の蓋(ふた)をのどに詰まらせて事故死した。死の直前まで、戯曲、小説、詩と多数の作品を執筆していたが、晩年の作品は筆力の衰えを感じさせる。主要作品は映面化され、日本で翻訳上演された戯曲も数多い。
[鳴海四郎]
『鳴海四郎他訳『テネシー・ウィリアムズ一幕劇集』(1966・早川書房)』▽『鳴海四郎訳『テネシイ・ウィリアムズ戯曲選集1・2』(1977、1980・早川書房)』▽『鳴海四郎訳『テネシー・ウィリアムズ回想録』(1978・白水社)』
アメリカのプロ野球選手(右投左打)、監督。テッド・ウイリアムズとよばれる。大リーグ(メジャー・リーグ)のボストン・レッドソックスで外野手としてプレー。1969年からは第2ワシントン・セネタース(1972年からテキサス・レンジャーズ)で監督も務めた。打撃の真髄を追求することに情熱を燃やした強打者で、2回の三冠王を含めて首位打者を6回も獲得した。
8月30日、カリフォルニア州サン・ディエゴで生まれる。1936年、レッドソックスに入団。1938年にはマイナー・リーグで三冠王を獲得した。翌39年に大リーグに昇格するとすぐにレギュラーとなり、打点145でタイトルを獲得した。1941年には打率4割6厘、ホームラン37本で二冠王、42年は三冠王(打率3割5分6厘、ホームラン36本、打点137)を獲得した。1943年から45年までは兵役。1946年に復帰し、無冠ながらリーグ優勝に貢献して最優秀選手(MVP)に選ばれた。1947年には2回目の三冠王、48年は首位打者、49年はホームランと打点の二冠王となり、2回目のMVPとなった。1952年の途中から53年途中まで、朝鮮戦争でふたたび戦地に赴いた。1957年には、39歳で打率3割8分8厘という高打率をマークして首位打者を獲得し、58年も首位打者となった。1959年に初めて打率3割を切ったが、60年に打率3割1分6厘、ホームラン29本、打点72を記録し、同年限りで引退した。ちなみに、現役最後の打席はホームランで締めくくった。1969年からはセネタースの監督に招聘(しょうへい)されたが、下位から抜け出せなかった。同球団は1972年にテキサスに移転してレンジャーズとなったが、その年限りで監督の職からも離れてユニフォームを脱いだ。
選手としての実働19年間の通算成績は、出場試合2292、安打2654、打率3割4分4厘、本塁打521、打点1839。獲得したおもなタイトルは、首位打者6回、本塁打王4回、打点王4回、MVP2回。監督としての通算成績(4年)は、273勝364敗。1966年に野球殿堂入り。
[山下 健]
『テッド・ウィリアムズ著、宮川毅訳『テッド・ウィリアムズ自伝大打者の栄光と生活』(1975・ベースボール・マガジン社)』▽『テッド・ウイリアムズ、ジョン・アンダーウッド著、池田郁雄訳『テッド・ウイリアムズのバッティングの科学』(1978・ベースボール・マガジン社)』
イギリス、北アイルランドの平和活動家。通称ベティBetty。ベルファストに生まれる。父はプロテスタント、母はカトリックであったが、彼女自身はカトリック信者となった。北アイルランドでは長年にわたり、カトリックとプロテスタントの対立が続いており、さらに1969年以降、IRA(アイルランド共和軍)が武力闘争を強めていた。彼女は、最初は過激派の活動に共感したが、しだいに疑問をもつようになった。1976年、車で逃走中のIRAの兵士をイギリス兵士が射殺、その車が通行中の家族に突っ込み、3人の子供が死亡する事件が起きた。この事件を目撃した彼女は、死んだ子供の叔母コリガン・マグワイアとともに平和運動を開始、草の根運動組織「ピース・ピープル」を設立した。平和大行進など活発な運動を展開し、世界的な賞賛を集め、1977年には、前年の追贈という形でノーベル平和賞をマグワイアとともに受賞した。1982年にアメリカに移住。2006年、ノーベル平和賞を受賞したほかの女性5人(ジョディ・ウィリアムズ、シリン・エバディ、ワンガリ・マータイ、リゴベルタ・メンチュ、コリガン・マグワイア)とともに平和運動NGOの「ノーベル女性の会Nobel Women's Initiative」を設立した。
[編集部]
アメリカのプロ野球選手(右投左右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のニューヨーク・ヤンキースで外野手としてプレー。走攻守の三拍子がそろい、イチローも憧(あこが)れたというスイッチ・ヒッターのオールラウンド・プレーヤーである。
9月13日、プエルト・リコのサン・フアンで生まれる。1985年、ドラフト外でヤンキースに入団。ルーキー・リーグからじっくりと鍛えられて、プロ入り6年目の1991年に大リーグに昇格した。1993年からは大リーグに定着。1995年に打率3割7厘をマークしてからは2002年まで8年連続して打率3割をクリアして、アメリカン・リーグ屈指の好打者との評価を得た(1998年には3割3分9厘で首位打者)。その間、1996年から2001年まではホームラン20本以上を打ち、打点100以上も5回記録した。またチームは毎年、プレーオフに進出し、1996、1998、1999、2000年と4回のワールド・シリーズ優勝を経験した。流れるような動きで打球の落下点に入る華麗な守備でも高い評価を受け、1997年から2000年まで4年連続してゴールドグラブ賞を受賞。走塁も巧みである。05年にはチーム史上10人目となるヤンキース在籍15年に達し、9月27日の対オリオールズ戦ではジョー・ディマジオを抜き、チーム歴代4位となる通算2215安打を記録した。
[山下 健]
2006年は131試合に出場し、打率2割8分1厘、本塁打12、打点61を記録。シーズン終了後、球団との契約がまとまらず、16年間在籍したヤンキースを退団した。
2006年までの通算成績は、出場試合2076、安打2336、打率2割9分7厘、本塁打287、打点1257。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、ゴールドグラブ4回。
[編集部]
対人地雷禁止運動家。アメリカのバーモント州生まれ。ジョンズ・ホプキンズ大学の高等国際関係大学院卒業後、中米の子供たちのための教育や福祉ボランティア活動に参加。1991年から、アメリカのベトナム帰還軍人アメリカ基金に勤務して、対人地雷の禁止運動を本格化させた。ドイツの活動家らと非政府組織(NGO)の「地雷禁止国際キャンペーン」を展開し、55か国の約1000に上るボランティア組織の連合体に発展させる世話役を務めた。この活動が国際世論を盛り上げ、1997年9月に対人地雷全面禁止条約が採択された。同年のノーベル平和賞を「キャンペーン」とともに受賞したが、その後、運動の進め方などをめぐる組織内の対立から「キャンペーン」の代表を辞任し、「国際大使」として活動を続けた。2006年、ノーベル平和賞を受賞したほかの女性5人(シリン・エバディ、ワンガリ・マータイ、リゴベルタ・メンチュ、コリガン・マグワイア、ベティ・ウィリアムズ)とともに平和運動NGOの「ノーベル女性の会Nobel Women's Initiative」を設立。
[村松泰雄]
アメリカのポピュラー歌手。生年は1928年説もある。アイオワ州ウォールレイク生まれ。少年時代から3人の兄とウィリアムズ・ブラザーズを組んで歌い、1936年ラジオに初出演。1944年にはビング・クロスビーのヒット曲『星にスイング』Swinging on a Starの録音に参加、1947年から1952年まで女優・歌手のケイ・トンプソンのショーで活躍した。1952年にウィリアムズ・ブラザーズが解散してアンディはソロ歌手になり、1954~1957年テレビ「トゥナイト・ショー」に出演。1956年に『カナダの夕陽(ゆうひ)』Canadian Sunsetが大ヒット。1958年にABCテレビ、1959年にCBSテレビで自身の番組をもち、1962年9月にNBCテレビで「アンディ・ウィリアムズ・ショー」を開始。アンディが歌った『ムーン・リバー』Moon River(1962)をテーマ・ソングにしたこの番組は、彼の明朗な歌と人間味、健全な魅力で大好評となり、1971年7月まで続いた(日本ではNHKテレビが1966年1月から1969年6月まで放映)。ヒット曲は『ハワイの結婚の歌』Hawaiian Wedding Song(1958)、『ある愛の詩(うた)』Love Story(1971)など多数。1992年、自身のムーン・リバー劇場をミズーリ州ブランソンにもった。
[青木 啓]
アメリカ人のプロテスタント中国宣教師。広東(カントン)に渡り(1833)、印刷所を経営しながら中国人宣教および中国研究を行う。また当地で日本人漂流民を世話し、日本語を学ぶ。ペリー艦隊の通訳として来日(1853、1855)。その後も在中国アメリカ公使館書記兼通訳官として数回来日し、日本宣教の必要性を母国に訴えてアメリカ人による日本宣教の機運をつくった。中国でのキリスト教宣教の公認条項を含む天津(てんしん)条約の締結(1858)に尽力した。1876年帰米後はエール大学で教鞭(きょうべん)をとった。彼による「マタイ伝福音(ふくいん)書」「創世記」の和訳稿本は消失して伝わらなかったが、英中辞典『英華字彙(じい)』(1869)は日本の初期英学研究に貢献した。
[金井新二 2018年2月16日]
アメリカ聖公会宣教師。バージニア州リッチモンド出身。1859年(安政6)プロテスタント最初の宣教師として来日し、キリスト教禁教令下の長崎、大坂で伝道したあと、1866年(慶応2)「江戸監督」(主教)に聖別された。1873年(明治6)東京に居を移し、1887年英国聖公会のビカステス主教Edward Bickersteth(1850―1897)とともに最初の総会を大阪に招集し、日本聖公会の組織を確立した。教育に関心が深く、立教大学(1874)、立教女学院、平安女学院などを創立した。約50年の滞日ののち、1908年(明治41)に帰米した。
[八代 崇 2018年2月16日]
トリニダード・トバゴの政治家、歴史学者。オックスフォード大学卒業後、ワシントンのハワード大学教授として社会学、政治学を講じる(1936~1953)。1956年に「人民国家運動党」(PNM)を結成。自治権を獲得すると(1959)首相となり、独立(1962)後死去するまで20年以上もの間、首相の地位にあった。歴史学者としては、植民地人の立場から、資本主義の生み出した帝国主義政策や植民地主義を痛烈に批判した著書を次々に発表し世界の歴史学会に大きな衝撃を与えた。主著は『資本制と奴隷制』(1944)、『帝国主義と知識人』(原題『イギリスの歴史家たちと西インド諸島』1964)、『コロンブスからカストロまで』(1970)など。
[田中 浩]
『田中浩訳『帝国主義と知識人』(1979・岩波書店)』▽『川北稔訳『コロンブスからカストロまで』(1978・岩波書店)』
イギリスのギター奏者。オーストラリアのメルボルンに生まれる。アンドレス・セゴビアに認められ、その指導を受けて頭角を現し、20歳にしてもっとも有望な新進との評価を確立、以来、演奏と録音で活発な活動をみせ、注目を集めた。1963年(昭和38)初来日。感情表出が過剰になりがちなセゴビアの演奏スタイルを克服、爽快(そうかい)で均整のとれた独自のスタイルを生み出すとともに、その目を前衛音楽、ロックなどにも向け、これまでのクラシック・ギターの枠を越えた芸風の確立を目ざしている。
[岩井宏之]
アメリカの詩人。ニュー・ジャージー州ラザフォードで開業医をしながら、生涯詩作に没頭した。エズラ・パウンドとの交遊からイマジズムの影響を受け、初期の詩集『春とすべて』(1923)で新鮮な即物的詩風を確立した。誇張された象徴主義を排し、平明な観察をもとにした「客観主義」の詩を標榜(ひょうぼう)、詩集『ブリューゲルの絵その他』(1962)で1963年ピュリッツァー賞を受賞。また五部作『パターソン』(1946~58)では、卑近な題材で日常のことばを駆使して壮大な叙事詩を書き上げた。ほかに『自伝』(1951)や小説、評論もある。
[新倉俊一]
『鍵谷幸信訳『ウィリアムズ詩集』(1968・思潮社)』
イギリスの批評家。ケンブリッジ大学を卒業。母校で英文学を講じ1983年退職。関心は文学に限らず、むしろ社会や文化、思想史にある。『文化と社会』(1958)、『長い革命』(1961)、『田園と都市』(1973)はその方面の労作。『イプセンからエリオットまでの演劇』(1952)、『現代の非劇』(1966)、『ディケンズからロレンスまでの英国小説』(1970)などの文学研究にもそれがうかがわれる。
[戸田 基]
『若林繁信・長谷川光昭訳『文化と社会』(1968・ミネルヴァ書房)』
アメリカのカントリー・アンド・ウェスタン(C&W)歌手、歌曲作家。アラバマ州生まれ。13歳で自分の楽団を結成。1949年C&Wショー「グランド・オール・オープリ」に出演してスターになった。黒人ブルースの影響を受け、強い個性と創造力でカントリーとポピュラーの間隙(かんげき)を埋めた功績は大きい。代表作に『冷たい冷たい心』(1951)、『ジャンバラヤ』(1952)などがある。
[青木 啓]
イギリスの文学者。ロンドン大学に学び、生涯をオックスフォード大学出版部の編集者として送った。イングランド教会の信徒で、文学的関心と神学的関心の結合から生まれた詩、批評、小説などの著書が多く、神秘主義の立場から、現代イギリスを舞台に魂の救済や断罪の問題を簡潔で緊張した文体で追究し、時代精神に挑戦した。
[小野寺健]
アメリカの劇作家。本名Thomas Lanier Williams。南部,ミシシッピ州に生まれ,不安な青春の中で詩,劇,小説を書き続け,ハリウッドでシナリオを書きながら完成した《ガラスの動物園》(1944)が最初に成功した。南部育ちで昔の夢を追う母,足が悪く極度に内気な姉,文学青年の弟,の一家を描いた抒情的な追憶の劇である。次の《欲望という名の電車》(1947)は,アーサー・ミラーの《セールスマンの死》とともに,戦後アメリカ演劇を代表する傑作とされた。《夏と煙》(1948)も前作と同じく性の抑圧に悩む女性を主人公にしているが,次の《ばらのいれずみ》(1950),《熱いトタン屋根の上の猫》(1955)の2作のヒロインは,抑圧されつつも挫折せず強く自己を主張する野性的な女性である。〈黒い戯曲〉とも呼ばれる3作《地獄のオルフェウス》(1957),《この夏突然に》(1958),《青春の甘き小鳥》(1959)では,孤独な詩人タイプの主人公が迫害されてむざんな最期をとげるテーマが共通している。その後やや明るい作風に転じたが,《調整期間》(1960),《イグアナの夜》(1961),《牛乳列車はもう止まらない》(1963)では,やはり孤独地獄を見つめる作者の姿勢は変わらない。その後も毎年のように新作を発表したが,概して不評である。小説も《ストーン夫人のローマの春》(1950)以後多く,その他詩集,シナリオなどがある。1975年には,赤裸々な《回想録》を発表した。その中で,1950年代後半以降,強度のアルコール依存症や精神障害に陥った破滅的な私生活について告白している。1959年と69年の2回,来日している。
執筆者:西田 実
アメリカの聖公会宣教師。バージニア州リッチモンド出身。ウィリアム・アンド・メリー大学,バージニア神学校に学び,卒業後宣教師として中国に渡り,1859年(安政6)日本開国とともに来日。69年(明治2)大阪に移り,川口居留地に最初の教会を建立。キリスト教禁制が解けた73年最初の主教として東京に移住し,87年英国国教会のビカステスとともに最初の総会を大阪に招集して日本聖公会の組織を確立した。アメリカの高等教育の日本への移植をはかり,1874年,築地に立教大学の前身である私塾を開いた。女子に対する教育の必要も感じ,立教女学院,平安女学院を創設し,聖職者の養成のためには東京三一神学校を始めた。神学的には低教会派に属し,個人の回心,霊的再生,成聖を強調したが,主教としては歴史的信条によって表明された全教会的信仰を強調した。1908年故郷リッチモンドに隠退し,2年後死去。〈道ヲ伝ヘテ己ヲ伝ヘズ〉と刻まれた墓碑が日本人信徒有志によって建てられた。
執筆者:八代 崇
トリニダード・トバゴの政治家,歴史学者。1935年オックスフォード大学を卒業後,イギリスで歴史学者を目ざしたが,黒人差別によってその道を閉ざされた。39年アメリカのハワード大学で助教授の地位を得て,48年までそこで学究生活をつづけ,その間古典的名著といわれる《資本主義と奴隷制》(1944)をはじめ多くの業績をあげ,社会経済史学派の立場から黒人奴隷制にかんする〈ウィリアムズ・テーゼ〉を確立した。49年トリニダード・トバゴに帰国後独立運動に入り,56年PNM(人民の国民運動)を結成し,首相に選ばれた。62年トリニダード・トバゴの独立が達成されると引きつづき首相として,同国の近代化と工業化を進め,〈カリブ海連邦〉の結成に努めた。前記のほかに,《帝国主義と知識人》(1966),《コロンブスからカストロまで》(1970)の著書が知られ,それぞれ邦訳がある。
執筆者:神代 修
アメリカの詩人。小児科の開業医だったが,そのかたわら詩,小説,戯曲,評論の各分野に筆を染め,数多くの作品を残した。ニュージャージー州のラザフォードに生まれ,終生そこを生活の基盤として,アメリカの土着のものを題材に,アメリカの日常のことばを使って書いた。同世代のエズラ・パウンドやT.S.エリオットがヨーロッパの伝統と文化を求めてアメリカを離れたのと対照的な立場に立つ。したがって1920-30年代に支配的だったエリオットの勢威が衰えるにつれて評価は高まり,50年代以降後続の世代の詩人に対する影響力は圧倒的なものとなった。ものそのものを描くという主張でイマジズム風の短詩も多く書いたが,代表作は,ニュージャージー州の都市パタソンを舞台とし,それを人格化したパタソン博士の登場する長詩編《パタソン》5巻(1946-58)。
執筆者:沢崎 順之助
アメリカのカントリー・ミュージック史上最大の歌手。アラバマ州の貧しい農家に生まれ,14歳のころからバンドをつくって劇場に出たりラジオ番組を持つようになる。1947年MGMレコード社からレコードを出し始めて全国的な人気を獲得,49年にはカントリー界最高のひのき舞台グランド・オール・オープリーに出演し,《ラブ・シック・ブルース》が大ヒットとなって人気は頂点に達した。続いて自作の《コールド・コールド・ハート》《ジャンバラヤ》などがヒットし,自身の人気を高めただけでなく,カントリー音楽の普及にも寄与した。しかし,もともと病弱のうえ少年時代からの飲酒癖,妻との不和などで生活は荒れがちで,自動車旅行中に心臓発作を起こしてわずか29歳で死亡。
執筆者:中村 とうよう
植民地時代アメリカのピューリタン指導者,開拓者。ロンドン生れ。ケンブリッジ大学卒業後1631年渡米。マサチューセッツの神政政治に反対して追放され,原住民に譲られた土地に政教分離,信仰の自由に基づく植民地(今のロード・アイランド州)を建設。その存立を守るためピューリタン革命期に2回渡英。神学以外に北アメリカ原住民の言語に関する著書もあり,自由の闘士として名高い。
執筆者:久保田 泰夫
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(大江満)
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1911~81
トリニダード・トバゴの歴史学者,政治指導者。国際的な歴史学者として『資本主義と奴隷制』(1944年)などの重要な研究を多数発表すると同時に,「人民による国家形成運動」(PNM)を組織して独立運動を指導し,西インド諸島連合の結成に尽力した。その崩壊を受けて1962年にトリニダード・トバゴが独立したのちは,首相に就任し(在任1962~81),この新興独立国家の発展を指揮した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
… イギリス国民の海外進出とともに始まるアングリカン・チャーチの海外伝道は福音宣教協会(Society for the Propagation of the Gospel in foreign parts,略称SPG)と教会宣教協会(Church Missionary Society,略称CMS)によって進められ,オックスフォード運動以後は,前者がアングロ・カトリック主義を,後者が低教会派の福音主義を標榜して世界各地で伝道に努めた。日本では1859年アメリカ聖公会のC.M.ウィリアムズとリギンズJohn Ligginsが最初の宣教師として伝道を開始し,CMSが69年,SPGがその4年後に最初の宣教師を送り込んだ。3派の宣教師は87年に大阪で最初の総会を開き,日本聖公会をアングリカン・チャーチの1管区として組織して今日に至っている。…
…学校法人立教学院が経営し,同学院にはほかに小学校,中学校,高等学校がある。1874年,東京築地の居留地にアメリカの聖公会主教C.M.ウィリアムズが開いた聖パウロ学校という英語私塾を起源とする。1907年文科,商科をもつ専門学校として認可され,18年現所在地に移転した。…
…政党は人民民族運動,国家再建連合,統一国家会議など。このうち人民民族運動は著名な歴史学者であるE.ウィリアムズが1956年に結成した政党で,56年以来政権を担当してきたが,86年の総選挙で国家再建連合に敗れた。同党は83年に四つの野党が連合してできたものである。…
…そのため第2次世界大戦前後の愛国心の高揚期に,カントリー音楽は最盛期を迎える。戦後は,アラバマ州出身のH.ウィリアムズが,悲哀に満ちた美しい声で全国的な人気を博したが,53年に彼が死亡したあと,ロックとフォーク・ソングの隆盛に押されがちとなった。60年代以降,ロックやフォークとの中間的なスタイルが生み出されたり,ヒッピー風のカントリー歌手ネルソンWillie Nelsonが現れたりして,形を変えながら現代に至っている。…
…教会政治は各個教会の独立自治にもとづき,政教分離を主張するのが特色。17世紀の初め英国国教会に迫害されてアムステルダムに逃れたJ.スミスによって創立され,アメリカにはピューリタンの一人R.ウィリアムズによって最初の教会がロード・アイランドに設立された(1639)。17世紀にはフロンティアの西漸につれて中西部と南部への伝道に力を注ぎ,現在はアメリカ最大の教派となっている。…
…今日のミュージカルの芸術的価値については疑問があるが,大衆的ジャンルとしてとりわけ商業演劇においては大きな位置を占めている。 文学的戯曲の系譜では,第2次大戦後間もなく地位を確立させたT.ウィリアムズとA.ミラーが重要である。2人の作風は対照的で,前者がおおむねアメリカ南部を舞台にして個人の病的心理を描くのに対して,後者は個人を社会構造の中でとらえようとする。…
…アメリカの劇作家T.ウィリアムズの代表作。1947年初演。…
…この運動が終わったあとも,イマジズムの原理はさまざまな形で現代詩に生きつづけた。説明的な叙述でなしにイメージの連鎖で書くパウンドの大作《詩篇》やエリオットの《荒地》もその延長であるし,またアメリカの話し言葉のリズムを生かしたW.C.ウィリアムズの自由詩も,イマジズムに触発されなければ生まれなかっただろう。【新倉 俊一】。…
※「ウィリアムズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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