エリオット(読み)えりおっと(その他表記)Thomas Stearns Eliot

デジタル大辞泉 「エリオット」の意味・読み・例文・類語

エリオット(George Eliot)

[1819~1880]英国の女流小説家。本名、メアリ=アン=エバンズ(Mary Ann Evans)。丹念な心理分析を特色とする写実的作品を書いた。著「アダム=ビード」「フロス川の水車小屋」「サイラス=マーナー」。

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精選版 日本国語大辞典 「エリオット」の意味・読み・例文・類語

エリオット

  1. [ 一 ] ( George Eliot ジョージ━ ) イギリスの女流作家。人間心理を克明に分析した物語を書く。著「フロス川の水車」「サイラス‐マーナー」「ミドルマーチ」など。(一八一九‐八〇
  2. [ 二 ] ( Thomas Stearns Eliot トマス=スターンズ━ ) 詩人、批評家。アメリカに生まれ、三九歳の時、イギリスに帰化。キリスト教的伝統に根ざした秩序の樹立を説く。おもな作品は、詩「荒地」「四つの四重奏曲」、詩劇「カクテルパーティー」、詩論「批評論集」など。(一八八八‐一九六五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エリオット」の意味・わかりやすい解説

エリオット(Thomas Stearns Eliot)
えりおっと
Thomas Stearns Eliot
(1888―1965)

イギリスの詩人、批評家、劇作家。9月26日アメリカのミズーリ州セントルイスに生まれ、1927年イギリスに帰化。17世紀後半イギリスからボストンに移住した旧家の出で、祖父はユニテリアン派の牧師、父は実業家である。文学好きな母の血を引いて少年時代から詩作を始め、1906年ハーバード大学に入学してからは学生の編集する文芸誌に習作を寄稿した。アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』(1899)を読んで当時のフランス詩人たちを知り、ラフォルグの軽妙で皮肉な口語体詩に心酔したのもこのころである。1909年大学を卒業してパリのソルボンヌ大学に1年間留学、帰国後はハーバード大学大学院で近代哲学、インド哲学、サンスクリットなどを研究した。1914年夏、今度はドイツのマールブルク大学に留学するが、第一次世界大戦の開戦とともにイギリスのオックスフォード大学に移り、博士論文の執筆にとりかかった。

 しかしこの移住はエリオットの生涯に大きな転換をもたらす。1915年6月、イギリスで知り合った画家の娘ビビアン・ヘイウッドと結婚、いったん1人で帰国するが、父親の認めるところとならず、研究生活を捨ててロンドンの学校教師となり、さらに1917年からはロイズ銀行に就職して2人の暮らしを支えた。これ以後1932年までアメリカの土を踏むことはない。一方ではエズラ・パウンドの口利きで詩と評論を雑誌に寄稿し始め、1917年には最初の詩集『プルーフロックとその他の観察』を出版、先鋭なイメージや口語体独白の断片を積み重ね、微妙な心理のあやを表出して、モダニズム文学運動に参加した。1920年の批評集『聖なる森』では従来のロマン主義詩法を否定、詩人は自己の個性を抹消して、全ヨーロッパ文学の伝統を同時的に意識すべきであると主張して、新文学の理論的な立場を明らかにした。1922年には国際的な視野にたつ文芸季刊誌『クライテリオン』(1922~1939)を創刊して文壇に新風を吹き込み、第1号に長編詩『荒地(あれち)』を発表して戦後世代の熱狂的な支持を得た。その後も、17世紀形而上(けいじじょう)派詩人の強壮な感受性を称賛してミルトンのラテン語法を批判し、ダンテの寓意(ぐうい)手法の現代的な意義を考察するなど、文壇や学界に大きな話題を提供して、しだいに詩人・批評家の地歩を固め、イギリス文学の主流となるに至った。1925年フェイバー出版社に迎えられて銀行勤務の過重な負担からは解放されたが、結婚生活では妻の神経症に悩まされて、1932年に別居を余儀なくされた。

 イギリス帰化後の1928年、エリオットは「文学では古典主義者、政治では王党派、宗教ではアングロ・カトリックである」と自己の信条を規定して注目を浴びたが、『異神を追いて』(1934)、『キリスト教社会の理念』(1939)、『文化の定義のための覚え書』(1948)など一連の文明論では、キリスト教によってヨーロッパの秩序の確立を求める理想主義者の主張と、政治的保守主義者の姿が重なり合っている。詩の領域では、「うつろな男たち」(1925)から、「灰の水曜日」(1930)、『四つの四重奏』(1943)へ進むにつれて、宗教的な主題があらわになり、風刺の口調は信仰の告白へと変化するが、緊迫した内面の劇をえぐり出すしなやかな感性は失われていない。

 また、彼は早くから劇的な話法の再現や、詩劇の復興に関心を寄せていたが、12世紀の大司教ベケットの殉教を描いた『大聖堂の殺人』(1935初演)が好評を得てから、現代に舞台を移して、『一族再会』(1939初演)、『カクテル・パーティ』(1949初演)、『秘書』(1953初演)、『元老政治家』(1958初演)などの詩劇を書き、いちおうの成功を収めた。1948年、現代詩の先駆者としての貢献を評価され、ノーベル文学賞を受賞。最初の妻は1947年に療養所で亡くなったが、1957年1月に秘書バレリー・フレッチャーと再婚、幸福な晩年を送った。1965年1月4日、76歳で死去。ウェストミンスター寺院に葬られた。

[高松雄一]

『吉田健一他訳『エリオット選集』4巻・別巻1(1959・弥生書房)』『深瀬基寛他訳『エリオット全集』全5巻(1971・中央公論社)』『深瀬基寛著『エリオットの詩学』(角川文庫)』『西脇順三郎著『T・S・エリオット』(1965・研究社出版)』『寺田建比古著『T・S・エリオット――沙漠の中心』(1963・研究社出版)』『平井正穂編『エリオット』(1967・研究社出版)』


エリオット(George Eliot)
えりおっと
George Eliot
(1819―1880)

イギリスの女流小説家。本名メアリ・アン・クロスMary Ann Cross、旧姓エバンズEvans。11月22日、ウォーリックシャーのアーバリーに地所差配人の子として生まれる。少女のころは熱心な福音主義者だったが、1841年父とともに移り住んだコベントリーで自由思想家チャールズ・ブレイを知り、その影響のもとで信仰放棄の転機を迎える。D・F・シュトラウス著『イエス伝』の翻訳(1846出版)を手がけたのち、1852~1854年の2年間、進歩的総合誌『ウェストミンスター・リビュー』誌の副主筆として編集に携わった。1854年L・A・フォイエルバハ著『キリスト教の本質』を翻訳出版、時を同じくして文筆家ジョージ・ヘンリー・ルイスと手を携えてドイツに向かい、同棲(どうせい)生活に入った。以後ルイスとは正式に結婚しないまま彼の死まで24年間生活をともにしたが、その間彼の勧めで小説執筆に手を染め、1857年中編『エイモス・バートンの悲運』を『ブラックウッド・マガジン』誌に発表、小説家としてデビューした。最初の長編小説『アダム・ビード』(1859)によって作家としての地位を確立、その後、最終作『ダニエル・ディロンダ』(1876)に至るまで、一作ごとに名声を高め、ビクトリア朝小説界に君臨した。ジョージ・メレディスとともに、イギリス小説に真摯(しんし)なる目的意識を付与した功績は大きく、ハーバート・スペンサーが「小説にはロンドン図書館に置くほどのまじめな価値はない」と断言したとき、「ジョージ・エリオットの作品を除いては」という但し書をつけた話は有名である。もっぱら娯楽を主眼とした従来の小説に奥行の深い知的世界を繰り広げ、小説の質的変化をもたらした点でイギリス初の近代小説家とよばれる。

 ルイスと死別後、20歳年下の実業家ジョン・ウォルター・クロスと1880年に結婚したが、わずか7か月後の同年12月22日、ロンドンで死去した。

 ほぼ20年に及ぶ作家活動の時期は、『サイラス・マーナー』(1861)に至るまでを前期、歴史ロマンス『ロモラ』(1863)以降を後期と二分されるが、前期の作品が登場人物の胚胎(はいたい)から始まっているのに対し、後期の作品は主題の発想から誕生しているのが特徴である。だが、共感の拡張を芸術の目的とし、日常生活における他者とのかかわりのなかに道徳的存在としての人間のあり方を追求する態度は一貫して変わらない。20世紀初頭までは、情感豊かな前期の作品に対する評価がより高く、後期の作品は知性の勝った理性の文学として敬遠されがちであったが、現在は人間洞察の円熟度および作品の芸術的完成度において、むしろ後期の作品を重要視する傾向にある。とくに、ある歴史的時点における地方社会の全体像を人間関係の網を通してとらえた『ミドルマーチ』(1871~1872)は、作者の力量が最高峰に達した作品として傑作の呼び声が高く、イギリス近代小説の古典と目されている。

[川本静子]

『川本静子著『ジョージ・エリオット』(1980・冬樹社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「エリオット」の意味・わかりやすい解説

エリオット
Thomas Stearns Eliot
生没年:1888-1965

イギリスの詩人,劇作家,批評家。アメリカのセント・ルイスに実業家の子として生まれたが,17世紀にイギリスからニューイングランドに移住した由緒ある家系の源に憧れるかのごとく,1927年にイギリスに帰化した。ハーバード大学卒業ののち,ソルボンヌオックスフォードでも学び,哲学についての博士論文を母校に提出したが,学位は取らずじまいだった。1915年,ロンドンでイギリス女性と結婚,高校教師やロイド銀行員として生計を立てながら,文壇的交友を深め,著作にふけった。処女詩集《プルーフロックの恋歌》(1917)には,彼がアーサー・シモンズの《文学における象徴主義運動》を通して親しんだフランス世紀末詩人たち,とくにラフォルグやコルビエールの影響が見られ,アイロニカルな独白の語り口が巧みな効果をあげている。同じころ精力的に書いた評論では,彼のもう一つの影響源であるエリザベス朝劇作家や形而上詩人の再評価を唱えたが,彼の究極の狙いは当時の保守的な詩壇に衝撃を与えるような新しい詩的言語の創造であったろう。それを最も明確に説いた評論が《伝統と個人的才能》(1919)であり,それを最も果敢に実践した作品が長編詩《荒地》(1922)であった。同じ年に発表されたジョイスの《ユリシーズ》とともに現代文学の金字塔となったこの詩は,第1次大戦後のヨーロッパの精神的荒廃を神話的文脈においてみごとに描ききったその前衛的手法によって,世界的な影響を及ぼした。

 詩《うつろな人間》(1925)でさらに現代人の悲惨を掘り下げたあと,エリオットは宗教的転向をとげる。《聖灰水曜日》(1930)から《四つの四重奏》(1943)にいたる宗教詩は,現代の代表的知性が苦悩をへて信仰者として成熟してゆく道程を示している。この内面的宗教詩人はまた,公的な論壇で重きをなす文明批評家でもあった。28年に〈文学においては古典主義者,政治においては王党派,宗教においてはアングロ・カトリック〉という立場を明言したエリオットは,季刊誌《クライティーリオン》を第2次大戦直前まで主宰して,ヨーロッパ文化の正統のために論陣を張り,《キリスト教社会の理念》(1939)や《文化の定義のための覚書》(1948)を発表する。宗教劇《寺院の殺人》(1935)はもちろん,《一族再会》(1939),《カクテル・パーティ》(1949),《秘書》(1953),《老政治家》(1958)などの詩劇も,宗教的主題を世俗的設定の中にひそめつつ,信仰の問題を現代の知的大衆に提起しようとする試みだった。死ぬまで出版社フェーバー・アンド・フェーバー社の重役でもあった彼の生涯は,ジョイス,パウンドらにくらべ,功成り名とげたまれな20年代作家のそれであったといえよう(1948年ノーベル賞受賞)。日本では,春山行夫らによっていち早く紹介され,深瀬基寛らに思想的影響を与え,西脇順三郎に同時代的反響をこだまさせ,田村隆一ら第2次大戦後の詩人に〈荒地〉派の名前を残した。
執筆者:


エリオット
George Eliot
生没年:1819-80

イギリスの女流作家。本名メアリー・アン・エバンズMary Ann Evans。彼女の作品はイギリス家庭小説の伝統を受けつぎつつ,当代一流の知識人の一人としてビクトリア時代のさまざまな思想的潮流と社会的視野からそれを照らし出し,鋭利な分析と落ち着いた描写を総合している。イングランド中部ウォリックシャーの土地差配人の娘に生まれ,堅実な田舎の中流家庭の雰囲気のなかで育ったが,幼い頃から読書好きで,優れた知的能力を示した。教育は土地の女学塾に学んだだけだが,あとは独学で知的教養を身につけた。一時福音主義の信仰に熱中したが,22歳の時近くの工業都市コベントリーに移ると,土地の知識人たちとの交際からキリスト教に疑問を持ち,信仰を捨てるにいたった。その後ダビッド・シュトラウスの《イエス伝》を翻訳,やがてロンドンに出て《ウェストミンスター評論》の編集に携わるかたわら,フォイエルバハの《キリスト教の本質》を翻訳,多くの書評論文を執筆するなど,着々と知識人としての自己を形成していった。1854年,批評家G.H.ルイスとの同棲生活をはじめた。彼は妻の不貞のために別居していたが,当時の法律では離婚ができず,同棲という形をとらざるをえなかったのである。ルイスの勧めで小説を書きはじめ,57年処女作の短編集《牧師生活諸相》を雑誌に連載,好評を得た。ジョージ・エリオットという男の筆名をこの時初めて用いている。続いて長編《アダム・ビード》(1859),《フロス川の水車場》(1860)を発表,一躍有名となる。前者は19世紀初頭の農村を舞台とする田園悲劇,後者は作者自身を思わせる若い娘の成長の苦悩を描いている。61年,人間愛の至高性をテーマとする寓意的物語《サイラス・マーナー》を出版,63年にはルネサンス時代のイタリアに取材した唯一の歴史小説《ロモラ》を発表した。

 次作《急進主義者フェリックス・ホルト》(1866)のあたりからエリオットの後期の作風が明瞭となる。少女時代の回想の色を帯びた田園生活の描写にかわって,より客観的で包括的な地方社会の分析がはじまり,続いて書かれた代表作《ミドルマーチ》(1871-72)では,四つのプロットが絡みあいながら進行し,広い社会分析と個人心理の鋭い追求の総合が見られる。最後の作品《ダニエル・デロンダ》(1876)は同時代の社交界とユダヤ人の祖国建設運動を対比的に描く野心的作品であるが,できばえはやや不均衡である。作風の転換はあるものの,エリオットのテーマは一貫して広い人間愛と,それを執拗に阻む人間に内在する自己中心性との葛藤であった。それは前期の作品では美しい田園を背景に展開され,後期の作品になると緻密な社会分析のなかで,個々人の生き方においてそれが問われる。彼女の作品はビクトリア時代におけるもっとも包括的総合的なヒューマニズムの文学と言えよう。
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百科事典マイペディア 「エリオット」の意味・わかりやすい解説

エリオット

米国に生れ英国に帰化した詩人,批評家。米,仏,英の大学で文学,哲学などを修める。処女詩集《プルーフロックその他の観察》(1917年),ロマン主義を批判し,伝統の価値を見直す古典主義的立場を打ち出した評論集《聖なる森》(1920年)のあと,1922年に長詩《荒地(あれち)》を発表。のち《聖灰水曜日》(1930年),《四つの四重奏》(1943年)などの詩で宗教的傾向を深める一方,《寺院の殺人》(1935年),《一族再会》(1939年),《カクテル・パーティー》(1949年)などの詩劇も書いた。評論では《詩の効用と批評の効用》(1933年),《異神を追いて》(1934年),《詩論・詩人論》(1957年)などが重要。日本の批評家にも大きな影響を与えた。1948年ノーベル文学賞。
→関連項目ウィットオーデングバイドゥーリナコリンズ詩劇ダン綱淵謙錠トマスニュー・クリティシズムニュー・ヒューマニズムパウンドブルームベケットマリー

エリオット

英国海軍出身の外交官。中国での呼び名は義律。1834年,対中国貿易監督官の書記として広州に至り,1836年首席監督官。林則徐によるアヘン取締りからアヘン戦争初期にかけて,英国側の現地責任者,全権として活躍。1841年帰国。

エリオット

英国の女性作家。本名Mary Ann Evans。《アダム・ビード》,《フロス河畔の水車小屋》,《サイラス・マーナー》(1861年),《ミドルマーチ》(1872年)などの知的で重厚な写実的作品で,19世紀英文学に重きをなす。社会的・宗教的関心が強く,フォイエルバハの《キリスト教の本質》などの英訳もある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エリオット」の意味・わかりやすい解説

エリオット
Eliot, Thomas Stearns

[生]1888.9.26. セントルイス
[没]1965.1.4. ロンドン
イギリスの詩人,批評家,劇作家。アメリカで生れたが,1927年イギリスに帰化しイギリス国教会に入信。 48年ノーベル文学賞受賞。 22年,雑誌『クライティーリオン』 The Criterionに発表した『荒地』 The Waste Landなどの初期の詩や「伝統と個人の才能」を含む処女評論集『聖なる森』 The Sacred Wood (1920) によって,斬新な一種の純粋詩論を実践して現代イギリス詩の先達となったが,改宗の前後からキリスト教的世界観をふまえた詩観を展開,『四つの四重奏』 Four Quartets (43) に究極する詩のほかに,『寺院の殺人』 Murder in the Cathedral (35) ,『カクテル・パーティー』 The Cocktail Party (49) などの特異な詩劇を書き,また『異神を求めて』 After Strange Gods (34) ,『キリスト教社会の理念』 The Idea of a Christian Society (39) などにみられる文芸・社会批評を生んだ。彼の特徴は各著作が広範な全活動の一面となる有機的関連性をもつことであり,その影響は多様な形で今日にまで及んでいる。

エリオット
Eliot, George

[生]1819.11.22. ウォリックシャー,チルバーズ・コートン
[没]1880.12.22. ロンドン
イギリスの女流作家。本名 Mary Ann Evans。伝統的なキリスト教信仰のなかで育ったが,やがて実証主義哲学の影響を受けて信仰を捨て,不可知論の立場をとった。世間の批判を押切って,妻子のある批評家 G. H.ルイスと同棲,40歳近くになって小説を書きはじめた。人間の行為を,動機から結果にいたるまで精細に分析し,その道徳的責任を徹底的に追及するきわめて主知的,道徳的な作風。主要作品には『アダム・ビード』 Adam Bede (1859) ,『フロス川の水車場』 The Mill on the Floss (60) ,『サイラス・マーナー』 Silas Marner (61) をはじめ,サボナローラ時代のイタリアを背景にした『ロモラ』 Romola (62~63) や最高傑作『ミドルマーチ』 Middlemarch (71~72) などがある。

エリオット
Eliot, John

[生]1604. イギリス,ウィドフォード
[没]1690.5.21. マサチューセッツ湾植民地,ロックスベリー
北アメリカ先住民族(アメリカインディアン)への伝道者。初めイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)の教職にあったが,1631年アメリカに渡り,先住民族への伝道を志し,1646年から伝道に従事。聖書の原地語訳を出版した。福音と文明を同一のものとみ,その伝道は成功したが,やがて白人と先住民の人種闘争が激化したため,エリオットの努力は水泡に帰した。主著 "A Primer or Catechism, in the Massachusetts Indian Language"(1654),"The Christian Commonwealth"(1659),"The Harmony of the Gospels"(1678)。

エリオット
Eliot, Charles William

[生]1834.3.20. ボストン
[没]1926.8.22. メーン,ノースイーストハーバー
アメリカの教育改革家。 1853年ハーバード大学卒業,58年同大学数学・化学助教授。 67年ヨーロッパに渡り,教育制度を研究。その視察報告書が前学長 H.トマスの目にとまり,その機縁で 69~1909年ハーバード大学学長をつとめ,同大学の名声を世界的水準に高めた。彼の学長時代,ハーバード大学は入学条件を高くし,他の主要大学もこれによったため,中等学校の水準も高まった。 1892年NEAが組織した中等教育改造十人委員会の委員長となり,従前8・4制に代る6・6制の学校系統,第7学年における外国語と数学の履修などの改革案を提唱した。この着想は 1910年に創設されたジュニア・ハイスクール制度で実現をみた。著書『幸福な生活』 The Happy Life (1896) ,『大学の管理』 University Administration (1905) ,その他。

エリオット
Elliot, Sir Charles

[生]1801
[没]1875
イギリスの外交官。中国名は義律。アヘン戦争当時の清英交渉にあたる。海軍士官であったが W.ネーピアの随員として清国に赴任,1836年,在広東の首席貿易監督官となる。 39年以降アヘン問題で林則徐との交渉にあたる。 41年 (清,道光 21年) には琦善 (きぜん) との間に川鼻 (せんび) 仮条約の交渉にあたり,ホンコンの割譲,対等の交渉権などを認めさせようとしたが,妥協的とされて H.ポッティンジャーと交代した。のちセントヘレナの知事をつとめた。なお,アヘン戦争時のイギリス軍司令官であった G.エリオットはいとこである。

エリオット
Elyot, Sir Thomas

[生]1490頃.サマセット,イーストコーカー
[没]1546.3.26. ケンブリッジシャー,カールトン
イギリスの人文主義者,外交官。ヘンリー8世に捧げた処女作『為政者論』 The Govenour (1531) で王に認められ,カルル5世のもとに大使として派遣 (31,35) されたが,この書はのちのイギリス大学教育の理想をみごとに表現している。当時の学者には珍しく,もっぱら英語で書いた彼の著作は散文英語の発展に大きく寄与した。また最初のラテン語=英語辞典 (38) を完成。彼の古典の翻訳はイギリスにおける古典の普及に貢献した。

エリオット
Eliot, Sir John

[生]1592.4.11. コーンウォール,セントジャーマン
[没]1632.11.28. ロンドン
イギリスの政治家。 1614年より下院議員になり,特にチャールズ1世の治世に王の圧政に反抗して議会を指導し,「権利請願」の提出にも大きな役割を果した。 26年以来3度チャールズの命でロンドン塔に投獄され,29年3度目に投獄されたまま没した。

エリオット
Eliot, Sir Charles Norton Edgcumbe

[生]1862.1.8. オックスフォードシャー,シルフォードゴウワー
[没]1931.3.16. マラッカ海峡
イギリスの外交官,東洋学者。イギリス領東アフリカ弁務官とザンジバル総領事を兼ねた (1900~04) 。のち大使となり来日 (20) 。大使を辞任したあとも日本に居住し,仏教学者として業績がある。

エリオット
Elliott, Ebenezer

[生]1781.3.17. ヨークシャー,マズバラ
[没]1849.12.1. ヨークシャー,グレートホートン
イギリスの詩人。地主の利権を守る穀物法を非難した『穀物法詩集』 Corn-Law Rhymes (1831) で有名。

エリオット
Elliott, George Henry

[生]1884
[没]1962
イギリスのミュージック・ホールのコメディアン。歌,ダンス,パントマイムにすぐれ,Chocolate-Coloured Coonの名で知られる。

エリオット
Elliott, Jesse Duncan

[生]1782
[没]1845
アメリカの海軍軍人。アメリカ=イギリス戦争 (1812) のとき,エリー湖でイギリス船2隻を捕獲し,アメリカ側に最初の勝利をもたらした。

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大学事典 「エリオット」の解説

エリオット
Charles William

1869年から1909年までハーヴァードの学長を務め,小規模カレッジを教育・研究の両面で近代大学に成長させたボストンの名家出身の化学者。新設のMIT(マサチューセッツ工科大学)での数年の教員の経歴を経て,35歳で母校の最高責任者となった。就任の翌1870年から退任の1909年までの40年でハーヴァードの教員数は,イェールの場合の3.7倍に対し4.9倍に増加した。とくに専門職大学院の教員数はイェールの場合の2.8倍に対し,8.3倍に達した。エリオットが,カレッジの教育体制に比較して,専門職大学院を相当に充実させたことが知られる。また,アメリカ教育協会(NEA)での活動を通し,中等学校教育の改善を強力に推進した。彼を有名にしたカレッジ科目の自由選択制は,若者が天性を発見し,専門訓練でのその開発により最大限の社会貢献をするという,民主主義に不可欠な教育制度の一環であり,カレッジの伝統はこの意味での社会奉仕であると彼は主張した。アメリカの伝統的な管理原則に則り,教授会に対し優位を保った最後の学長の一人である。
著者: 立川明

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「エリオット」の解説

エリオット Eliot, Sir Charles Norton Edgecumbe

1864-1931 イギリスの外交官,東洋学者。
1864年1月8日生まれ。大正8年駐日大使として来日,15年に退官し帰国。昭和4年再来日。仏教や日本の水産動物を研究したが,病気となり帰国途中の1931年3月16日死去。67歳。オックスフォード大卒。著作に「ヒンズー教と仏教」など。

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旺文社世界史事典 三訂版 「エリオット」の解説

エリオット
Thomas Stearns Eliot

1888〜1965
イギリスの詩人・文芸批評家
アメリカに生まれ,イギリスに定住・帰化。『クライテリオン』を創刊し,長詩『荒地』発表。フランス象徴主義の影響が強い。1948年ノーベル文学賞を受賞。

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367日誕生日大事典 「エリオット」の解説

エリオット

生年月日:1862年1月8日
イギリスの外交官,東洋学者
1931年没

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世界大百科事典(旧版)内のエリオットの言及

【荒地】より

…鮎川信夫(1920‐86),山川章(森川義信)らが中心であった。誌名はイギリスの詩人T.S.エリオットの詩《荒地The Waste Land》に由来する。第2次は47年9月創刊,48年6月終刊。…

【荒地】より

…イギリスの詩人T.S.エリオットの詩。1921年秋,神経の変調を治すため滞在していたローザンヌで書かれた初稿が,エズラ・パウンド(献辞の〈私にまさる工匠〉)の意見に従って,ほぼ半分の長さに縮められ,22年10月雑誌《クライティリオン》創刊号に発表。…

【イギリス文学】より

…そのうえ19世紀末の英詩には,フランス象徴派の影響も見のがせない。たしかにそこから出発したT.S.エリオットは20世紀の《荒野》の風土に新しい信仰を模索したし,それに続く時代のオーデン・グループは新しい社会性への〈参加〉の姿勢を示すことによって,英詩の伝統のたくましさを証(あかし)した。しかし第2次大戦後のイギリス詩は,やはり個人の純粋な詩魂を,つぶやくように守っているように見受けられる。…

【韻律】より

…19世紀までは詩はくりかえされる,規則正しいリズムの波に従って,吟誦(ぎんしよう)chantされたが,20世紀になっては話speakされるようになった。T.S.エリオットは1951年に発表した《詩と劇Poetry and Drama》と題する論文の中で,彼の作詩法を説明し,詩の韻律を散文律に近づけること,各行の長さおよびシラブルの数は画一にしないが,行中に一つの小休止caesuraを置き,アクセントは小休止の前に一つあれば後に二つ,前に二つあれば後に一つ,合わせて三つ置くようにしたと書いている。筆者はエリオット自身の朗読の録音,そのほか現代の英米詩人および学者の朗読のレコードを集めて研究してみたが,みなエリオットとよみ方を一つにしていた(図1参照)。…

【クライティーリオン】より

…イギリスの文芸季刊誌(一時,月刊)。1922年,T.S.エリオットにより創刊。フランスの《NRF》,ドイツの《ノイエ・ルントシャウ》などと連携を保ち,ヨーロッパの文化的共同体をつくりあげようという抱負から生まれ,創刊号にエリオットの《荒地》が掲載されたほか,すぐれた作品,批評が紹介され,20世紀の感受性を形づくるのに大きく貢献した。…

【寺院の殺人】より

…イギリスの詩人,劇作家T.S.エリオットが1935年カンタベリー大聖堂での上演のために委嘱されて書いた劇。1170年,国王との対立からこの大聖堂で殺された大司教トマス・ベケットの殉教を主題としている。…

【ニュー・クリティシズム】より

…〈新批評〉とも訳す。20年代のT.S.エリオットやI.A.リチャーズらによる新しい文学意識にもとづき,文学作品(とくに詩)の精密・客観的な評価をめざした。J.C.ランサム,A.テートらの率いるアメリカの〈南部批評家〉がその母体とみなされるが,イギリス側ではケンブリッジ大学でリチャーズの教えを受けたW.エンプソンをその数に入れることもある。…

【ミシシッピ[川]】より

…ウィリアム・フォークナーの《野性のシュロ》の背景もミシシッピ川の大洪水である。 こうした川がもつ自然の二面性をさらにいっそう明確に指摘したのは,同じくミシシッピ川沿いの都市セント・ルイスに生まれた詩人T.S.エリオットであった。西欧の豊かな文化伝統を求めて,最後はイギリスに帰化した彼は,《ハックルベリー・フィン》に触発されて,このミシシッピ川を〈強力な褐色の神〉と称し,〈川の神〉を忘れ,〈機械の神〉のみに奉仕する現代人に警告を発した。…

【四つの四重奏】より

…アメリカ出身でイギリスに帰化した詩人T.S.エリオットの長編詩。1943年刊。…

※「エリオット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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