精選版 日本国語大辞典 「カエサル」の意味・読み・例文・類語
カエサル
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古代ローマ、共和政末期の政治家、将軍。いわゆる第1回三頭政治を敷いた政治家の一人。英語ではシーザー。ガリアを平定して、古典古代の文化をヨーロッパ内陸部にまで広めるとともに、内乱での勝利の結果、単独支配者となり、世界帝国的な視野のもとで社会的、政治的な変革を行ったが、共和政ローマの伝統を踏みにじるものとみなされて暗殺された。ギリシア・ローマの歴史を決定的に変えた大政治家であり、将軍、文人としても第一級の人物とみられている。
[長谷川博隆]
カエサルは紀元前100年7月13日に生まれた。女神ウェヌス(ビーナス)の後裔(こうえい)であることを誇るパトリキ系の名門の出である(ただしカエサル家は第一級の名門には属さず、祖先にも名士を出していない)。伯母は将軍マリウスの妻。父はガイウス・ユリウス・カエサル。前85年に父を失ったが、良妻賢母の誉れの高い母アウレリアには一生敬愛の念を捧(ささ)げた。前84年に民衆派のキンナの娘コルネリアをめとったため、閥族派のスラの勝利後、離別を促されたが、受け入れず、追及を逃れて東方に赴き、前80~前78年属州アジアおよびキリキアで従軍し、武勲のため檞(かしわ)葉の冠を受けた。スラの死後帰国し、前77年、元地方長官ドラベラを告発することによって政治生活の第一歩を踏み出した。ついで前75~前74年ロードス島のモロンのもとで雄弁術を学び、前73年には神官に選ばれた。前70年以降は、第一人者たろうという功名心を燃やしつつ、スラ体制の打破を目ざす民衆派の一人としての道を歩み始めた。前69年には財務官として「彼方(かなた)のスペイン」(ヒスパニア・ウルテリオールHispania ulterior)に赴任し(~前68年)、前67~前64年にはポンペイウス支持の立場を鮮明にし、前65年のアエディリス(按察官(あんさつかん))に選ばれるや、大々的に剣闘士競技を催して、人心収攬(しゅうらん)に努めた。さらには大規模な買収によって前63年大神官(終身)になった。なお、国家転覆を謀るカティリナの陰謀事件に加担したかどうかについては議論があるが、キケロの強硬処置には反対している。前62年法務官となり、東方から帰国したポンペイウスのための各種の法案を支持し、12月のクロディウスと妻ポンペイア(スラの孫娘。コルネリアを失ったのち、前67年に再婚した女性)とのスキャンダル事件に関連して、翌年妻を離別した。ついでクラッススから多額の借金をして債鬼を逃れ、前61年「彼方のスペイン」の長官として任地に赴くや、属州の秩序を整え、ルシタニ人を討ち、戦利品で部下および国庫を潤し、政治的、軍事的に力を蓄えてゆく。前60年には、実力者ポンペイウス、富豪クラッススと同盟を結び、私的な結合たる第1回三頭政治を始め、これを背景に前59年共和政ローマの最高の官職コンスル(執政官または統領と訳す)に選ばれた。
コンスルとしては、ポンペイウスの老兵および無産市民に対する土地割当てをねらいとする2回にわたる国有地分配法案、ポンペイウスの東方での諸規定、秩序を認める法案、徴税請負法案、不法取得取締法案、さらにはアレクサンドリアの王に関する法案や元老院議事公開法案などを通すことによって、ポンペイウスやクラッススとの結び付きを固めるとともに、一般民衆の意を迎えた。一方、自らも一法案により、コンスル職ののち、ガリア・キサルピナGallia Cisalpina(アルプスの此方(こなた)のガリアの意)とイリリクム(現在のクロアチアのアドリア海に面する地方およびハンガリー西部)を前54年2月末まで統治することが認められ、さらにガリア・トランサルピナGallia Transalpina(アルプスの彼方のガリア)がこれに付け加えられた。また自分は執政官ピソの娘カルプルニアを妻とし、娘ユリアをポンペイウスにめあわせている。そのコンスル職の活躍は、護民官的なものであったと評されている。
[長谷川博隆]
前58年からガリアの地方長官として前50年までの在任中にガリア戦争を遂行し、ライン川左岸までのガリア全土をほぼ平定した。まず前58年にはヘルベティア人を討ち、さらにゲルマン人のアリオウィストゥスを破り、翌前57年にはガリア北部のベルガエ人を抑え、さらに前56年にはブルターニュ、ノルマンディーからアクィタニアに兵を進め、ウェネティ人も下した。ついで前55年にはライン川を越えてゲルマン人の地に入り、またブリテン島にも遠征している。さらに前54年7月、再度ブリテン島に兵を進めたが、秋にはガリアの大反乱に対処し、ついで前53年には北ガリアの諸部族、とくにトレウェリ人、エブロネス人を討った。その間も中央ローマの政治の動きに心を配り続けた。ポンペイウスとクラッススとの盟約は前56年4月のルカの会談で固められ、カエサルのガリアの地方長官職も5年延長されたが、一方、元老院の保守派との関係は悪化してゆく。前52年のウェルキンゲトリクスVercingetorix(前82ころ―前46)に率いられたガリアの大蜂起(ほうき)に対しては、アウァリクム、ゲルゴウィアの戦闘後、アレシアの包囲戦で勝利を収めた。翌年もベロウァキ人の蜂起などの戦闘はみられたが、いちおうガリアの戦いには終止符が打たれた。長年にわたるガリア戦争はローマの国庫を潤したばかりか、カエサルの経済的、政治的な力を増大させ、とくに都市国家ローマにとどまらない広い視野が培われるとともに、軍事独裁のための基盤がつくられた。一方、ヨーロッパ内陸部が初めてギリシア・ローマ文化の恵みに浴し、西欧文化圏成立の基礎がつくられたといえよう。
[長谷川博隆]
ポンペイウスに嫁した娘ユリアが前54年に死に、翌前53年にクラッススが東方パルティア遠征で敗死したため、第1回三頭政治も崩壊し、元老院の保守派と結んでゆくポンペイウスとの関係も悪化する。前51年来カエサルの召還、軍隊解散をめぐって事態は険悪の一途をたどり、妥協案も退けられ、前49年1月7日の元老院の最終決議(非常事態宣言)に対して、カエサルは兵を率いルビコン川を渡ってイタリアに侵入し、ポンペイウスに全権を与えた元老院の保守派との内乱に突入した。カエサルのイタリア制圧によりポンペイウスが東方に逃れたため、カエサルは彼の地盤の属州スペインを抑えたのち、前48年、エピルスの地にポンペイウスを追い、デュラキウムでの陣地戦のすえ、8月9日ファルサロスの決戦でこれを破った。ついでエジプトに渡ったが、王位継承戦(前48年10月~前47年3月)に巻き込まれ、戦いに勝って王位につけたクレオパトラとの間に一子カエサリオンをもうけた。その後、前47年8月にはミトリダテス大王の息子ファルナケスをゼラで討ち、小アジアの治安を整えた。ついでアフリカでスキピオの率いるポンペイウスの残兵をタプススに破り(前46年4月6日)、小カトーをウティカに自刃させた。さらに前45年3月17日にはスペインのムンダでポンペイウスの息子の率いる軍勢を破って、内乱に終止符を打った。
[長谷川博隆]
前48年末に1年任期の独裁官に任ぜられ、またタプススの勝利後、前46年4月ごろ10年任期の、さらに前44年2月以降は終身の独裁官になり、数多くの栄誉や特権が与えられてゆく。全軍に対する指揮権、国庫の管理、和戦の決定、風紀取締り、推薦選挙などの特権、凱旋(がいせん)将軍の衣装(古ローマの王の衣服)の常時着用の栄誉が認められ、諸神殿に彼の彫像が立てられる。一方、政敵には寛大な姿勢を示し、大規模な恩赦を与え、これを登用してゆく。大凱旋式および見せ物、競技で民衆の意を迎える一方、大々的に救貧、イタリア内の土地分配、カルタゴやコリントへの植民などの事業を進め、ポー川以北、アルプス以南のガリアのラテン市にローマ市民権を与え、元老院の議席を増やして広い層の人を登用し、また大規模な土木工事をおこして首都ローマを整え、前45年1月1日からは太陽暦(ユリウス暦)を採用し、自治市の規準を示す法律も定めた。しかし権力を一身に集中したため、前44年3月15日、ブルートゥス、カッシウスら共和政護持者たちに元老院議場で暗殺された。
[長谷川博隆]
雄弁家、文人としても第一級の人物として知られる。しかし、その演説の草稿、書簡、パンフレットは散逸し、現存するのは、簡潔な文体、的確な現実把握の点でラテン散文の範といわれる『ガリア戦記』(8巻。ただし第8巻は部将の手に成る)、『内乱誌』(3巻)のみである。
[長谷川博隆]
実戦の雄であるばかりか、将軍として卓越した才能を示し、一方、人心の向かうところを正しくつかんだ民衆派政治家で、各種の改革を遂行したが、業なかばで倒れたというべきであろう。人間的には、冷静な頭脳をもっていた一方、情熱的で、在来の習慣を踏みにじり金銭関係もルーズであったが、人間味豊かであった。運命の女神とともにあることを確信し、世人からも運命の申し子とみなされた一方、政敵を心から受け入れる仁慈の人として知られる。究極のねらいは王政であったのかという点を踏まえ、彼を共和政の破壊者とみる説と、逆に帝政の礎石を据えた人物とする説との対立があり、評価は定まらない。政治家としてのスケールの点、とくに世界帝国的な視野の点についても学説史上対立がある。豊かな人間性、最後の悲劇性など、その人間像についても、シェークスピアをはじめ文学者、芸術家の手で、現代までさまざまの角度から取り上げられている。
なお、カエサルとは本来ユリウス氏族の一家族名であったが(カリグラ帝まで)、ローマ皇帝(元首)の称号となり、ハドリアヌス帝以降は帝位継承者の称号ともなった。さらにドミナトゥス時代には副帝をさしていたが、のちドイツではカイザー(カイゼル)、ロシアではツァーリとなり、それぞれ帝国の皇帝を意味する名称となった。
[長谷川博隆]
『国原吉之助訳『カエサル文集 ガリア戦記・内乱記』(1981・筑摩書房)』▽『近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫)』▽『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』▽『村川堅太郎編・訳『世界古典文学大系23 プルタルコス』(1966・筑摩書房)』▽『ランボー著、寺沢精哲訳『シーザー』(白水社・文庫クセジュ)』▽『ヴァルテル著、橘西路訳『ジュリアス・シーザー』(角川文庫)』▽『ゲルツァー著、長谷川博隆訳『カエサル』(1968・筑摩書房)』▽『ピエール・グリマール他著、長谷川博隆監修・他訳『世界伝記双書3 ユリウス・カエサル』(1984・小学館)』
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前100~前44
古代ローマの将軍,政治家。名門の出。前69年財務官,前63年大神官(終身),前62年プラエトル就任。前60年ポンペイウス,クラッススと結んで第1回三頭政治を始め,前59年コンスルとして国有地分配法案を提出した。前58~前51年にはガリアを平定し,アルプスの北をローマの版図に入れたため,西欧内陸部がローマ文化圏に繰り入れられた。前49年ポンペイウスと衝突してこれを倒した。前46年には10年任期のディクタトルに就任し,前44年これを終身とした。救貧,植民事業や太陽暦の採用などの諸改革を行ったが,権力を一身に集めたため共和政擁護者のブルトゥス,カッシウスらに暗殺された。彼の開拓した道を養子オクタウィアヌスが受け継いで帝政を開いた。文人としても優れ,『ガリア戦記』『内乱記』の史書を残している。
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…たとえば,ギリシア語のbasileus,basileōn,ペルシア語のshāhānshāhに相当)のようなものがあるが,中世以来ヨーロッパで問題となる,王に優越するものとしての皇帝という名称はローマ帝国に由来する。その場合,ロマンス語およびケルト諸語ではインペラトルimperator,ゲルマン語およびバルト・スラブ語ではカエサルcaesarという,いずれもラテン語の名称が用いられている(ギリシア語については,以下の(3)参照)。(1)imperatorは,〈命令する〉を意味するラテン語imperareに由来し,最初は主として軍隊に対し最高の指揮権をもつ者を指し,アウグストゥスによって,その称号の一部として(imperator caesar)用いられるようになった。…
…ロシア語ではほかにバビロニア,ローマなどの古代国家や東方諸国の君主をさすのにも使われ,この場合にはヨーロッパ諸国の国王をさすコローリとほぼ同義である。ツァーリは語源的には古代ローマのカエサルCaesarのくずれた形で,これは直接西方からロシア語に入ったという説と,ビザンティウム(ギリシア語)・バルカン(ブルガリア語)経由説とがある。バルカンでは中世ブルガリアの君主が10~14世紀に,またセルビア王ステファン・ドゥシャンが1346‐55年にこの称号を使用し,のちのブルガリア王国(1908‐46)の君主もこれを正式の称号とした。…
…また手紙で地方にニュースを送る通信業者が,しばしばその通信をそう名付けた。前59年,カエサルが執政官になったとき,元老院の議事・決定(アクタ・セナトゥスacta senatus),民会,一般重要事件(アクタ・ディウルナ。アクタ・ポプリacta populiなどの別名もある)の公表を実行した。…
…生没年不詳。カエサルの《ガリア戦記》に彼を最も苦しめた敵として現れる。はじめカエサルを援助したが,前54年に反逆。…
…部族長や大貴族は,丘陵の斜面を二重三重の土手と溝で囲んだ砦(丘砦)を戦争の拠点とした。
[古代――ローマン・ブリテン]
前1世紀半ば,当時ガリア(現在のフランス)でゲルマン人と戦っていたローマの将軍カエサルは,敵を側面から援助するブリトン人を討つべく,前55,前54年の2度にわたってブリタニアに侵入,彼らを撃破した。カエサルは島の占領を意図せずに引き上げたが,約1世紀後の43年,ローマ皇帝クラウディウスが征服に乗り出した。…
…前52年にカルヌテス族が反乱をおこしたのに呼応して,自己の部族の者ばかりではなくガリア全体に反乱を呼びかけて同盟軍を組織,その指揮者となった。数々の合戦で一時はカエサルを窮地に追い込んだが,アレシアの戦で攻囲されて大敗した。降伏後ローマで投獄され,6年後の前46年にカエサルの凱旋式のあと処刑された。…
…前600年ごろ,ギリシアのサモス島の王ポリュクラテスは,数十隻のガレー船を擁して海賊行為を働き富を築いたが,エジプト王アアフメス2世の大艦隊を襲って失敗し殺された。前81年,若き日のカエサルがロドス島遊学の途次,エーゲ海で海賊に捕らえられ,身代金を払って釈放されるとすぐ追討軍を率いて逆襲し,彼らを一網打尽にしたという話は有名である。当時,地中海にはローマからの亡命者も加わる大がかりな海賊がはびこり,ローマへの穀物輸送を脅かし人心を動揺させていた。…
…内乱ではポンペイウス派に属した。赦免され,前44年プラエトル在職中ブルトゥスらとカエサル暗殺を組織した。決行後シリア方面に逃れて軍備を整え,ブルトゥスと合流してマケドニアのフィリッピでアントニウス=オクタウィアヌス軍と会戦(前42)し敗死。…
…前58年から前51年にかけてカエサルがガリア(ほぼ今のフランス,ベルギー)で行った遠征の記録。全8巻。…
…しかし,彼はカティリナ一派の領袖たちを正式な手続を踏まずに処刑し,後に自分が訴追される原因を作った。前58年,カエサルの支持を得てトリブヌス・プレビス(護民官)に選ばれたクロディウスは,ローマ市民を裁判なしに処刑したとがでキケロを告発し,キケロは裁判の決着を待たずにマケドニアへ逃れた。前57年にポンペイウスの援助によりローマへ戻りはしたものの,前56年にカエサル,ポンペイウス,クラッススの三頭政治が復活すると,キケロのカエサル,ポンペイウス分断工作は挫折し,以後,前44年にカエサル暗殺事件が起きるまで,彼は崩壊寸前のローマ共和政の表舞台から遠ざかる。…
…前67年から前63年にかけては〈国家の第一人者〉たらんとしてポンペイウスと競ったが,結局,彼の下風に立つことになる。前65年のケンソルとしてポー川の北のガリア人に市民権を与え,エジプト併合をはかるなど地盤の育成にはげみ,さらにはカティリナの陰謀の黒幕となり(反論も有力),若きカエサルの後ろだてとなってこれとも結んだ。前60年にはポンペイウスとカエサルとの連合(第1回三頭政治)が成った。…
…そうした中にあって最後まで独立国の体裁を保てたのはプトレマイオス朝エジプトであった。クレオパトラはこの王朝の伝統に従って弟プトレマイオス13世と共同統治者として即位して以来,弟を支持する宮廷内の勢力との確執に苦しみ,ローマ(この場合はカエサル)の後ろ盾をえて宮廷内の実権を握るとともに,圧倒的なローマの存在を女性の体一つで引きうけて,王朝の最後の落日を輝かせるとともに,ローマの一方の将軍アントニウスと結んでオクタウィアヌス(アウグストゥス)の心胆を一時は寒からしめたのであった。アントニウスとの連合王国の野望がもし成功していたなら(パスカルの〈もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら〉世界史は違ったものになっていたろう,という警句も,この限りで現実味をおびてくる),世界史は事実違った姿を呈したかもしれない。…
…ローマの属州。ガリア北東部のライン左岸,ラインラントのローマ化はカエサルによる占領に始まった(前58‐前51)。ラインラントからベルギーにかけては,トゥングリ,トレウェリおよびネルウィイなど,ケルト人と混血した〈ライン左岸のゲルマン人Germani cisrhenani〉が定住し,アルザスからブルゴーニュ東部では,ヘルウェティイ,ラウラキおよびセクアニなどのケルト人に占められていた。…
…これをソティス(シリウスのギリシア語よみ)周期,あるいは犬星周期と呼んでいる。G.J.カエサルがエジプトを征服したころはローマでは太陰太陽暦が用いられていた。このローマ暦は平年を355日,閏(うるう)年を377日,または378日として,22日または23日の閏日をフェブルアリウス月(現在の2月)の22日と23日の間に挿入した。…
…帝政成立前夜のローマで,有力将軍が連携して元老院を制肘(せいちゆう)し共和政体を空洞化させてゆく際の特徴的政治形態。前43年アントニウス,オクタウィアヌス(アウグストゥス),レピドゥスの三者が民会決議で〈国家再建のための三人委員〉となり,全権を掌握した事態を第2次三頭政治と呼び,前60年ポンペイウス,カエサル,クラッススが私的盟約により国政を牛耳ったのを,〈三人委員〉との類似から第1次三頭政治と呼ぶ。(1)第1次三頭政治 東方遠征から帰還したポンペイウスは退役兵への土地配分等の課題達成のため,前59年のコンスルのカエサル,その後援者クラッススと密約し,彼の勢力を警戒する元老院門閥の妨害を封じた。…
…しかし,これらの区別自体も学説的に分かれるところであり(とくに専制政治との区別),これを論じた書物も数多い。 歴史上の独裁は,個人の名前と結びつけられることが多く,古代ローマのカエサル(シーザー),中国の秦の始皇帝,イギリス清教徒革命時のクロムウェル,フランスのナポレオン,ナチス・ドイツのヒトラー,ソ連のスターリンなどがその例である。同時に,カエサル独裁以前のカエサル,ポンペイウス,クラッススの三頭政治,フランス革命のジャコバン党,ドイツのナチスやソ連のボリシェビキ党=共産党など,グループや政党と結びつけて独裁が語られる場合もある。…
…また《シャー・ナーメ(王書)》によれば,イランの英雄ロスタムもブドウ酒で体が麻痺した母ルーダーベの右わき腹から生まれた。ローマのカエサルも母アウレリアのわき腹から生まれたとスエトニウスの《皇帝伝》にあり,大プリニウスもカエサルは母の腹を“切ってcaedere”生まれたからCaesarという名なのだと説明している(《博物誌》第7巻)。いわゆる〈帝王切開〉のはしりである。…
…前1世紀のローマの政治家。カエサルの部下で前54年ころからガリア遠征中のカエサルと行動をともにし,下士官もしくは秘書長として彼に仕えた。カエサルの《ガリア戦記》のうち最後の第8巻はヒルティウスの筆になるもので,おもにこのことによって後世に名を残した。…
…これをローマに認められ,ボスポロス一帯の支配を任される。カエサルとポンペイウスとの内乱では後者に味方し,前48年ポントス王国再建をも目ざしてコルキス,小アルメニア(現在のトルコ北東部からアルメニア西部),カッパドキアを占領し,ニコポリスでカエサルの副官を打ち破った。しかし翌年ゼラの戦でカエサル自身に敗れた。…
…続くプトレマイオス12世は一時期追放の憂き目に遭った以外は長期にわたって王位にあった。プトレマイオス13世は姉クレオパトラ世とともに共同統治者として国を治めたが,のち二人は王位をめぐって争いを起こし,一時姉を追放したが,おりからポンペイウス討伐のためアレクサンドリアに来ていたカエサルの介入を招いて殺された(前47)。プトレマイオス14世は前47年クレオパトラとの共同統治者となったが,前44年彼女の命令で暗殺された。…
…この島の南東部にヨーロッパ大陸から移り住んでいたケルト人の一派のブリトン人(ラテン語でブリタンニBritanni)に由来し,〈ブリトン人の国〉を意味する。この島とローマとの関係は,前1世紀中ごろガリア征服を進めていたカエサルが,ガリアのケルト人を支援していたブリトン人を討つべく,前55年と前54年の2度にわたってこの島の南東部に侵入したときに始まる。カエサルは島の占領までは意図せず引き揚げたが,これは約1世紀後に始まるローマのブリタニア支配の前提となった。…
…英語読みではブルータス。カエサル暗殺の首謀者。名門の出。…
…翌前66年には,マニリウス法によりポントゥス(ポントス)のミトリダテス6世討伐の大権を与えられて,これを破り,またアルメニアのティグラネス1世を捕らえたばかりか,前63年までにエジプトを除く全東方を平定し,ミトリダテスの旧領を合して属州ビテュニアを拡大して属州ビテュニア・ポントゥスとし,属州シリアを設け,地方領主や諸王によるクリエンテル網を確立してその後の政治生活の地盤とした。 前61年凱旋式を挙行し,前60年にはクラッススおよびカエサルと結んで第1次三頭政治をはじめ,前59年のコンスルにカエサルを就けることによって,自らの東方での秩序設定を承認させ,自分の老兵への土地配慮を行わせた。一方,カエサルの娘ユリアを娶り,カエサルのガリア遠征中は,最初クロディウスにおされていたが,前57年,ローマの穀物供給管理の権限(5ヵ年)を得るなど,次第に中央ローマで力を伸ばした。…
…前2世紀後半には,階級闘争の社会不安を反映して弁論術が発達し,抑制のきいた古典的な〈アッティカ風〉の演説をローマに取り入れた重厚なスキピオ・アエミリアヌスScipio Aemilianus,民衆の利益を熱烈に擁護したグラックス兄弟など,すぐれた雄弁家が輩出した。
[共和政末期(前1世紀40年代まで)]
グラックス兄弟の社会改革の試みが失敗したあと,民衆派と貴族派の対立は激化し,これを背景に,マリウスとスラの抗争,スラの独裁と恐怖政治,第1次三頭政治,内乱,カエサルの独裁と暗殺,第2次三頭政治など,大小さまざまな抗争・対立・混乱が続き,ついにローマ共和政は崩壊する。この激動の時代にみずから政治家として現実に行動しながらそれを文筆活動に反映させた,時代精神の権化のような人物がキケロである。…
…古代ローマでは,軍隊がこの川を渡ってイタリア側に入るときは武装を解かねばならないとされていた。前49年1月10日,属州ガリアの長官であったカエサルはその禁を破り〈賽(さい)は投げられたJacta alea esto〉の句を吐いて軍隊を率いて渡河し,ポンペイウスとの戦いに入ったという。以後,重大な決断を下して事態に対処することを〈ルビコン川を渡る〉と称する。…
…《タイタス・アンドロニカス》や《ジュリアス・シーザー》《アントニーとクレオパトラ》《コリオレーナス》などがそれで,これらはプルタルコスの《英雄伝》などを資料として書かれたものである。観客は,これらのローマ史劇を見る前から,すでにシーザー(カエサル)ならシーザーという人物をいろいろなものから知っている。つまり,シーザーは〈神話化〉された人物となっているのである。…
…この変革期を乗り切るために,ローマの支配層は,民会を基礎にして政治を動かそうとする民衆派(ポプラレス)と,元老院の権威を背景に事を進めようとする閥族派(オプティマテス)に分かれて,権力闘争を繰り広げた。こうして,マリウス派を一掃して殺戮し恐怖政治を敷いた閥族派スラ,スラの外征中に一時政権を握った民衆派のキンナ,スラの死(前78)後,再び民衆派路線に復帰した,かつてのスラの領袖ポンペイウスとクラッスス,そして再び元老院に接近したポンペイウスを倒すカエサルらが相次いで現れた。 彼らは権力闘争に勝つための権力基盤を外征にも求めたため,この時期にはかえってローマの支配領域は拡大した。…
※「カエサル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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