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1900年代フランスに起こった,20世紀ヨーロッパ美術における最も重要な運動,またその様式。キュビスムはルネサンス以来ヨーロッパ美術を支配してきた写実主義と決別して,経験によって認識された対象や情況の全体像を二次元的に再呈示するという,まったく新しい絵画の方向を確立した。この方法は視覚における革命といわれ,それが人間の意識に与えた変革は物理学における相対性理論の発見に匹敵するとさえいわれる。キュビスムはまた現実の描写に依存しない自律的存在としての絵画のあり方を明確にし,抽象絵画成立へのひとつの道を開いた。〈キュビスム〉の名は,1908年にG.ブラックが描いた風景画中の家が立方体(キューブ)に近い形態に簡略化されていたことに由来し,本来嘲笑的な呼称であった。
20世紀の初頭,印象主義の諸特徴を温存しながらも自然の構造を概念的にとらえようとしたセザンヌの芸術への注目が,パリの若い画家たちの間に急速に高まった。ピカソが1907年に完成した《アビニョンの娘たち》を皮切りに,彼らは事物の細部や情緒的ニュアンスを捨てて,印象派の見失った対象の基本的形態や量感を強調する傾向を強めていった。ピカソとブラックが08年に開始した方法は,セザンヌの〈自然を球,円筒,円錐として処理する〉(エミール・ベルナールあての手紙。1904年4月)という絵画理念を端的に実現したものであったが,これがキュビスムの起りとされる。ボークセルLouis Vauxcellesをはじめとする批評家たちはこの傾向をヨーロッパ美術の栄誉ある伝統を汚すものと非難したが,芸術運動の目的を社会改革におく象徴主義文学運動の後継者であるアポリネールやサルモンらがこれを弁護,支援し,積極的な運動に結束させた。キュビスムにはピカソ,ブラック,グリスらの〈洗濯船Bateau lavoir〉のグループと,画家ジャック・ビヨンJacques Villon(1875-1963。本名Gaston Duchamp)を中心とする〈ピュトーPuteaux派〉(ビヨンの仕事場がパリ西郊のピュトーにあったため,こう呼ばれる)があり,前者がこの様式の美学的可能性を論理的に探究し深化させる一方,集団示威のような運動には無関心だったのに対し,運動としてのキュビスムの展開を担い,内外から多くの共鳴者を獲得したのは後者であった。
〈ピュトー派〉は,11年のアンデパンダン展での大規模な集団展示を皮切りに,波状的な示威運動を続けたが,特に12年の〈セクシヨン・ドールSection d'or(黄金分割)〉展には,ピカソとブラックの創始者を除いて,この造形的傾向に共鳴するほとんどの画家や彫刻家が参加した。おもな出品者は,ビヨン兄弟(J. ビヨン,彫刻家のデュシャン・ビヨンRaymond Duchamp-Villon(1876-1918),マルセル・デュシャン),グレーズAlbert Gleizes(1881-1953),メッツァンジェJean Metzinger(1883-1957),ピカビア,ラ・フレネーRoger de La Fresnay(1885-1925),レジェ,ローランサン,マルクーシスLouis Marcoussis(1878-1941。本名Ludwig Markus),〈洗濯船〉グループのグリス,それに彫刻家のロートAndré Lhote(1885-1962)らである。彼らの攻撃的ともいえる運動は社会的スキャンダルとなり,市会や国会でも論議されたが,キュビスムを容認する批評家や画商も徐々に数を増した。運動としてのキュビスムは第1次大戦の勃発により事実上崩壊したが,その造形的探究はピカソとグリスによって続けられた。
〈洗濯船〉グループの功績は,キュビスムの造形的可能性をひとつの新しい美学として深化させたことにある。ピカソとブラックは上記のセザンヌ的方法から09-10年に〈分析的キュビスムcubisme analytique〉と呼ばれる方向に転じ,さらに12年ごろに〈総合的キュビスムcubisme synthétique〉に移行する。〈分析的〉段階では対象が線と面の要素に解体されて色彩が抑制され,無味乾燥な抽象化の道をたどるが,その一方,絵画は三次元的空間の再現を捨てて一個の自立的存在としての新しい価値を獲得する。〈総合的〉段階では絵画に現実性と日常的な親しみを回復する努力がなされ,トロンプ・ルイユ,新聞紙やラベルを画面に貼りつけたパピエ・コレpapier collé(コラージュ)が導入され色彩も徐々に復活された。ここでは前段階で十分に吟味された色彩,形態,空間,対象の解体によって得られた象徴的言語,といった個々の造形的要素が,意図された構想を達成するために〈総合〉された。ここでは〈分析的〉段階において見失われた現実世界の事物を連想させる要素が大幅に回復されているが,それはもはや再現ではなく,ひとつの創造であった。キュビスムはイタリアの未来派,イギリスのボーティシズムに造形的影響を及ぼし,またここからR.ドローネーのオルフィスム,オザンファンらのピュリスムが派生した。
→抽象芸術
日本におけるキュビスムの受容は1915年ごろに始まり,東郷青児,万鉄五郎らの作品にまずその反映がうかがえる。20年代に入ると,矢部友衛,古賀春江,黒田重太郎,川口軌外,坂田一男と,なんらかの形でキュビスムあるいはそれに類する様式を取り入れる画家はその数を増し,ひとつの流行の観を呈した。しかし彼らはキュビスムと未来派,あるいはキュビスムから派生したピュリスムや抽象的傾向を厳密に識別していたわけではなく,またそれぞれの理念を理解していたわけでもなかった。キュビスムの方法のうち,日本の画家たちが消化し得たのは〈セザンヌ的〉段階の形態と量感の簡略化であり,それ以外のものは皮相な装飾的効果として取り入れられたにすぎず,結局〈概念のレアリスム〉というキュビスムの根本理念は十分に理解されることはなかった。また早くからキュビスムに与えられた〈立体主義〉〈立体派〉という訳語は,本来絵画の平面性を主張したこの様式が,日本では逆に立体性の強い方法と受け取られたいきさつを物語っている。キュビスムや未来派の受容は,それまで日本の画家たちが追従してきたアカデミズムや写実的傾向に対する反動としての反自然主義的傾向の一端にすぎず,同じ時期にフォービスムや表現主義,あるいは点描主義,エコール・ド・パリの諸傾向が並行して行われていた。
執筆者:八重樫 春樹
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立体主義。20世紀初頭、フォービスムに続いておこった近代美術のもっとも影響力の多い革新運動、およびその手法。ルネサンス以来の伝統的な写実主義を、フォービスムは色彩的に覆したが、これに対してキュビスムは、形態の面で、一点透視法や肉付け、明暗などの諸原則を覆した。直接的には後期印象派、とくにセザンヌやその後のナビ派による近代美術の流れを受け継ぎ、さらに歴史的に回顧すれば、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、プーサン、アングルなどの系譜にその淵源(えんげん)をみいだすことができるが、その革新性の大胆さと影響力の広さの点で、西洋絵画史におけるもっとも大きな変革であった。事実、キュビスムの成立には、黒人彫刻の影響など、西欧の美学とは異質の美学の介在が認められる。そしてキュビスムの運動と手法は周辺にさまざまな波及効果を及ぼしたが、もっとも核心的、正統派的なキュビスムは、1907年から14年まで展開した。これを通常、「初期キュビスム」「分析的キュビスム」「総合的キュビスム」の3期に分類する。
[中山公男]
キュビスムの成立に直接影響力をもったのは、ドラン、マチスたちによって発見された黒人彫刻の造形と、1907年に開催されたセザンヌ展である。そしてこれらの影響と刺激下に、最初に新しい造形の実験的制作を試みたのがピカソとブラックである。「ばら色の時代」においてすでに事物の単純化、線と色面による表現、ボリュームの再現から二次元的な表現へと進んでいたピカソは、06~07年の冬ころから、黒人彫刻や当時ルーブル美術館に収蔵されたイベリア彫刻などの影響下に、人体の各部分を構成する各ボリュームを単純化し再構成する試みに入り、さらに、黒人彫刻にみられる凹面、いわば負のボリュームを導入し、明暗と肉付けを基本とした西洋絵画の伝統的な手法とは異質の試みに向かっている。この試みが07年春に『アビニョンの娘たち』となり、キュビスムの最初の烽火(ほうか)となる。一方ブラックも同じ07年ころから、主としてセザンヌの作品の影響下に、事物の単純化、方形化の試みを推進していたが、ピカソと出会うことによって、両者の試みは相互刺激のもとに促進される。08年、両者が直面した課題は、事物から偶然的な細部を排除して、量感を面に還元し、永続的な形態構成とすることであった。このとき、「自然を円筒と球と三角錐(すい)によって扱う」というセザンヌのことば(1904年のエミール・ベルナールへの手紙)が啓示となる。大気の表現も排除され、明暗も量感を暗示するための観念的なものとなる。また色彩そのものも限定される。ブラックは、ピカソの影響下に人物でもこの試みをなし、他方ピカソが08年夏に描いた風景は、同じときブラックがエスタックで行っていた風景連作とほとんど類似の効果をみせる。翌年も両者は異なった場所で制作したが、両者の試みは近似し、しだいにボリュームから面へ、その試みは発展する。
[中山公男]
初期キュビスムの段階では、まだボリュームの暗示がなされ、自然の具象性が判別しうる状態であったが、1910年から翌年にかけて、事物の面への解体とその再構成が進行し、ほとんどリアリスティックな側面が失われる。また過去4世紀にわたって行われてきた一点透視法の原則が捨てられ、多視点的遠近法が複合されるのもこの時期である。すでにこの手法は、たとえば古代エジプトや中世にも行われ、セザンヌもまた試みた手法であったが、ピカソたちは、より細分化され、厳密化された手法で適用し、小さなさまざまな形の面に事物を分解している。したがって、たとえば瓶などは、その横断面と縦断面で提示されている。
ピカソとブラックの作品はパリのカーンバイラー画廊で展示されたが、それは同世代の画家たちをひきつけた。1911年のアンデパンダン展41室が、これらのキュビスムの追随者のデモンストレーションとなった。メッツァンジェ、レジェ、グレーズ、ル・フォーコニエ、ドローネーたちである。彼らは、それぞれの個性差を示しながら分析的キュビスムを受け入れたが、なかでも重要なのは、レジェ、ドローネーたちによってなされた、動的、色彩的キュビスムの方向への開発である。
1911年、分析的キュビスムが頂点に達した時期、ブラックは画面に、新聞紙、ラベルなどの紙片を導入する。事物が解体され、固有色が茶褐色、灰色、緑などに置き換えられた画面に、現実性を回復させようとする意図からである。この試みは、大理石や木材の肌理(きめ)の模写、あるいは壁紙やラベルなどの貼付(ちょうふ)となり、12年にピカソ、ブラックによって行われた。いわゆるパピエ・コレpapier colléである。
[中山公男]
しかし、分析的キュビスムに対して、より大胆に、キュビスムの手法による現実回復を推進したのが新来者のフアン・グリスである。彼のことばによれば、「円筒形から瓶をつくる」手法は、ピカソやブラックによっても受け入れられ、マルクーシによっても追随される。この新しい作風は1912年末ころから14年まで展開し、パピエ・コレやトロンプ・ルイユ(だまし絵)の使用、楕円(だえん)形の照明などの採用で、現実の再構成としての画面をつくる。これが総合的キュビスムである。
1911年のアンデパンダン展に続く翌年の同展、13年のセクション・ドール展、またアポリネールの『キュビスムの画家』(1913)の出版などによって、キュビスムの視覚革命と美学はしだいに理解され、以後の現代美術の発展に決定的な影響を与えた。抽象美術、オルフィスム、純粋主義、未来派、あるいはエコール・ド・パリなど、あらゆる局面にその影響がみられる。
[中山公男]
『E・F・フライ著、八重樫春樹訳『キュビスム』(1973・美術出版社)』▽『D・H・カーンワイラー著、千足伸行訳『キュビスムへの道』(1976・鹿島出版会)』
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(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)
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…透視図法が今日のような形に最終的に完成されたのも17世紀であって,これにはイタリアの力学・数学・天文学者グイドバルド・デル・モンテGuidobaldo del Monte(1545‐1607)の業績があずかっている。西洋近世の正統な空間表現法とされた透視図法の権威の崩壊は,自然主義的絵画理念の危機とともに19世紀末に起こり,20世紀初頭のキュビスムによって決定的なものとなった。キュビスムの画面は,多視点から見られた個体の断片から構成されている。…
…マンハイムに生まれ,1902年よりパリに定住,07年パリに画廊を開く。翌年,サロン・ドートンヌに落選したブラックの初期キュビスムによる一連の作品の個展を開催するが,これがキュビスムの最初の展示となる。ピカソとは1906年に知りあい,ブラック,ピカソともに,初期はカーンワイラーの画廊でのみ作品を展示している。…
…その名声と評価もかつて例をみない。20世紀における造形上のもっとも大きな変革であったキュビスムの創始者として知られるが,様式は写実主義からシュルレアリスムに至るまで,きわめて幅が広い。ピカソの長い画歴は,直線的な発展として跡づけることは困難で,めまぐるしいほどに技法も主題も変化する(そのため,しばしば〈変貌の画家〉と名づけられる)。…
…フランスの画家。ピカソと並ぶキュビスムの創始者。アルジャントゥイユに生まれ,ル・アーブルで育つ。…
※「キュビスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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