明治・大正期の政治家。天保(てんぽう)9年2月16日肥前国(ひぜんのくに)佐賀会所小路に、佐賀藩砲術長の父信保(のぶやす)、母三井子(みいこ)の長男として生まれる。幼名八太郎。1864年(元治1)藩当局に経済政策を建言し、藩の代品方として長崎―兵庫間を往来、このころより長崎でオランダ系アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学び、翌年長崎に英語学校致遠館(ちえんかん)を設立しその経営にあたった。1867年(慶応3)3月、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に大政奉還を勧告しようとして副島種臣(そえじまたねおみ)とともに脱藩上洛(じょうらく)したが、捕らえられて佐賀に送還された。
明治政府成立に際し、1868年3月参与兼外国事務局判事に登用され、キリスト教処分問題でイギリス公使パークスと交渉にあたり、ついで外国官副知事に昇進した。1869年(明治2)2月三枝綾子(さえぐさあやこ)と結婚。同年3月会計官副知事兼任、7月大蔵大輔(たいふ)、ついで民部大輔兼任となり、贋貨(がんか)問題、鉄道電信建設、工部省設置などに尽力し、1870年9月参議となり、1873年10月大蔵卿(きょう)を兼任、1880年2月参議専任となった。この間、岩倉具視(いわくらともみ)一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛(さいごうたかもり)らの征韓論に反対の立場をとり、ついで大久保利通(おおくぼとしみち)の下で財政を担当しつつ、秩禄(ちつろく)処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。いわゆる大隈財政が展開されたのがこの時期で、他面、三菱(みつびし)と親密な関係をも結んだ。1881年3月国会開設意見書を提出して政党内閣制を基軸とする即時議会開設を主張するとともに、おりからの北海道開拓使官有物払下げに反対したため、薩長(さっちょう)勢力および宮廷グループに排斥され、10月参議を辞任し、同時に大隈派官僚多数も連袂(れんべい)辞職した(明治十四年の政変)。
政変後、政党結成を実行に移し、1882年4月矢野文雄、小野梓(おのあずさ)らと立憲改進党を結成してその総理となり、また10月小野や高田早苗(たかださなえ)らの尽力を得て東京専門学校(1902年早稲田(わせだ)大学と改称)を創立した。1884年12月名目上、立憲改進党を脱党。1888年2月第一次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の外務大臣となり、ついで黒田清隆(くろだきよたか)内閣にも留任して条約改正交渉にあたったが、外人裁判官任用問題で世論の大反対にあい、翌年玄洋社(げんようしゃ)社員来島恒喜(くるしまつねき)に爆弾を投げつけられて負傷し右脚を切断。12月外相を辞任して枢密顧問官となった。議会開設に伴い、1891年12月立憲改進党に復党し代議士総会長に就任。1896年3月同党を中心に進歩党を結成して党首となり、9月薩派と妥協して第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の外務大臣となった(松隈内閣(しょうわいないかく))。翌年3月農商務大臣を兼任したが、薩派とあわず11月辞任。1898年6月板垣退助(いたがきたいすけ)とともに自由党と進歩党を合同して憲政党を結成し、最初の政党内閣第一次大隈内閣(隈板内閣(わいはんないかく))を組織した。しかし、両派の対立と閣内確執のため、党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、内閣は4か月で総辞職した。1900年(明治33)12月憲政本党総理に就任し、政党活動を続行したが、1907年1月辞任して、一時政界から引退、4月早稲田大学総長に就任した。第一次憲政擁護運動ののち、ふたたび政界に復帰し、1914年(大正3)4月第二次大隈内閣を組織、内務大臣を兼任した。第一次世界大戦に参戦し、1915年には対華二十一か条要求を提出、また2個師団増設などの軍備拡張を行った。同年8月内閣を改造して外務大臣を兼任し、1916年7月侯爵に叙せられたのちの10月に総辞職した。
大隈は政治家であると同時に広く明治文明の推進者としての功績をもっている。早稲田大学の創設をはじめとして終生教育事業に力を尽くし、また国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述などによって、立憲君主制の国家にふさわしい国民の養成に精励した。一度も洋行せず、弁論家であったが直筆を残さず、また、博覧強記で「大風呂敷(おおぶろしき)」と陰口もされたが、民衆政治家と目されていたことも事実であった。大正11年1月10日胆石症で死去。日比谷(ひびや)公園で国民葬が行われた。墓所は東京都文京区護国寺。
[佐藤能丸]
『大隈侯85年史編纂会編・刊『大隈侯85年史』3巻・別巻1(1926)』▽『中村尚美著『大隈重信』(1961・吉川弘文館)』▽『柳田泉著『明治文明史における大隈重信』(1962・早稲田大学出版部)』▽『河野昭昌「大隈重信論著目録」(『早稲田大学史記要』6~8所収・1973~1975・早稲田大学史編集所)』▽『早稲田大学大学史資料センター編『大隈重信関係文書』全10巻・別巻1(2004~ ・みすず書房)』
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明治維新から大正期にかけて,財政・外交にすぐれた手腕を発揮した政治家。佐賀藩の上級士族の家に生まれ,幼少から藩校弘道館で漢学を学び,のち蘭学に移り,ついで長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英学を学び世界的な視野を開いた。幕末の政局で,彼は尊攘派として長州藩の外国船砲撃事件(1863)を支持し,1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしたが捕らえられ,王政復古のときも藩主に討幕出陣を勧めたが入れられなかった。68年(明治1)新政府の成立と同時に徴士参与職として外国事務局判事となり,キリスト教徒処分,贋貨処分などの外交を担当した。このあと外国官副知事,会計官副知事,民部大輔,大蔵大輔,大蔵省事務総裁,地租改正事務局総裁,大蔵卿,参議などを歴任し,鉄道・電信の建設,工部省の設立や幣制改革,地租改正,秩禄処分などを主宰し,1881年(明治14)までいわゆる〈大隈財政〉を展開した。また,三菱汽船会社を助成し,三菱財閥との関係を深めた。しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,薩長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。96年進歩党を結成して党首となり,第2次松方正義内閣の外務大臣となったが,98年6月に板垣退助と憲政党を結成して日本最初の政党内閣(隈板内閣)を組織した。しかしこの内閣は,薩長藩閥ならびに官僚グループの抵抗と党内の自由,進歩両派の対立から,みるべき政策を展開することなく10月に瓦解した。1907年に党首を辞して早大総長となり,著述や講演などの文化活動を続けた。第1次護憲運動後の14年立憲同志会を与党として第2次大隈内閣を組織した。この内閣は,成立後まもなく第1次世界大戦への参戦を決め,翌年中国に二十一ヵ条を要求するなど,日本を軍国主義と中国侵略へ導く役割を演じて16年10月辞職した。葬儀は国民葬として行われた。
執筆者:中村 尚美
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(中村尚美)
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明治・大正期の政治家,教育家,侯爵 首相;憲政党党首;早稲田大学創立者。
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肥前佐賀藩出身。外相3回,首相2回を歴任。1882年(明治15)に立憲改進党を結成,98年に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し,憲政史上大きな功績を残す。長崎でフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830-98)に英学を学び,英学館致遠館を設立した経験から,政治家としてのみならず立憲国家の国民を育成すべく,教育事業や文明運動にも尽力した。明治14年の政変で下野した後,小野梓にはかり,1882年に東京専門学校(早稲田大学の前身)を創設。当時,外国語で教授を行う官学中心の風潮にあって,国民精神の独立は学問の独立によるとし,権力から独立した場である私学を発足させ,日本語で専門学科を教える速成を旨とした。1907年,憲政本党総理辞任後,早稲田大学総長となるも,創立当時から公式行事への出席は極力控え,大学の法的権限を持たず,自身の政治活動とは一線を画す立場を貫いた。女子教育も重視し,日本女子大学の設立を支援するとともに清国留学生の受入れ,指導にも熱心にあたった。また1908年大日本文明協会を設立し,東西文明の調和を説き,講演録の出版等を通して啓蒙する文明運動を進めた。
著者: 杉谷祐美子
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1838.2.16~1922.1.10
明治・大正期の政治家。佐賀藩士の家に生まれる。幕末期尊王攘夷急進派として活躍,新政権では徴士・参与・外国官副知事・会計官副知事などを務め,1870年(明治3)参議に就任,財政通として近代産業の育成に努めた。81年開拓使官有物払下げや国会開設問題で伊藤博文らと対立,参議罷免(明治14年の政変)。翌年立憲改進党を創立,東京専門学校(現,早稲田大学)を創設。88年外務大臣となり条約改正交渉に臨むが,外国人裁判官任用問題で辞職。96年進歩党,98年憲政党を結成,同年日本初の政党内閣を組織するも,4カ月余で退陣。一時政界を離れ大日本文明協会の設立など文化運動に尽力した。1914年(大正3)第2次大隈内閣を組織。16年退陣,政界から引退した。著書「開国五十年史」。
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…それはこの使節団の弾力性を示している。 岩倉使節団の派遣をめぐっては,伊藤博文提案説と大隈重信提案説とがあるが,後者は,かつてフルベッキの提示した〈ブリーフ・スケッチ〉(Brief Sketch,1869年6月11日付)をもとに廃藩置県後,大隈がみずからの使節団構想を提案し,それが結果的に岩倉使節団にきりかえられた,というものである。そこには新政権をめぐる薩長と非薩長との主導権争いがからみ,使節団出発直前の1871年11月9日に政府と使節団首脳との間で調印された12ヵ条の〈約定〉が,留守中〈新規ノ改正〉を避け,官制や人事の現状維持のもとで廃藩置県後の実効をあげることを規定していることともかかわりがある,とみられている。…
…通例は午後3時以後から7時までだが,延長してダンス・パーティにする場合もある。イギリスでの起源は19世紀後半といわれ,日本では《明治事物起源》によれば,1883年大隈重信が早稲田の自邸で,改進党1周年を記念してひらいた〈遊園会〉が始まりであるといわれ,その後,庭内に模擬店を設けて,すし,汁粉,てんぷら,おでん,ビール,酒などを接待する形式をみるようになった。【春山 行夫】。…
…70年上海旅行でアジアの近代化の必要を痛感,米英留学で法律学を学び帰国後共存同衆を結成,金子堅太郎,鳩山和夫らと自由主義,立憲思想の啓蒙につとめる一方,近代法の研究を行う。官途に就くが明治14年の政変で大隈重信に殉じて下野,東京大学の学生を中心とする鷗渡会を率いて立憲改進党に参加,大隈のブレーンとして活躍した。〈改進党趣意書〉は小野の起草による。…
…自由民権運動期の政党〈立憲改進党〉の略称,また第2次大戦後の民主党の系統をひく政党〈改進党〉をいう。
[立憲改進党]
自由党結成に遅れること半年,1882年4月に明治14年の政変で下野した大隈重信を総理に結成された。すでに大久保利通没後の政府筆頭参議の時代から,岩崎弥太郎の三菱と経済的きずなを結び福沢諭吉の慶応義塾を優秀な官僚の人材補給源として握っていた大隈は,党結成にあたってそれらの資産を十分に活用し,大隈とともに下野した官僚を幕下に収めた。…
…上京して中江兆民の仏学塾に入り朝鮮問題を研究,また小笠原島へ渡る。87年井上馨の条約改正案に反対運動を行い,一時帰郷したが,大隈重信の条約改正案に反対し,89年再び上京。霞が関外務省門前で大隈に爆弾を投げて負傷させ,みずからのどを突いて自殺した。…
…結党直後の第13議会に政府が提出した地租増徴法案には反対運動を展開し,1900年の北清事変(義和団)を契機に国民同盟会の中心となって対外硬運動を推進した。その間,立憲政友会の創立に対抗して1900年12月には大隈重信が総理に就任したが,第15議会で北清事変の戦費補てんのための増税案に賛成したため,30余名が反対して脱党した。日露戦争前には,政友会と提携して桂太郎内閣に対抗したが,開戦とともに積極的に戦争を支持し,講和条約の内容が明らかになるとこれに反対して非講和運動を展開した。…
…1896年3月,改進党,立憲革新党,財政革新会,中国進歩党などが合同し,進歩主義に立つことを宣言,責任内閣の完成,国権拡張,財政整理を政綱に掲げた。9月事実上の党首大隈重信が第2次松方正義内閣に外相として入閣,進歩党も与党となって第10議会では金本位制確立のための貨幣法案や戦後経営関連諸法案を成立させた。議会後,大隈は農商務相を兼任し,党幹部が農商務次官・局長,県知事などに就任,97年8月新設の勅任参事官にも多数任命されたため官僚勢力との利害が対立することになった。…
…明治14年(1881)10月,薩長藩閥政府の専制的な体制を固め,天皇制立憲国家への道を確定した政変。その具体的内容としては,(1)開拓使官有物払下げの中止,(2)10年後の国会開設の公約,(3)参議大隈重信一派の追放などがあげられる。 1879年末から翌年にかけて,伊藤博文,井上馨以下の諸参議は憲法意見書を奏上していた。…
…慶応義塾と双璧をなす日本の私学の雄である。国会開設をめぐる政治抗争で下野した大隈重信が小野梓,高田早苗,天野為之らと1882年現在地に開設した東京専門学校を起源とする。開設当初から政治的風圧が強く,これに抗して反骨・在野の精神を貫く学風を築きあげてきた。…
※「大隈重信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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