無量寺(読み)むりょうじ

精選版 日本国語大辞典 「無量寺」の意味・読み・例文・類語

むりょう‐じムリャウ‥【無量寺】

  1. 東京都北区西ケ原にある真言宗豊山派の寺。山号は仏宝山。行基開山と伝えられる。六阿彌陀第三番。

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日本歴史地名大系 「無量寺」の解説

無量寺
むりようじ

三条さんじよう一丁目・連歌屋れんがや二丁目を中心として、原山はらやま一帯に点在した寺院。弘仁九年(八一八)最澄開基と伝える。仁寿元年(八五一)円珍入唐のおり、門人華台坊はじめ八人の僧侶が原山普賢院無量寺を草創したとも伝える(「四王寺縁起」史蹟名勝天然記念物調査報告書二)。延喜三年(九〇三)二月二五日、菅原道真が大宰府の地で没すると(日本紀略)、無量寺の原八坊がその葬儀を勤めたといわれ、四王院の別院と伝えられている(続風土記・原山記念碑)


無量寺
むりようじ

[現在地名]伊奈町小室 志久

宿しゆく村の中央、池堤いけづつみに位置する。西光山安養院と号し、真言宗智山派。本尊阿弥陀如来。天正一九年(一五九一)以前は丸の内まるのうちにあり(「伊奈忠次替地手形」明星院文書)、古くは閼伽井あかい坊・赤井坊などと称された。弘治三年(一五五七)太田資正は赤井坊に対し寺領を安堵している(四月八日「太田資正判物写」武州文書)。永禄九年(一五六六)には太田氏資が閼伽井坊に寺内・門前ともに不入の地であることを安堵している(一一月一八日「太田氏資判物」明星院文書)。元亀三年(一五七二)小田原北条氏は同坊の棟別を免許し(閏正月五日「北条家印判状」同文書)、天正二年には同坊の寺領をめぐって内田新二郎から訴えられたが、北条氏は太田道也(氏資)の発給した文書に基づき同坊に安堵している(九月一〇日「北条家裁許印判状」同文書)


無量寺
むりようじ

[現在地名]舟橋村竹内

白岩しらいわ川の支流八幡はちまん川の右岸に位置する。高野山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。境内に支院の宝蓮ほうれん寺がある。「越中宝鑑」によれば、承元年間(一二〇七―一一)紀州高野山無量寿むりようじゆ院の明寿が千石せんごく(現上市町)に草庵を建てたことに始まるといい、火災に遭い東種ひがしたね村字骨原こつはら(現同上)に移転、さらに七世了空が明徳四年(一三九三)松田まつだ(現舟橋)に一宇を建て無量寺と号した。その後一三世玄海が竹内たけのうち村に移転して巨大伽藍を構えるに至ったが、嘉永六年(一八五三)の火災と安政五年(一八五八)の大洪水によって旧観を失い、二六世慈興が現在地に移転した。


無量寺
むりようじ

[現在地名]箕輪町大字東箕輪 北小河内

北小河内きたおごうち村の東、小式こしきじよう山の山麓台地上にあり、寺より西望すると天竜川沿岸から木曾山脈を背景とする大小の右岸段丘の起伏する沃野を一望することができる。真言宗西光山、諏訪仏法寺(現諏訪市四賀)の末山。本尊は薬師如来。創建は元仁元年(一二二四)三月で、享賢開基という。境内に弥陀堂があり、伊那諏訪八十八ヵ所巡礼札所三六番で、その御詠歌は「風送る鐘の声にぞ誘引く無量寿仏を拝む嬉しさ」、別本では「西の空無量寿仏の光をばみの夕暮にまちつけて来ん」となっている。


無量寺
むりようじ

[現在地名]爾志郡熊石町字相沼

相沼内あいぬまない川河口付近の平地にある浄土宗寺院。山号帰命山、本尊阿弥陀如来。元禄元年(一六八八)松前光善こうぜん寺一二世善誉の弟子願心が相沼内村中歌なかうたに一宇を造立し、阿弥陀堂と称したのに始まる(寺院沿革誌)。境内の棟札から、安永三年(一七七四)三世住職宣誉の頃から寺基が本格的に整備されたことが判明する。本堂は慶応二年(一八六六)庫裏は文化一二年(一八一五)の再建と伝えるが、庫裏は現厚沢部あつさぶ町に明治元年(一八六八)に築かれた松前藩たて城の米蔵を移築したものと推定されている(熊石町史)


無量寺
むりようじ

[現在地名]串本町串本

串本の中心にある。錦江山と号し、臨済宗東福寺派。本尊は釈迦如来。創建年代は不明で、寺伝によると宝永四年(一七〇七)一〇月の大地震と津波により寺坊は流失。その後現在地に移転し、天明六年(一七八六)六月に再建された(串本町誌)。天明七年頃、京から当寺住持に同道して南紀に来た画家長沢蘆雪は、当寺ほか数ヵ寺で画を描き、帰京している(「三番日含」高山寺蔵)円山応挙・長沢蘆雪らが再建を祝して揮毫したと伝える寺蔵の紙本墨画山水図・紙本墨画波上群仙図・紙本金地著色群鶴図(以上応挙筆)、紙本著色薔薇図・紙本墨画竜虎図・紙本墨画群鶴図・紙本墨画唐子遊図(以上蘆雪筆)は国指定重要文化財


無量寺
むりようじ

[現在地名]久留米市本町

原古賀はらこが四丁目にある。浄土宗。香林山冷地院と号する。本尊阿弥陀如来。善導ぜんどう寺末。寛永三年(一六二六)来誉長老が庄島しようじま小路に建立。寛文七年(一六六七)原古賀町に移転、再興された(寛文十年寺社開基・「石原家記」)


無量寺
むりようじ

[現在地名]横須賀市長坂

長坂ながさか芦名あしなとが接する低丘陵東側にある。金剛山長寿院と号し、浄土宗、本尊阿弥陀。開基は和田義盛と伝える。一方「竺仙録」によれば、暦応二年(一三三九)大友氏康が鎌倉の浄智じようち寺にいた竺仙を請じ、三浦長坂山無量寿禅寺を開いたとあり、これにつながる寺ではないかともいわれる。


無量寺
むりようじ

[現在地名]三次市向江田町

寺町てらまち廃寺跡へ至る谷の入口にある。曹洞宗、大応山と号す。本尊阿弥陀如来。「芸藩通志」は「古、此村の廃寺蓮台山興法寺の寺院の内なり、天文中回禄の後、此一宇を再造し、彼蓮台山の本尊無量寿仏を安置して無量寺と称す、只番僧のみ居たりしが、寛文三年、僧高印住してより嗣法不絶、故に高印を開山とすといふ」と記しており、中世領主江田氏の祈願所となっていた興法こうほう寺の五院九一坊のうちの一につながる寺院と思われる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「無量寺」の意味・わかりやすい解説

無量寺
むりょうじ

和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡串本(くしもと)町にある臨済(りんざい)宗東福寺派の寺。錦江山(きんこうざん)と号する。通称蘆雪(ろせつ)寺。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。創建年代は不明であるが、寺伝によると虎関師錬(こかんしれん)を勧請(かんじょう)開山として光岳之(こうがくし)が開創したと伝える。1707年(宝永4)大地震と津波により寺坊は流失。1786年(天明6)文保愚海(ぶんぽぐかい)が入寺して再建。愚海と親交のあった円山応挙(まるやまおうきょ)は再建を祝って新本堂を飾る画(え)を高弟長沢蘆雪に託した。蘆雪は当地滞在中、無量寺ほか数か寺で画を描き残した。当寺所蔵の応挙筆『波上群仙図』、蘆雪筆『龍虎(りゅうこ)図』など方丈障壁画55面は国重要文化財。1961年(昭和36)設立された串本応挙蘆雪館には所蔵文化財のほか、串本町笠嶋(かさしま)遺跡出土の考古資料も展示されている。

[菅沼 晃]

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デジタル大辞泉プラス 「無量寺」の解説

無量寺

長野県上伊那郡箕輪町にある高野山真言宗の寺院。山号は西光山。1224年創建と伝わる。本尊の阿弥陀如来坐像は国の重要文化財。

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事典・日本の観光資源 「無量寺」の解説

無量寺

(長野県上伊那郡箕輪町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

無量寺

(東京都北区)
〔東京都〕北区景観百選」指定の観光名所。

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