匈奴(読み)キョウド(その他表記)Xiōng nú

デジタル大辞泉 「匈奴」の意味・読み・例文・類語

きょうど【×匈奴】

前3世紀末から後1世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族。代末の前209年、冒頓ぼくとつ単于ぜんう(君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設。東胡とうこ大月氏を征圧し全盛となり、にも侵入したが、漢の武帝の遠征と内紛により、東西に分裂し、後48年さらに南北に分裂。南匈奴は漢に服属し、北匈奴は91年漢に討たれた。人種的にはトルコ系説が有力。西方に移動した子孫がフン族であるといわれる。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「匈奴」の意味・読み・例文・類語

きょうど【匈奴】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 中国古代、北方の遊牧民族。紀元前三世紀から紀元後五世紀にかけて活躍。首長を単于(ぜんう)と称し、冒頓(ぼくとつ)単于(紀元前二世紀頃)以下二代が全盛時で、漢民族をおびやかし、後漢の頃南北に分裂した。種族については諸説あって定まらない。また、西進した匈奴をフン族とする説もあるが不明。
    1. [初出の実例]「誓って(ケウド)を掃(はらっ)て身を顧みず」(出典:松井本太平記(14C後)一八)
    2. [その他の文献]〔史記‐匈奴伝〕
  3. 転じて、陸奥国の仙台藩主(仙台侯)のあだ名。奥羽地方は古くから未開で野蛮な地とされていたので、その地の雄藩である仙台藩主になぞらえていったもの。
    1. [初出の実例]「奴をばとうとう嫌ひ高尾死に」(出典:雑俳・柳筥(1783‐86)二)

フンヌ【匈奴】

  1. 〘 名詞 〙 ( 古代の中国語から ) ⇒きょうど(匈奴)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「匈奴」の意味・わかりやすい解説

匈奴 (きょうど)
Xiōng nú

前3世紀末より約5世紀間にわたってモンゴリアに繁栄した遊牧騎馬民族。周の記録に見える遊牧民族獫狁(けんいん)の子孫であろうといわれているが,確証はない。しかし匈奴はすでに中国の戦国時代には,オルドスを根拠地として盛んに燕,趙,秦の北境を侵していた。スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアにもちこんだのは彼らで,従来馬にひかす戦車と歩兵とによる車戦,歩戦をもっぱらにしていた中国人は,彼らより騎馬戦の技法を学んだのである。秦代,匈奴は秦将蒙恬(もうてん)のために破られ,オルドスをすてて陰山の北にのがれ一時ふるわなかったが,秦末には再びオルドスを回復した。このとき冒頓単于(ぼくとつぜんう)は武略にすぐれ,月氏,東胡,丁零などの遊牧諸民族を攻め破って,モンゴリア全域を支配するにいたった。前200年冒頓は山西省大同の北に王廷を設け,漢の北辺を荒らしたので,漢の高祖はみずから大軍を率いてこれを討ったが勝たず,匈奴騎兵32万のために大同の南東,白登山に包囲されること7日に及んだ。高祖はようやく身を脱してのがれ帰り,使者を派遣して匈奴に和を請い,公主をおくって単于の閼氏(あつし)(王后)とし,年々多額の絹織物,酒,米の類を贈ることを約した。よって冒頓は漢を侵略することをやめ,力を東トルキスタン諸国の経略にそそぎ,これを貢納国とした。以後,漢は和約を守り年々の贈与を怠らなかったにかかわらず,匈奴はしばしば漢の北境を攻略したので,漢の武帝はついに前129年(元光6)軍を出して討伐を開始し,約10年間,漢軍はモンゴリアの各地で匈奴軍を破った。しかし漢は軍費に窮して疲弊し,かつ匈奴は依然として漢の北辺の略奪を繰り返した。

 前60年(神爵2)ころ匈奴は単于(皇帝)の位の継承をめぐって内争をおこし,5単于の並立を見たが,やがて郅支(しつし),呼韓邪(こかんや)2単于の対立となり,呼韓邪は漢にくだって漢の保護を受けたので,郅支単于はこれと対抗できず,西方に移り,康居国を奪ってタラス河畔に住まった。郅支は前36年(建昭3),漢将甘延寿らのために攻め殺されたが,一方,呼韓邪は匈奴を再び統一し,以後漢と匈奴の和親は継続した。新(しん)の王莽(おうもう)は烏桓(うがん)族の匈奴への納貢を妨げるなど,匈奴の恨みをかうことが多く,匈奴はまた中国に侵略したが,後漢の初め(48)匈奴内に内争がおこり,日逐(じつちく)王比は自立して単于となり,諸部を率いて後漢の光武帝にくだった。彼もまた呼韓邪単于と号し,許されて長城内に移り住み,その諸部は後漢の雲中など諸部に分かれ住み,中国の守備に任じた。これを南匈奴と称し,モンゴリアにとどまった従来の匈奴を北匈奴と称した。

 南匈奴には後漢より使匈奴中郎将以下の官吏が派遣され,その監視に当たったが,南単于の諸部族統治は存続した。しかし魏にいたって南単于は魏の都に抑留され,南匈奴は5部に分けられ,南単于の一族中から魏が任命した5人の都尉と中国人の司馬によって分治されることとなり,晋にいたった。304年(元熙1)山西省離石に兵をあげて五胡十六国の乱の端をなした匈奴人劉淵(前趙の高祖)はこの5部都尉中の北部都尉であった。また十六国のうち後趙(石氏),北涼(沮渠氏),夏(赫連氏)も南匈奴族であるが,北魏の華北統一後はしだいに漢人に融合しさった。一方,北匈奴は鮮卑・丁零族に攻撃され,かつしばしば後漢の遠征軍に撃破されたので,91年オルホン河畔の根拠地をすてイリ地方に移り,半世紀間タリム盆地の支配権を後漢と相争ったが,2世紀の中ごろキルギス地方に西遷し,以後中国の史上よりその消息を絶った。4世紀にヨーロッパに侵攻したフンはこの北匈奴の子孫であろうと考えられているが,まだ定説ではない。しかし,北匈奴のモンゴリア退去とフンのヨーロッパ出現の時期的一致,両者の習俗の同一などのほか,両者の使用言語がともにチュルク語であること,両者の遺物がきわめて類似の様式をもつものであること,匈奴という文字は昔フンに近い音をあらわす文字であったと考えられるばかりでなく,五胡十六国時代の匈奴を当時のソグド商人がフンと呼んでいたことなどに徴して,少なくとも匈奴とフンとは密接な関係にあるものと考えられる。匈奴は冒頓・老上・軍臣3単于の時代をその最盛期とする。

 単于は皇帝の意で,その下に左右賢王,左右大将などの官があり,左王将は国の東部に分駐してその地の被征服諸種族を分領し,右王将は西部を管領し,単于は単于庭を内モンゴルフフホト(時に外モンゴルのオルホン河畔カラコルム付近)に置いて中央部を直轄し,また諸王将を統轄した。これら王将はみな単于の氏族,虚連題氏(攣鞮氏とも記される)出身をもってあてられるが,異姓の貴族呼衍(こえん),蘭,須卜(すぼく),丘林の4氏族は単于族と通婚し,その族長は左右骨都侯として国政に参与した。毎年3回,王侯,隷属諸種族君長は単于庭に会同して天地,祖先,鬼神を祭り,人畜を計り徴税,戦争のことなどを議した。すなわち信仰はシャマニズムであり,政治様式は部族連合体制であった。文字を有せず,法律は簡単で,刀を抜くこと1尺に及ぶ者その他重罪は死刑,軽罪はくるぶしを砕く。戦争で敵の首を得るごとに1巵(し)(さかずきの意)の酒を与え,鹵獲(ろかく)・捕虜はそれを得た者の所有物,奴隷とした。単于は北に向かってすわり,左を上座とし,朝夕営を出て日の出と月を拝し,征戦も月のみちるときに起こし,かけるとき退くを常とした。殉死の風を有し,妻妾,奴隷の殉死するもの数百人に達するものがあった。一般民衆は穹盧(きゆうろ)(フェルトの幕舎)に住み,水草を追って遊牧,肉を食い皮革を衣とする貧弱な生活であったが,王侯は固定家屋をもち,諸国の貢献によって富裕な生活をしていた。これは文献の上のみでなく,ノイン・ウラその他モンゴリア,南シベリア各地で発見された住居址,墳墓の状態からも明らかである。それら遺址からは漢の絹布,漆器,ギリシア風毛織物のほか,匈奴自身が製作したペルシア式短剣(径路刀),スキタイ式あるいはそれに中国の鼎形式を混じた銅鍑(どうふう)(かま),その他金銀製装飾品など種々の遺物が発見されている。人種は正確にはわからないが,単于氏族など中核種族には白人種的体型をもつものが少なくなかった。これは彼らが元来白色人種であったためか,あるいはまたタリム地方の白人種との混血によるものかは未詳である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「匈奴」の意味・わかりやすい解説

匈奴
きょうど

紀元前3世紀末から紀元後1世紀末まで、モンゴル高原、万里の長城地帯を中心に活躍した遊牧騎馬民族、およびそれが形成した国家の名称。周代に中国の北辺を脅かした玁狁(けんいん)や葷粥(くんいく)らの後裔(こうえい)であるといわれるが確証はない。

[護 雅夫]

匈奴遊牧国家の誕生

秦(しん)の始皇帝が中国を統一(前221)したころ、匈奴の攣鞮(れんてい)(虚連題(きょれんだい))氏族の族長頭曼(とうまん)(Tümän万人長?)は、モンゴル高原の諸族の連合にいちおう成功したが、その子冒頓(ぼくとつ)は、父を殺して自ら単于(ぜんう)と号した。単于とは、北アジアの遊牧国家の君主が、ハガン(可汗)と称する以前に用いていた称号である。冒頓は、南満州の東胡(とうこ)、北方の丁零(ていれい)、エニセイ川上流のキルギスを征服、西方の月氏(げっし)を撃破して、北アジア最初の遊牧国家を建て、ついで、山西省北部に侵入した。漢の高祖劉邦(りゅうほう)は、北進してこれを迎え撃ったが、大同付近で包囲され、かろうじて脱出したのち、漢の皇室の娘(公主)を単于の妻とし、毎年多くの絹織物、酒、米などを匈奴に贈ることを条件に和議を結んだ(前198)。そののち、匈奴は、烏孫(うそん)や東トルキスタンのオアシス諸国を支配下に入れ、この結果、匈奴の支配圏は、東は熱河から西は東トルキスタンに、北はエニセイ川上流から南はオルドスに及んだ。匈奴のおもな経済的基地は東トルキスタンに、軍需基地は内モンゴル、オルドスにあって、前者からはその物産、交通・通商保護税を納めさせ、後者ではスキト・シベリア系の青銅器とくに武器類(いわゆる綏遠(すいえん)青銅器またはオルドス青銅器)を製作した。

[護 雅夫]

分裂と衰退

こうして、匈奴は全盛期を迎えたが、漢の武帝(在位前141~前87)は、匈奴に対してしばしば遠征軍を送るとともに、これを東西から挟撃しようとして、張騫(ちょうけん)を月氏に派遣した(前139~前126)。この武帝の積極政策のため、匈奴は外モンゴルに逃れ、東トルキスタンは漢の勢力下に入り、また、丁零、鮮卑(せんぴ)などの隷属諸族が独立した。そのうえ、匈奴では内紛が起こって数人の単于が並び立ち、ついで、郅支(しっし)単于(西匈奴)とその弟の呼韓邪(こかんや)単于(東匈奴)とが対立した(前54)。呼韓邪は漢に降(くだ)ってその援助を受けたので、郅支は西走してキルギス草原に移ったが、漢の遠征軍に敗れ、殺された(前36)。こののち、匈奴は、呼韓邪のもとに復興し、漢との関係も、呼韓邪が王昭君(おうしょうくん)を降嫁されるなど、一時小康を得た。しかし、ふたたび内紛が起こって、2代目の呼韓邪単于が後漢(ごかん)に降り、ここに呼韓邪の率いる南匈奴と北匈奴とに分裂した(後48)。南匈奴は甘粛(かんしゅく)、陝西(せんせい)、山西などに分住し、中国北辺、西北辺の防衛にあたったが、西晋(せいしん)の内紛に乗じて反乱を起こし、五胡(ごこ)十六国のうち、漢(前趙(しょう))、北涼(ほくりょう)、夏(か)を建て、しだいに中国化していった。北匈奴は、ときに中国に侵入することもあったが、鮮卑の攻撃を受けて単于が殺され、後漢・南匈奴連合軍がその本拠をつくに及んで大敗し(後91)、この結果、モンゴル高原における匈奴の国家は瓦解(がかい)した。この匈奴の残党は、そののち、モンゴル高原に建てられた鮮卑、さらに柔然(じゅうぜん)の国家に服属した。

[護 雅夫]

匈奴とフン

モンゴル高原を中心にして、秦(しん)、漢を脅かした匈奴の子孫が、ヨーロッパの民族大移動を引き起こす機縁となったフンであるといわれている。この問題は、初めて学界に提出されてからほぼ200年になるが、まだ解決されていない。しかし、匈奴の、おそらくは支配層の西方移動とフンの西方移動とがまったく無関係ではないこと、またフンという名前が匈奴に由来していることだけは確かである。

 匈奴の人種については、トルコ系、モンゴル系、アーリア系など、多くの説があるが、トルコ系説が有力である。最近、匈奴はエニセイ川流域に拠(よ)っていた古代民族と人種的関連をもつという説が出されたが、これも確かとはいえない。国家形態は、攣鞮、呼衍(こえん)、須卜(すぼく)、蘭(らん)、丘林(きゅうりん)などの氏族からなる匈奴部族を支配層とする部族連合体で、単于の位は攣鞮氏族に世襲され、閼氏(あつし)とよばれた皇后は、原則として他の4氏族から出た。国家を構成する諸部族の族長は、1年に春と秋と正月の3回、単于の本拠に集まって、シャーマニズムの祭儀を行うとともに、国事を議した。粗放な遊牧と狩猟とを行い、ヒツジ、ウマなどの家畜を放牧して、夏営地と冬営地との間を移動し、天幕式の円形家屋に住んだ。

 エニセイ川上流のミヌシンスク盆地で発掘された漢式宮殿は、匈奴に降った漢の将軍李陵(りりょう)のものであるといわれているが明らかではない。また、コズロフ一行がノイン・ウラで発掘した匈奴の貴族の墳墓は紀元前後のものであるが、そこから、スキト・シベリア系の文物のほかに、絹織物、漆器、玉器などの中国製品、イラン系の動植物文様や人物像を刺しゅうした毛織物などが出土し、匈奴の支配層に対する中国、西方文化の影響がみられる。

[護 雅夫]

『護雅夫著『北アジア・古代遊牧国家の構造』(『岩波講座 世界歴史6』所収・1971・岩波書店)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「匈奴」の意味・わかりやすい解説

匈奴【きょうど】

古代モンゴリアに活躍した遊牧騎馬民族。前3世紀末,の統一と前後して冒頓単于(ぼくとつぜんう)が諸部族を統一,東西を征服して大帝国を建設。さらに秦・漢と争う。武帝の大規模な征討で衰え,1世紀半ばには南北に分裂。のち北匈奴は後漢に討たれて西走,ヨーロッパのフン族になったとの説がある。南匈奴は中国の北辺に移住して定着。4世紀にいたり五胡の一つとして中原に進出。・北涼()などの国を建てた。匈奴の人種はモンゴル系ともトルコ系ともいわれる。
→関連項目永嘉の乱衛青王昭君オルドス青銅器霍去病魏晋南北朝時代月氏胡笳十八拍シベリア新疆単于鮮卑檀石槐東胡ノイン・ウラ万里の長城李陵

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「匈奴」の解説

匈奴(きょうど)
Xiongnu

ユーラシア草原東部で最も早く形成された遊牧国家とその民の名。言語はトルコ語かモンゴル語に近い。前209年に冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう)になると東方の東胡(とうこ)や西方の月氏(げつし)などを打倒し,モンゴル高原を統一した。前200年には中国に侵入して漢の高祖(劉邦(りゅうほう))が率いる軍を破り,毎年多額の,酒,米などを貢納させる和平条約を結んだ。冒頓の末年か次の老上(ろうじょう)単于のときに,天山北方に移動していた月氏の主力(大月氏)をアム川流域に駆逐し,天山の南北を支配下におさめ,日逐(にっちく)王を置いてオアシス諸国から貢納を得た。単于は天地日月の神によって権威づけられ,特に天神が重視された。単于と配下の諸王は特定の家系の出身者によって占められていたが,服属した他部族も独自の王を戴いたまま単于のもとにあった。匈奴国家には,中国から略奪されてきたり,またはみずから逃亡してきた漢人が多くいて農耕や手工業に従事し,経済に寄与していた。漢の武帝が即位してからは攻守ところを変え,前60年に日逐王が漢に服属するに至って,オアシス諸国は完全に漢の支配下に入り,服属していた丁零(ていれい)烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)も離反した。さらに単于位をめぐって内紛が起き,呼韓邪(こかんや)単于の率いる東匈奴は前51年に漢に臣属した。一方その兄郅支(しつし)単于の率いる西匈奴は天山北麓に移動したが,前36年に漢軍に敗れ,西匈奴は瓦解した。王莽(おうもう)代に東匈奴は一時勢力を回復したが,光武帝の中国統一直後(後48年),再び分裂した。日逐王の比(ひ)は祖父と同じく呼韓邪単于と号して南匈奴を率い,後漢に臣属した。南匈奴はその後,五胡十六国時代に大きな役割を果たす。一方,モンゴル高原に残った北匈奴は周囲の諸族から攻められて西走し,2世紀中頃に天山北方にいたことを示す記事を最後に中国の史書から消える。これがさらに西走してフンになったとする説もある。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「匈奴」の解説

匈奴
きょうど

前4世紀末から後1世紀ごろまでモンゴルで活躍した遊牧騎馬民族
その人種はトルコ系・モンゴル系など諸説ある。前4世紀末から中国を脅かし,前3世紀末に頭曼 (とうまん) ,ついでその子冒頓単于 (ぼくとつぜんう) が部族統合に成功し,東は熱河,西は東トルキスタン,南はオルドスにわたる大帝国を建設して秦・漢を圧した。漢は初め和親政策をとり,武帝のとき攻勢に転じたが,前1世紀半ばに内紛のため東・西匈奴に分裂し,東匈奴は漢に親しんだ。1世紀半ばにはさらに南北に分裂,この北匈奴がヨーロッパに侵入したフン族となったのではないかという説が有力である。南匈奴は4世紀永嘉の乱によって西晋を滅ぼし,五胡のひとつとして,五胡十六国時代をむかえることとなった。ノイン−ウラの匈奴貴族の墓は,その文化を明らかにした。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「匈奴」の意味・わかりやすい解説

匈奴
きょうど
Xiong-nu; Hsiung-nu

中国の秦・漢時代にモンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族。人種についてはチュルク系,モンゴル系などの説があり,定説はない。前3世紀の末に冒頓単于 (ぼくとつぜんう) が諸部族を統一して建てた,北アジアで最初の遊牧国家。その最盛期には,漢もこれと和親政策をとらざるをえなかったが,武帝のたびたびの征討を受けて衰え,48年には内紛のため南北に分裂。このうち北匈奴は後漢の軍に討たれて瓦解し (91) ,西走してヨーロッパのフンになったといわれ,南匈奴は中国の北辺に移住定着。ノイン・ウラ遺跡で発見されたその貴族の墳墓は,紀元前後頃における匈奴の文化を示している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の匈奴の言及

【内モンゴル自治区】より

…年降水量は200~400mmで乾燥しているが,とくに西部は150mm以下であり,一方,大興安嶺東部や自治区南東部は400~500mmはある。
[歴史]
 この地の歴史は,中国王朝やさまざまの遊牧民族による支配の歴史であるが,まず古くは中国北方の匈奴が,前3世紀末に冒頓(ぼくとつ)が出て,東胡など周辺諸民族を滅ぼして強大な勢力をひろげ,漢の北辺をおびやかした。漢は,はじめ対匈奴和親政策をとっていたが,前135年(建元6)武帝が遠征軍派遣を決定,以後,匈奴とのたび重なる戦いののちその勢力を衰退せしめた。…

【ウマ(馬)】より

…モンゴル帝国もその広大な版図を維持するのに駅伝制を整備しており,騎馬の出現とともに,帝国的広域行政支配が可能になった。前2世紀パルティア人による蹄鉄の発明,西紀初めの匈奴(きようど)による鉄あぶみの発明によって,騎馬技術はほぼ完成したといってよい。 ところで騎馬の技術は戦車の及ばなかったヨーロッパの森林地帯,東・南アジアの湿潤地帯にも徐々に入り,受容されることになった。…

【霍去病】より

…武帝の衛皇后および将軍衛青の甥で,皇后の縁故により18歳で侍中となる。前123年に衛青の匈奴征討に従軍して勇将ぶりを発揮し,前121年には驃騎将軍となる。この年,甘粛方面の匈奴に壊滅的打撃を与えて西部匈奴の渾邪(こんや)王を降服させ,前119年には衛青と出撃して匈奴を漠北に一掃する手柄をたてたが,その2年後に24歳で病死した。…

【漢】より

…したがってこの観点からいえば,儒教の国教化は法制的には確かに武帝のときにはじまるが,名実ともに国教化されたのは王莽以後のことであった。
[対外的発展]
 漢代を通して相対立する強大な異民族は匈奴であった。紀元前4~前3世紀ごろからモンゴル高原一帯に勢力を張った匈奴は,秦の始皇帝のときに将軍蒙恬(もうてん)により一時陰山の北方に追われたが,前209年に位についた冒頓単于(ぼくとつぜんう)によって統一され,東は東胡,西は月氏を討って興安嶺から天山山脈にいたる広大な地域を勢力下におさめ,漢に匹敵する一大遊牧国家を建設するにいたった。…

【五胡十六国】より

…4世紀初頭より約1世紀半,中国華北に分立興亡した国家群,あるいはその時代をいう。主権者の多くは五胡すなわち匈奴(きようど)・羯(けつ)(匈奴の一種)・鮮卑(せんぴ)(東胡系)・(てい)(チベット系)・(きよう)(チベット系)の非漢族で,これまでの漢族による中国統治の流れを大きく変えた時代である。また牧畜・狩猟民族と農耕社会との接触が深まり,それが政権の形成にまで発展した,文化史上特色ある時代である。…

【東西交渉史】より

…この,北方の草原の遊牧地帯を東西に横断する交通路は,一般に,〈草原の道〉〈ステップ・ルート〉などと呼ばれるが,おそらく前5世紀以前から,ギリシア商人によって毛皮,金などの運搬路として利用されていたものであろう。またこのルートを経て,貴金属と動物意匠を特徴とする黒海北岸のスキタイ文化(前6~前3世紀中心)が東方へと伝播し,前3世紀の匈奴の興隆を促したにとどまらず,匈奴を仲介として,古代中国の軍事技術(騎馬戦術)や銅器の様式などにも種々の影響を及ぼしたことは,このルートの持った文化交流史上の重要性を物語る。さらに,このルートが諸方面との交流に利用されていたことは,前3~前2世紀ごろの遺跡と考えられるアルタイ山脈東部域のパジリク古墳群から,ペルシア産の絨緞,インド産の貝殻,中国産の絹布や青銅器などが出土していることからも明らかである。…

【武帝】より

… 対外的には,積極策に転じて夜郎,南越,西南夷,東越,衛氏朝鮮,昆明などを懐柔あるいは征服し,新郡を設置して領土を拡張した。武帝が最も意を注いだのは,高祖劉邦以来の宿敵匈奴である。大月氏と同盟を結んで匈奴を東西から挟撃しようとして張騫(ちようけん)を派遣した。…

【モンゴリア】より


[歴史]
 モンゴリアは遊牧民揺籃(ようらん)の地といわれるように古くから遊牧民族の活動舞台であった。その中でモンゴリアを初めて統一したのは匈奴である。前209年,匈奴に冒頓単于(ぼくとつぜんう)が立つと周囲の遊牧民族を下して,北アジア初の遊牧騎馬民族国家を作りあげた。…

※「匈奴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android