南朝(読み)ナンチョウ

デジタル大辞泉 「南朝」の意味・読み・例文・類語

なん‐ちょう〔‐テウ〕【南朝】

中国の南北朝時代江南に拠って建国した漢民族王朝。420年建国のに始まり、の四王朝が、589年統一まで続いた。三国東晋を加えて六朝りくちょうともいう。
日本で、延元元=建武3年(1336)に後醍醐天皇大和やまと吉野に移ってから、後村上長慶後亀山天皇と続いた大覚寺統朝廷吉野朝。→南北朝時代

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精選版 日本国語大辞典 「南朝」の意味・読み・例文・類語

なん‐ちょう‥テウ【南朝】

  1. [ 一 ] 中国の南北朝時代に江南におこった漢民族の諸王朝。東晉の滅亡から隋の統一までの約一七〇年間に、宋・斉・梁・陳の四朝(四二〇‐五八九)が興亡した。三国の呉と東晉の二朝を含め六朝ともいわれる。〔北史‐序伝〕
  2. [ 二 ] 京都から、奈良時代の朝廷をさしていう語。
    1. [初出の実例]「近江権守従四位下藤原朝臣貞主卒也。貞主、南朝参議従三位大蔵卿楓麿之孫」(出典:続日本後紀‐承和一一年(844)九月一六日)
  3. [ 三 ] 南北朝時代、建武三=延元元~明徳三=元中九年(一三三六‐九二)まで大和国(奈良県)吉野を中心に近畿南部に置かれた大覚寺統の朝廷。後醍醐天皇に始まり、後村上・長慶・後亀山天皇の四代五七年間で、後亀山天皇の時、北朝の後小松天皇を猶子として譲位、北朝と合体した。皇統の正統性を主張して、北朝を擁立する室町幕府と争い、その支配領域は最初、九州・東北など全国に拠点を有し、勢力を振るったが、その後次第に制圧されほぼ畿南地方に限定された。吉野朝。
    1. [初出の実例]「南朝(なんテウ)の年号延元三年八月九日」(出典:太平記(14C後)二一)

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百科事典マイペディア 「南朝」の意味・わかりやすい解説

南朝【なんちょう】

吉野朝とも。南北朝時代後醍醐天皇およびその皇位を継承した後村上・長慶(ちょうけい)・後亀山4代にわたる大覚寺統の朝廷。一時京都を回復したこともあるが,ほとんど大和(やまと)国吉野付近の山間に皇居を定めて終始京都の北朝と対立。畿内南方と関東・九州の一部を除いて南朝の勢力は弱かった。1392年和議が成立,京都に帰った後亀山天皇が神器を後小松天皇に授け南北両朝は合一した。
→関連項目菊池氏楠木正儀光明天皇大日本史長慶天皇中村北条時行陸奥将軍府吉野拾遺吉野朝両統迭立

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改訂新版 世界大百科事典 「南朝」の意味・わかりやすい解説

南朝 (なんちょう)

南北朝時代(1336-92),大和国吉野を中心に後醍醐,後村上,長慶,後亀山の4代にわたり存立した大覚寺統の朝廷。京都にあった持明院統の朝廷を北朝とよぶのに対し,こちらを南朝とよび,また吉野朝ともいう。所在地は大和の金峯山寺,賀名生(あのう),河内天野山金剛寺,観心寺などを転々とした。鎌倉時代後半から天皇家は持明院統,大覚寺統の二つに分裂し,皇位継承などが争われていたが,1336年(延元1・建武3)大覚寺統の後醍醐天皇と足利尊氏とが決裂して建武政府が崩壊した際,尊氏は持明院統の光厳上皇を奉じて入京,光明天皇を擁立し,一方,後醍醐天皇は京都を脱出して吉野に逃れ,ここに二つの朝廷が並立することになった。以後約半世紀の間,南朝は足利氏およびその擁立する北朝と対立し,全国各地で争乱がおこった(南北朝内乱)。南朝ははじめ畿内南部や九州,関東などの武士の支持を得て北朝に対抗し,足利氏の内紛に乗じて一時京都を奪還するなどしたが(正平一統),しだいに劣勢となり,関東では足利基氏が,九州では今川了俊がそれぞれ反対勢力を制して室町幕府の全国支配体制が整い,また南朝方の中心楠木正儀(まさのり)が北朝に下り,さらに懐良(かねよし)親王が死去するに及んで南朝方の活動はほとんど影を潜めるに至った。このころから足利氏は南朝の北朝への吸収を図り,1392年(元中9・明徳3)南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に神器が渡されて両朝は合一した。この両朝合一に際しては,合一後両統から交互に皇位継承者を立てるというのが条件とされたが,実際にはこの条件は守られなかった。皇位は北朝系=持明院統にのみ伝えられ,これを不満とする南朝支持勢力は各地で小規模な蜂起を繰り返したが,それもやがて終息するに至った。
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南朝 (なんちょう)
Nán chāo

中国,東晋王朝を継いで江南に興亡した4王朝,すなわち(420-479),(479-502),(502-557),(557-589)の総称。北朝に対する呼名。約170年の期間に4王朝が興亡を繰り返し,しかも宋は8人,斉は7人,梁は4人,陳は5人,あわせて24人の天子を数えることは,政情不安の時代であったことを物語る。そのなかで宋の文帝の約30年,梁の武帝の約50年に及ぶ長期の治世はまことに異例のことであった。政情不安は北朝とのきびしい緊張関係に負うところが大きく,強力な王朝ないしは天子をもとめて絶えまのない興亡と廃立が繰り返されたのである。南朝における社会の担い手は魏・晋以来の伝統をもつ門閥貴族であったが,その下風に立っていた寒門層あるいは寒人層の台頭がしだいにめだち,梁末に起こった侯景の乱はその趨勢を決定的にした。倭の五王が使者を派遣して交渉をもったのは,宋,斉,梁の南朝諸王朝である。
魏晋南北朝時代
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南朝」の意味・わかりやすい解説

南朝
なんちょう

南北朝時代に,大和国吉野を中心に存立した朝廷。京都にあった北朝に対する。吉野朝ともいう。大覚寺統の後醍醐,後村上,長慶,後亀山の4代の天皇の王朝。所在地は大和の金峯山寺,賀名生 (あのう) ,河内の天野金剛寺,観心寺などを転々とした。足利尊氏が延元1=建武3 (1336) 年持明院統の光厳上皇を奉じて入京,光明天皇を立て,両朝の並立が始った。以後,後村上天皇,長慶天皇,後亀山天皇にいたるまで,足利氏の推戴する持明院統に対立し,その間足利氏側の内紛および南朝側についた諸武将の奮戦によって勢力を維持したが,河内の楠木正儀が幕府にくだり,弘和3=永徳3 (83) 年懐良親王が没すると,南朝の勢力はまったく衰えた。元中9=明徳3 (92) 年 10月足利義満との間に和議が成り,閏 10月5日神器は北朝後小松天皇に渡され,南北朝は合一した。明治になって,南北朝の正閏 (せいじゅん) が問題となり,1911年南朝が正統と勅裁された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南朝」の意味・わかりやすい解説

南朝
なんちょう

南北朝時代、京にあった持明院統(じみょういんとう)の北朝に対し、大和国吉野などに拠って正統を主張した大覚寺統の朝廷。吉野朝ともいう。後醍醐・後村上・長慶(ちょうけい)・後亀山の4代を数える。1336年(建武3・延元1)に足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の離反によって建武政権が崩壊した際、後醍醐天皇は「三種の神器」を携えて京を脱出して南朝を建てた。南朝ははじめ畿内南部や九州・関東・奥州などの武士の一部の支持を得て北朝・足利氏に対抗し、前後数度にわたり京を奪還したが、次第に劣勢となり、1392年(明徳3・元中9)に後亀山天皇から北朝後小松天皇へ神器が渡されて、南朝は事実上北朝に吸収された。この際、両統から交互に皇位継承者を出すなどの条件が示されたが遵守されず、これを不満とした旧南朝支持勢力による小規模な蜂起がしばらく散発した(これを後南朝とよぶ)。のちに明治天皇の勅裁によって正統と認定され、現在は南朝の諸天皇が歴代数に算入されている。

[新田一郎]

『田中義成著『南北朝時代史』(1979・講談社学術文庫)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南朝」の解説

南朝
なんちょう

吉野朝とも。南北朝期の二つの朝廷のうち,奈良県吉野地方を中心に存立した大覚寺統の朝廷。1336年(建武3・延元元)後醍醐天皇が吉野にのがれて光明天皇への譲位を否定し,公卿が追随したのに始まる。51年(観応2・正平6)北朝を廃して京都を奪回するが,まもなく退去。のちにも奪回に失敗し,しだいに勢力を失って92年(明徳3・元中9)後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が渡され,北朝に吸収されるかたちで合一した。この皇統の子孫である後南朝は,皇位回復を試みて失敗。天皇は後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代。年号は延元・興国・正平・建徳・文中・天授・弘和・元中。制度などを伝える史料は少なく,実態は不明な点が多い。

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旺文社日本史事典 三訂版 「南朝」の解説

南朝
なんちょう

南北朝時代,吉野を中心に畿南地方にあった大覚寺統の朝廷
吉野朝ともいう。1336年足利尊氏が入京し持明院統の光明天皇を擁立すると,後醍醐 (ごだいご) 天皇は神器を奉じて吉野にのがれ,以来後村上・長慶天皇を経て '92年後亀山天皇の南北朝合体(北朝の後小松天皇に譲位)まで,吉野・賀名生 (あのう) ・住吉などにあって,京都の北朝に対抗した。

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世界大百科事典(旧版)内の南朝の言及

【熊沢天皇】より

…第2次大戦後,南朝の正統な皇統の継承者と名乗り出た熊沢寛道(1889‐1966)の通称。1946年(昭和21)1月18日,GHQは名古屋市千種区で雑貨商を営む熊沢寛道が後亀山天皇第19代正統者と名乗り出たことを発表した。…

【朝用分】より

…南北朝内乱期に南朝の課した臨時の公事。みずからの財政や軍勢の兵粮などのために南朝方寺社本所領を対象にしたもの。…

【吉野】より

…ちなみに桜は蔵王権現の神木とされる。 吉野の地があらためて歴史の脚光をあびるのは,元弘の乱(1333)にさいし,護良親王が金峯山寺の大衆をたよって挙兵し,ついで後醍醐天皇の行宮(あんぐう)がおかれ南朝(吉野朝)の拠地となったことによってである。天皇は金峯山寺塔頭実城寺を行宮として金輪王(きんりんのう)寺と改めたが,ここで死に,塔尾陵が営まれた。…

※「南朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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